整理収納アドバイザー ポレポレ日記 (original) (raw)
子どもたちから取ったアンケート。
片付けの際の困り事で、ダントツ多かったのが『めんどくさい』でした。
アンケートに答えた子どもたちの半数以上が『めんどくさい』と答えていたのです。
その『めんどくさい』を取り除く...もしくは、その『めんどくさい』のハードルを下げる方法を考える授業を行いました。
『めんどくさいのハードルを下げる方法は?』をテーマに授業を行ったのです。
そしてその『めんどくさい』のハードルを下げるために『整理・収納』の理論を学ぶ時間にしたのでした。
子どもたちからは、
「モノが多過ぎて困る。」
「どこに片付ければ良いか分からない。」
の2つも困り事として多く上がっており、この2つを解決する事により『めんどくさい』のハードルを下げる事を目指したのでした。
モノが多すぎるのは、不要なモノを多く抱えてしまっているからです。
だから『整理』を行う事で、身の回りを必要なモノだけにします。
そうする事により、抱えるモノの量は少なくなり、一つ一つのモノの管理がしやすくなります。
そして、そもそもモノが少ない事により、片付け自体の負担が少なくなるのです。
モノが多過ぎるから、片付けの負担は増えるのだろうし、そんな状況だから『めんどくさい』の気持ちを発動させてしまうのです。
たくさんのモノを目の前にしたら、そりゃ心も折れるだろうし、『めんどくさい』なんて気持ちを待つ事になるだろうと思います。
だからこそ『整理』を徹底して行い、身の回りを必要なモノだけにする事が大切になって来るのです。
次に「どこに片付けたら良いか分からない」に関しては、結局誰かに決められた場所だから分からなくなってしまっているのだと思います。
そうではなく、自分で置く場所を決める事に大きな意味があり、そうする事によりその問題を解決する事が出来るのです。
だからこそ、ここでは『収納』の定義を学び、より良い場所を置く場所として設定できるように話を行いました。
キーワードは『定位置』と『動線』です。
自分の生活動線を分析し、その動線に適った定位置を決める事が重要になるのです。
授業の中では、住宅の平面図を提示しながら、一つ一つのモノの定位置を決めていくワークを行いました。
「ランドセルはどこを定位置にすれば良いのだろうか?」
「サッカーボールは動線を考えると玄関を定位置にすればいいかな?」
「メガネは枕元に置くべきか?はたまた洗面所の方が良いかも...。」
そんな感じで、動線を意識しながら一つ一つのモノの定位置を考えていったのです。
「どこに片付けたら良いか分からない。」と困っていた子どもたちでしたが、動線を意識するだけで、様々な意見を出し合うことが出来ていました。
そしてそのワークを行った後には「家に帰って早速定位置を決めてみる。」といったポジティブな感想を多く聞くことも出来ました。
さらに『めんどくさい』と言っていた子どもたちでしたが、最後の振り返りでは...
「片付けがしたくなりました。」
「簡単に出来そう!!」
「今度の週末に整理・収納してみます。」
なんてポジティブな感想を多く見ることが出来ました。
めあてにしていた『めんどくさいのハードルを下げる方法は?』が何となく達成出来た授業になったのではないかと思います。
こんな感じの事をずっとしたいと考えていた僕。
臆病になっていた事から、なかなか一歩踏み出す事が出来ていませんでしたが、やってみたら「もっと早くしたら良かった」なんて思ったりしています。
そんな事って、きっとたくさんあるのだと思います。
今回の事を教訓にして、これからたくさんの事にチャレンジしたいと思います。
そして人としても、アドバイザーとしても成長していきたいと思います。
昨日と今日、子どもたちにお片付けの授業を行いました。
事前に『お片付けで困っている事」のアンケートを取り、それに則って授業を組み立てました。
子どもたちの普段のお片付けで困っている事、
たくさん出てきましたが、その中でも多かったのが...
・片付けろと言われるのが嫌。
・モノが多すぎる。
・どこに片付けたら良いか分からない。
の3点です。
そしてもう一つ、圧倒的に多かったのが...
『めんどくさい』でした。
アンケートに答えた子どもの半分近くがこの『めんどくさい』を書いている状況だったのです。
確かに、自分が子どもの時を思い返すと、片付けに対してポジティブな感情を持っていなかったし、確実に『めんどくさい』という気持ちは持っていたように思います。
そして、『片付けろと言われるのが嫌』というのも、何となく分かったりもします。
でも分かったりもするのですが、そんな『めんどくさい』や『言われるのが嫌』ということに関しては、自分で乗り越えなければならないと思うし、特に『言われるのが嫌』ということに関しては「じゃあ言われる前にしろよ。」なんて大人になった今、思ったりもするのです。
ただ、『めんどくさい』に関しては、なんとか無くせるのではないかと思ったりもするし、無くせなかったとしても、そのめんどくさいの気持ちを減らす事は出来るのではないかと思ったりもするのです。
そしてそれを実現するためには、先述した子どもたちのアンケートの中で多かった、
・モノが多すぎる。
・どこに片付けたら良いか分からない。
の2つを解消する事が大きなポイントになるのではないかと思っているのです。
そしてこの2つを解消するためには、僕が日々大切に考えている『整理・収納』の理論を生かす事が重要になって来るのです。
僕が考える『整理』とは、
必要なモノだけにする事。
僕が考える『収納』とは、
その必要になったモノの定位置を決め、そのモノを使いやすくする事。
この2つが、子どもたちの困っている、
・モノが多すぎる。
・どこに片付けたら良いか分からない。
を解消するためには、うってつけになって来るのです。
アンケートを実施して見えてきた、子どもたちの困っている事。
ずっと、整理収納アドバイザーとして『整理・収納』の事を伝える授業をしたかった僕。
チャンスはたくさんあったはずなのです。
にも関わらず、
自信がない、
ちょっと面倒、
すべったらどうしよう...、
そんなネガティブな事ばかりを考えていたから、一歩前に進む事が出来なかったのです。
今回、ある同僚から「やってみたら?ってかやってみるべきですよ。」なんていう前向きな後押しがあったから実現しました。
まずはアンケートをしてみて、現状を知ることから始めよう...。
そんな小さな一歩からでしたが、それでもアンケートから見えた子どもたちの困り感が、さらにもう一歩僕を先に進めてくれたのでした。
やっぱり、少しでもいいから前に進むべきなんだと思います。
その少しが次の一歩を誘発するのだろうし、その繰り返しが確実に自分を前に進めて行くのだと思います。
そんな前に進む事が出来た僕。
昨日と今日行った授業に関しては、また後日投稿しようと思います。
この気づきを大切にしながら、少しずつ前に進めるようにしていこうと思います。
一応、このブログは「整理・収納」の事を中心に投稿しようと考えています。
整理・収納アドバイザーとして、日々の気づきや学びを綴っていこうと考えて始めたブログなのです。
もうかれこれ3年以上続けており、それなりに自分の中の「整理・収納」を確立する事が出来てきたのではないだろうかと考えています。
ただ、このブログでそんな自分の考えを投稿したり、日々の気づきや学びを投稿したりもしているのですが、正直それだけではダメなのではないかと思ったりもしている今日この頃なのです。
いや...今日この頃というか、もうずいぶん前からそんな事を考えていたように思います。
僕が何のために「整理・収納アドバイザー」の資格を取ったのかというと、今の仕事に活かしたいと思っているからです。
そして、セカンドキャリアに活かす事が出来るのではないかということも視野に入れながら取得したのです。
そんな「整理・収納アドバイザー」の資格ですが、ただ取得しただけになっているし、このブログで少しだけ「整理・収納」に繋げながら投稿しているだけになっているのです。
ほぼ誰にも見てもらえていないこのブログに投稿した事で満足してしまっている自分がいたりしているのです。
そんな今の状況はかなりの自己満足になっているだけだし、アドバイザーとして何の成長もない状況になってしまっているのです。
もちろん、このブログに投稿することにより、それなりのアウトプットにはなっている訳で、それなりの成長にはなっているのかもしれません。
冒頭にも書いた通り、3年間毎日続けてきた事は、間違いなく僕の力になっているようには思います。
ただ、いつまでもそれだけではいけないだろうし、もうそろそろ次のステップに進むべきなのではないかとずっと思ったりもしているのです。
昨年の夏、職員向けの研修を行いました。
あまり手応えが無かったことから、だいぶ臆病になっており、次の一歩がなかなか出ない状況になっています。
本当であれば、第2回、第3回と積極的に行い、そこからたくさんの学びを得なければならなかったはずなのです。
にも関わらず、臆病になっていた事により、そんな学びの機会を自ら奪ってしまっている状況になっていたのでした。
臆病になんかならず、もっと良い意味での無神経で良かったはずなのです。
このブログの初めての投稿には「無神経になる事」を投稿していたはずです。
3年以上前の僕は、ブログを始める事に臆病になっていましたが、それでも失敗を恐れず、良い意味で無神経になってチャレンジしようと考えたのでした。
3年以上続けてきて、後悔の気持ちは一つもないし、むしろ1つの事を長く継続出来た事により、大きな自信を手にする事が出来たと思っているくらいです。
だから今の状況を打破するためにも、やっぱり無神経になる事が大切なのではないかと思っています。
初心に戻る事を大切にし、もう一度何のために資格を取得したのかに立ち返りながら、自分と向き合いたいと思います。
きっと、生活は今より良くなっていくのだと思います。
もちろん、努力は必要です。
でも、そんな大それた努力ではなく、やりたい放題になるのではなく、それなりに我慢しながら生活していたら、それで十分なのだと思います。
それなりでいいのです。それなりで...。
したい事だけしていてはダメです。
朝から晩までしたい事だけをしている生活ではダメなんです。
部屋に引きこもって、ゲーム三昧になったり、
朝からパチンコ屋に並び、ギャンブル三昧になったり、
そんなやりたい放題な生活では、生活は良くなっていく訳がありません。
もちろん、ゲームが好きなのであれば、したら良いと思うし、
ギャンブルが好きなのであれば、したら良いと思います。
ただ、限度がある訳で、そればかりになっているようであれば、今以上の生活なんて期待する事は出来ないのだと思います。
今よりも良くしたいのであれば、したい事だけをするのではなく、したくない事も少しはしなくてはなりません。
その度合いは人によって違うのかも知れないけれど、それでもしたくない事にも手を付けなくてはならないのです。
今の僕は仕事が好きではありません。
正直、嫌いなのです。
それでも仕事をするのは、お給料が欲しいと思っているからだし、それなりに人から認められたいとか思っているからです。
もし僕が好き放題、やりたい放題の生活をしていたら、お給料を貰う事なんて出来ないだろうし、人から認められる事なんてないように思います。
それを得るためには、好きではない仕事をしなくてはならないし、好き放題、やりたい放題ではダメなんだと思います。
そして、そんな好き放題、やりたい放題していると、今以上の生活を求める事なんて出来ないのです。
ある程度の我慢は必要だろうし、その我慢があるから、これからの生活がきっと良くなっていくのだと思います。
大人であれば、それなりに働かなくてはなりません。
子どもであれば、それなりに学ばなくてはなりません。
それをしない人は、きっと今より生活を良くしていく事なんて出来ないのだと思います。
不満を言いたい人は、言っておけば良いと思います。
人のせいにしたい人は、そうしていたら良いと思います。
好き放題、やりたい放題しておけば良いのだと思います。
きっと生活は良くならないと思うし、結局は自分がしないといけないし、自分が変わらなくてはならないのだと思います。
僕の明日はきっと今日よりも良くなっているはずです。
明日も好きでもない仕事を我慢して頑張るのだから、きっと良くなるはずなのです。
そう思いながら、少しの我慢をしながら毎日を過ごしていこうと思います。
やっぱり、週末にもなると体が疲れているように感じます。
ってか、確実に疲れてはいるのです。
ただ、少し前と比べると、確実に疲れを感じやすくなっているし、1週間乗り切る事が年々苦しくなっているように感じているのです。
若かりし頃の僕は、休みの日がなくてもずっと働いていたように思います。
20連勤なんていうのはザラで、働き続ける事にさほど疲れを感じていなかったように思います。
さらに、働く時間も今より長く、朝早くから日付が変わるくらいまで、ずっと働いているといった感じでした。
不満を持ちながらでしたが、それでも文句言いながらでも自分に与えられた仕事を黙々とこなしていた事を覚えています。
そんな若かりし頃の僕でしたが、今はしっかり週末休む事が出来ています。
しかも2日も。
さらに働く時間も、7時頃から17時と早く帰る事も出来ているのです。
しかも、今年からは担任をしていた昨年度までと比べ、立場が変わった事により仕事の負担は激減している状況なのです。
同じ時間働いているけれど、内容的には今の方が格段に楽になっているのです。
にも関わらず、週末の疲れといったら何なのでしょうか。
休日の今日も、きっちりお昼頃には眠気が襲って来て、昼寝の時間を取らなくてはやってられない状況になっているのです。
長時間の昼寝を嫌う僕のため、小一時間の昼寝に留めてはいますが、それでも昼寝を取らないともたないくらい、疲れが溜まっているのです。
歳をとってしまったということなのでしょうか。
今年で43歳になった僕ですが、イメージしていた43歳はもっと若々しい感じだったように思います。
まだまだバリバリ働いていて、もっとギラギラしている感じをイメージしていました。
それが今の僕といったら、週末になると疲れが溜まっており、お昼寝の時間がないともたなくなっている。
朝起きる時間もおじいちゃんみたいな時間に起きているし、
夜寝る時間に関してもこれまたおじいちゃんみたいになっている...。
いったい僕はどこを目指しているのでしょうか。
心地良く暮らせているからいいや!!
なんて思ったりもしてはいるのですが、それでもたまにそんな今の自分が不安になったりもしています。
43歳時点でこんな感じなのであれば、5年後、10年後はどうなっているのでしょうか。
世の中からおじいちゃんと呼ばれる年齢になったときの自分はどんなおじいちゃんになっているのか...。
もしかしたら、長生き出来ない人間なのかもしれないとか思ったりもします。
だからこそ、今出来ることをしっかりしておきたいと思っていたりもします。
長かった...。
本当に長かった...。
今月もやっぱり長かった...。
何がかと言うと...会議です。
本当に教師と言うのは話すのが好きで、一旦話し出すと止まる事が出来ない生き物のようなのです。
一応、会議の1週間前には案件を出し合い、時間内で終わるように準備を進めていました。
一つ一つの案件に対して、何分で終える事が出来るのか。
トータルの時間から逆算して、何時から会議を始めるのか。
そういった事を、担当者である僕が提案者一人一人に聞き取りながら会議に臨むようにしているのです。
職員一人一人にとって貴重な時間。
毎日遅くまで残っている職員も多くいます。
本当はしなければならない事が多くあり、そっちに時間を割きたいと思っている職員もいるはずです。
そんな意識を持っているからこそ、事前に確認を行い、会議が早く終わるように調整するようにしているのです。
提案者一人一人に目安になる時間は提示しています。
何だったら、会議次第も作っています。
にも関わらず、おしゃべり好きな提案者は提示している時間にはお構いなしで長々と話し出す状態になってしまっているのです。
一度話し出すと気持ち良くなるのでしょうか?
みんなが自分の話を聞いてくれているという状況に酔ってしまっているのでしょうか?
話が長くなればなるほど、聞く気が無くなってしまうし、そんな状況では本当に大切な事が見えにくくなってしまいます。
ひどい場合だと、同じ話を何度もし出す提案者がいたりもするのです。
今日の会議でも、
何度も「それもう聞いた!!」と怒鳴ってしまいそうになっていました。
そして今日のイライラの極めつけは、元々提案予定にない人が急に手を挙げ出して話し始めた事です。
しかも定時である17時を超えてからの提案だったのです。
一体みんなの時間をどのように考えているのでしょうか...。
まさか「提案して当然でしょ!!」なんて思っているのでしょうか。
そんな奴には本気のドロップキックをお見舞いしたいと思ってしまいます。
僕は本当に、本気で会議が嫌いです。
特に今日のような時間にルーズで、ルールを破るような人がいる会議が嫌いでたまりません。
せっかく用意したにも関わらず、その用意の意味がない会議にストレスしか与えられていないのです。
来月の会議も恐らくそんな感じになる事だろうと思います。
来月は開始時間をこれでもかと思うくらい、思いっきり早めてやろうと思っています...。
自分らしく生きるために、たくさんのモノを手放してきました。
そして、たくさんのコトをしないようにしてきました。
僕が残業をせず、定時の17時で帰るようにしているのは、自分の時間を取るためです。
すなわち、自分の事を大切にするためです。
たくさんの仕事を抱え、そのたくさんの仕事を処理するために、たくさんの時間働く。
そうする事で、たくさんの人が助かり、たくさんの人が喜ぶのかもしれません。
今の僕の仕事であれば、たくさんの時間を掛けて授業の準備をすれば、場合によっては良い授業が出来るのかもしれません。
そんな良い授業をすれば、授業を受ける子どもたちは喜ぶだろうし、それにより学力が上がればその子どもたちの保護者も喜ぶだろうと思います。
もちろん、たくさんの時間を掛けたからといって良い授業が出来る訳ではありませんが、それでもじっくり考えた授業であれば、それなりに成果を上げることが出来るのではないかと思います。
他にも、行事に向けての準備に関しても、たくさんの時間を掛けて資料を作ったりすれば、それなりに分かりやすい資料が出来上がり、それにより動く側の人間は助かるのかもしれません。
多くの時間を掛ける事により、たくさんの人を喜ばせたり、たくさんの人を助ける事が出来るのかもしれません。
ただそれは、自分以外の人のためにしている事になっており、自分のためにしているかどうかを考えると、少し「っん?」となってしまう自分もいたりもするのです。
もちろん、仕事に関わる人が喜んでくれたりする事が大きな満足に繋がり、その満足によって幸せを感じる事が出来る場合もあるのかもしれません。
僕が若い時にしていた営業職でも、
「お客さんに喜んでもらうのが、営業マンとしての1番の喜びだ!!」
なんて教えられていたし、そんな考えに染まりそうになっていた自分もいたように思います。
その考えでいくと今の仕事であれば、関わる子どもたちやその保護者が喜んでくれるのが1番の喜びになるという訳なのです。
そんな風に考えている職員も多くいるように思いますが、僕は正直「っん?」と思っているし、本当の喜びはそんなモノではないと思っているのです。
明日もし自分が死ぬと分かってしまったら、本当にその死を受け入れる事は出来るのでしょうか?
飛行機に乗っていて、何らかのトラブルにより、その乗っていた飛行機が30分後に海に墜落してしまうとなってしまったら、それを受け入れる事は出来るのでしょうか?
もちろん急にそんな事を受け入れる事なんて出来ないのかもしれません。
ただ、今現在たくさんの我慢をしている人間と、そうではない好きな事をしている人間とでは受け入れる事の出来る度合いに差はあるのではないかと思ってしまいます。
過去の僕の場合「お客さんの喜びが自分の喜びだ!!」なんて言っていた訳ですが、そんな事本気では思っておらず、本当はもっとしたい事がたくさんあったように思います。
そんな時に急に死ぬとなったしまったら、そんな急な死を受け入れる事なんて出来ないように思います。
「えっ!むりむり!!」なんてなってしまったり、
「まだしたい事、山ほどあったのに!!」なんてなったりしているように思います。
自分のしたい事を抑え込み、本当の意味で理解していない周りの価値観に流されている状態。
そんな状態で急な死を受け入れるなんて出来ないのです。
もちろん、今の僕も急な死を受け入れるなんて難しいと思います。
きっと、
「えっ!むりむり!!」なんてなってしまったり、
「まだしたい事、山ほどあったのに!!」なんてなったりしているように思います。
ただ過去の自分とくらべると、比較的受け入れる事は出来そうかもなんて思ったりもするのです。
何故ならば、今の僕は自分の時間を取ることが出来ており、ある程度自分のしたい事が出来ているからです。
すなわち、自分を大切にする事が出来ているからです。
仕事に関わる人を喜ばせたり、助けたりするのではなく、自分の幸せのために自分の時間を多く取るようにしているのです。
たくさんのモノ・コトを手放した事により、自分の時間を多く取ることが出来ているのです。
そんな僕はやりたい事をある程度出来ているし、好きな事をある程度する事が出来ているのです。
まだまだ物足りなさを感じたりはしたいるけれど、それでも過去の僕と比べると、その度合いは大きく違うように思います。
だからある程度は突然の死があったとしても、過去よりかはすんなりと受け入れる事が出来るのではないかと思っているのです。
急に死ぬなんてあり得ない事かもしれませんが、でも明日生きている保証なんて誰にもない事なのです。
そう考えると、自分を大切にする事は今すぐにでもしなければならない事だし、大切にしなければならない事なんだと思います。
そんな事を考える僕はよっぽど暇な人間なのかもしれません。
でも、そんな事と向き合えるのも、たくさんのモノ・コトを手放したからだと思います。
今を大切に、
自分を大切に、
そんな生き方をこれからもしていきたいと思っています。