裏切りのサーモン (original) (raw)
※本記事には、映画『ヴェノム』(2018年)と、その続編『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(2021年)のネタバレがふんだんに含まれています。というかそれしかないです。上記2作をご鑑賞の上、最新作『ザ・ラストダンス』を観る前の振り返りとして閲覧することをオススメします。
※本記事は、2024年3月5日に公開したブログ**SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。 - 裏切りのサーモン**の内容から一部を抜粋し、加筆や修正を加えたものです。
簡単な経緯(文脈の共有)
手短に済ませます。元々僕はSSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)と呼ばれるアメコミ映画ユニバース、そこに属する映画群を愛好しており……そしてその作品たちは常に、あの手この手で「トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)の批判」を展開しているのではないか……という仮説に思い至りました。この仮説を立証するための思索をまとめたものが、本記事の元となったブログ**(SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。 - 裏切りのサーモン)**であり、その考えは今も変わっていません。どころか、前より強くそう確信しています。
(先日、フォロワーさんの主催するマダム・ウェブ鑑賞会に参加し、その時改めて、**カルバン・クラインの男性下着モデル(上裸)の巨大看板の前に、仁王立ちで姿を表すエゼキエルと、そいつを看板ごとぶち破って救急車で跳ね飛ばすキャシー、という演出を見て、ああやはり、今作は有害な男らしさを批判**し女性たちの連帯を描くフェミニズム映画なのだなぁ……と理解を深めました)
**"有害な男らしさ"**について→Toxic masculinity(有害な男らしさ)とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
その流れで、『ヴェノム』シリーズの主人公であるエディ・ブロックを「セルフ・ネグレクト男性」として取り扱いました。
**"セルフ・ネグレクト"**について→- YouTube
(ちゃんとした文献や信頼できるソースを出したかったのですが、あまり良いのが見つからず。たぶん探し方が悪いです)
注意というか、あらかじめ言い訳をさせていただきたいのが、ここで言う**"** トキシック・マスキュリニティ"も" セルフ・ネグレクト"も、なにか厳密な定義に基づく概念ではなく、僕は割とふんわりしたニュアンスで使っている、ということ。これは単に僕の怠惰、というだけではなく、どちらもここ数十年でようやく注目され、研究されるようになったばかりなので……誰も実態を掴まないまま言葉だけが使われていると言ってよいようなもの、だと思うのです(名状し難いものをなんとか名状する、という営み自体は意義深いことだと思いますし、その積み重ねこそが研究だと思うので、ハッキリしていないことが必ずしも悪いとは思いません)(思ってばかりです)。
さて、前置きはここまでにして……。いよいよ待ち受けるラストダンスを見届けるべく、改めてエディ・ブロックという男の抱えるトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)と、そこからの解放(克服)を導くヴェノムという存在の本質。そして二人の関係性の変化について、共に考えてみましょう。
最後に、**"SSU"について→……を何かしらの文献で説明しようかと思ったのですが、いちばん信頼できるソースがwiki、という始末。なんなら「ソニーズスパイダーマンユニバース」でGoogle検索したら、僕のブログが割と上位に出てくるし。**誰も実態を掴まないまま言葉だけが使われているのは、SSUも同じなのかもしれません。ほんと今後どうなるんでしょうね。
書いたやつ → 地獄男映画愛好家。「MCU鍋(MCU作品を全てまとめて煮込んだ鍋)とDCEU鍋とSSU鍋があるとして、そこからひと匙すくって舐めたとき、味のクオリティに大差はない」という主張を繰り返している。
セルフ・ネグレクト男性:エディ・ブロック(『ヴェノム』シリーズ)
映画『ヴェノム』とその続編『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(以下、1と2)に登場するエディ・ブロックは、物語の主人公でありながら**"有害な男らしさ"に捉われた人物である。彼の救済、あるいは進歩(有害な男らしさの克服)こそ、ヴェノムシリーズのメインテーマであると言ってよい。彼はひょんなことから、宇宙からやってきた寄生生物(シンビオート)のヴェノム**に寄生され、共に生活を送りながら、弱きを助け悪を喰らうリーサル・プロテクターとなったわけだが……。
2で語られるように、エディは**"父親に愛されない息子"だったらしく、そのせいかわからないが、ずっと強烈な自己嫌悪を抱えているようだ。自分のことを愛せない。自分のことを愛してくれる人にも心を開けない。でも依存はしてしまう。愛されたことがない(と思っている)から、人の愛し方がわからない。そんな彼は、ずっと雑に生きてきたようにも見える。自分も他人も尊ぶことのない、そういう生き方。**
(呪術廻戦の伏黒甚爾)(自尊心を捨てた男の例)
"愛する"という概念がそもそもよくわかっていないのではないか。他人のことを大事にしたい、と思っても、自分を大事にしないことで結果的に相手を傷付けてしまう。セルフ・ネグレクトは本人だけでなく、本人を愛する人たちをも傷付ける行為だ。
都合の悪いことは無視し、その場の勢いだけで突っ走り、破滅してしまう。金遣いも荒い。弱者を救いたいとか、悪人を懲らしめたいとか、そういう信念はあるけど、後先を考えられないので上手くいかない。とにかく、自分のケアができない。なんとも救い難い男、エディ・ブロック。
そんな彼にとって(彼の救済を目的とする本作において)、ヴェノムというキャラクターは、どのような意味を持つ存在なのだろうか?
僕の解釈では、エディにとってヴェノムとは**"もう一人の自分"である。自分を愛せないエディの代わりに、エディを愛してくれる存在。エディが自らの感情と向き合い、自問自答し、本当にやりたいことを理解するために対話してくれる存在。そして見つけたやりたいこと = 生きる目的のため、必要なパワーを与えてくれる**存在。それがヴェノム。もう一人のエディ。原語版ではヴェノムの声もエディ役のトム・ハーディが演じている。一人二役だ。
同一人物である以上、ヴェノムの殺人衝動はエディに由来するものと考える(設定の話ではなく、作劇の話)。エディは、"人を食べる"という行為とその感覚のキモさに拒絶反応を示しているだけで、悪人を殺すこと自体には、それほど良心の呵責がないように見える。1のクライマックスで宿敵のカールトン・ドレイクを殺害する時に言い放つ「いい人生をな!」という皮肉は、確実にエディの台詞だろう。自分の意志で人を殺している。誰彼構わず喰らおうとするヴェノムの凶暴性は、触れる者を皆傷付けてしまうエディの性質、そのカリカチュア(戯画)だ(2では、共同生活の中でエディがヴェノムの食人を厳しく禁じる場面が見受けられるが、これも善意や良心の問題ではなく、単に自らがトラブルに巻き込まれるのを避けたいだけなのだろう)。
そんな危うさとは裏腹に、エディは弱者に優しい人物としても描かれている。もともとジャーナリストとして、リベラルな問題意識を持っていることと関係があるのかもしれないが。仕事と恋人を失ったドン底生活の中でも、ホームレスの女性と友好的に接していたし、その女性が助けを求めていたら、自身が危険な状況下にあっても迷わず助けようとしていた(後先を考えない性格の現れ、とも言えるか)。
エディ・ブロックの中に確かに存在している「悪人を殺したい」と「弱者を救いたい」、二つの本能的な欲望。それを体現するヴェノム。2にて「平穏に暮らしたい」などと言って、ヴェノムの存在を否定しようとしていたエディだったが……その言葉も嘘ではないのだろうが、しかし今のエディが平穏に暮らすのは、ヴェノムの有無に関わらず、難しいことだろう。自己も他者も愛することなく、雑に生きているエディでは、どのみち破滅してしまう。自分の感情を上手く表現できない、トキシック・マスキュリニティに捉われているのだから。
ヴェノムのやることは、全てエディにとって必要なこと。エディが恋人を傷付けてしまったら、謝罪するよう促し、エディが侮辱されたら代わりに怒り、エディが死に瀕したら身を挺して守る。そして悪人を殺し、弱者を救う。そんなリーサル・プロテクター稼業が、今のエディには丁度いいのではないだろうか。他者を救うことで、自分に自信が持てる。他者を愛することで自分を愛せるようになる。自分を愛することで他者を愛せるようになるのだ。
時にエディが自ら露悪的に振る舞うのは(そして「悪人を殺したい」という欲望を内に秘めているのは)、彼は自分自身を悪人だと思うことで、そんな自分を殺したいと思うこと(自己嫌悪)で、ある種の安心感を得ているからではないか……と、僕は考える。2で元恋人のアンが結婚すると知らされたあと、エディはバイクに乗って暴走する。ヴェノムが傷を治してしまうため、「どうやっても自分を傷付けられない!」と自暴自棄に陥るエディ。この台詞こそ、二人(同一人物だが)の関係性の全てだと思う。自分を傷付けてしまうエディと、エディが傷付かないよう守る、もう一人のエディ = ヴェノム。結局エディは、自分を傷付けられないから、もう一人の自分であるヴェノムを傷付け、二人は喧嘩別れをしてしまうが……。やがて仲直りをし、互いを尊重しながら共に生きていくことを誓う。どこまで行っても、エディは自分を愛せない。それでもどうにか自分を愛するために、ヴェノムという"もう一人の自分"を、自分から切り離して、"他者"として愛することにしたのだ。それが2の結末。まったく難儀な男だが、少しは好転したと言える。自分を無理やり変えるのではなく、ありのままの自分 = ヴェノムを受け入れて、より良く生きていく方法を探す、という方向性へと舵を切ったのだ。
2におけるエディの最大の成長は、元恋人アンへの依存を断ち切ったことだろう。終盤の戦闘中、エディはアンを守るため、敵の攻撃を背中に受けながら、アンを結婚相手のダンへと手渡す。ヴェノムの顔のまま、目を潤ませて(ヴェノムの状態でエディ個人の感情を発露させる、という演出は、先ほど言及した1の終盤の「いい人生をな!」と同じもの)(意外とよく出来てるんですよ、このシリーズ)。つらいことだが、今のエディに他者を愛し、共に生きていくことは難しい。まずは自分を愛する(セルフ・ネグレクトの状態から脱する)練習から始めてみよう。
「弱者を救いたい」エディにとって、虐待を受けてシリアル・キラーとなってしまった2の敵、**クレタス・キャサディは救うべき弱者ではなかったか。しかし、エディとヴェノムは容赦なくキャサディを殺害し、カーネイジを喰らう。エディに親近感を抱くキャサディ同様、エディもまた、被虐待児のシリアル・キラーに共感を覚えていたのだろう。自分と同じような悪人、だから殺す。自分を殺したいエディにとって、それ以外の選択肢は無かった。彼がどこまで行っても自分と、自分によく似たものを愛せないことが残酷なまでによくわかる。だからヴェノムを、自分とは異なるものとして切り離したのだ(2のラストでわざわざ「自分とヴェノムは違う」ということを、エディ自身が強調しているのはこのため)。ヴェノムを(本当は自分自身だけど)他者として扱うことで、自分とは似ても似つかない存在と仮定することで、愛し始めたのだ。**まだまだ前途多難である。
(さっきからこうして二人が向き合っている構図の画像を何枚か載せているが、いずれも「殺すべき悪」は右側に配置されている)
家族を求めるキャサディを殺し、ヴェノムを"ファーザー(父親)"と呼ぶカーネイジを喰らった(我が子を食らうサトゥルヌスを彷彿とさせる)。父親に愛されなかったトラウマ。そして1の敵、カールトン・ドレイクは「父なる神」を自称するような振る舞いを見せ、聖者イサクの逸話を引用する。それは父親のために犠牲となる息子の伝説。『ヴェノム』シリーズは、セルフ・ネグレクト男性のエディ・ブロックを通じて、父親と息子の物語を描こうとしているのかもしれない。トキシック・マスキュリニティについて考える時、父親と息子の関係性は非常に重要なトピックである。最新作にて最終作(とされている)『ザ・ラストダンス』において、エディの父親について何かしら言及があることを期待したい。
あとがき
とまぁ、こんな感じです。昔の自分、いいこと書いてるなぁ。めっちゃ真剣に映画観てるし。どうせなら皆さんも全文読んでください。『モービウス』のマイロと、『マダム・ウェブ』のエゼキエルの話もしてるので。ほら。
SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。 - 裏切りのサーモン
改めて僕が言いたいのは、トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)についてみんなで考えたいですね〜ということです。別に"男らしくあること"それ自体が悪い、という話ではないんです。ただ、それが自分や周囲を苦しめていたらよくないよね、というだけで。
そして**"有害な男らしさ"は、いわゆる典型的な、酒に溺れて女を殴って、みたいな感じのものだけではなくて……。自分の感情を上手く発露できないために、痛みや苦しみを一人で抱え込んで(自己嫌悪を募らせて)、どんどん自分を傷付けてしまう……そんな状態のことも指すのではないか**と思うのです。エディみたいな人のことね。心当たりのある人はいませんか。
そこから脱する方法は、やはりエディのように、自分自身を愛する練習を始めることだと思います。自分を好きになるために、他者を助けるのもいいですね。自らの感情と向き合い、言語化するトレーニングも大事かと。その辺のことを考えたブログ(5万字超)もあるので、暇な方は読んでみては。
"地獄男映画"愛好家の地獄めぐり備忘録【前編】 - 裏切りのサーモン
"地獄男映画"愛好家の地獄めぐり備忘録【後編】 - 裏切りのサーモン
そうです、宣伝です! 宣伝こそ本記事の存在意義です。そのために作られました。もう二度と、ヴェノムというコンテンツがこれ以上の脚光を浴びる機会など来ないかもしれないし、それはSSUにも同じことが言えるし……。その最後の輝きの、おこぼれにあずかろう、という企画でした。過去記事の再編集で数字が取れたら嬉しい。やはりね、人類社会がトキシック・マスキュリニティを克服するためには、僕が力を得て、より多くの人にメッセージを届ける必要があるのですね。そして現代社会における力(パワー)とは、すなわちバズ。数字です。
ついでにもう一つ宣伝しておきましょうか。なんか『ヴェノム:ザ・ラストダンス』とかいう映画が公開されるらしいですよ。観てみてはいかがでしょう。
アッ、こんなところに予告編が!
(ゲ謎もブレイバーンもヴェノムも、みんな"有害な男らしさ"を相棒と共に乗り越えていくお話なので、ものすごく親和性が高いですよね。いいコラボだと思います。全部僕の地獄男ブログで言及した作品たちなんですけど、担当者は僕のブログを読んだのだろうか? なぁ、そうなんだろう?)
あと、SSU最後の輝き第二弾こと、新作『クレイヴン・ザ・ハンター』も12月公開予定なので、要チェックです。ソニーからは一銭も受け取っていません! こちとらPS5も高くて買えないってのに!
前編 → "地獄男映画"愛好家の地獄めぐり備忘録【前編】 - 裏切りのサーモン
改めて言っておきたいこと。それは、トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)について論じることは、男らしくあることそのものや、男性であること自体を非難するものではないということ。それは**ミサンドリー(男性嫌悪)であり、また別のマイノリティ(トランス女性など)を踏み付けることに繋がる考えである。正直、現代社会を生きていて男性の嫌な側面を見ない日などほとんどない**し、特に女性は、胸中に多かれ少なかれ、男性嫌悪を内包していることも珍しくないだろう。
それでも、やはり、あくまでも僕の立ち向かうべき相手は、有害な男らしさを生み出してしまう構造だ。目的は構造の解体と改善であり、そのために構造を理解したいと思っている。破壊と再構築の過程で、男性個人の言動を糾弾することも、もちろんあるが……。目的("構造"を改善して多くの"個人"を救うこと)は見失いたくない。憎悪を原動力に、攻撃を目的にしてしまったら、ひどく血生臭い結果が待っているように思う。暴力は、有害な男らしさの再生産にしか繋がらない。まぁ、言うてもわからんやつには、一回痛い目に遭わさなあかんことも、あるとは思いますよ。それは否定しないっす。はい。いざというときはね。でも叩いたら治るようなもんなんやろか。テレビとちゃうねんから。
(呪術廻戦)
同時に、**"有害な男らしさ"という構造について語ることは「加害者にも事情があるんですよ」と言って回るようなものでもある。それは事実なのだが、しかし"どっちもどっち"的な相対化の論調に聞こえてしまうきらいはあるし、そういう論調を掲げる人たちに利用されてしまう危険性も大きい。虐げる者と虐げられる者がいるとき、虐げられる者の側に立って、虐げる者へ立ち向かうのが責任ある大人のあるべき姿である。**僕もそのようにありたい。
僕は何も「男かわいそう」なんて言いたいわけではなくて(もちろんかわいそうな人もいるが)、社会を蝕む"有害な男らしさ"を理解し、乗り越えるための方法を探したいのだ。それが虐げられる女性やマイノリティ、社会全体、そして加害者である男性たち自身をも救うことになると信じている。
(マトリックス レザレクションズ)
(個人と構造との対決を描くシリーズの最新作。僕にとっても、構造と向き合うための示唆を与えてくれる重要な作品となっている)
一言に「男性」といっても、そこにいるのは一人一人の個人である。個人は構造によって大部分を規定される。運良く、学びや気付きの機会を与えられることで、構造を自覚し、そこから脱却するための術を考えることができるようになる。僕も運が良かった。
社会において多くの場合、男性はマジョリティとして扱われ、"特権階級"に位置しているわけだが、そのことに自覚的な男性は少ないように思う。構造は水や空気のように、あまりにも自然に僕たちの周囲を取り囲んでいるからだ。女性が女性であるというだけで被る不利益を、男性が男性であるというだけで被らずに済むとき、既にそこには"特権"がある。では、全ての男性が特権に守られ、何の苦労もなく幸福に暮らしているかというと、そんなことは全くない。構造的には特権階級に位置し(その罪深さを糾弾され)ながら、実際の生活では全くその恩恵を体感できていない。この現状と認知のギャップが、議論を難しくしている。
繰り返すが、「男性」とは一人一人の個人の集まりである。その中には、当然いろんな個人がいる。裕福な者がいれば貧困に苦しむ者もいる。白人がいれば有色人種もいる。性的少数者も、障害者もいる。同じ「男性」であっても、一人一人の抱える問題は大きく異なる(「女性」にも、他の全ての属性にも同じことが言える)。このことを理解するためには、インターセクショナリティについて知ることが大きく役に立つだろう。元はフェミニズム運動における人種差別を問題提起するための概念だが、今日ではより広く、包括的に差別問題へ立ち向かうために使われている。
インターセクショナリティとは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
結局「加害者にも事情があるんですよ」という話をしてしまった。だって事実なんだもん。同様に、現状の社会では男性と女性とで様々な不均衡があるのも事実。女性やマイノリティの苦しみを棚上げして、男性の苦しみばかりを語ることは、その不均衡を助長してしまう可能性もある(そう受け取られる、利用される危険性)。これはもう、なんとかわかってもらうことを信じ、言葉を尽くして頑張るしかない。上手く伝わらなかったら僕の責任だ。
女性やマイノリティに「頑張れ頑張れ」と言い続けること(エンパワメント)も、もちろん大事だし、男性の罪深さを糾弾することも欠かせない。しかし、被害者に努力や改善を求めるのは、僕は納得できないのだ。悪いのは加害者 = 男性であり、男性を加害者にしてしまう社会構造(それもまた男性たち自身が作り上げている)である。加害者こそ、努力して改善する必要がある。ケアを受けて、自らの行いを反省し、構造を理解して、より良い状態へと作り替えていかなければならない。社会変革のコストは、今"特権階級"にあるマジョリティが支払うべきだ。 僕自身も含めて。
今ある社会をより良いものへと変えていくためには、今ある社会で力を持っている男性たちへこそ語りかけるべきだ。僕はそう考え、こういう文章を書いている。また前置きが長くなったが、以上を踏まえて、"そういう文章"にもう少しお付き合い願いたい。
【番外編】映画以外の"地獄男"たち/地獄男と"相棒"の物語
1.『ガングレイヴ』(2003)
ブランドン・ヒート(☆☆☆☆)
ハリー・マクドゥエル(☆☆☆☆☆)
巨大な二挺拳銃と、武器を満載した棺桶を携えた人間兵器、ビヨンド・ザ・グレイヴ。彼こそはかつて暗黒組織「ミレニオン」のスイーパーとして活躍したものの組織の幹部であり親友でもあったハリーの策謀によって命を落としたはずの男、ブランドン・ヒートの生まれ変わった姿だった。蘇る記憶との葛藤にさいなまされながら、グレイヴはハリーの野望を阻止すべく、かつての仲間たちを倒していく。ハリーとグレイヴの最終決戦-二人の男の胸に去来するものは?野望と友情と男の意地が錯綜する中、二人の銃が火を吹く!
ここからは、映画以外にも視野を広げて、地獄男とその解放、救済について考えていく。とりわけ、先のゲ謎でも取り上げた**"相棒"というトピックについて。なんならトイストーリーもグレイテストショーマンもヴェノムも、捉えようによってはパワーオブザドッグや裏サーも、みんな地獄男と相棒の話をしている作品と言える。相棒とは、対等な関係性の他者のこと。食うか食われるかの世界で生きる地獄男たち(家庭は大事にできない)にとって、外の世界で共に戦いながら、全幅の信頼を寄せることのできるパートナーの存在は、非常に大きい。どんな社会問題の解決にも"連帯"が欠かせないのと同じように、トキシック・マスキュリニティからの解放にも、男同士の連帯は必要不可欠なのだ。しかし男たちは中々上手く連帯できない。互いに信頼し合う、対等な関係性の"相棒"**が必要だ。
時にそれは、同性愛を内包することもある。少なくとも、家父長制的な支配・非支配の関係性より、相棒同士の"対等"なパートナーシップの方が、ずっと恋愛の理想的なあり方に近い気がする。恋愛の"型"を作ることには賛成できないが、しかし、トキシックかそうでないか**(人権が尊重されているかどうか)の尺度は存在していていいとは思う。大事なのは、対等であること。互いを想い合い、言いにくいこともハッキリ言い合える**関係性だ。
『ガングレイヴ』は、ゴッドファーザーやヒートといった、マフィア映画やギャング映画たちの影響を強く受けた作品。暴力に支配された世界で、無二の相棒であったブランドンとハリーの二人は、最底辺のゴロツキからマフィアの**"ファミリー"へと成り上がりながら、取り返しのつかない殺しを経験していくことで、"何か"に取り憑かれ、少しずつ二人の心がすれ違っていく……。本作は、その様を非常に丁寧に、緻密に描いた物語である。彼らは"何に"取り憑かれたのだろう。ずっと一緒だったはずの彼らの心は、一体どこですれ違ってしまったのだろうか。ネットではよく「男の義務教育」などと言われる本作。"有害な男らしさ"と向き合うという意味では、その意見に賛成である。ただ間違っても彼らに憧れてはいけない。彼らは破壊者であり、間違ってしまった人たち**なのだから。
地獄男が相棒に対して抱く強い感情は、時に暴走し、両者の関係性を**"宿敵"にしてしまうこともある。映画『イニシェリン島の精霊』で描かれているのも、そういうことだろう。こういう時は大抵、二人のコミュニケーションが足りていない。地獄男はもっと会話をしろ。本質的な会話を。素直になれば解決する**のに、どうしてすぐ暴力に走るのか。まぁ、構造が悪いんだけど……。
(イニシェリン島の精霊)
(男はある日突然、親友から絶縁を告げられる)
2.『ウルトラマンオーブ』(2016)
クレナイ ガイ(☆☆☆)
ジャグラス ジャグラー(☆☆☆☆)
ガイ=ウルトラマンオーブと、次々に蘇る魔王獣との壮絶な戦いが幕を開ける。その背後で、謎の男・ジャグラーが「ダークリング」を手に妖しく笑う--。
ガイとジャグラーもまた、かつて相棒同士でありながら、その関係性の深さゆえに、拗らせた結果として**"宿敵"**と化してしまった二人である。
ヒーローや**ヴィランと地獄男の相性の良さは前編で触れた通りだが、本邦のヒーローも中々に業が深い。BvSの時に書いた全裸シャワー。『仮面ライダーアギト』の木野薫(アナザーアギト)や『仮面ライダー鎧武』の呉島貴虎(斬月)なども、全裸シャワー**を披露しているヒーローの一人である。
コラム:全裸シャワー
全裸シャワーとは、映像作品における表現手法の一つであり、"業"(カルマ)を抱えた地獄男または地獄女が、ほんのひととき自らの武器を捨て鎧を脱ぎ、無防備な裸体を観客に晒すことで、その者の孤独と痛みを強調する効果がある。最近だと『ゴジラ×コング』でコングもやってたし、ジョン・ウィックも1作目でやってた。大抵の場合、過去に犯した決して償えない罪を悔やむ時か、これから決して赦されない罪を犯す覚悟を決める時に演出される(コングは単純に寂しそうだった)(というかゴジ×コンのコングはめちゃくちゃトキシック・マスキュリニティを克服していた)。
(ゴジラ×コング 新たなる帝国)
(対話と相互理解を経て連帯することで、有害な男らしさの支配を乗り越え、より良い構造 = 新たなる帝国を築こうとするお話)
全裸シャワーが特別なのは、断じて観客の性的好奇心を刺激するためだけに存在しているようなサービスシーンではない、ということ。その側面もゼロではないが、あくまで主目的は対象の地獄っぷりを観客に伝えることにある。たとえば、アニメ『少女革命ウテナ』の有栖川樹璃も劇中でシャワーシーンを披露しているが、その演出意図は明らかに性的消費ではない。**男装の麗人として振る舞う(男らしさを背負って生きる)彼女が、一方でどうしようもなく女性の肉体を持って生きているということの苦しみ。その孤独と痛みを描こうとしているのではないか。そう考えて、僕はこの演出を典型的な全裸シャワーと捉えているし、有栖川樹璃のことも地獄女**だと思っている。
(少女革命ウテナ)
(桐生冬芽や御影草時といった地獄男も豊富に取り揃えている)
話を戻そう。光に選ばれ、超人の力を手にした男・ガイ。彼の相棒で、実力では上回っていたにも関わらず選ばれなかった男・**ジャグラー。その挫折から、ガイと彼を選んだ光を否定し、自分の方が優れていることを証明するため、ジャグはあの手この手でガイに勝負を仕掛けてくる。まともなコミュニケーションを経ない二人の喧嘩は、次第にエスカレーションしていき、どんどん取り返しがつかなくなって、二人は相棒から宿敵へ。**やがてジャグは、ガイの愛した星・地球を滅ぼすことを計画するようにまでなる。
かつてジャグとの戦いで巻き添えとなり、愛する地球人の女性を喪ってしまったガイ(男同士の諍いで割を食うのはいつも女性だ)。100年以上の時が過ぎても、ずっとそのことに心を縛られ、戦うことへのトラウマを抱えているガイは、自分一人の力ではウルトラマンに変身することさえ叶わず(EDの暗喩だと思う)、先輩ウルトラマンたちの力が込められたカードを借りて、ひっそりと人を助ける風来坊をしていた。人間との縁ができても、すぐ「俺に構うな」と冷たくあしらうその様は、典型的なダウナー系地獄男。 自らの加害性を自覚し、自責の念に苦しめられている。
そんなガイを、ジャグは執拗に追い詰める。本当のお前の強さはこんなものじゃないはずだ、もっと本気を出せと。本気のガイと戦って雌雄を決する(どちらが上か下かを決めることを、オスかメスかで表すの、だいぶ地獄男ワードだな)ことだけが、自らの強さの証明になる。あるいは、自分を差し置いて光に選ばれたお前がそんな腑抜けた態度では、自分は何のために戦っているのかわからなくなるのか。決闘への憧れ、男らしさへの固執が感じられる。そう考えるとアッパー系なのか、ジャグは。でもめちゃくちゃ湿度高いんだよな。
そんな地獄男二人の関係性がいかなる展開を経て、どのような着地を迎えるのか。それは皆さんの目で確かめていただくとして。貴重な男同士の連帯であるはずの相棒関係が、いかにして破綻し、宿敵関係へと至るのか。そのことを考えてみたい。キーワードは、「置いて行き・置いて行かれ」である。
対等であることが相棒の条件だが、熾烈な競争社会である男性の世界で、この前提は容易く崩壊する。相手とのパワーバランス(単純な能力だけでなく、経済力や社会的地位など)に不均衡が生じたり、気持ちにズレができたとき、二人の距離は離れていく。このときの「自分は相手に置いて行かれたのだ」という感覚は、強烈な劣等感(プライドの毀損)や被害者意識を当人の心に植え付ける。こうして元相棒の宿敵は生まれる。相棒時代の関係性(信頼など)が深ければ深いほど、禍根(裏切られたという感覚)も深くなる仕組みだ。
実に厄介なシステムだが、さらに厄介なのは、大抵の場合、置いて行った側に「置いて行った」という自覚はない。仮にあったとしても、どうすることもできない。相棒と歩幅を合わせるために足踏みしているのが相棒本人にバレたら、相手のプライドは再起不能のズタズタである。そして、ここからが本当に厄介なのだが、無自覚な"置いて行き男"からすると、相棒が突然態度を変えて自分の元から離れて行ったように見えるため、置いて行った側が「自分は置いて行かれた」という被害者意識を持つことすらあるのだ。ジャグは、ガイが光に選ばれたことで"置いて行かれた"が、ガイは、そんな自分のことをジャグが急に敵視して相棒を辞めたことで"置いて行かれた"と感じている可能性がある。双方の自認を突き合わせると、両方被害者で両方加害者みたいな構図が出来上がってしまうのだ。これが「置いて行き・置いて行かれ」の正体である。本当に置いて行ったのはどちらなんでしょうか……。この悲劇を見事に描いた作品として、オーブの他に『長ぐつをはいたネコ』(2011年)と『リズと青い鳥』(2018年)を紹介しておく。
(実質、幼児向け『ガングレイヴ』である)
(リズと青い鳥)
(『裏切りのサーカス』のオマージュ演出が各所に見られる作品。僕はこれ同性愛悲劇だと思うんですけど、皆さんはどう観ます?)
有害な男らしさを克服するため、健全な男性同士の連帯を実現するためにも、どうすればこの悲劇を避けられるのかを考えなければ。方法は様々だが、まず言えるのは、とにかくコミュニケーションを取ることである。冷静な話し合いができればいいが、表層的な建前のやり取りだけでは、真の解決(対話と相互理解)に繋がらない。主にフィクションでよく見られる光景で、実際にやるには法的な制約も多くあるのだが……いっそのこと、決闘してみるのもアリなんじゃないか。別に、河川敷でステゴロじゃなくていい。きちんとしたボクシングとか、スポーツ対決とか、対戦ゲームとか、なんなら口喧嘩でもいいが……。素直な気持ちを言葉に出すのが苦手で、どうしても暴力的になってしまうのなら、(擬似的でいいから)ぶつかり合ってみるのも手だ。双方合意の上でね。そして何より大事なのは、その直後でもいいから、絶対に相手への愛を表明すること。感謝でも信頼でもいい。とにかく、今本気でぶつかり合ったのは、私にとってあなたが本当に大切な人だからなんですよ、ということを伝える。簡潔にまとめると「ぶん殴ってハグ」だ(あくまでもフィクションにおいて有効な手段である、というだけなので、実際にやるんなら本当に色々と、よく考えてアレンジしてやってください。ぶん殴っちゃだめです。暴力反対。目的を見失わないでね)。
(勇気爆発バーンプレイバーン)
(この作品でも、男性同士が"ぶつかり合う"ことで互いの素直な気持ちを打ち明け合い、連帯を深める場面がある。ヒーロー願望などと併せて、有害な男らしさについて考える上での重要な視座を与えてくれる作品だ)
あとまぁ、自分と相棒とは違う人間であるということを、きちんと認めるとか。相手に依存し、相手との関係性の上に自らのアイデンティティを立脚するのは、本当によくない。なぜ良くないかはシュガーラッシュオンラインを観ること。
3.『呪術廻戦』「懐玉・玉折」(2023)
伏黒甚爾(☆☆☆☆☆)
夏油傑(☆☆☆☆)
最強の2人 戻れない青い春
2018年6月、両面宿儺を己の身に宿した虎杖悠仁。2017年12月、祈本里香の呪いを解いた乙骨憂太。そして更に時は遡り 2006年(春)一。高専時代の五条悟と夏油傑。呪術師として活躍し、向かうところ敵のない2人の元に、不死の術式を持つ呪術界の要・天元からの依頼が届く。依頼は2つ。天元との適合者である"星漿体(せいしょうたい)”天内理子、その少女の「護衛」と「抹消」。呪術界存続の為の護衛任務へと赴くことになった2人だが、そこに伏黒を名乗る"術師殺し”が“星漿体”の暗殺を狙い介入する...。
後に最強の呪術師と最悪の呪詛師と呼ばれる五条と夏油、道を違えた2人の過去が明かされるー。
五条悟と夏油傑、彼らもまた「置いて行き・置いて行かれ」の悲劇によって断絶し、対等な"親友"同士から敵対関係へと変わってしまった二人である。その背景には、人間社会や呪術界といった構造の残酷さがある。弱く愚かな人間たち(呪霊を生み出している)を、感謝されることもなく(むしろ異端として恐れられながら)影から守り、そのために次々と犠牲になっていく呪術師たち。その犠牲が出る仕組みを堅持(肯定)し、血統や権威に固執する呪術界。
そんな呪術界の歪みを象徴するような存在が、今作のもう一人の地獄男である伏黒甚爾だ。良家に生まれ、(ある意味で)非凡な才に恵まれながら、生まれ持ったある特質のために認められず、蔑まれ、**"術師殺し"として生きる道を選んだ男。五条悟とはコインの裏表のような存在と言えるかもしれない。彼は基本的には攻撃的で威圧的で、金のために人の命を奪うことをなんとも思っていない外道だが、仕事以外の時にはギャンブルでダラダラと時間を潰し、栄養の無さそうなものばかり食い(アニメ版では食べ物を粗末に扱う描写が追加された。悪役演出として良い)、常に無気力でいる様子が目立つ。セルフネグレクトだ。育ってきた環境の影響か、自己肯定感が低いのだろう。抑うつ状態なのではないかと思う。彼自身、_「自尊心(それ)は捨てたろ」「自分も他人も尊ぶことない そういう生き方を選んだんだろうが」_と自らに言い聞かせている描写がある。そうすることでしか、強く生きられなかったのではないか。まぁやっていることはクズ**なんですが……。
そんな甚爾との戦いを経て、五条と夏油は、とりわけ夏油は構造の残酷さを痛感することになる。_「術師というマラソンゲーム その果てにあるのが 仲間の屍の山だとしたら?」_という疑問、いやほぼ確信が、夏油の胸中を埋め尽くす。そうして夏油は呪詛師として構造(呪術界と人間社会)を破壊する道を、五条は呪術師として人間社会を守りながら呪術界の構造を内部から変えていくために、優秀な後進を育てていく教師の道を、それぞれ選び取っていく。青春と挫折を経て、若者たちが進路を選択する物語が「懐玉・玉折」だったのかもしれない。
呪術廻戦自体、他の多くの創作物(特にジャンプ系列が多いようだが)から強い影響を受けており、またそれらのオマージュ演出も多く見られる作品である。それゆえ「懐玉・玉折」の地獄男表象にも、他作品のそれと通じるものが多くある。まずそもそも五条と夏油の関係性が、**X-MENのプロフェッサーXとマグニートー**のそれに酷似している。
(X-MEN:ファースト・ジェネレーション)
(プロフェッサーXとマグニートーの出会いから別離までを描いた、実質「懐玉・玉折」。生まれつき特殊な能力を持つ子供たちを教え導く、人類を守る最強の能力者である先生と、彼の旧友で、人類を支配し能力者の世界を作ろうとしている男との、愛憎入り混じる青春の物語である。ね、五条と夏油でしょ)
それから夏油は作中で全裸シャワーも披露しているし(あれは間違いなく全裸シャワーだった)、_「その夏は忙しかった」_から始まる夏油のモノローグを聞いていると、『裏切りのサーカス』でスマイリーがカーラについて語るシーンを連想してしまう。どちらも**同じことの繰り返しで疲弊していく構造に疑念を抱く"語り"**だ。原作者は映画好きらしいし、裏サーも観てたりしないだろうか。
「懐玉・玉折」で、ちゃんとしてるな〜と思うのは、こういう男同士の諍いや構造との軋轢で、真っ先に傷付けられて死んでいくのは、いつも女性たちであるということをキッチリ描いているところ。そんな彼女らのことを、五条も夏油もあんまり気にしてなさそうなのが生々しいというか……。とにかく、地獄男表象が盛りだくさんなのだ。BvS並。
(僕の善意が壊れてゆく前に 君に全部告げるべきだった)
さて、二人はどうすればよかったのだろう。やはりもっとコミュニケーションを取るしかなかったのだが、彼らは本音を話さない。男子同士の、友達同士で、自分の生き方について真剣に議論することの方が稀だろう。だってみんな、そこまで**"友達"に依存してないし。五条と夏油の関係性は、彼らの語彙では"親友"として表現されているが、その関係性の深さと依存っぷり**(実は夏油より五条の方が相手に依存している)は、一般的な**"親友"**のそれとは比較にならないレベルだと思う。
正直僕は、二人は愛し合っていたんじゃないかと思っている。勝手な解釈だが。両片思い的な。なんでもかんでも恋愛にすることは叩かれがちだし、実際その通りで、恋愛感情のない人間同士の強い結びつきもあって当たり前なのだが、しかし同性愛はとりわけ"透明化"されやすいし、「なんでもかんでも恋愛にするな」という言説が、その透明化を推進してしまっている側面も、残念ながらある。「誰が誰と恋愛しても、恋愛しなくてもいい」という当たり前のことが、どうしてこうもままならないのか。
五条と夏油が愛し合っているとして(アニメ版のスタッフもその前提で作ってると思うんすよね。劇場版や「懐玉・玉折」編のOPやEDの歌詞も、だいぶ同性愛の文脈じゃないすか?)、しかし2006年に男子高専生をやっている彼らは、自らの気持ちを告白することができず、**"親友"以上の感情を抱えながら"親友"として振る舞った**(親友なので自分の進路のことなんか相談しない)結果、このような取り返しのつかないことになってしまった……のではないか。愛ほど歪んだ呪いはないのだから。
(これは持論だけどね 愛ほど歪んだ呪いはないよ)
"有害な男らしさ"による悲劇と、同性愛悲劇は、どちらも**ジェンダー規範に原因がある。そのため、両者の表現には親和性がある。ガングレイヴだってウルトラマンオーブだって同性愛的な読み方はできるし、長ぐつをはいたネコも、リズと青い鳥もそう。X-MENは割とガッツリそう。ウテナは「読み方ができる」なんてレベルではない、真正面からド直球の同性愛だ。イニシェリンもそう読めるかな。冒頭でいきなり虹が出てくるのは、もうそういうことでしょ。ブレイバーンも同性愛です。言い逃れできないぞ。他にも、たとえば前編であげた多くの地獄男映画たちの中にも、同性愛の文脈で読むことが可能な作品は多くある。"有害な男らしさ"と同性愛を絡めて語っている作品を新たに例示するなら、まず『ブロークバック・マウンテン』。そして、その流れの先にある『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』。あとアメコミ映画の『モービウス』**も挙げておこう。
(男性同性愛者の、加害者(有害な男らしさ)としての側面と被害者(マイノリティ)としての側面の両方を描いてみせた作品。男性同性愛作品界のテルルイ的な立ち位置だと、僕は勝手に思っている)
プライド月間🏳️🌈🏳️⚧️映画祭り2024を自主開催して感じたこと - 裏切りのサーモン
(ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ)
(ブロークバックを踏襲しつつ発展させた最新作)
(モービウス)
(詳しいことはブログに書いたので読んでください)
SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。 - 裏切りのサーモン
現状の**ジェンダー規範の在り方は、多くの人を不幸にする。なんとかして解体し、改善していきたい。五条と夏油が別々の道を歩んだように、戦い方は人それぞれだ。男性の加害性を糾弾するも良し。女性をエンパワメントするも良し。性的マイノリティの声に連帯するのも良い。みんなで家父長制をやっつけよう。僕は地獄男ブログを書くことで、僕なりに懸命に戦っている。今より世界を少しでも良くするために、僕にできる最大限の努力が"これ"だと、割と本気で思っているのだ。**そして同時に、バイセクシュアルである僕にとっての生存戦略でもある。
とりあえず五条と夏油はシュガーラッシュオンラインを観ろ。と思ったけど、オンラインの日本での公開日は2018年12月。呪術作中では、とても映画を観てられるような状況じゃないな……。
4.『TIGER & BUNNY』シリーズ(2011〜)
鏑木・T・虎徹(☆☆☆)
様々な人種、民族、そして『NEXT』と呼ばれる特殊能力者が共存する都市シュテルンビルト。そこには『NEXT』能力を使って街の平和を守る『ヒーロー』が存在した。仕事も私生活も崖っぷちのベテランヒーロー、ワイルドタイガー(鏑木・ T・虎徹)は、突然新人ヒーローのバーナビー・ブルックスJr.とコンビを組むことに。二人は対立しながらも悪に立ち向かう…!
今作も同性愛的な読み方はできる、というかそういう売り方をしていると思うのだが、一旦置いておいて、とりあえず男性同士の連帯の話をしてみる。ようやく、拗らせたり宿敵になったり殺し合ったりしない**"相棒"の登場である。そして虎徹さんは地獄男**だ。
第1話(バーナビーと知り合う前)の虎徹さんの生活を見てほしい。まず仕事では力任せの強引なやり方で、そんなことをすると自分だけでなくお世話になっている会社にも迷惑がかかるとわかっているはずなのに、やめられない。「正義の壊し屋」として、昔ながらのヒーロー像に憧れと固執の感情があるようだ(幼少期に伝説のヒーロー・Mr.レジェンドに助けられたことがヒーローを目指したキッカケになっている)。自室には酒の空き缶・空き瓶が転がっているし、食事も炒飯ばかりの様子。炒飯は地獄男フードである。
数年前に妻を亡くし、それでも(妻の想いもあって)ヒーローを続けているが、活躍も業績も振るわない……。実は、1話時点で虎徹さんは、結構ギリギリの状態だったのだが、それでもなんとか人の道を踏み外さずにいられたのは、もちろんヒーローであることへの誇りと、そして愛する娘の存在。そして、そんな崖っぷちの虎徹さんが再起を果たし、より良い人生(単なる仕事の成功、というだけの意味ではなく)を歩むようになるキッカケとなったのが、何を隠そうバーナビーとの出会いである。
バーナビーもまた辛い過去を背負う戦士。ほとんどバットマンだ。年齢差や目指すヒーロー像の違い、仕事のスタンスなどを巡って二人は衝突しながらも、同じヒーローとして、市民を助けるために力を合わせて戦っていく。共に日々を過ごすうち、互いの意外な一面を知ったり、自分にはない相手の長所を理解したりと、互いへの敬意が生まれてくる。宿敵との対決に激情を燃やすバーナビーを、虎徹が長年の経験で冷静にアシストしたり、虎徹ひとりでは救えなかった命を、バーナビーの活躍で助け出したり。そもそも二人の邂逅は、命の危機に瀕した**虎徹をバーナビーが"お姫様抱っこ"で救出するところから始まっている。このシーンに象徴されるように、虎徹はバーナビーとの出会いを通して、彼自身を苦しめる"有害な男らしさ"とセルフネグレクトから解き放たれていく**のだ(シュガーラッシュオンラインにも似たような展開がある)。
様々な困難に直面しながらも、互いを愛し、違いを尊重し合う虎徹とバーナビーは、理想的なバディと言えるだろう(およそバディが遭遇し得る、ありとあらゆる困難を乗り越えてきた)。虎徹の抱える地獄も、バーナビーの抱える地獄も、相手との連帯によって克服されていく。タイバニは、地獄男の解放と救済を目指す上での重要なヒントを与えてくれる作品だ。ルナティックさんもなんとか……救済できませんかね……? あれが救済ですか? そうですか……。
(言いたいこと言って、とことんぶつかってこその相棒だろ!)
虎徹はバーナビーと連帯することで、"有害な男らしさ"から解放され、救済されたわけだが……。では男性が連帯すべき相手とは、一体どのような人物なのだろう。"相棒"とは誰のことなのか。虎徹にとってのバーナビーのような存在。似ているところもあれば違うところもあり、健全なコミュニケーションを取ることができて、互いの短所を互いの長所で補い合えるような……そんな関係性。理想的な相棒。
「連帯」というワードには様々な意味があり、特にエンパワメントの文脈で用いるならば、女性や性的少数者、特定の国籍や人種の人など、様々な属性を持つ人と"連帯"することは非常に重要なアクションなのだが……。いま僕が言っている「連帯」は、パートナーシップのこと。互いの人生に責任を持ち合う関係性。背中を預けて戦う同志。それでいて依存し過ぎることなく、互いを個人として尊重し、違いを認め合える存在。それはマジョリティがマイノリティに手を差し伸べるような、一方的で非対称的な関係性ではなく、相手の弱みを受け入れると同時に、自分の弱みも相手に曝け出せるような……そして互いに迷惑を掛け合ったり、喧嘩したりしながら、支え合って共に生きていく対等な相棒。必然的に、対称的(属性が似通っている)な二人が相棒になりやすい。つまり、結局のところ、男性同士の連帯。互いに本音をぶつけ合って、喧嘩して傷つけ合って、「ぶん殴ってハグ」しても壊れない相手。ブランドンは壊れても戻ってきたし、ガイとジャグは全然壊れないし。夏油は壊れた。
男性をケアする役割を、女性に押し付けてはならない。男性もケアを覚える必要がある。他人と、自分自身のケアを。自分を愛することができない者に、他者を愛することはできない。セルフネグレクトは、あなた自身だけでなく、あなたを愛してくれる人のことをも深く傷つける行為だ。
地獄男と共に生きていくのは、修羅の道である。めちゃくちゃ傷付くと思う。これまでに紹介した地獄男映画たちで、地獄男の配偶者になっていた人たちのことを思い出してほしい。みんな気の毒な目に遭っていた。よくない。しかし地獄男が誰とも連帯せず、一人でいるのもよくない。もっと拗らせて、もっと多くの人を傷付けることになる。なんとか間に合ううちに、相棒を見つけたい。何度も言うが、大事なのは対等であること。互いの危機を、互いに支え合って乗り越えることだ。だから、相棒が地獄男に奉仕する関係性ではいけない。地獄男の存在が、相棒を救うことにならなくては。
ここで挙げておきたいのが、ドラマ『MIU404』の志摩と伊吹だ。過去にトラウマを抱える志摩にとって、伊吹の存在は希望となっていく。伊吹は死なないから。互いに傷付け合っても壊れない。伊吹にとっても、経験豊富で冷静な志摩がいるおかげで、より多くの人を救える。そうすることで、**"誇れない過去"を乗り換えることができる。喧嘩して本音をぶつけ合いながら、やがて互いの違いを尊重し合うようになる二人もまた、理想的な相棒同士と言えるだろう。**
(MIU404)
難しいのは、こうした男性同士の連帯が**ホモソーシャルを内包したボーイズクラブになってしまいがちなこと。それは"有害な男らしさ"の温床になってしまう。ううーん、難しい。どうすればいいんだ。やはり関係性に依存するのではなく、個人を確立し、本音で語り合い、堂々と自分の弱みを晒して、互いの違いを尊重し合うことができれば……そしてその尊重を、コミュニティの外にいる人たちにも向けることができれば、いいんだけど……。**課題は山積みである。
5.『Detroit: Become Human』(2018)
ハンク・アンダーソン(☆☆☆☆☆)
それは命か、それともモノか。
2038年、デトロイト。人工知能やロボット工学が高度に発展を遂げた、アンドロイド産業の都。人間と同等の外見、知性を兼ね備え、さまざまな労働や作業を人間に代わって担うようになったアンドロイドは、社会にとって不可欠な存在となり、人類はかつてない豊かさを手にいれた。しかし、その一方で、職を奪われた人々による反アンドロイド感情が高まるなど、社会には新たな軋轢と緊張が生まれはじめる。
そんな中、奇妙な個体が発見される。
“変異体”と名付けられたそのアンドロイドたちは、あたかも自らの意志を持つかのように行動しはじめたのだった。
いよいよ最後は映像作品の世界を飛び出して、ゲームの世界へ。本作の特徴を、公式サイトの文章を引用して紹介しよう。
《プレイヤーに開かれたシナリオシステム》
「オープンシナリオ・アドベンチャー」と銘打つ本作は、プレイヤーの行動で大きく変化していくシナリオシステムが最大の特徴。物語の中でプレイヤーの下す決断、発言、行動が、その場の状況を分岐、変化させ、ひいては物語自体の展開や結末にも大きな影響を与えていく。予め決定したシナリオを体験していくのではなく、プレイヤー自身の選択と行動がつむいでゆく、これまでにはない物語体験が味わえる。
つまり、プレイヤーの行動次第でめちゃくちゃ分岐するのだ。同じゲームを遊んでいるのに、他の人と話すと、全然違う物語をプレイしていることに気付く。とりあえず誰かの実況動画を観てきていただければ、どういうシステムかはすんなり理解していただけるだろう。そしてプレイヤー・キャラクター(主人公)のうちの一人である、アンドロイドのコナーが出会い、相棒となるのが、ハンク・アンダーソンという地獄男である。プレイヤーの選択次第で、コナーとハンクの関係性は様々な変化を遂げ、その結末も無数の種類が用意されている。コナーの行動によって、ハンクは地獄男の状態から脱することもあれば、より地獄が深まることもある(物語開始時点で既にだいぶ極まっているのだが)。つまり『デトロイト』は、地獄男との連帯を体験できる相棒シミュレーションなのだ。
コナーとハンクの連帯がどのような過程を辿り、どのような結末を迎えるかはプレイヤー次第なので、ここで僕から語れることは少ない。ルートによっては、コナーの存在がハンクの救いとなり、ハンクの存在がコナーに大きな影響を与え、互いに支え合い尊重し合い愛し合う、理想的な相棒同士となる可能性もある。ぜひ頑張っていただきたい。
年齢差のあるバディは、親子や兄弟といった家族関係を模倣することもある。一つの関係性を別の関係性に準える(個人に別の個人の役割を担わせる)のは、ややトキシックな傾向のあることだが、双方合意の上であれば、一時的な措置として悪くはないのかも。家族とはいつでも帰れる居場所であり、人間はいずれそこから巣立っていくものだ。
(RRR)
(正反対の境遇を背負う二人の青年が"兄弟"となり、連帯して共に支配構造を破壊する物語。めちゃくちゃ面白い)
(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3)
(心に傷を負う者たちが集まり、擬似家族コミュニティを形成して生きるお話。シリーズ最終章では、彼らの巣立ちが描かれた)
あと、デトロイトのついでにゲームの"地獄男と相棒"の話をしておくなら、PS2『エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー』は欠かせない。これは**"相棒が地獄男"なのだ(恋人がサンタクロース的な)。最終的には、戦闘機で馬上槍試合をやることになる。戦うことで相互理解**を果たす物語。
(戦う理由は見つかったか? 相棒)
映画と違うゲームの利点は、その没入感にあるだろう。プレイヤーは物語の一部となり、作中の地獄男と直に触れ合う。そうして彼らを苦しめる構造を理解し、場合によっては、そこからの解放と救済を導く。現実のトキシック・マスキュリニティと対峙するときの参考になるだろう。
そろそろ話すことも無くなってきたのでまとめる。
まとめ(2) 具体的で効果的な解決法
我々の生きる社会を蝕むトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)という構造を理解し、そこから解放され、加害者を減らすことで被害者を減らし、社会をより良くするためにはどうすれば良いのか。古今東西(最近のが多かったですね)の創作物からヒントを得るべく、地獄男と、その**相棒(対等な他者との連帯)**というトピックに着目し、ここまで約五万字に渡って色々なことを考えてきた。
まず言えるのは、とにかくもっとマトモなコミュニケーションをしろ、ということ。自分の感情と向き合い、それを言語化してみよう。怒りでも悲しみでもいい。同様に、嬉しいことや楽しいことも言葉に変えてみてほしい。素直な気持ちを。その訓練として、映画でも漫画でも、自分の好きなものの感想をSNSなどで呟いてみるのがいいかも(旧Twitter現Xは言論空間としてクソなのでやめとこう。ブルスカとかにしとこう)。僕はそこから始めて、ここまで来た。自分の好きなものをきちんと愛する。言葉にすることでより強固になる。やがて自分自身を愛し、他者を愛し、対等な関係性で"連帯"することができれば、いいね。一人で生きてくのもいいけど。
僕は個人主義者なので、できることなら一人で生きていきたいし、社会のクソっぷりに嫌気が差しているんだけど、でもどうやら人間はどこまで行っても(山奥の小屋で一人隠れ住んだとしても)構造からは逃れられないらしい。社会 = 権力 = 暴力から完全に自由になることは、人が人である限りは不可能だと思う。それで「人間も社会もクソ!」と居直るのは簡単。でも諦めたくない。個人の尊厳が蹂躙されていく現状を是認したくない。世界を最高の状態にすることは不可能でも、今よりマシにはできるはず。自分にできることをやりたい(その結果が地獄男ブログだ)。
(事実に打ちのめされるのと 諦めるのは違うことだと)
この"ヒーロー願望"も僕のマスキュリニティなのかもしれないが、あんまりトキシックではないと思うので、いいかなと思っている。「有害」なのがいけないのであって、「男らしさ」自体は悪ではない。暴力的に見える怒りや憎しみも、社会変革の原動力となる。問題は、そこに捉われて自分や他者を傷付けてしまうことだ。そうなったら「有害」です(僕もたまに思い詰め過ぎてしんどくなるし、人に失礼なことを言って傷付けてるかも)。
"有害な男らしさ"から解放されるためのルートを、二つ示しておこう。一つは、**"より良い男らしさ"を身につけることだ。「男らしさ2.0」とでも言うべきか。男たるもの、社会問題に関心を持ち、正しい知識を身につけ、弱者や少数派と連帯し、彼らの人権を擁護し、自分の感情と向き合うことからも逃げず、身近な人たちときちんと対話し、自らの加害性を自覚しつつ、自らの持てる力を正しいことのために使う……。そんな感じ。心の中にザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)**を住まわせてみよう。ロック様が痴漢などするだろうか。弱者や少数派に暴言を吐くだろうか。いやしない。ロック様がしないことを、なぜお前はするのか。
(ワイルド・スピード/スーパーコンボ)
(デヴィッド・リーチの映画はいつも賛否両論だが、『ブレット・トレイン』も最新作『フォールガイ』も、いわゆるマッチョイメージの俳優を多く起用し、彼らと共にトキシック・マスキュリニティを乗り越えようとしている素振りは見せている。表層的だが、やらないよりはだいぶマシだ)(内容はともかく**"やってるから褒める"**ってのも、そろそろやめたいんだけど)
別にロックじゃなくて、他の好きな俳優でも誰でも、キャラクターでもいい。僕もロックと個人的に知り合いなわけじゃないから、彼のパブリック・イメージと言動だけを頼りに適当なこと言ってるだけだし。そもそも誰か**特定個人を過度に理想化(崇拝)し、自らの生き方を預けてしまうのは、あまりオススメできることではない。割と簡単でお手頃だが、それゆえの危うさがあるので。ロックだって、"聖人"と持て囃されるキアヌ・リーブスだって、いま虐殺されているガザの人たちに連帯を示しているわけではない。アンドリュー・ガーフィールドやチャニング・テイタム、オスカー・アイザック**に憧れた方がいいかも。
ハリウッドがガザとイスラエルの停戦を呼びかけ、著名人58名がバイデン米大統領に宛てた書簡が公開 | Branc(ブラン)-Brand New Creativity-
とにかく**"より良い男像"(ロールモデル)を心の中に思い描き、それを実践してみよう。生まれ持った自分の属性を保持し、より高めるわけだから、人間の生理に反していない。精神衛生上、健全だと思うので、多くの人が手を出しやすいだろう。結局は性別二元制(男女二元論)のジェンダー規範に捉われているし、なんならそれを強化してしまう恐れもあるので、これだけだと不十分なのだが。自らの加害性を認識し、その上で自分のことも他人のことも愛するのを忘れてはならない。愛するというのは、弱さや醜さも受け入れるということだ。自己満足のマッチョイズムを他人に押し付けてはならない。あくまで自戒**として、胸に留め置いておきたい。同じ男性に見えても、一人一人の抱える事情は千差万別なのだから。
映画における「男らしさ2.0」は、子育てと共に描かれることも多い。**"子育てマッチョ映画"というジャンルが存在するのだ。例えば『コマンドー』とか。最近だと『ソー:ラブ&サンダー』や『アクアマン/失われた王国』など。どちらもチームヒーローのマッチョ(男らしさ)担当だ。彼らがエプロン付けて料理したり、赤ん坊のオムツを替えたりする様は、マッチョヒーローのステレオタイプ的な表象とのギャップで、キャラクターの新たな魅力を発掘することにも役立っている。「ケア」こそ、マッチョの生きる道なのでは。**
(コマンドー)
(その所作、ファッションスタイル、メイトリクスへの執着、その娘への執念などから、悪役ベネットはゲイなのでは? 筋肉モリモリマッチョマンのメイトリクスと、そんなベネットとの愛憎入り混じる同性愛の文脈で読むことも可能なのでは? なんてことを思ってもいる)
(アクアマン/失われた王国)
(王の証となるトライデントなんて直球の男根メタファーだ。それを**打ち付け合う"決闘"**で勝利した者がオーシャンマスターになれるなんて、もはや隠す気もないだろう)
自己も他者もケアする"より良い男らしさ"を身につける道は、先に言った通り、ジェンダー規範の強化に繋がるため、完全な解決とは言えないのだが……とりあえず「有害」ではなくなる。ゼロにはならないが、だいぶマシにはなる、はずだ。これは言わば、破壊を伴わない**"構造の改善"である。つまりもう一つの道は、構造の破壊、あるいは構造からの脱出を意味している。すなわち、"男らしさから降りる"**ことだ。
男らしさから降りることは、自己や他者をケアする義務から解放されることを意味しない。「男だから」「男らしく」「男として」みたいな理由を抜きにして、単に人として、自分なりの考えに基づいて、生きていくのだ。男らしさから降りたからと言って、あなたが男性でなくなるわけではない。ノンバイナリーやトランスジェンダーなら別だが。僕は**"バイセクシュアルの男性"として生きている。両性愛は性的指向だ。ジェンダーもセックスも男性として生きていくのなら、"男性としての責任"のようなもの(弱きを助け強きを挫く的な)に背を向けて生きていくのは、あまり褒められたものではないような気がする。できれば、余裕のある範囲で、自己も他者もケアしてほしい。それは「男として」ではなく「人として」。**人権を守るのに、あなたのジェンダーもセックスも関係ない。戦える者が戦えばいい。僕も戦うので。
男らしさを降りる生き方に、**ロールモデルは存在しない。存在しないのが自然だ。「男らしさを降りた人らしさ」なんてものを求められたら嫌だし、本末転倒だし。先を照らす明かりのないまま、線路のない道をズンズン進んでいく。ジェンダー規範に捉われない生き方をしたいなら、ジェンダー規範を押し付ける社会、その社会を牛耳るトキシックな男たちと戦うことになる。自分で学び、自分で考え、自分で戦い、誰かと連帯しながら、自分で生き抜いていくのだ。これが自由**である。
僕自身は、どちらかと言うと後者(男らしさから降りる)の生き方で頑張っている。性的指向もあって、自分のことを**"純然たる男性"とはあまり思えないし、男性同士のホモソ的なノリ**にも着いて行けなかった。僕のリアルの友達はみんな日常的に料理をしている。狙ったわけではないのだが。
まとめ(終)
改めてまとめよう。社会を蝕み、多くの人を苦しめるトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)。それを乗り越えていくためには、加害者である男性たちこそが、改善のための努力をしなければならない。まずは、加害の自覚がない男性たちに自覚をさせるため、その行為を糾弾し、可視化する必要があるだろう。次に、可視化された男性はケアを受けるべきだ。プロのカウンセリング(心療内科など)を受診し、"有害な男らしさ"を克服する努力をしよう。本を読んで学ぼう。映画を観るのもいい。そして健全なコミュニケーションを身に付けよう。自分の本音も、他者の意見も尊重しよう。傷付け合うためではなく、わかりあうために対話をしよう。健全な対話と相互理解ができれば、他者との対等な連帯が可能になる。ここまで来れば大したものだ。あとは二択。**"より良い男らしさ"を身につけるか、"男らしさ"から降りるか。前者の方が取っ付きやすいと思うが、僕は後者をオススメする。ジェンダー規範を押し付ける社会、それを牛耳る男性中心の構造に、共に立ち向かおう。**
だいぶ生温いことを書いてしまった。それでもやっぱり、どうしようもなく救い難い人間(現実の地獄男)はいるし、そういう人間には厳しい罰を受けてもらうべきだと思う。繰り返すが、これは女性やマイノリティに「男性にも事情があるので許してあげましょう」なんてことを伝えるための文章ではない。断じてない。男性たちに対し「お前たち(僕たち)が作り上げてしまったクソ社会を是正するコストは、俺たちで払おうぜ」と言っている。わかってる。悪いのは上の世代だ。今を生きる若い世代は、男性の特権なんて感じる暇もないまま、先の見えない社会を懸命に生きている。政治が悪いです、政治が。でも、だからこそ戦わねば、永遠に社会はクソのままだ。
社会をより良く変えるための戦いは、僕たち自身にとっての生きやすい場所を確保するための戦いでもある。とりあえず、一緒に地獄男映画を観よう。
(あとがき)この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ……?
我を過ぐれば憂ひの都あり、我を過ぐれば永遠の苦患あり、我を過ぐれば滅亡の民あり(山川丙三郎訳)……というのは、ダンテの『神曲』地獄篇の一説である。地獄の門が自ら喋り、地獄の惨状を説明している。憂ひの都、永遠の苦患、滅亡の民……。さながら現世のようだ。地獄のような現世に産まれた我々は、一切の希望を捨てねばならないのだろうか?
この「地獄の門」をテーマとして、**オーギュスト・ロダンは巨大なブロンズ像を制作した。未完に終わったが、彼の作った『地獄の門』の上部に、かの有名な『考える人』の像がある。この考える人は、地獄の門の上で熟考するダンテを表したものであるという説や、ロダン本人**を表している説などがあるが、ハッキリしたことはわかっていない。
(考える人)
この男が誰であれ、彼は考え続けている。地獄の門は惨状を説明し、希望を捨てよと説いているにも関わらず。永遠の苦患、滅亡の民を前に、男はずっと考え続けているのだ。それは抵抗ではないか。「希望はない」とする門と対峙しながら、地獄の様子をその目で見ながら、それでも希望を諦めないからこそ、彼は考え続ける。なんとかして地獄を救いたいのではないか。永遠の苦患を取り除き、滅亡の民を救済したいのでは。
僕はこの『考える人』のようにありたい、と思う。何かを想い、考え続けることは、絶望への抵抗だ。考えるだけじゃなくて行動にも移したいが。あるいは、彼は待っているのかもしれない。自分と同じように考え、連帯して行動を起こしてくれる人の存在を。
(追記)映画批評と"有害な男らしさ"
この記事を書いている間に、ネットでは色々あって、特に本邦の映画批評界隈の男性たちによる、**ミソジニーを拗らせた見るに耐えない言説が多く飛び交う、地獄の光景を多く目にした。彼らの信奉する『ダーティハリー』を観て、面白くないという感想を言っただけの女性に対する、彼らの集団攻撃は本当に酷い。**筆舌に尽くし難い。最大級の侮蔑を向けたい。
(ダーティハリー)
こういうのを見ていると、同じ地獄男映画を観ても、全然わかりあえない人も大勢いるんだよな……という、まぁ知ってたけど、改めて突き付けられるとしんどい事実に直面する。『ファイト・クラブ』観てタイラーに憧れてんじゃねぇよ。イーストウッドだって、お前たちのミソジニーに利用されるために映画撮ってんじゃないだろうに。気の毒に思えてくる。
(ファイト・クラブ)
そして、そんな"有害な男らしさ"を拗らせた連中を、ある種擁護するような(そんなつもりはないんだが、意図は関係ない)(繰り返すが、意図は関係ないのだ)記事を書いてしまったことを、恥じる気持ちもある。まだ早かったか。そろそろみんな、自らの加害性を自覚し始めて、どうすればそこから脱却できるかを模索しているフェイズかな? と思っていたが。まだ全然、自覚できてなかったか。映画をたくさん観て、たくさん批評している、アカデミックな人たちでさえも。というか、本邦の映画批評という空間そのものがトキシックな要素を含んでいることに、僕自身がもっと自覚的であるべきだった。後悔。
それでもいつかは、彼らにこの文章が届くといいな、なんて非現実的な理想論を掲げて、この長い記事は幕を下ろすことになりそうだ。どうすれば、この術(有害な男らしさを乗り越える方法)が本当に必要な彼らに、情報が届くのだろう。この理想を現実へと着地させていく思案は、これから少しずつやっていきます。現実的に、具体的に、効果的に……。
ようこそ「地獄」へ!
というのは、大分県別府市の観光名所として有名な「べっぷ地獄めぐり」の公式サイトにアクセスすると、いの一番にデカデカと表示される一文である。
(別府地獄組合) ← かっけぇ。
べっぷ地獄めぐりは、100度近い温泉の源泉を見て回る観光施設。千年以上前から噴気・熱泥・熱湯などが噴出していて、近寄ることもできない忌み嫌われた土地として、人々から「地獄」と呼ばれるようになったとか。今はそれが観光名所として人々を惹きつけているのだから、不思議な話だ。
そもそも「地獄」とは、現世で悪業を重ねた者が、死後その報いによって落ちて、責め苦を受けるという所を指す(コトバンクより)。まるでその責め苦を受けているかのような、つらく苦しく救い難い状況のことを、比喩として「地獄」と表現することもある。別府の「地獄」も、温泉の湧き出る様を見て、まるで灼熱地獄のようだと思った人々が、比喩として「地獄」の語を用い始めたのではないか。
ここからが本題なのだが、僕はその「地獄」を、古今東西の創作物……とりわけ映画に登場する、一部の男性キャラクターたち(ごく稀に女性も)の中に見た。トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)を始めとする社会の規範・構造に捉われ、自らの言動で他者と自分自身を傷付け苦しめてしまう、救い難い人間のことを、僕は**"** 地獄男"(または地獄女)と呼称する。
(あるいは地獄パーソンと言うべきか)(しかし彼らの悲劇はジェンダー規範に捉われているがゆえなので、あえて**男女二元論(性別二元制)**という偏った視点から話を進めさせていただく)
彼らが登場し、その地獄のような生き様(あるいは死に様)を見せつけてくれる映画群のことを、僕は**"地獄男映画"という一つのジャンルとして認識し、愛好しているのだ。そして本記事は、そんな僕がこれまでに出会ってきた多種多様な地獄男たちに関する記憶をめぐり、その愚かで切なく有害で残酷な、痛みと孤独に満ちた軌跡を記録し、共有することを目的としている。いざ、僕と共に、創作の世界で描かれる"地獄男"たちを見て回ろう。**
ようこそ「地獄男映画」の世界へ!
(ナポレオン)
書いたひと → 地獄男が地獄っぷりを発揮する様を見ては、「 うわ〜最悪〜!もっとやれ〜!」と歓喜する気持ちと、「 お前のやってることは最悪だからな!」と怒る気持ちと、「 頼むから生きて救われてくれ……」と懇願する気持ちとで、毎回引き裂かれそうになっている。毎日楽しい。
おことわり
見て回る前に、いくつか説明(弁解)しておかなければならないことがある。まず、僕はこれから他人に迷惑をかけまくる嫌な男たち(非実在)の話を沢山するわけだが、彼らのことを賞賛する気はないし、擁護する気もあんまりない(情状酌量の余地があれば、多少は擁護してしまうかもしれない)。極力、批判的であろうと思っている。というか、地獄男たちの所業に対して批判的であることこそが、優れた地獄男映画の条件とも言える。加害を自覚し、自責の念に苛まれることで、地獄が加速することもあるのだ。
(エターナルズ)
再度述べておくと、地獄男および地獄女の定義は「トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)を始めとする社会の規範・構造に捉われ、自らの言動で他者と自分自身を傷つけ苦しめてしまう、救い難い人間のこと」である。しかし(自分で定義を決めておいて逃げるようだが)、地獄男か否かの、明確で絶対的な線引きが存在するわけではない。「救い難さ」にはグラデーションがあるし、それは当人の置かれている状況にも大きく左右される。
また、**"地獄男"概念の中核をなすトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)という言葉も、本来の定義(男性が感情を抑え込むことで、ときに暴力的な激しい爆発にいたること)を超えて、近年では、より広範に及ぶ"男性性のネガティブな側面"を指して使われるようになってきている。そのことの是非も、論じる必要のあることだが……。とりあえず今は、本記事における"地獄男"認定が、僕の独断と偏見によるもの**であることだけ、ご理解いただけますよう。
Toxic masculinity(有害な男らしさ)とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
そもそも人のことを「地獄」だの「救い難い」だの言って、勝手にジャッジするのは、かなり失礼なことである。よって本記事では、創作物に登場する非実在ヒューマンについてのみ語る。史実をベースとした作品の登場人物に関しても、あくまでもその映画に出てきたキャラクターとして論じることとする(創作物と現実世界を切り離して語るのは、それはそれで不健全かつ危険なことだが、**"地獄男"について論じることを目的とする本記事では、便宜上、創作物と現実世界を"一旦"切り離して考え、あとで再結合を試みる**流れで行こうと思う)。
もしかしたら、皆さんの"推し"のことを地獄男認定することで、不愉快な思いをさせてしまうかもしれない。意図の有無・内容は関係ないのだが、一応弁解しておくと、特定のキャラクターを誹謗中傷・名誉毀損する意図は、僕には無いことを宣言させていただく。彼らのトキシックな振る舞いに対しては批判的な態度を貫くが、しかし大抵の場合、彼らがトキシックであることは、彼らを取り巻く社会や環境 = 構造に原因がある。全てを自己責任にするつもりも、社会のせいにするつもりもない。ただ、人類社会がトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)を乗り越えていくためには、地獄男をこそ、しかと見つめる努力が必要なのだろう、と考えている。目的は糾弾ではなく、理解と共有だ。個人への攻撃ではなく、構造の改革だ。
構造主義(こうぞうしゅぎ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
地獄男映画愛好家などと名乗ってはいるが、僕は人と比べて、そんなに山ほど映画を観ているわけではない。地獄男の登場する有名な作品を見逃していることも、大いにある。あくまで本記事は、僕がこれまで出会った地獄男たちの記憶をめぐる旅路なので、網羅的な内容はあまり期待されない方がいい。力不足で申し訳ない。「これも観ておいた方がいいよ!」という作品があれば、やさしく教えていただけると嬉しい。というか、皆さんの手持ちの地獄男を見せてほしい。
これから様々な作品と、その登場人物について語っていくわけだが、なるべくネタバレは避けるよう心がける。皆さんには、新鮮な地獄を直接味わってほしいので。ただどうしても、解説の都合上、人によってはネタバレだと感じる内容が含まれている可能性は否定できない。以下に目次を置いておくので、各自で自衛されたし(目次に書いてない映画の話も、ネタバレにならない範囲で多少するけど)。
(裏切りのサーカス)
まとめると、これからネタバレを避けつつ、僕の観測した"地獄男映画"たちの話をしていくが、それは決して誰かを傷つけたくてするわけではない(僕の意図と関係なく、傷つく人は現れ得るが)ということ。しかし同時に、彼らのトキシックな所業を擁護するつもりもない。これらの"地獄男映画"を通して、トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)を始めとする、彼ら"地獄男"を生み出してしまう社会構造について考え、現実の社会をより良く変えていくことに繋がればいいなと僕は考えている。同時に、それは男性だけでなく、女性や、全ての人の幸福にも繋がるはずだと信じてやまない。悲劇を生み出す構造……すなわち**ジェンダー規範**を解体、ないしは改善したいのだ。
ジェンダーとは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
(バービー)
目次
- 『裏切りのサーカス』(2011)
- 『ゴッドファーザー』シリーズ(1972〜)
- 『ナポレオン』(2023)
- 『アメリカン・スナイパー』(2014)
- 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(2021)
- 『ヴェノム』シリーズ(2018〜)
- 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)
- 『エターナルズ』(2021)
- 『グレイテスト・ショーマン』(2017)
- 『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)
- 『バウンド』(1996)
- 『お嬢さん』(2016)
- 『トイ・ストーリー4』(2019)
- 『シュガー・ラッシュ』シリーズ(2012〜)
- 『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)
番外編
地獄度システム☆
さて、前置きはこのくらいにして、いよいよ地獄男映画めぐりの旅に出よう。めぐり方だが、まず作品名を挙げ、その作品に登場する地獄男を紹介し、その「地獄度」(有害さ、救い難さなどから判断)を星の数で表すこととする。ぜひお気に入りの地獄男を見つけていってほしい。
【第1章】"地獄男映画"の典型たち
1.『裏切りのサーカス』(2011)
ジョージ・スマイリー(☆☆☆)
東西冷戦の時代、イギリスとソ連の秘密情報機関は激しい情報戦を繰り広げていた。そこに英国諜報部「サーカス」内にソ連の二重スパイがいるという情報が入る。これを受け、かつて陰謀に巻き込まれ組織を去った老スパイに、犯人追及の極秘司令が下される。
地獄の一丁目一番地。僕にとっての地獄の金字塔が本作だ。僕がこんなこと(地獄男映画愛好家)になってしまった原因である。本作には、多数の地獄男が登場する……どころか、恐らく登場するほとんど全ての男性キャラクターが地獄男であると言っても過言ではない。その全てを語り尽くすのは難しいので、今回は主人公のジョージ・スマイリーに的を絞って、彼の地獄っぷりを語りつつ、本作のテーマとメッセージを解説してみたい。
舞台は70年代。二度の世界大戦を経て、かつての帝国としての威信が過去のものとなりつつあるイギリス。諜報機関・サーカスの幹部に、**ソ連と通じている二重スパイ"もぐら"**がいることが発覚し、引退した老スパイ・スマイリーがその調査に駆り出される……。
本作はスパイ映画。組織の歯車として日々働き、**愛する人にすら心を開くことは叶わず、心身ともに消耗していく諜報員の世界……。それは"有害な男らしさ"の温床**として、ナショナリズムや、あるいはその反動としてのニヒリズムなどと強固に結びつき、その地獄っぷりを深めてゆく。
スマイリー自身も例に漏れず、かつての上司・コントロールへの報われない忠誠心や、家を空けがちな妻・アンとの関係、ソ連の大物スパイ・カーラとの因縁など、様々な個人的事情を抱えながら、終わりの見えない冷戦構造の中で疲弊していく。それは、男たちの社会が作った男たちのルールであり、基本的には、女性やマイノリティが犠牲となるシステム(作中でもそのことは意識的に描かれている)だが、実際問題、男たちの構造は男たち自身をも苦しめていく。一体、誰のために何のために、彼らは(僕たちは)戦っているのだろう。**"忠誠心"**はどこへ捧げられるのか。
緻密な作劇で克明に描かれる、地獄男たちの生き様と、彼らを生み出すトキシックな社会構造。基本を押さえつつ、素晴らしい完成度を誇る本作『裏切りのサーカス』は、"地獄男映画"史上最高傑作の一つと言って差し支えないだろう。初めて鑑賞される際は是非、僕が以前書いたブログを参照していただきたい。読解の手助けとなるだろう、たぶん。
『裏切りのサーカス』をこれから観る人へ(ネタバレ配慮アリ) - 裏切りのサーモン
2.『ゴッドファーザー』シリーズ(1972〜)
マイケル・コルレオーネ(☆☆☆☆☆)
信頼が厚く絶大な権力を持つアメリカ・マフィアのボス。ビジネスの陳情を断られた組織が、彼を襲撃し権力闘争の挑戦状を叩きつける。ファミリーで唯一堅気だった末息子は、父の命が狙われたことに心火を燃やす。
映画史上最高傑作の名を恣(ほしいまま)にする本作『ゴッドファーザー』も、紛うことなき地獄男映画である。ニューヨークを拠点とするイタリアン・マフィアのコルレオーネ・ファミリー。一代で組織を築き上げたドン ( ヴィトー)と、その跡を継ぐ息子のマイケルを中心に、暴力的な犯罪の世界で、家族(ファミリー)を守ることの意味を問い続けた、伝説のトリロジー。それが『ゴッドファーザー』シリーズだ。
……と、このように相手から聞かれてもいない状況で、やたらとゴッドファーザーのことを熱弁する男性は多いらしく(たぶん『ダークナイト』も似た枠なんじゃないかな)、昨年公開の映画『バービー』にて、そのような男性の行動が、マンスプレイニングの代表例として描写されていた。
マンスプレイニングとは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
(バービー)
『バービー』もめちゃくちゃ地獄男映画……というか、**フェミニズムの在り方や、トキシック・マスキュリニティを克服する方法など、多角的な視点からジェンダー規範**を批判的に捉え直している素晴らしい作品なので、要チェック。『ゴッドファーザー』と『バービー』、割と言っていることは近いと思うし……。
脱線した。トリロジーを通して描かれ続けているのは、一貫してマイケルのことである。マイケル・コルレオーネという地獄男の話。初めはファミリーの非合法なビジネスから距離を置いていたマイケルだったが、家族に危機が及ぶと、「守るため」と言って戦いに乗り出し、次第に、取り返しのつかない暴力の坩堝(るつぼ)、暗黒の世界、すなわち地獄へと堕ちてゆくことに……。
敵対者を血祭りにあげ、そのことを家族には告げず、嘘をついて距離を置くことで「守る」。実にトキシックな思考回路だ。彼を取り巻く裏社会、マフィアの構造がトキシックなので仕方ない部分もあるが、しかし彼の奪った命は、彼の罪として、彼に最も苦しい罰を与えていくこととなる。なんとも救い難い。ものすごくおいしい、いやいや、かなしい地獄男のお話。これが映画史上最高傑作ということは、世の中の映画好きもみんな地獄男映画愛好家なのではないか。
マイケルを演じた俳優の**アル・パチーノは、のちにギャング映画の『スカーフェイス』や、刑事と強盗団の攻防を描いた作品『ヒート』などでも、マイケル同様、家庭内の人間関係を最悪にしてしまう夫(父親)を見事に演じ切っている(そして毎回、パチーノはブチギレ散らかしている**)。特に**スカーフェイスは、移民(マイノリティ)の苦境、権力を手にすることの恐ろしさ、そして何より「薬物に手を出しちゃダメ!」というドン・コルレオーネの教えをわかりやすく伝えてくれる、素晴らしい地獄男映画なので、一見の価値ありです。相棒すら信じられなくなるの、怖いよねぇ……(ヒートは、なんというか、地獄男たちの"挽歌"というか、自己** 憐憫のようなものを感じてしまった。あまり批判的ではないような気がする)。
(スカーフェイス)
(ヒート)
3.『ナポレオン』(2023)
ナポレオン・ボナパルト(☆☆☆☆☆☆)
1789年。自由、平等を求めた市民によって始まったフランス革命。マリー・アントワネットは斬首刑に処され、国内の混乱が続く中、天才的な軍事戦略で諸外国から国を守り皇帝にまで上り詰めた英雄ナポレオン。最愛の妻ジョゼフィーヌとの奇妙な愛憎関係の中で、フランスの最高権力を手に何十万人の命を奪う幾多の戦争を次々と仕掛けていく。冷酷非道かつ怪物的カリスマ性をもって、ヨーロッパ大陸を勢力下に収めていくが――。フランスを<守る>ための戦いが、いつしか侵略、そして<征服>へと向かっていく。彼を駆り立てたものは、一体何だったのか?
一方、地獄男たちに対してどこまでも批判的で、わずかな救いも与えず、徹底してその加害性を糾弾してくれるのが、巨匠**リドリー・スコット(以下リドスコ)である。21年『最後の決闘裁判』も地獄だった。今作もナポレオン・ボナパルトという、軍人にして皇帝、そして人類史上おそらく最後の、個人での世界征服がワンチャン可能だった男(すなわち全ての地獄男たちの憧れの的**)を、最低最悪の地獄男として見事に描き切っている。正直、今回紹介するラインナップの中で、このナポレオンこそが、たぶん最強の地獄男だろう。僕は劇場で本作を観たとき、あまりの救いのなさに泣いてしまった。地獄男映画愛好家が落涙するほどの地獄である。
(最後の決闘裁判)
(騎士や決闘といった、男の子たちの憧れを粉砕する)
妻・**ジョゼフィーヌへの妄執に取り憑かれ、何百万もの人命を屍へと変えてゆくナポレオン。先ほど加害の自覚が地獄を加速させると書いたが、彼の場合は全く(自らが犯した過ちの)自覚がない。それゆえに救い難い。恐ろしいのは、周囲の人間もナポレオンを褒め称えるし、若い世代もナポレオン流に染まっていく(つまり地獄男の再生産が行われている**)ところ。
今作は、いちおう歴史上の人物であるナポレオン・ボナパルトの生涯を描く作品であるが、歴史研究家から批判されているとおり、史実とは異なる展開も多くある。そもそも英語喋ってるし。これは僕の解釈だが、おそらくリドスコの狙いは、現代における人類史の"英雄"としてのナポレオン像の破壊にあったのではないか。銃口は現代に向けられていた。軍人として皇帝として、何百万もの人命を奪った男が**"英雄"として語られ、そんな男に憧れてしまう少年たち = 未来の地獄男たち。リドスコは彼らに向けて「お前たちの憧れてるナポレオン(歴史上の英雄)なんて、こんなもんだぞ」**と言ってみせるのだ。
映画序盤(序盤なのでネタバレではない、ということにさせていただく)、ナポレオンは馬に乗り、あの有名な肖像画のように前脚をあげ、ヒヒーンと鳴かせてみせる。するとそこに砲弾が飛んできて、馬の前脚が吹き飛び、ナポレオンは無様に落馬する。このシーンが全てを表している。英雄幻想という、地獄男量産構造を破壊したのだ。
本作のナポレオンと、『ゴッドファーザー』シリーズのマイケルは、その結末がかなり似ている。わざと似せているのだろう。地獄男表象の類型を見て取れる。コッポラもリドスコも、地獄男をズーンと突き放してくれるので好きだ。**"自己憐憫"の隙を与えない。地獄男は、目を離すとすぐ"クズな俺"に酔い始める。「終わりゆく男たちの時代……」**的な映画は何十年も前から作られ続けているが、なかなかしぶとい。
4.『アメリカン・スナイパー』(2014)
クリス・カイル(☆☆☆☆)
米海軍のエリート部隊「ネイビー・シールズ」の狙撃手としてイラク戦線に赴き、4度の出征で160人以上の敵を仕留めるという驚異的な活躍をみせた伝説の男。無事に帰国し、愛する妻や息子と暮らすはずの彼の日常を、戦争の狂気の記憶が蝕んでいく。
これまた映画界の巨匠である**クリント・イーストウッドによる、アメリカ海軍特殊部隊(ネイビーシールズ)の狙撃手としてイラク戦争に従軍した実在の軍人クリス・カイルの生涯を描いた作品。実在の軍人を扱いながら、独自の脚色を加えることで、作品を通じて、現代社会に向けた監督のメッセージを発信している点も、『ナポレオン』と共通しているように思う。日本で生まれ育っていると、あまりピンと来ないのだが、どうも軍人という存在はナショリナリスティックな英雄幻想を生み出しやすいらしい。暴力を振るい敵を殺す(味方を守る)ことで褒められる・認められるという構造は、"男らしさ"の信奉者たちにとっては魅力的なのだろう。リドスコの『ナポレオン』同様、イーストウッドも本作で、そのような構造を持つアメリカ社会に対して疑問を投げかける。**
本作は、"有害な男らしさ"だけでなく(あるいはその派生としての)、戦争体験による**PTSDの苦しみを描いている。苦しいのに、それでも兵士は戦場へ赴く。何度も何度も。「戦争は麻薬だ」という台詞が、同じイラク戦争が舞台の映画『ハート・ロッカー』でも語られている。戦争と"有害な男らしさ"は切っても切り離せない。**願わくば、このように"有害な男らしさ"について語る営みが、戦争の苦しみを減らすことに繋がらんことを。
(ハート・ロッカー)
戦争とPTSDとアメリカ社会批判、と言えばベトナム戦争の帰還兵が主人公の『ランボー』シリーズも忘れられない。地獄男とは「救い難い人間のこと」なのだが、やはり可能ならば救われてほしいと思う。本人の加害が消えるわけではないが、そうなるに至った原因は彼を取り巻く構造なのだから。とりわけ戦争という構造は、大抵の場合、不可避である。その大波に呑み込まれ、自分も他人も傷つけるようになってしまった男たちは、確かに地獄男なのだが……。彼ら個人を糾弾すれば済む話ではない、ということを理解していただきたい。やはり構造を変えなければ。
(ランボー)(僕は『最後の戦場』が好き)
リドスコもイーストウッドも、映画において、非常に凄惨な暴力描写をする。苦手な人は目を背けておいた方がいいかもしれないが、しかし彼らは決して悪趣味でやってるわけではなくて、「暴力とはこんなにも恐ろしく、残酷で、取り返しのつかない、暗黒しか残さない、まさに地獄の所業なのだ」ということを観客に伝えるための処置なのだろう。できる限り、目を背けずに向き合いたいものだ。あと、イーストウッドの作品だと、西部劇という英雄幻想に終止符を打たんとした『許されざる者』も好きです。
(許されざる者)
5.『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(2021)
フィル・バーバンク(☆☆☆☆☆)
1920年代半ばのモンタナ州。聡明ながら粗野で威圧的なフィルは、地味で繊細な弟・ジョージと2人で牧場を経営し、平穏な日々を送っていた。しかしジョージが未亡人の女性と結婚したことで、兄弟の関係に歪みが生じていく。
まさしく『許されざる者』によって英雄幻想に終止符が打たれた、西部劇(カウボーイ)の世界を舞台とする本作は、作り手が「トキシック・マスキュリニティを題材とした」と公言しているだけあって、**"有害な男らしさ"について知り、考える上での教科書**的な意義のある作品となっている。と思う。
なんで最後、微妙にボカした表現にしたのかと言うと、僕はこの映画、実はあんまり好きではない。よくできてると思うけど、モヤモヤする。というのも、まぁ、僕が普段からこうしてずっと言っている(トキシック・マスキュリニティに関する)ことが、割とそのまんま描かれていて、それを映画界が「斬新だ!」とか言って褒めている(ように見えた)からだ。いや知ってるし。当たり前だし。悲劇だし。フィルの抱える"秘密"も、僕は開幕二分で気付いたし。
しかし、それはそれとして、地獄男映画初心者の方々にはオススメすべき作品である。よくできてるし、本当に意義深い一本だと思う。『裏切りのサーカス』でも好演を見せた**ベネディクト・カンバーバッチが、こういう役を率先して演じているのも好感が持てる。彼は、撮影現場での男女の賃金格差の是正**にも積極的に取り組んでいて、実に素晴らしい。『裏サー』OB、頑張っててえらいぞ〜。
コラム:アッパー系とダウナー系
地獄男にも種類があって、アッパー系とダウナー系がいるように思う。自らの加害に無自覚で、暴力的で排他的で、陰茎が勃つのがアッパー系。加害を自覚していて、自虐的(セルフネグレクトをしている)で、自己否定と自己嫌悪に取り憑かれ、陰茎が勃たなくなっているのがダウナー系。どちらにせよ救い難いので、地獄男であることには変わりない。今作のフィルは典型的なアッパー系だろう。**ホモソーシャル全開。これぞクラシックな地獄男**だ。やはり入門編に相応しい。
さて、ここまで見てきたのは、スパイ、マフィア(ギャング)、軍人、カウボーイ……という、我々の日常生活からは少し離れた(でも実在している)存在。彼らは大抵の場合、銃を携行し = 常に暴力と隣接していて、創作物においてはヒーローや悪役を担う。どちらにせよ、男の子たちの憧れの的であり、その非日常に対する"憧憬"は、我々の日常を取り巻く構造にも大きな影響を与えている。 男の子はみんなスーパーヒーローになりたいのではないか。僕はなりたい。
あと、今挙げた五作品の全てに共通しているのが、男性中心の社会構造で排除され搾取され傷付けられていく、女性たちを始めとするマイノリティの存在が、キッチリと描かれている点である。マイノリティという語は、単に**"少数派"だけでなく、周縁化された人々という意味も持つ。彼らへの加害という"現実"を抜きにして、地獄男を語ることはできない。**
マイノリティとは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
【第2章】ヒーローという"地獄男"
6.『ヴェノム』シリーズ(2018〜)
エディ・ブロック(☆☆☆☆)
記者のエディは、怪しい人体実験を行う団体を調査する中、地球外生命体と接触してしまう。その生物は彼の体を乗っ取り、人間の捕食を開始。エディは自らの心身を支配されていく危機を感じつつも、次第にその人外の力に魅了されていく。
第1章の論考から自然に導かれる疑問は「ヒーローって地獄男なんじゃね?」というものだろう。その通りである。正確には、ヒーロー(英雄)という構造が地獄男を生み出しやすい、ということ。ヒーローと暴力は切っても切れないし、自己犠牲は尊いが、言い換えればそれは究極のセルフネグレクトであり、彼自身も、彼の愛する人も深く傷つける行為である。誰も犠牲にならないで済むのなら、それがいちばんだ。あと自らの正体を隠し、社会の模範として振る舞わなければならないのも、個人の人格と感情表現を否定するトキシックな構造と言えるかもしれない。
よってここからは、ヒーロー(主にアメコミ)を中心に地獄男のことを語っていく。そのトップバッターを飾るのが、いきなりアンチヒーロー(もしくはダークヒーロー)であるヴェノムなのは、ちょっと収まりが悪いのだが……。映画(SSU版)のエディ・ブロックがあまりにも地獄男なので、仕方ない。
というか、SSU(ソニーズ・スパイダーマン・ユニバース)は毎回あの手この手でトキシック・マスキュリニティの話をしている映画シリーズなのだ。地獄男ユニバースとも言える。詳しいことは、僕の過去のブログを読んでいただきたい。
SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。 - 裏切りのサーモン
ネタバレにも配慮して、ここでは簡単な記述に留める。エディはとにかく**セルフネグレクトの人だ。そして相棒のヴェノムは、そんな彼をケアする存在。自分を愛せないエディの代わりにエディを愛し、エディ単独では為せない社会正義を実現させるためのパワーを与えてくれる。エディの分身、もう一人の自分としてのヴェノム。エディは自分を愛せないから、もう一人の自分であるヴェノムを愛する。そうすることで、自分自身を愛し、セルフネグレクトから逃れようとする。セルフケアによって、トキシック・マスキュリニティの克服を試みる。**それが『ヴェノム』シリーズの物語だ。10月公開の最新作にも期待している。
本シリーズでエディを演じる俳優の**トム・ハーディも、裏サーOBである。後ほど改めて触れるが、彼の代表作『マッドマックス 怒りのデスロード』**(15年)もまた、トキシック・マスキュリニティを克服するためのヒントを与えてくれる傑作だ。カンバーバッチもハーディも、よく考えてフィルモグラフィを形成していっている感じがする。これからも応援したい。
7.『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)
ブルース・ウェイン(☆☆☆☆)
何度も人類の危機を救ってきたスーパーマンだったが、その超人的なパワーは皮肉にも人類最大の脅威へと変貌する。そんな中、闇夜にまぎれ正義を貫いてきたバットマンが、人類の希望を背負ってスーパーマンに戦いを挑む。
さて、今度こそヒーローの総本山。世界を代表するヒーロー・**バットマン(ブルース・ウェイン)**の内なる地獄に迫る。さすがにバットマンのことを一から説明するのはダルいので、公式(ワーナー)のリンクを貼り付けておく。参照されたし。
バットマン|キャラクター|DCコミックス|ワーナー・ブラザース
幾度となく映画化されているバットマンだが、今回は映画『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(以下BvS)の話をする。20年以上にも及ぶ**バットマン活動**(街のクズどもとの戦いや、愛する人との別れなど)を経て、すっかり人間を信頼する気持ちを失ってしまったブルースは、宇宙からやってきたスーパーマンを対話不可能な存在として認識し、始末しなければならないという強迫観念に取り憑かれてゆく。対話ではなく暴力による解決を求める姿勢は、トキシック・マスキュリニティを感じさせる。
冒頭、破壊されるメトロポリスの街の中で、突然"馬"とすれ違うブルース。スーパーマンによって、一撃で**バットモービル(車)を破壊されてしまう**バットマン。全裸でシャワーを浴びるブルース(アルティメット・エディションのみ)。スーパーマンを殺すために槍を作るブルース。馬、車、槍、全裸シャワー……これら全て、トキシック・マスキュリニティを示すモチーフ(演出上の記号)である。 地獄サインと言ってもいい。全てのアイテムに、男性性を象徴する"意味"が内包されている。つまり映画を観ていて、これらのモチーフが登場したら、そこには男性性を想起させる演出上の意図が込められているのだ。先ほど『ナポレオン』の時に触れた地獄男表象の類型を、最も端的に表しているのが、これらの地獄サインである。
冒頭で馬(男性性の象徴)とすれ違うのは、ブルースが今この瞬間、" 男らしさの呪い "をかけられたことを意味している(馬を男性性の象徴として用いるのは、ゴッドファーザーやナポレオン、パワーオブザドッグでも同様)。車も男性性の象徴であり、その破壊は**"男性としての敗北"を暗示。槍は見るからに男根ですね。男性性の象徴です(『最後の決闘裁判』などで描かれる"馬上槍試合"なんか、馬も槍も男性性 = 男根の象徴なので、事実上"チ○コ上チ○コ試合"である)。全裸シャワー**については、後ほど全裸シャワーについて語るコーナーを用意するので、そちらで詳しく語りたいと思う。
とにかくBvS劇中には、これらの地獄サイン(男らしさを暗示するモチーフ)が大量に存在し、全編を通してトキシック・マスキュリニティの話をしている。それを乗り越える手段としての、対話と相互理解、そして連帯を描いてもいる。世界一有名で人気のあるヒーローを使って、有害な男らしさと向き合う話をやるのは、非常に意義深い試みだと言えるだろう。BvSと、その正当続編たる『ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット』は、これからの ヒーロー像を語るに当たって、避けては通れない作品である。
(ZSJL)(または単にスナイダーカット)
8.『エターナルズ』(2021)
イカリス(☆☆☆☆☆)
半分が消滅させられた全宇宙の生命は、アベンジャーズの尽力により復活した。しかしその際に生じた強大なエネルギーは、新たな脅威を生み出していた。地球に迫る大きな危機に立ち向かうべく、7000年に渡って密かに人類を見守り続けてきた10人の守護者・エターナルズが集結する。
SSU、DCEUと来て、今度はMCUの話もしよう。アイアンマン(トニー・スターク)と**キャプテン・アメリカ(スティーブ・ロジャース)の大活躍と卒業によって幕を下ろしたエンドゲーム。それは"白人男性英雄神話"の最後の一ページとして、記念碑的な作品でもあった(『トップガン マーヴェリック』もそんな感じ)。エンドゲーム以降(正確にはスパイダーマンFFH以降)のMCUフェイズ4は、女性ヒーローの『ブラック・ウィドウ』から始まり、多様な人種、アイデンティティを持つヒーローたちの物語が広く展開された。そうなると、当然の流れとして、より明確な形での"白人男性英雄神話"の解体が試みられることとなる。その役割を担ったのが、まさしく本作『エターナルズ』であり、イカリス**なのである。
(アベンジャーズ/エンドゲーム)
(トップガン マーヴェリック)(これも結構、地獄男映画だ)
このブログを書くために、改めて本作をもう一度観たのだが、だいぶ無茶な映画だった。一つの作品に色々詰め込み過ぎ。この作品にしかないものも多くあるので、すごく意義深いし価値のある作品なのは確かだが。その意義深さ、尊い価値こそ、フェイズ4以降のMCUの目指すところなのだと思う(冷静に考えると、エターナルズとデッドプール&ウルヴァリンが同じシリーズなの、頭がおかしくなりそうだ)。
ここからちょっとネタバレします。ゆるして。
さて**イカリスだが、彼はなんというか、赤ちゃんである。ちいかわ。自分が無くて、自分より大きなもの(信仰、権威、旧態)に縋るしかない。力が強いこと、空を飛べること、目からビームを放つこと = スーパーマン的"白人男性英雄神話"以外に、自分には何の価値もないと感じている(監督自身も認めていることだが、本作におけるイカリスの描写は、映画『マン・オブ・スティール』でのスーパーマン**の表現から大きく影響を受けている)。ある意味では、ものすごく人間的だと思う。どちらかと言うと、よくない意味で。
常に(本当に常に)太陽を背にして、画面に登場するイカリス。本作において太陽とは、アリシェム = 彼らエターナルズにとっての**"** 神"の象徴。その神の恩寵を受けているが如く、**イカリスは強い。一人だけやけに強い。飛べるし。それゆえ、他の誰とも(人間とも、仲間たちとも)同じ目線に立てず、対等な関係性を結び、理解し合うことができなかった。支配的な構造の下、背負わされた"正しさ"と本人の感情との間で引き裂かれ、やがてイカリスは暴力的な爆発を迎えてしまう。彼には暴力しかない**(と彼自身が思っている)し、周囲も彼の強さ = 暴力性を頼りにしている。気の毒だが、それでも彼の犯してしまった過ちは決して許されるものではない。
ネタバレおわり。
有害な男らしさが生み出される構造、そして悲劇。それらを克明に描き、**"白人男性英雄神話**"の一つの終わりを描いてみせた本作『エターナルズ』は、非常に優れた地獄男映画である。
9.『グレイテスト・ショーマン』(2017)
P・T・バーナム(☆☆☆)
19世紀半ばの米国で、失敗を繰り返しながらも家族のために奮闘し続ける興行師の男性。やがて、唯一無二の個性を持つ演者を集めたかつてないサーカスを始める。彼らのショーは成功を収めたが、同時に批判家たちは酷評。なおも彼は、次なる挑戦を続けていく。
ヒーローじゃねぇじゃん! はい、すみません。ヒーローなのは、本作の主人公バーナムを演じた俳優の**ヒュー・ジャックマンの代名詞、ウルヴァリン(X-MEN)である。そう言えば、MCU最新作『デッドプール&ウルヴァリン』に登場したウルヴァリンも中々の地獄男だった。最初はダウナー系**(陰茎が勃たない)だが、徐々にアッパー系(陰茎が勃つ)へと変化していくキャラで、ずっと自責の念を抱えて苦しんでいるのが、なんともセクシー。それにしても、まったくどのユニバースも地獄男だらけだ。やはりヒーローという構造そのものがトキシックなのだろう。
グレイテスト・ショーマンをここに置いたのは、単に収まりが良かったからなのだが……しかし、本作の主人公バーナムもまた、立派な(?)地獄男である。他の強豪たち(ナポレオンやイカリス)と比べても見劣りしない。いや、さすがに劣るか、うーん(救い難さを比較する虚無の営み)。
P・T・バーナムは実在の興行師。史実と映画とで様々な違いはあれど、身体障害者を見せ物にして金を稼いでいたことは間違いない。現代の倫理観からすると問題ありだが、しかし当時は今以上に、彼らマイノリティは透明化されていた。そんな彼らの存在を世間に広めたことと、きちんと報酬を支払い、彼らに生きる術を与えたことは、評価すべき事実だと思う。単なるクズ野郎というわけでもないが、断じて聖人でもない。そのことは映画でもキッチリ描かれている。
映画のバーナムは、幼少期から貧困に苦しみ、それゆえ強烈な上昇志向に取り憑かれた人物として描かれている。口が達者で、あることないこと言って人を動かし、金を稼ぎ、自らの栄華を追い求める。そうやって築き上げた欺瞞の繁栄は、当然だが、物語の流れとともに崩壊していく。この映画は、その崩壊のプロセスが実に美しい。中盤の、非常に美しい歌声のパフォーマンスと共に、今まで積み上げてきたものがグチャグチャに潰れていく展開。あの感覚は、他の映画では味わったことがない。あまりに美しい終焉の図であった。それから後半では、本物の"地獄の業火"を目撃することができる。地獄の業火は、地獄男を燃料としてより激しく燃え上がるのだった。さすがミュージカル映画だけあって、この世のものとは思えない**"異常な画"が頻発する**、素晴らしい地獄男映画である。一見の価値あり。最後、あのまま死ぬんかと思った(史実ベースなので死なない)。
【第3章】悪役としての"地獄男"
10.『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)
リチャード・ストリックランド(☆☆☆☆☆)
1962年、アメリカ。口の利けない孤独な女性が、政府の極秘研究所で掃除婦として働いていた。ある日彼女は、研究所の水槽に閉じ込められていた不思議な生き物と出会う。たちまち「彼」に心奪われ、人目を忍んで通うようになる。
地獄男(有害な男らしさ)とヒーロー(英雄幻想、英雄神話)の話をしてきたが、ここからは反対に、作中で悪役として描かれる地獄男たちについて語る。実社会において、有害な男らしさを抱えた男性は、様々な場面で加害的である。とりわけ女性たちにとって彼らは、暴力的な抑圧と搾取 = 支配をもたらす存在であり、とても味方とは言えない。創作の世界において、地獄男は悪役として描かれるのが自然であり、道理なのだ。被害者より加害者が優先されることがあってはならない。地獄男について語ることは、ある意味加害者に寄り添うことだが、まずは被害者をケアし、地獄男の加害を糾弾するのが先だろう。そこをすっ飛ばして、「 地獄男かわいそう」の論調に持っていくことはできない。
加害者にケアが不要、という話ではない。むしろ加害者こそ問題を抱えているので、寄り添い理解する姿勢が必要。今ここで言っているのは優先順位の問題である。被害者より"先に""手厚く"加害者をケアするのは道理に反する、という話。本当は同時に行えたらいいけど。糾弾は必要だが、それだけで改善するとも思わないし。構造の問題なので。
本作の悪役であるストリックランドもまた、典型的な地獄男(アッパー系)であると同時に、構造の犠牲者として描かれている。パワーオブザドッグと同様、地獄男映画の教科書的な側面もあると言ってもいいくらい、非常に丁寧な作劇で地獄男を描いてくれている本作。物語の中核となる半魚人と人間の女性とのラブストーリーは、モンスター映画の文脈を踏襲しつつ展開されていく。しかし本作の**"真のモンスター"**は、人間であるストリックランド、その人なのだ。
冷戦下の**アメリカ。朝鮮戦争にも従軍した軍人のストリックランドは、非常に高圧的な人物である。女性や黒人への偏見を隠すこともなく、むしろ強権的に、暴力的に振る舞うことで、自らの優位性を周囲に誇示し、"男らしく"見せようとしている。反面、家庭では二児の父として、良き夫として振る舞っているが、それも"理想的なアメリカ人"としてのポーズ(虚勢)なのか、家庭内を"心安らぐ場"として捉えているわけではないらしい。セックスでは妻の口を塞ぎ、黙らせ、ただ欲望の捌け口**として扱っているように見える。
"男らしさ"とは、振る舞いであり、ポーズであり、本質的には**"** 虚勢"である。無理をすること(感情を表に出さない)が美徳になってしまっているし、破滅的であること(暴力的、排他的な言動)が**"かっこいい"のだ。そんな"男らしさ"に支配されたトキシックな構造**(たいてい戦争などをキッカケに構築されてしまう)の中で生き残り、一人の人間としての尊厳を勝ち取るためには、自らも**"男らしく"振る舞う**しかない。
ストリックランドもまた、好きでこのように高圧的な素振りを見せているわけではない(全く不本意というわけでもないが。彼自身、その構造を大いに内面化しているし)。全ては上官に認められるため。ホモソーシャル縦社会の中で勝ち残り、這い上がり、より良い席に座るため。それこそが人生の目的であり、幸福だと教え込まれてきたのだろう。
ホモソーシャル | Magazine for LGBTQ+Ally - PRIDE JAPAN
しかし彼は、たった一度の失敗で、何十年も忠誠心を捧げ続けてきた上官に見放されてしまう。_「自分がまともな男であることを、いつまで証明すればいいのです?」という彼の台詞は、誰も幸せにしない構造の支配下に置かれ、自らその構造を強化する一部となり、やがて滅びていく地獄男たちの苦しみ = 無間地獄を、見事に言い表している。それに対する上官の「まともな男は失敗しない」_という返答。なんと救いのないことか。こうしてモンスターは生み出される。
ストリックランドの言動で印象的なのが、聖書の引用だ。彼曰く_「神は私のような姿に近い」_。福音派による人工妊娠中絶の反対といった、男性優位(女性蔑視)的な側面も考慮に入れて、"有害な男らしさ"とキリスト教の関係性も、また改めて深掘りしてみたい。
あと、車(男性性の象徴 = 男根)の破壊もあった。作中では、ストリックランドとその妻の暴力的なセックスと対比されるように、主人公であるイライザ**(女性)の主体的な性行為が描写されている。賛否あるだろうが、男性中心の社会構造で女性がモノ化されることへの"抵抗"**として、価値のある表現だと思う。
『シェイプ・オブ・ウォーター』は、加害性に満ちた地獄男がいかにして作られるのか、そのトキシックな構造と、空虚な本質を精緻に描きつつ……しかし、あくまで本筋のラブストーリーを貫いてみせた、エネルギッシュな一本である。
11.『バウンド』(1996)
シーザー(☆☆☆☆☆)
5年の刑期を終えて出所し、マフィアのもとで働くことになった泥棒の女性。そこで彼女は、隣の部屋に住むマフィアの情婦と知り合う。やがて2人は惹かれ合い、恋に落ちる。そして、組織の金200万ドルを奪い逃亡するという計画を立てる。
本作『バウンド』でも、男性中心の構造でモノ化されることへの"抵抗"としての、女性の主体的な性行為が描かれている。とりわけ本作では、女性同士の恋愛関係が描かれており、二人の愛に、男性の挟まる隙間は存在しない。愛し合う彼女たちは、自由と尊厳を勝ち取るため、暴力的で支配的な男性構造からの"脱出"を目論む。そう、脱出だ。正直、彼女たちはただ黙って自由にしてくれるなら、わざわざ男性たちと正面切って戦うことなどしたくないのだ。しかし、普段から女性たちを蔑んでいる男性たちこそが、女性たちに依存しており、その存在に**固執し、決して離そうとしない。**仕方がないので、彼女たちは戦うことを余儀なくされる……。そんな流れで物語は進んでいく。
同じように、女性同士の連帯と、それを阻む男性構造からの脱出を描いた作品の代表格として、『ナポレオン』の**リドスコ監督が撮った『テルマ&ルイーズ』**(91年)がよく知られている。テルマとルイーズは必ずしも同性愛者というわけではないのだが、テルルイ以降、多くの女性同性愛を描いた作品が、テルルイの文脈を踏襲している。次に紹介する『お嬢さん』もそうだし、僕の大好きな『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』も同様。無論、本作『バウンド』もその流れの中にある。連帯と脱出、自由と尊厳。
(テルマ&ルイーズ)
(女性の連帯と解放を描いた作品の金字塔的存在)
(アドゥレセンス黙示録)
(僕が今年初めて観た映画の中で、たぶん一位)
彼女たちの脱出劇。それを阻む**"悪役"の男性たち。しかし彼らもまた構造の犠牲者であることを、やはり『バウンド』も丁寧に描写してくれている。決して許されない加害性と、それでも滲み出てくる哀れみ**(憐れみではなく)。そのバランス感覚に秀でた映画こそ、一流の地獄男映画と言えるだろう。
本作の悪役・シーザーはマフィアの一員で、お察しの通り暴力的で支配的な男だが、これまたお察しの通り、それはマフィアの世界の暴力的で支配的な構造の下で、生き抜いていくために必要な**"振る舞い"なのである。脱出のため、シーザーが預かっていた組織の金を盗み出すヴァイオレットとコーキー。彼女らは、ボスへの発覚を恐れてシーザーがすぐに逃げ出すだろうと踏んでいたが、予想に反してシーザーは踏みとどまり、なんとかして事態を収集しようと、右往左往のドタバタ劇を繰り広げる。その場凌ぎの嘘で誤魔化し、誤魔化しきれなくなったら暴力に頼り……そんなことを繰り返している間に、どんどん悪化していく状況。"男らしさ"という虚勢のループ(無間地獄)に陥り、他者を巻き込みながら自滅していく男たちのカリカチュア(戯画)である。そのあまりにも必死な様子は、恐るべき執念と強烈な暴力性を感じさせると共に、どこか滑稽であり、また同時にものすごくかわいそうにも見えてくる。何度も言うが、このバランス感覚**が本当に素晴らしいのだ。ちゃんと怖いし、でも滑稽で、しかしかわいそう。実に魅力的な悪役である。
本作を監督した**ウォシャウスキー姉妹は、後に『マトリックス』シリーズで、個人と構造との対決をより深化させて描くことになるのだが、『バウンド』の時点で既にそのテーマとメッセージは語られ始めていた。悲劇を生み出す構造を乗り越え、個人が愛と尊厳 = 幸福を勝ち取る戦い。**その序章が本作『バウンド』である。
(マトリックス)
(本作の敵であるエージェント・スミスは、構造の支配者側にありながら、構造そのものにウンザリし、そこからの脱出を目論んでいるキャラクター。ウォシャウスキーは悪役を描くのが上手い)
シーザーと同じマフィア組織に所属しながら、対照的な行動をとったのがミッキーという男である。彼はヴァイオレットに密かな恋心を抱いており、彼女たちの**"脱出"を陰ながら支援する。それは、愛する女性を自らの手で、自らの手の決して届かないところへと送り出す行為。トキシックな構造の中にあっても、人を愛し、よく考えることで、正しい行いはできる。ここに、地獄男が救われる道の、一つのヒントがあるように思う。言うなればそれは、マックスの道**である。
(マッドマックス 怒りのデスロード)
(これもまた、女性の連帯と男性構造からの脱出、あるいは破壊が描かれた一本。**テルルイの文脈。女性たちの解放を描く作品で、男性である主人公のマックスは、ただ彼女たちを助けて去っていく。何も見返りを求めず、ただ支援するだけの生き方が、地獄男からの解放をもたらすこともあるのかもしれない。これがマックスの道**)
12.『お嬢さん』(2016)
藤原伯爵(☆☆☆☆☆)
書物で溢れる舘に住む令嬢・秀子のもとで、孤児の少女がメイドとして働き始める。彼女は詐欺集団の手先で、秀子が相続する財産を仲間と共に狙っていた。しかし、彼女が美しく孤独な秀子に惹かれていったことで、計画は綻び始める。
『お嬢さん』の言おうとしていることは、ほぼ『バウンド』と同じである。**テルルイの文脈で、女性同士の連帯(同性愛)と男性構造からの脱出を描くと同時に、そのトキシックな構造に捉われて破滅していく男たちの様子を描写することで、女性たちが自由と尊厳を勝ち取って解放されること(フェミニズム)と、トキシック・マスキュリニティ**とを語ってみせている。
本作の地獄男、藤原伯爵について。彼はグレイテストショーマンのバーナム同様、貧困に苦しみ、そこから脱出することに強烈な執念を燃やす(上昇志向に取り憑かれた)人物である。非常に頭の切れる男だが、バーナムと違うのは、彼は徹底して、**"他者から奪うこと"に自らの才能を使っているところ。そう、彼は詐欺師なのだ。貧しい身ながら、わけあって高等教育を受けた彼は、その賢さゆえに、生まれながらに"持っている者"と、そうでない"持たざる者"との格差を誰よりも痛感していた。彼は言う。_「金には興味ありません。僕の理想は何と言うか……値段を見ずにブドウ酒を注文するとか」_。つまり、生まれながらに"持っている者"の価値観・世界観を理解したいのだ。しかしそれは、どんなに手を伸ばしても届かない、高い樹上の果実。何よりも"それ"を強く望んでいる伯爵自身ですら、漠然としたイメージ**でしか"それ"を掴めていない。_「とか」_って言っちゃってるし。
ネタバレになるか微妙なラインだが、藤原伯爵について語るなら避けては通れない要素なので、軽く言及させていただく。彼の精神的な最終防衛ライン、心の命綱、それは男根である。男性中心主義的な社会構造の中で、苦しみながら足掻いてきた男の、ある意味で最もプリミティブな(同時に究極の)心の拠り所、それが男根なのだ。トキシック・マスキュリニティについて考えるとき、やはり男根のことを無視して語ることはできない。
アニメ『ハズビン・ホテルへようこそ』シーズン1の悪役であるアダムも、全人類の父として、己の男根(生殖機能)に強烈なプライドを持ち、自らを「ディック・マスター」と名乗っていた。ただの身体の一部に過ぎない陰茎を、それほど重要視**(神聖視)する思想は、家父長制を始めとする男性優位(女性蔑視)**な構造を作り出す、一つの土壌となっている。
先ほどの**キリスト教の件も含めて、人類社会に深く根差したトキシック・マスキュリニティを、一つ一つ解体、あるいは改善**していく必要があるように思う。気の遠くなるような作業だが。
(ハズビン・ホテルへようこそ)
【第4章】地獄男"解放"のアニメ映画
13.『トイ・ストーリー4』(2019)
ウッディ(☆☆☆☆)
大学生になった男の子に譲られて、女の子のものになったウッディたちのところへ、新たに加わった手作りの人形。しかし、使い捨ての先割れスプーンでできたその人形は自分をゴミだと思い込み、脱走してしまう。後を追ったウッディたちは、昔の仲間や、一度も遊ばれたこともなくアンティーク店に並ぶおもちゃたちと出会う。
では地獄男は苦しんで死ぬしかないのか? そんなことはない、と思いたい。手遅れのケースもあるだろうが、全てがそうではないはずだ。何とかして**"有害な男らしさ"を乗り越えることができれば、地獄から脱却することも不可能ではないはず。社会と自分自身、その両方に存在する構造を知り、その支配から逃れる。そして構造を解体するか、もしくは改善する。長い時間をかけて戦っていくしかない。その戦い方を一緒に考えていこう。映画がヒントを与えてくれる。**
何かと賛否の別れる本作『トイ4』。とりわけ前作の感動的なラストに思い入れのある方、幼少期から**トイストーリーと共に育ってきた自負のある方(僕もそうだ)などにとっては、いろいろと受け入れ難い要素の多い作品だと思う。単純に、映画としてどうなん?**(前作までのキャラとブレてない?)(展開に無理があるんとちゃいます?)という場面も少なからず存在するし、僕も正直そんなに本作を擁護するつもりはない(否定的な感想を持っている人と争うつもりはない)。そもそも3で綺麗に終わっていた話だ。
それでも僕は、トイ4が大好きである。地獄男映画(正確には地獄男"解放"映画)として、本当に面白いから。途中まで裏切りのサーカスみたいな話をしている。**トイストーリーで裏切りのサーカスすんな!** と言われたら返す言葉もない。
トイストーリー1〜3までの展開は、皆さん知っているものとして話を進めさせていただく。その上で、特定の視点から1〜3を振り返り、改めて4の話をさせていただく。長くなりそうなので、小さい文字でお送りする。面倒な方は読み飛ばしてくれて構わない。
ご存じの通り、トイストーリーはオモチャと子供のお話。オモチャは子供に奉仕するために生まれ(4ではまさに"モノ"がオモチャとしての生を受ける瞬間を、ガッツリ描写している)、生き、やがて役目を終え、忘れられ、捨てられ、壊れ、死んでいく存在。このオモチャと子供の関係性は、何のメタファーなのだろう。例えば『ファインディング・ニモ』は、障害を持つ子供とその親の話だし、『モンスターズ・インク』や『インサイド・ヘッド』も、子供とそれを守る存在 = 親の話をしているのだと思う。いろんな解釈があるだろうし、それは作り手も織り込み済み(いろんな解釈ができるように作ってる)だろうから、好きなように解釈をさせていただくと、僕は**トイストーリーシリーズも、子供と親の話をしていると思っている。オモチャは子供のために生まれ、無条件で子供に奉仕し、やがて子供が成長すると必要とされなくなっていく。オモチャは親だ。3の感動的な結末は、まさにウッディの"子離れ"とアンディの"親離れ"**を見事に描写し切ったからこその大団円だろう。
オモチャは親である、という視点で1〜3を解釈するとき、注目すべきなのはアンディの家庭である。アンディ家には父親がいない。この"不在"は、かなり意識的に描かれているように思う。3の終盤でアンディが家を出る時にすら、その存在は描写されない。アンディのママは女手一つで二児(と犬)を育て、息子を大学にまで入れたのだ。
思い返せば1作目。アンディのママは、乳幼児もいる中で、息子の誕生日パーティを開催し、家に招いた数名の男児を一人でまとめ上げながら、同時進行で引っ越し準備までしていた。たぶん隣人が最悪だから、仕方なく引っ越したのではないか(シドの家庭の描写も生々しい。昼間から暗い部屋でテレビに夢中の父、息子に甘い母、無関心な父と甘い母の影響でわがまま放題の息子)(ウッディとシドのオモチャたちは、"ルール"を犯してシドに制裁を与えたわけだが、ここで叱ったことは結果としてシドの更生に繋がったと考えられる)(3では無事に就職してるみたいだし)。あるいは乳幼児がいるということは、つい最近まで夫がいて、最近シングルマザーになったばかりなのかも。それで仕事の都合や生活レベルの問題で、引っ越しを余儀なくされたとか。
2では息子をカウボーイキャンプまで送っていったあと、一人でヤードセールまで開いている。息子がよく遊んでいるお気に入りのオモチャと、そうでないオモチャとの区別がしっかりできているし、ヤードセールに現れた不審者の対応までやっている。
3序盤のホームビデオを見るに、本当にいい子育てをしていたんだろうなぁと、彼女の偉業と苦労に思いを馳せずにいられなくなる。そんなママの息子だからこそ、アンディも昔からずっといい子だった。遊び中にモリーが乱入してきても、上手いこと設定に取り入れて一緒に遊び始めるし、そもそも1でも2でも、アンディは事あるごとにモリーの面倒を見ていた。家庭内唯一の男性として、子供ながらに"父親代わり"を務めようとしていたのではないか。
そしてもう一人、アンディの家で**"父親代わり"を務めていた者がいる。そう、我らがウッディだ。もっともウッディは、"アンディにとっての"父親代わりだが。父親のいない家庭で、古きアメリカの象徴たるカウボーイの人形は、少年の"父親"だった。だからこそウッディはアンディの"特別"だし、同じ役割を担おうとする者として"相棒"**だったのだ。
この父親と息子という概念は、多くの地獄男映画で重要な意味を持つ。ゴッドファーザーでもアメリカンスナイパーでもヴェノムでもBvSでも(BvSは母親の方が重要か)(ナポレオンでも母親が出てくる)。
ここから4の話。ネタバレ注意。
かくして3のラストでウッディは子離れを、アンディはそれを受けての親離れを経験する。特別な二人の別れだ。二人がいかに特別だったかは、4で嫌というほど思い知らされることになる。ボニーが悪い子なのではない。ただ、ボニーの家には父親がいるのだ。ウッディはボニーの特別にはなれない。
特別ではない、必要とされないウッディは、それでもボニーのために尽くそうとする。たとえ自分が寵愛を受けることはないとしても、ボニー(子供)にはオモチャ(親)が必要だとして、自らをゴミと認識しているフォーキーを、なんとかオモチャに変えていく。お前はオモチャなんだ、と何度も言い聞かせる様は、1でのバズへの態度を彷彿とさせる。1の頃からウッディの精神性の根幹は、あまり変わっていない気がする。不安に弱い。数々の冒険を経て、「子供に尽くす」と「仲間を見捨てない」という二つの軸を強化してきた(アンディから「そうあれ」と望まれたことでもある)(ウッディ自身、その価値観を内心で何度も反復して刷り込み、結果どんどん内面化と自己暗示が強まり、呪いと化していたように見える)が、それもまた不安の裏返し、あるいはエゴの肥大化である。
中盤_「もう俺にはこれしかないんだよ!」と叫ぶウッディの、なんと悲痛なことか。子供は他にも大勢いるのに、なぜボニーにだけこだわるのかと訊くボーに対し、ウッディは「忠誠心だよ」_と答える。この映画、裏切りのサーカスだったか? 「子供に尽くす」「仲間を見捨てない」という呪いがどんどん強く、エゴがどんどん大きくなっていった結果、報われない忠誠心に生きる意味を見出した、時代遅れのカウボーイ人形。古い「らしさ」にしがみつき、自分も他人も傷付けてしまうウッディの振る舞いは、明らかにトキシック・マスキュリニティを想起させる作劇だ。強く生きるボーの姿を見て、今の自分の無力さを更に痛感したからか、彼はどんどん自分を大事にしなくなっていく。**セルフネグレクト。地獄男の役満。**
このままだと死ぬぞ……と思っていたのだが、ラストでウッディは、バズの「ボニーは大丈夫」という言葉を受け、ボーと共に広い世界で生きることを選択する。本当の**"子離れ"だ。彼の肥大化したエゴは、特別な子供の特別なオモチャ = 親としてではなく、より多くの「子供に尽くし」、より多くの「仲間を救う」ことに向けられることとなった。根本的な解決ではないような気がするが、少なくともウッディ自身は、選択した新たな生き方の方がずっと心安らかでいられるだろう。子供が出て行ったあとの親が、セカンドライフとして、より多くの子供の面倒を見つつ、その子たちの親や保護者を助けて回ることにした**感じ。
ネタバレおわり。
3の奇跡のようなハッピーエンドではなく、(中年の危機に対する)極めて現実的な"救済"であり、それは「らしさ」の拡大解釈というアイデアで、「らしさ」の呪いからの"解放"を意味している。「らしく」あること自体が悪いのではない。その「らしさ」に呪われて自分や他者を傷付けてしまうのがよくない。有害な「らしさ」を克服しよう。カウボーイや父親といった属性からわかるとおり、本作は紛れもなく、**トキシック・マスキュリニティ = 地獄男からの"解放"**を描いた作品と言える。それはそうとバズは救われてほしい。気の毒だよ(涙)。
そうそう、3のロッツォとその部下たちは、暴力的で支配的で、**権威主義的**(長いものに巻かれる、同調圧力)で、ケンのことを「女の子のオモチャ」と言って揶揄うなど、典型的な**ホモソーシャルとして描かれている。そもそも、カウボーイの主人公が中年の危機に瀕する話をずっとしているシリーズなので、トイストーリーは最初から一貫して"有害な男らしさ"と向き合い続けているとも言える。つまり何が言いたいかというと、4で急に路線変更したわけではなくて、あくまでもこの結末は、1〜3の延長線上にある必然の未来**であるということ。まぁ、5でまたウッディはボニーと仲間たちの元へ戻ってくるみたいなんですが……。
14.『シュガー・ラッシュ』シリーズ(2012〜)
ラルフ(☆☆☆☆)
ゲームの世界で長年悪役を演じるも、みんなに愛されるヒーローになりたいと願っていたラルフ。そんなある日、彼は自分のゲームを飛び出し、お菓子の国のレース・ゲーム「シュガー・ラッシュ」に迷い込む。そこで彼は、ヴァネロペという少女と出会う。やがて2人は、助け合いながら交流を深めていく。
さすがに長くなってきたので、ここからは短めを心掛けることとする。ネタバレも控えめで。
本作の主人公は誰だろう。タイトルが『シュガー・ラッシュ』なのだから、同名作中ゲームのキャラクターであり、物語の主要人物でもあるヴァネロペだと考える人も多いはず。しかし本作の原題は_『Wreck-It Ralph』_(意味は「ぶっ壊せ!ラルフ」的な)であり、これは紛れもなく本作の主人公がラルフであり、この物語はラルフを主軸とするものである、ということを示している。まぁ、間を取ってダブル主人公ということにしておいてもいい。
80年代のアーケードゲームの**"悪役"であるラルフは、マンションを破壊するのが役目。同じゲームの仲間たち(主人公の修理工・フェリックスや、マンションの住人たち)から冷遇されていると感じ、半ば自暴自棄な生活を送っていた(本人にその自覚はなかったようだが)。"ヒーロー"の証であるメダルを手に入れることで、連中を見返してやろうと目論むも……なんやかんやでヴァネロペ**と出会う、というお話。
ラルフは**"壊し屋"なので、基本的に触れるものを大体みんな壊してしまう。僕には、彼は自分自身すら破壊(セルフネグレクト)しているようにも見える。より良い暮らしを求めているのに、誰かに助けを求めることも、自らの周囲の環境を変えることもしない(作中では悪役同士が連帯するコミュニティの存在も描かれているのに)。それはもちろん、彼が悪役というレッテルを貼られ = 差別を受け、その構造を内面化することで、持って生まれた役割に縛られてしまった**からなのだが。
力の加減ができず、感情の制御も苦手で、すぐ破壊的な行動に走ってしまうラルフ。焦ったり不安になったり、パニックになるとバグが発生してしまうヴァネロペ。僕は専門家ではないし、センシティブな話題なので、勝手なことを言うのは憚られるが……二人の主人公の特性は、たぶん何らかの障害を表してもいるのだと思う。これもまた、社会が個人を定義するために利用する(個人を縛ろうとする)、持って生まれた性質の一つと言える。
持って生まれた役割と性質。それらは確かに強固なもので、どうしようもなく私たちの一部であり、外からも内からも私たちを定義しようとしてくるが……しかし、持って生まれたものと、私たち個人の人間性とは、違うんですよ。という話をシュガーラッシュ(1作目)はしている。このメッセージを、**"有害な男らしさ"からの、ある種の"解放"と捉えることも可能だろう(結局は、持って生まれた** 役割を全うし続けることになるわけだが)。しかし2作目『オンライン』のテーマ性は、さらにその先へ、向こう側へと進んでいく。
『シュガー・ラッシュ:オンライン』こと_『Ralph Breaks the Internet』_は、その名の通り広大なインターネットの世界が舞台。世界が広がる分、ラルフもヴァネロペも、より狭い"個人の内面世界"と向き合うこととなる。前作では、ヴァネロペとの連帯によって、ある種の解放を経験したラルフだったが、今作ではそんなヴァネロペとの関係性に対する"依存"が、大きな問題として立ちはだかることに。より広い世界へ飛び立つことを夢見るヴァネロペ(ディズニープリンセスの文脈で語られる)と、そんな彼女が自分を置いてどこか遠くへ行ってしまうことが許せないラルフ。女性の自立と解放の物語において、それを阻む悪役の立ち位置になってしまう。
このラルフ(80年代地獄男)がヴァネロペという少女に依存している様を、ものすごく生々しい人間の病理として描いているのが、本作のすごいところだ。正直言って、だいぶ気持ち悪い。気持ち悪いものとして描かれている。それをラルフ自身に自覚させるのが偉い。また、その**"依存"との向き合い方・乗り越え方も、奇跡や魔法に頼るのでなく、ものすごく地道で面倒な、極めて現実的で地に足のついた形になっているのが、やはり僕好みだ。非常に真摯**な作劇だと思う。
今作『オンライン』と、先ほどの『トイ4』と、それから『アナ雪2』は、いずれも似たような結末を迎える。公開時期も近い。家族の愛や絆、奇跡を描き、多くの人に感動を届けた前作とは違い、現実的なアプローチで社会問題と対峙し、個人の自立と解放を促すような続編群は、いずれも賛否両論。僕は全部大好きなんだけど。『アナ雪』シリーズも、本来悪役になってしまう存在を救う作品であり、**"地獄女"解放映画**とも言える。
(アナ雪2)(地獄女解放映画)
たぶん今後、ディズニー(と傘下のピクサーやらマーベルやら)は方針を転換し、尖ったメッセージ性よりも、多くのファンが求めるものをお出ししてくることと思う。先日観た『インサイド・ヘッド2』も、1の正当な続編って感じで、よく出来てて面白い作品ではあった。僕はちょっと寂しい気がするけど。MCUもフェイズ4の多様性路線を放棄して、旧キャスト復活路線になっていくんだろうな。そしたらきっと、人気は戻るだろうけど。何かが犠牲になっているような気がしてしまう。
15.『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)
水木(☆☆)
廃墟となっているかつての哭倉村に足を踏み入れた鬼太郎と目玉おやじ。目玉おやじは、70年前にこの村で起こった出来事を想い出していた。あの男との出会い、そして二人が立ち向かった運命について・・・
昭和31年一日本の政財界を裏で牛耳る龍賀一族によって支配されていた哭倉村。血液銀行に勤める水木は当主・時貞の死の弔いを建前に野心と密命を背負い、また太郎の父は妻を探すために、それぞれ村へと足を踏み入れた。龍賀一族では、時貞の跡継ぎについて醜い争いが始まっていた。そんな中、村の神社にて一族の一人が惨殺される。それは恐ろしい怪奇の連鎖の始まりだった。
鬼太郎の父たちの出会いと運命、圧倒的絶望の中で二人が見たものはー。
初の邦画である。本作は地獄男"解放"というより、地獄男"回避"映画と呼ぶ方がより適切だと思う。戦争で心と身体に消えない傷を負った男・水木は、戦後の社会においても、人間性を捨ててモーレツに働き、他者を踏み台にしてでも成り上がることに取り憑かれかけていた。そうして**"有害な男らしさ"を内面化することが、社会で成功し、あの戦争の苦しみから逃れる**ための唯一の術だと思い込まされていたから。
実際、その構造を完全に内面化し、余計なことなど考えず、有害な男らしさに身を任せていれば、確かに社会での成功(経済的豊かさ、権力)は、ある程度は手に入ったかもしれない。あくまでも、その構造の支配者に気に入られて、 **おこぼれに与る(あずかる)**形ではあるが。あるいは支配者をも出し抜き、自らが構造の頂点に立つか。
しかし、その構造に身を任せることが、救いにはならないと水木は気付く。その罪深さ(構造的暴力が奪うもの)と、つまらなさ(仮に成功したとして得られるもの)を理解する。あの忌まわしき戦争の繰り返しでしかない。"戦後"と言っても、何も変わっていない。内面化の前に踏みとどまった水木は、罪深き構造の"破壊"を試みる。その破壊は、後に作中で否定される(「未来へと語り継いでいくべき」だとして)(それは確かにその通りだと思う)(語り継がずに忘れてしまえば、結局また繰り返してしまうから)のだが、それでも僕は、水木という男が構造の破壊(それは日本社会に終末的な破局をもたらしかねないものであった)を目論み、半ばヤケッパチとは言え、覚悟の上で実行してみせたことを、すごく尊く思う。人間はクソであり、人間社会はクソ溜めである、ということを認めたのだ。そして地獄の釜の蓋を開いてみせた(これは誤用です)。すごく**リドスコ**的である。
先ほどから述べている通り、僕は物語において、根拠のない希望や、奇跡のような解決を好まない。現実から目を逸らしているような気がするからだ。たとえ辛くとも現実を直視し、理想論だけでは救えないものがあることを認めるべきだと思う。もっとも「人間も世界もクソなのでおしまいでーす」なんて態度は、責任ある大人として全く相応しいものではない。僕が言いたいのは「人間と人間社会のクソっぷりを直視して認めた上で、それでもなんとかするために、理想を唱えつつ、現実的な解決法を探っていこうよ」ということ。だから本作『ゲ謎』も、水木の**"破壊"を否定する。それが正しいと思う。ただ、一度は人間のクソさを認めたという、その過程が重要**なのだ。
地獄男、およびトキシック・マスキュリニティとの向き合い方も同じである。"有害な男らしさ"を生み出す構造はクソであると認めること。地獄男たちの加害は決して許されないと糾弾すること。そのプロセスを丁寧に踏んでいき、そこから改めて、構造の破壊ではなく"改善"を試みる。そして地獄男たちを"解放"する。もう誰も傷つけなくていいと。その「らしさ」はあなたを幸せにしないと。
水木が構造の支配から抜け出す際に、大きな影響を与えたのが、鬼太郎の父との出会いである。その出会いによって、水木の価値観に揺らぎが生じた。また鬼太郎の父にとっても、水木との出会いは大きい。人間の横暴(というにはあまりに残虐で冷酷な所業)に絶望していた彼は、水木の覚悟を知り(あと他にもいろいろあって)考えを変え、日本社会と人間たちに未来を与える決断をする。それは、息子である鬼太郎の生きる未来。
信頼すべき"相棒"(対等な関係性の他者)と出会い、互いの価値観に刺激を与えることが、構造を変え、より良い未来を築くことに繋がる。本当により良い未来になるかどうかは、今を生きる私たち次第だ。まずは人間社会がクソであることを認めませんか? 映画『セブン』なんかオススメですが(これも相棒と出会い価値観が変わる話)。
(セブン)(ゲ謎もセブンも様々な暴力表現に注意)
まとめ(1) 地獄を直視しよう
書いているうちに段々と考えが変わってきた部分もある。当初、目的は糾弾ではないと書いたが、ここに至って「糾弾のプロセスは欠かせない」という趣旨のことまで書いている。まぁ、なんというか、うーん。全てを個人の責任にするつもりはなくて、いちばん大事なのはやはり構造の改革なんだけど、でもまず加害の自覚がない人に自覚をさせるのも大事だよなって思ったり。被害者のケアが先だろ、とも思うし。でも本当は加害者こそ問題を抱えているので、ケアを受けて努力しなきゃいけないのは地獄男の方で……。
地獄男を生み出す構造(トキシック・マスキュリニティ)は、多くの場合、戦争や暴力、貧困や差別といった環境の中で、生き残るために作られていく。そんな悲劇を無くしていくには、社会を変えなければ。しかし社会で権力を握っているのは、その構造の中で成り上がった地獄男たち自身だったりする。自分たちを苦しめる構造を、自分たちで強化していく、終わりなき地獄マラソン。そして地獄は、次の世代へと受け継がれていくことも多い。虐待を受けて育った子供が、大人になって自分も子供に虐待をしてしまうことがあるように。その連鎖を断ち切るべく努力している人たちには敬意を。
神話や宗教、王族に政治、そこから家庭や職場に至るまで。あまりにも広く、そして根深く、有害な男らしさの網は張り巡らされていて、私たちを捕えようとしている。まるで空気や水のように、生きている限り地獄男からは逃れられないのかも。気の遠くなるような時間、それこそ何百年、何千年もかけて、地道に丁寧に真面目に、一つずつ改善していくしかないと思う。陰茎を切れば解決する話ではない。現実を直視して、地に足をつけて、高度な外科手術のように、少しずつ進めていこう。「もうどうしようもねぇや!」と匙を投げたくなる気持ち、その感情を大切にしたい。世界はクソである。だからこそ戦うのだ。
とりあえず、地獄男の自覚がある方は、まず自らの周囲の環境を確認してみよう。そこは「男らしく」しないと生きていけない場所だろうか。ガードを下げて、ファイティング・ポーズを解いても、案外誰からも殴られないかも。むしろ友達が増えるかも。そんなことないのであれば、なんとかその環境から逃れる、あるいは環境を自分の手で(信頼できる誰かと連帯しながら)変えていくとか。難しいかも。とりあえず僕で良ければ話は聞きます。いちばんいいのは専門家のカウンセリングを受けることだけど、地獄男って病院嫌いでしょ。知ってる。僕もそうだし。僕の中にもトキシック・マスキュリニティは確かに根付いている。
最後のまとめ(2)で、改めてもう一度、もっと具体的に考えてみます。有害な男らしさから脱却する方法について。とりあえず、いま紹介した地獄男映画たちでも観ておいてください。
このまま番外編へ……と思ったのですが、なんか**はてなブログくんが三万字を超えてバグり始めて怖いので、記事を二つに分けます。**僕は、自分の「怖い」という感情を押し殺したりせず、素直に表出し、対策を考えます。どや。
後編 → "地獄男映画"愛好家の地獄めぐり備忘録【後編】 - 裏切りのサーモン
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当然ながら『デッドプール&ウルヴァリン』(以下D&W)のネタバレまみれです。
あと、色んなアメコミ映画を褒めたり貶したりしているので、読んでて嫌な気持ちになるかもしれません。
目的
いきなり疑問文のタイトルなのは、どうやら僕は、他の皆さんとは違う受け取り方をしてしまったらしいからだ。D&Wのことである。これは僕だけみんなと違うんだぞ、すごいだろう、というような逆張りや自己顕示の類ではない。困っている。僕だけ違う映画を観たみたいだ。
世間では、今作D&Wは「20世紀FOX(及びFOX制作のアメコミ映画群)の追悼映画」である、という解釈が主流であるらしい。というか、あのエンドロールを観る限り、作り手もそのつもりで撮ったのであろうことは、確かに僕も、いちおう理解はできる(ぎこちない理解)。しかし僕は、あくまでも今作を「墓荒らし映画」として受け取った。必ずしもネガティブな意味ではない。いい墓荒らしもある。NWHとか、まさにそうじゃない?
僕はD&Wを観て、正直つまんないなと思ってしまい、さて世間の反応は如何かしら……とパブサしていたら、どうも皆さんは割と喜んでいるっぽい……。この**"ズレ"**はどこから生じたのだろう。何が原因なのだろう。それを探究するのが本記事の趣旨である。レッツ・ファッキン・ゴー。
経緯
まずはじめに断っておきたいことがある。現在、SNS上では「アメコミ映画に詳しくない人はD&Wを楽しめないかも」的な言説が飛び交っているが(この言説の是非は置いておくとして)、D&Wをあんまり楽しめなかった僕は、アメコミ映画を一応それなりに観ている。『デッドプール』シリーズはもちろん、FOXの『X-MEN』シリーズ。『ブレイド』も3作目(トリニティ)まで観たし、ベンアフ版『デアデビル』もディレクターズカット版を観ているし、当然『エレクトラ』も視聴済みだ。今回D&Wを観て「面白かった」と言っている人間の内の、果たして何割が『エレクトラ』を観ている?? 敵のモブ忍者よりジェニファー・ガーナーの方が日本語上手いのおかしいよね!!
作中のネタも、コミックネタはあんまり把握できてないけど、映画ネタは8割9割拾えた気がしている。そして今作のTVAやら虚無空間やらが、「ディズニー(マーベルスタジオ)によるFOXの買収」と掛かっているメタネタであることも、当然理解している。本作の監督である**ショーン・レヴィの前作『フリー・ガイ』も、まさにそういう話だった。クリエイターの作品を買収し、金儲けのために利用して勝手に続編を作り、必要なくなればファンの声など無視して処分しようとする大企業社長アントワン(ワイティティ演)の言動は、完全にディズニーのそれを皮肉ったものだろう(今作のパラドックスがやろうとしてたのも、そういうニュアンスのことだと思う)。そんなアントワンの刺客であるデュードに、マーベルやスターウォーズ(ディズニーに買収されたものたち)の武器で立ち向かうのがアツい。FOXの断末魔**だ(どちらかと言うと、こちらの方がFOXの葬式には相応しいのでは? なんて思ったりもする)。
わかってないわけではない、と思う。理解度が足りていないわけではないはず。たぶん。そして僕にとっては今作D&Wこそ、今年いちばん楽しみにしていた映画なのだ。MCUもDCEUもSSUも好きだが、FOXのX-MENシリーズこそ、僕のいちばん好きなアメコミ映画シリーズだと言ってもいい。差別に反対することの大切さは、X-MENの映画から教わったと言える。プロフェッサーもマグニートーも、もちろんウルヴァリンも大好きだ。そしてそこから派生した**デッドプールの映画シリーズも、僕は本当に愛している。映画好きになったキッカケと言ってもいい。特に『デッドプール2』は、デッドプールというキャラクターのメタ性や不死性といった要素を、作劇に上手く取り入れることに成功している、非常に完成度の高い一本だと思っていて……普通に、全映画の中でだいぶ上位に来るくらい好きだ。オールタイムベストのトップ10を作れば、ちょいちょいその日の気分によってランクインを果たしてくることさえある(他にランクインを果たすのはワンダーウーマン1984とかVフォーヴェンデッタ**とか……)。
つまり僕は、アメコミ映画をそれなりには観ているし、その上でX-MENやデッドプールが大好きで(X-MENに関しては邦訳コミックを買って読んだりもしている)、ショーン・レヴィのやりそうなこともだいたいわかる(今作のためにナイトミュージアムのシリーズを見返してる)。だいぶ覚悟を決めて観に行ったのだ。そして敗北した。そのことだけはわかっていてほしい。
「墓荒らし映画」
聞こえの悪いワードだが、僕にとって今作は紛れもなく「墓荒らし」である。先にも述べたが、それは必ずしも悪しきことではない。一度死んだ、終わったと思われていたものを復活させることで、新たな物語を紡ぐ……なんてことはよく行われているし、それが成功している例もいくつかあるだろう。**トップガンマーヴェリックはみんな大好きだろうし、僕はマトリックスレザレクションズを心から愛している。みんなは好きじゃないみたいだけど。それからNWH**だって、立派な墓荒らしだ。みんな墓荒らしを喜んでいたはず。
僕は、今作も**"それ"じゃない? という話をしている。だがどうやら、世間の反応を見ていると"それ"ではないらしい。ので、なぜ僕が今作を「墓荒らし映画」**だと思ったかの説明をしなければならない。
まずそもそも、今作は文字通りの「墓荒らし」場面から始まる。観客が最も気になっている**"LOGANでウルヴァリン死んだよね問題"を最初に片付けてくれる親切設計だ。この時はまだ、僕は割とウキウキだった。僕が感動して泣いた、あの、斜めに倒してXの形にしている十字架を、デップーちゃんがポイッと投げ捨てるところなんか、気持ちのいい尊厳破壊だった。そして見事に死んでいることが発覚した(というか再確認された)ローガンの死体 = 旧FOXの聖遺物を自由自在にぶん投げて、オモチャにして、それでTVAの職員たち = フェイズ4以降のMCUの象徴を無惨に殺害していく。「旧FOXの残りカスを搾れるだけ搾り取って、今のMCUを改革するために使い倒してやるぜ!」という、高らかなる墓荒らしの宣言**だろう。僕はそう解釈した。そして結構気に入った。
そしてなんやかんやあって、大量のヒーローたち(を演じた俳優たち)が**カメオ出演を果たす。墓荒らしのオンパレードだ。ついでに存在していなかったものまで顔を出す。この点から、今作が単なる墓荒らし = 過去作キャストの復活、だけではない、20世紀FOXというブランドそのもの**(とそれを愛したファンたち)に何らかのメッセージを捧げている、と解釈することは確かに理解できる。「追悼」なのかどうかはピンと来ない。ブレイドやエレクトラたちは、結局今作では最後まで(20世紀FOXのロゴと共に)虚無空間にいて、それはすなわち忘れ去られている = 死んでいる、ということで、厳密には「墓荒らし」ではないのかもしれない。「墓の中を覗いてみた」くらいのもんか。
しかし終盤、TVA職員(ハンターB-15)が、彼らのことを「善処する」と言ってくれていた。僕はこれはつまり、彼らのこともいずれ墓から引っ張り出すよ、運が良ければまたみんなの前に現れるかもよ、というマーベルスタジオ側からの墓荒らし宣言だと受け取った。ヒュー・ジャックマンのことも90歳までこき使うつもりだ(パトリック・スチュワートはこの調子だと本当にそうなりそう)。
そして最後、ウルヴァリンは「もう会うこともないだろう」的なことを言って、デップーの前から立ち去ろうとするが、しかし呼び止められ、結局ローラと一緒に(どこから生えてきた?)ホームパーティーに参加している。これはつまり、これから先もデップーと一緒にこのユニバースで生き続けるよ、またみんなの前に現れるかもね、という墓荒らしエンドだろう。そうじゃない? そう以外に考え難いんだけど。
墓荒らしに始まり、墓荒らしに終わる映画だった。この映画がやったのは、マルチバース設定を上手いこと利用して、死んだウルヴァリンを復活させ、FOXのX-MENユニバースを(もうFOXではないが)存命させたこと。なんやかんや言い訳をしながら、結局ヒュー・ジャックマンのウルヴァリンを復活させたのだ。そしてこの映画は同時に、未だ墓の中に眠るヒーローたちのことを「善処する」と言ってくれた。これが「墓荒らし映画」でなくてなんだというのか。「これからもMCUは過去作のキャラを復活させまくるぜ〜!」というファイギの宣言こそが、この映画の伝えたいことだったのではないか。そのために映画一本使ってんじゃねぇと思うし、デッドプールそのもののドラマを犠牲にしてんじゃねぇとも思う。
だが、僕のこの解釈はどうもズレているというか、世間では「追悼映画」ということになっているようなので……。このズレがなんなのか、考えていくことにする。
「追悼映画」なのか?
「追悼」とは、死者の生前をしのんで、悲しみにひたること。goo辞書がそう言っているので、これは宇宙の普遍の真理だろう。今作は20世紀FOXというブランド、そしてそれに属する作品群・キャラクター群 = 死者(この定義もまたそれはそれでちょっとツッコミたいところなのだが、一旦置いておく)の生前をしのんで、悲しみにひたる映画だったのだろうか。僕はピンと来ていないのだが、そう言われればそうだったのかもな〜と思わないこともない、そんな場面を抜粋していこうと思う。
まず冒頭、FOXのお馴染みのファンファーレではなく、例のイントロを、デップーが嬉しそうにハモりながら始まる。それはFOXの死と、今作からデップーはMCUであるという事実を強く印象付けてくる。最初の墓荒らしも、ローガンが確実に死んでいることを否が応にも理解(わか)らせてくるし、虚無空間 = 忘れ去られた者たちの世界 = 死者の世界に、デッカい20世紀FOXのロゴが横たわっているのも、やはりFOXのX-MENはもう終わったのだ、ということを何度も繰り返し言い聞かせているかのようだ。世界に対して。
だとしたらやっぱり、その死者の世界から脱出して、ウルヴァリンが現世に留まった……というのは、やはり復活(レザレクションズ)の文脈だし、それって今後も出しますよ〜ということにならない? と思うのだが。
あとはそう、あのエンドロールはものすごく追悼感があった。確かにあれは、死者の生前をしのんでいた。ものすごく最終回感のある映像だったと思う。あれを観るだけでも価値のある映画体験だったような気がしないでもない。しかし、多くの人がこれをシリーズのフィナーレだと思って観ていたようだが、僕はシーズン2の第一話みたいなもんだと思って(これからもガンガン作るぜ!だと解釈して)今作を観たので、あんまり感動できなかった。残念だ。作り手とも気が合わない。
……あとなんかありました? 追悼感。ちょっと、これ以上はパッと思いつかない。そもそもFOXのヒーローたちは死んだのか? という前提の部分で、まず乗り切れていないところがある。みんなはこの前提をあっさり、自明のものとして受け入れていたのだろうか。僕は違う。たぶんそこがズレの根幹だ。
映画の死
人が死ぬのは、人に忘れられた時である……とどこかの誰かが言ったらしい。リメンバー・ミーでもそう言われていたので、たぶんそうなのだろう。では映画はいつ死ぬのか。やはり誰からも必要とされなくなり、完全に忘れ去られてしまった時、映画は死ぬのだろうか。今作D&Wでは、映画配給会社と、そこがかつて所有していた知的財産の一部の、死んでいる様が描かれていた。その点は皆さんとも分かり合えると思う。虚無空間は死の世界だ。だから皆さんは「追悼」と言っているのだろう。しかし20世紀FOXは、彼らヒーローたちは、誰からも必要とされなくなり、完全に忘れ去られてしまった存在だろうか?
これにはハッキリと、ノーを示したい。エレクトラは微妙だが、ウェズリー・スナイプスのブレイドは未だに人気だろう。会社が買収されたり、続編が制作されなくなったりしたら、死んだことになるのか? 例えば『コマンドー』は、同じ20世紀FOXの映画だが、死んでなんかいないはずだ。未だに面白いし、みんなから(一部からか?)愛されてもいる。別の会社だが、たとえば『ゴッドファーザー』なんかは、もう続編が作られることもないだろうけど、不朽の名作だ。生きている映画だ。『ブレイド』だってそうだろう。**マスターピース**というやつだ。
僕は常々「この世に綺麗に終わった映画シリーズなど存在しない」と公言して憚らない。それは、どんな映画シリーズも会社の都合で勝手に続編を作られる可能性が(ほんの僅かでも)存在しているからだ。実際、トップガンもマトリックスも帰ってきた。コマンドーも帰ってこない保障はない。それに、仮に続編が作られないとしても、人々の記憶に永遠にとどめられる名作も存在する。映画が終わる = 死ぬことなどない、というのが僕のスタンスだ。
死んでいないものを「お前は死んでるんだ!」と言い聞かせられ、その後なんやかんやで「これからまたよろしくな!」とハグされた。僕がD&Wで味わった感覚は、概ねこんなものである。
シリーズの区切り
更に言うと、今作で扱われたFOXのアメコミ映画シリーズたちは(世に出ることなく終わったものたちは例外として)、基本的にどれも(終わってはいないが)綺麗に一区切り付いていた方だと思ってはいる。シーズン1終了、みたいな。そしてD&Wからがシーズン2ですよ、みたいな。
ブレイドは三部作きっちりやったし、エレクトラもなぜか単独映画やったし、X-MENはダーフェもしくはニューミュータンツが現状最後になってしまっているわけだが……正直、ダーフェで一区切り付いたことを、そんなに嫌だと思っていない自分もいる。フューチャー&パストやLOGANといった、気持ちのいい最終話(シーズン1の)を何度も観たし……。
そう、**X-MENの映画シリーズって、いつも終わる終わる詐欺をしているようなものなのだ(3作目でファイナル言うてるし)。だから今作も、終わると見せかけて始まる映画なんだと理解した。**
んで、ダーフェというあんまり面白くはないもので一旦幕を下ろしたこと自体を、僕はあんまり怒っていない(ダーフェの出来自体には怒っている)。それは「どうせまた何らかの形で復活するでしょ」と思っていたからだし、めちゃくちゃ面白いものを作っておいて、それが会社の都合で一旦打ち切りでーすとなるよりは、つまらないもので一旦区切りを付けておいた方が、納得感があるからだ。
サム・ライミ版のスパイダーマン4や、**アメイジングスパイダーマン3を待ち望んでいる人たちは、まさに"納得できていないから"今も待ち望み続けているわけだろう。会社の都合によるリブートで打ち切られたから。X-MENはそんなことない。ダーフェがつまんないから一旦終わった。事実はどうあれ、僕はそれで納得できる。**
僕にとってFOXのX-MENは、終わってない(終わるわけがない)けど、一旦区切りの付いたものであった。その状態で、D&Wを観たのだ。「(FOXのX-MENから派生した存在である)デッドプールが続く限り、FOXのX-MENも永遠に続く!」が、ここ数年の僕の真言(マントラ)だった。
つまんなかった理由
今作D&Wの作り手たちと、多くの観客たちが共有しているらしい、そもそもの前提であるところの「FOXとそのヒーローたちは既に死んでいる」という点に、僕は全く乗れていなかった。
だって最近のMCU、しょっちゅうX-MEN出てくるやん! クイックシルバー(クイックシルバーじゃなかったけど)もプロフェッサーXもビーストも出たやん! そして今まさにデッドプールとウルヴァリンの映画が作られて公開されとるやん! FOX死んでないやん!
だから「追悼」なんて発想もない。一度休止していたものが、再び動き出した、くらいの感覚だ。その感覚を最も直感的に表すと「墓荒らし」になる。死んではいないが、墓荒らしだ。
そういう、作り手や他の多くの観客たちと、僕との間のズレは、各所に見受けられる。それらのズレが、僕の映画体験をあまり楽しくないものにしてしまった。たぶん僕が間違っている。
まずそもそも、単体の映画としての作りがあまりにも雑じゃないですか? というか、**"物語"が存在してなくないですか? まさか「何も考えずに楽しめ」**なんて言わないでしょうね……。映画以前の"何か"だと思うんですよ。料理というか、まず皿に乗っていない。評価のしようがない。
確かに本作は、「追悼」にせよ「墓荒らし」にせよ、**MCUにおける重大なイベントであったことは間違いない(前者と後者で意味合いは大きく変わりそうだが)。しかしそのために、これまで積み上げてきたデッドプールの素晴らしいストーリーを蔑ろにしていませんか?** クアントマニアと同じ問題が発生していませんか? 『デッドプール2』のストーリーが完璧過ぎて、もうこれ以上語ることがないため、今作ではイベントに全振りしました……というのなら、まだわかる。でも、全振りでもないじゃない。なんか、ドラマらしきことをやろうとしてるじゃない。別にいいですよ、**マルチバースのお話と、キャラクター個人のドラマを両立させることも不可能ではないでしょう。難しいだろうけど。そしてそれが今回、成功していたかというと、まるで成功していない。**ううーん。
そんな、皿のないところに具材をどんどこ乗せられていっても、なんとも言えない。驚くべきカメオ出演も、胸踊るはずのアクションも、メタ的なテーマ性も……全然響いてこなかった。鑑賞中、ライアンの小ボケにはニヤニヤ笑ったが、それ以外はずっと真顔だった。「あれ……? これ面白くないぞ……? もうそろそろ面白くなるかな……?」と思っているうちに終わってしまっていた。
この映画を「見せたい場面をツギハギしてるだけ」と評している方もいるが、僕はその、作り手の**"見せたい場面"とやらも全然心に響かなかった。そこに至る展開がまるで"無い"**からである。行き当たりばったり過ぎる。作中で、デップーやウルヴァリンが行き当たりばったりなのは別にいい。作り手たちはもっとちゃんと、上手いことやってくれよ! の気持ち。上手く言えないが。
今作を、『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』(通称オバQ)と似たようなものだと評する方もいる。それならば、正直わかる。オバQは劇場で3回観たし、好きな映画だし。僕が今作に求めていたものとは違うし、やっぱり根本的に出来が悪いと思うから、褒めはしないし**"失望"しているんだけど、理解はできる。**ただ、ジオウはそもそも平成ライダーの記念作品だったが、デップーはそんなことなかったじゃん、とは思う。
そう、僕の今作の感想を一言で表すなら**"失望"なのかもしれない。期待していたものとは違った。デッドプール3ではなかったし、オバQとしても弱かったように思う。あのウルヴァリンが世界を"失望"させたように、僕はこの映画に"失望"した。ただ、この映画が「墓荒らし」ならば(僕の解釈が合っていれば)、今後も過去の作品たちがまたぞろ棺桶を突き破って這い出てくると思うので、それらの作品群には希望的観測**をしておきたいと思う。希望こそ、プロフェッサーの教えだから。
まとめ
結局、追悼なのか墓荒らしなのかは、僕にはわからない。どなたかやさしく説明してほしいと思う。あの終わり方は、これからも出ますよ〜続きやりますよ〜でしかないと思ったんだがなぁ。しかしエンドロールは、やたらと卒業式感を演出してくる。いい映像だけに、余計に。どうしよう、確かめるためにももう一度観てこようかなぁ。もう一度観て面白くなかったら、だいぶしんどいなぁ……。皆さんはフリー・ガイでも観ておいてください。ディズニーに喧嘩を売るとは、こういうことです。レッツ・ファッキン・ゴー。
追記。大丈夫、僕たちには**X-MEN '97**がある。
結論(仮)
と、ここまで書いてから一日経過し、友人と交流したり僕なりに深く考えたりして、一時的な結論が出たので、書き足しておこうと思う。
今作D&Wは、FOXのレガシーをディズニーへと継承する物語であった。「FOX今までありがとう! さようなら! これからは俺たちディズニーが君たちのレガシーを大切にしながら(善処しながら)、新たな物語を紡いでいくぜ!」……という話。この「今までありがとう! さようなら!」の部分を追悼と呼ぶことは、確かに可能だろう。しかし、それだけの映画ではなかった。
やっぱり「これからも続けていくぜ〜(悪い言い方をすると、利用させてもらうぜ〜搾り取らせてもらうぜ〜)」というメッセージも込められているように思う。今作でFOXのX-MENを完全に終了させて、今後新たにMCUのX-MENを始めていくよ〜ということではなく。X-MEN '97を観ていても思うことだが、**MCUは今更、X-MENの物語をイチから独自に始める気はないらしい。**スパイダーマンのオリジンすらカットしたスタジオだ。冗長なことは避けて、その場の瞬間最大風速を優先するだろう。今から新たなマグニートーを作り出すより、ファスベンダーを呼んできた方が絶対に盛り上がる。
改めてまとめると、今作は「追悼」と「墓荒らし」を同時にやっている。ディズニーによるFOXの買収を「継承」として美化している。その是非は、まぁこれからも考えていくとして……。
単に「これでFOXのX-MENはおしまい!」という話ではなかったことは、強調しておきたい。終わってねぇし。終わらせるつもりもねぇよ! ということをD&W自身、言っていたはずだ。実際、今後どうなるかはわからない。「善処」してもダメで、結局は新しいX-MENが生えてくるかも。あるいは企画がコケにコケまくって、MCU自体が終わるなんてこともあり得ない話ではない。「善処」するって、なんだかまるで、**MCU様の慈悲でお前ら落ちこぼれFOXを生かしてやってもいい的な物言いだが、逆だからな? FOXの遺産に泣きついてなんとか急場を凌ごうとしてるんだろ、お前らは?** という怒り。まぁ、またファスベンダーのマグニートーや、エヴァン・ピーターズのクイックシルバーを(今度こそ本当に)出してくれたら、泣いて喜ぶけどさ……。そんな奇跡が起きたらいいな、という希望的観測を残して、この文章を締めようと思う。希望こそ、我々の真の力だ。
まとめ(続)
と、さらにここまで書いてから一日経過した2024年7月28日、アイアンマン(トニー・スターク)を演じた俳優のロバート・ダウニー・Jrが、ドクター・ドゥーム役でのMCU復帰を発表した。
やはりD&Wは盛大な**"墓荒らし宣言映画"だったのだろう。この流れは止まらない。みんな帰ってくるぞ。そして同時に、クアントマニアの虚無空間送りが確定したわけだ……(さすがに何かしらの言い訳を用意するとは思うが)。今後は、いつ、誰が帰ってきてもおかしくない。D&Wがその嚆矢だったのだ。なにが追悼映画や……。**
※これから紹介する全ての作品に、性的マイノリティの人物が登場します。登場すること自体が大きなネタバレとなるような作品群ではない……と僕は思うのですが、そうは思わない人たちもいると思うので、気になる方はここで引き返すことをオススメします。一応、取り扱っている全ての作品は、既に公開から1年以上経過しています。
※それとは別に、普通に映画の内容のネタバレがほんのちょっぴり含まれている可能性もあります(何をネタバレと判断するかは人によるので)。なるべく混入しないよう最大限配慮していますが。とにかくネタバレを踏みたくないという方は、やっぱりここで引き返すべきです。
はじめに
毎年6月はプライド月間。世界中で**性的マイノリティ(LGBTQ+)**の権利を啓発する活動・イベントが実施されている。せっかくなので、僕も何か自主的にできることはないだろうかと考え、とりあえず性的マイノリティを取り扱った映画(ここでは一旦"**プライド映画"**と呼称してみる。雑な括りであることは認める)を観てみることにした。
『ブロークバック・マウンテン』(2005年)
1963年、ワイオミングの農牧場に季節労働者として雇われ、運命的な出逢いを果たした2人の青年。彼らは山でキャンプをしながら羊の放牧の管理を任される。対照的な2人は次第に親密になっていく。そしていつしか2人の思いは、彼ら自身気づかぬうちに、友情を超えたものへと変わっていく。
『ダラス・バイヤーズクラブ』(2013年)
1985年、HIVで余命30日と宣告されたロデオカウボーイが、奔走の末メキシコで特効薬を発見する。彼は米国では未認可だったその薬を密輸。トランスジェンダーの仲間と協力し、薬を頒布するクラブを設立する。
『狼たちの午後』(1975年)
無計画に銀行を襲った結果、篭城せざるを得なくなった二人の強盗。警官隊に包囲される中、やがて強盗と人質の間に奇妙な連帯感が芽生え始める。'72年に起きた実話を元に製作。それぞれのキャラクターと演ずる役者が良く、ある種良質の舞台劇をも思わせるルメットの演出がアメリカ社会の構図を浮き彫りにしていく様は見事。
『シングルマン』(2009年)
1962年、ロサンゼルス。8ヵ月前に最愛の人を失った男は、なおも悲嘆に暮れていた。彼は自死を決意し、準備を整える。しかし、人生最後と決めたその1日は、なぜか鮮やかな色を帯び始める。そして、迷い始めた彼に、慈愛の手が差し伸べられる。
『女王陛下のお気に入り』(2018年)
18世紀初頭のイングランドで、病弱なアン女王を操って宮廷での実権を握る女官長サラ。そんなある日、彼女の従妹アビゲイルが召し使いとして宮廷で働き始める。やがてアビゲイルはサラの知らない間に女王と親密な仲になり、次第に野心を膨らませていく。
『aftersun/アフターサン』(2022年)
母と離婚し離れ離れになった父と、トルコのリゾート地で2人だけの夏休みを過ごす少女。彼女は、悩みを抱えながらも陽気に振る舞う若い父親と、かけがえのないひと時を過ごす。
以上6本。本記事では、これら全体を通して思ったことをつらつらと書いていき、ついでに、僕の好きなプライド映画を何本か紹介してみる。最後までお付き合いいただけると嬉しい。
この記事を書いた者……旧Twitter現Xにて、映画と陰茎の話をしているバイセクシュアルの魚類。最愛の映画『裏切りのサーカス』がどのサブスクでも配信しておらず、また日本の劇場での上映権も終了したため、人に勧めることが叶わず、悲嘆に暮れている。
当事者の感覚
いちばん「よくできた映画だな〜」と思ったのはアフターサン。でもいちばん好きなのはシングルマン。性的マイノリティ当事者のリアルな感覚が描かれているかどうかが、僕にとってはすごく重要な判断基準だ。もっとも"当事者"と言っても千差万別なので、あくまで"僕という当事者(一人のバイセクシュアル)がどう受け取ったか"が全てなのだが。
**"LGBTQ+"**とまとめられてはいるが、例えば、レズビアンとゲイの抱える苦しみは違う(異性愛規範に馴染めない等、重なる部分も少なからずあるはずだし、そう信じるからこそ、僕は連帯を諦めないのだが)。ゲイとバイも違う。だから、ゲイを描いた作品を観て、バイである僕がああだこうだ言うのも、筋違いかもしれないが。うーん。
僕が言いたいのは、画面に登場するマイノリティが、単なる記号ではなく、きちんと生きてる一人の人間として描かれているかどうか、ということだ。当事者のリアルな感覚が描かれているように感じ取ることができたら、僕にとってその登場人物は"生きている"。シングルマンは、生きた人間の心が繊細に、かつ鮮やかに描かれていて、素晴らしかった。
アフターサンは、その本人の苦しみに触れられないことの悲劇性を描いていたので、それはそれですごく当事者に対して真摯な姿勢だとは思う。本当によく考え抜かれた、上手い映画だった。100点。
性的マイノリティと社会
そして、いちばん当事者から遠いような気がしたのは、実はいちばん社会派っぽいダラスだった。性的マイノリティではないけどエイズを発症した男が、自分自身とマイノリティたちを救うため、製薬会社の利権に立ち向かうお話。それ自体はすごく立派なことなんだけど……。劇中に登場する、ジャレッド・レト演じるトランスジェンダー女性が、単に**"悲劇を起こすためだけのアイテム"として消費されているような感覚**があった。レトの演技は素晴らしいが、どうせなら当事者をキャスティングしてもよかったんじゃない? などと思ったりも。
シングルマンも社会派だが、いちばん社会派なのは**狼たちの午後**だった。社会派というか、社会そのもの、時代そのもの。うだるような暑さ、滝のような汗、むせ返るような70年代アメリカの熱気を全身で体感する125分。そこに映る人々は全員が生きていた。性別適合手術(当時は性転換と言った)を希望するトランスジェンダー女性も、彼女を嗤う警官も。
なんだかな。ダラスはなんとなく、シスヘテロ白人マッチョ男性の"俺"が、悪しき権力者の豚どもと戦い、哀れなマイノリティ連中を救ってやるぜ〜どうだいマッチョだろ〜感が、ちょっと拭い切れなかったかな……(肉体的マッチョではなく、精神的マッチョ)。その"俺"の世界観では、一人のマイノリティの死も、冒険を盛り上げるための悲劇要素として消費されてしまっているような、そんな気がした。偏った受け取り方である可能性は大いにあるが。マッチョの反省が足りない、と思ってしまった。
差別を生み出す構造への反省
同じ反省で行くと、**女王陛下のお気に入りも、女性同士の権力闘争は確かにすごく面白いんだけど、その歪んだ構造(人間を非人間化・モノ化してしまう仕組み)の悲劇性を描きながら、「その構造を生み出しているのは男性たちだよね?」という点への批判や反省**が、あまり見えなかった。「女の敵は女」論を増長させてしまいませんか? 面白いし、よくできてる映画なんだけどね。ちょっとね。
それに、女王陛下のお気に入りをプライド映画として受け取ってよいのかどうかも、個人的には悩ましいポイントだ。愛と権力欲との区別がつかなくなってしまうこともまた、構造の悲劇性として描かれているから。
性的マイノリティと近現代史
ブロークバックの二人が運命的な出会いを果たしたのが63年。**シングルマンの舞台が62年。ほぼ同じ時代設定なのが面白い。60年代、性的マイノリティであることが文字通りの死活問題**だった時代(今も場所によってはそうだが)。
70年代、**狼たちの午後に登場するトランスジェンダー女性のモデルになった人物(映画の収益の一部を受け取り、手術費用に当てたらしい)は、その後エイズで亡くなる。そしてダラスへと繋がる。アフターサンでは、フレディ・マーキュリーがボーカリストを務めるクイーンとデヴィッド・ボウイの楽曲『Under Pressure』**が印象的な場面で使われている。全ては繋がっている。
続・当事者の感覚(性行為の表象)
当事者性について深掘りする。ブロークバックは、今回挙げた作品群の中で、同性間のキスやセックスを最もハッキリと描写している映画だった。僕は嬉しい。その光景をあまり見たことのない人たちにとっては、ある意味でショッキングな表現となるわけだが、これは**異性愛規範に対する有効なカウンターとして機能するように思う。異性間のキスやセックスは、映画において日常茶飯事だし、なんなら半ばノルマのように扱われてさえいる(いた)。異性間で許されて、同性間で許されない謂れはない。『ボラプ』**もがっつりキスしてくれるので好きだ(邦画だと『エゴイスト』ががっつりやってくれてましたね)。
ただ、近年ではそもそも映画におけるキスやセックスの描写が(同性異性問わず)減少傾向にあるので(それはそれで良いことだと思う。異性愛規範の弱体化に成功した)、同性愛セックス表現のカウンターとしての意義も失われつつある、のかもしれない。むしろ、性的マイノリティは性的に奔放である、という偏ったイメージを与えてしまうことになりかねない。それは良くない。変化していくことも必要だろう。
ただ、僕は**ウォシャウスキー姉妹**(『マトリックス』シリーズの監督)の映画に育てられたので、好きなもん同士でセックスして何が悪いねん! の気持ちは常にある。愛し合う者同士が、互いを認め合い、究極の受容を果たすのがセックスの美しさだ。
セックスと言っても、なにも陰茎を膣に挿入し、射精して子供を作ることだけがセックスではない。もしそれがセックスの定義なら、ゲイやレズビアンはセックスができないことになってしまう。福音派じゃないんだから。もっと多様なセックスの在り方があっていいはずだ。もちろん、互いの同意の上で。
「教科書的」なブロークバック
ブロークバックで描かれる男性同士の恋愛関係は、アニメ『ヘルヴァボス』(※1)のブリッツとストラスの関係性にすごく似ていると思う。愛し合いながら、時代や社会によって引き裂かれ、それぞれ異性と結婚したり子供をもうけたりしながら、肉体的な逢瀬を重ねるも、そのことで家族との間に溝ができたり、あるいは当人同士も社会的地位や生活レベルの差など、様々な問題に阻まれ、互いに傷付きすれ違ってしまう……といった具合だ。すごく、ブリッツとストラスだと思う。作り手も影響を受けたのかも。
ブロークバックは、男性同性愛表現の教科書的な作品と言ってもいい。素晴らしいのは、同性愛者(マイノリティ)の苦しみだけでなく、男性(マジョリティ)の加害性も同時に描かれているところ。彼らの関係性は彼ら自身を、そして周囲の人々を傷付けていく。社会と時代が悪いんだけど、その価値観を本人が内面化しているし、自分の感情を上手く表現することができなくて、相手に伝わらなかったり、暴力的な発露をしてしまったり……。典型的な**トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)**が、見事に表現されている。
「教科書的」というのは、必ずしもネガティブなイメージだけではない。実際、ブロークバックは起伏の少ない映画で、今の僕が観ると、少し地味でベタで保守的かなぁ、なんて思ったりもするのだが。しかしそこには、実情に根差したリアリティのある男性表現が存在しているし、それが可能なのは、作り手が「男らしさ」という構造を体系的に捉えることに成功しているから。地味にレベルが高い。それが良い「教科書」の条件だろう。
「記念碑的」なテルマ&ルイーズ
ブロークバックで描かれる男性たちの加害性は、僕がその直前に観た『テルマ&ルイーズ』(1991年)の女性たちの境遇と、凄まじいまでに対照的であった。彼女たちは何も悪くないのに、男性たちから理不尽な攻撃を受け続ける。テルマとルイーズの関係性を同性愛として解釈することも、不可能ではないかもしれないが……。あのラストのキスは、さっき言った「異性愛規範へのカウンター」以上でも以下でもない、と僕は解釈した。だから同じ6月に観たが、本作をプライド映画として扱ってはいない。分類するなら**フェミニズム映画だろう(映画を分類することそのものの是非は、また違うところで語れたらいいな)。しかし、後に紹介する僕の大好きなプライド映画たちには、本作の影響を色濃く受けていると思われるものも多い。本作『テルマ&ルイーズ』は、女性同士の関係性を描く作品として、記念碑的な価値を持っている**のだろう。ぜひ一度は観ておいてほしい。
まとめ
さて、主に**"当事者性"という点で語ってきたが、やはりその点では『狼たちの午後』と『シングルマン』が飛び抜けて優れていた。生きた人間の苦しみが描かれた、生きた映画だった。そういう映画にこそ、僕は心を動かされる。『アフターサン』も同様。その苦しみには触れられないが、それでも近づいていこうとする、その姿勢が真摯で誠実**だ。過去を見つめ直すことで、救われる過去と今がある。これら三作品と出会えただけでも、プライド月間映画祭りをやった甲斐があるというもの。いいキッカケだった。
おすすめプライド映画紹介
ここからは、僕の大好きなプライド映画たちを紹介していこうと思う。もうプライド月間も終わろうとしているタイミングだが、しかし性的マイノリティはプライド月間のみ存在している概念ではない。季語でも風物詩でもない。7月も8月もなんとか生き続ける、ひとりひとりの人間なのだ。僕は「プライド月間だから」と言ってプライド映画を観たが、しかし、プライド映画はいつ観ても良い。むしろ観続けてほしい。そんなラインナップがこちら。
『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999年)
ある日、鳳学園高等部に男装の女生徒・天上ウテナが転入してきた。ウテナはそこで2年前に別れた桐生冬芽と再会する。ウテナは桐生と謎の指輪"薔薇の刻印"により空中庭園の薔薇園に導かれ、理事長の妹である長髪褐色の"薔薇の花嫁"姫宮アンシーと出会う。
『バウンド』(1996年)
5年の刑期を終えて出所し、マフィアのもとで働くことになった泥棒の女性。そこで彼女は、隣の部屋に住むマフィアの情婦と知り合う。やがて2人は惹かれ合い、恋に落ちる。そして、組織の金200万ドルを奪い逃亡するという計画を立てる。
『お嬢さん』(2016年)
書物で溢れる舘に住む令嬢・秀子のもとで、孤児の少女がメイドとして働き始める。彼女は詐欺集団の手先で、秀子が相続する財産を仲間と共に狙っていた。しかし、彼女が美しく孤独な秀子に惹かれていったことで、計画は綻び始める。
『ニモーナ』(2023年)
濡れ衣を着せられた騎士は、自由自在に変身できる元気いっぱいのニモーナと手を組んで真犯人さがしに乗り出す。しかし、このニモーナこそ、自分が退治すると誓ったモンスターかもしれなかった。
ぜんぶ大名作です。ぜんぶ観てほしい。
まず『アドゥレセンス黙示録』は、テレビアニメ『少女革命ウテナ』の劇場版。ぜひアニメ本編を観てから本作を観ていただきたい。文脈があるので。先ほど語った**テルマ&ルイーズのエンディングを踏襲した、最高に熱く美しい結末を見届けて、震えて泣いてほしい。「世界を革命する力を!」**
次の『バウンド』は、僕の育ての親であるウォシャウスキー姉妹の監督デビュー作。つまり我が魂の一作。今作の結末も、ある意味で**テルルイを踏襲していて良い。究極の受容としてのセックス表現もグッド。暴力的な男性社会から脱出しようぜ!** というお話なんだけど、同時にその社会から脱出できずに死んでいく男性の苦しみも描かれているのが素晴らしい。ウォシャウスキーは悪役を描くのが本当に上手い。
『お嬢さん』も同じく、男性社会から脱出するレズビアンたちの物語でありながら、同時に男性の苦しみも描いていて(つまり社会構造そのものへの批判が行われていて)、僕はすごく好き。伯爵のチ○ポが……!(観てください)
レズビアン映画ばっかりじゃないか(だって良い映画ばっかりなんだもの)。
『ニモーナ』は、具体的にどのマイノリティか、とかではない。ニモーナはニモーナなので。ただ、現代のマイノリティが経験する苦痛や、差別の在り方などをリアルに表現し、今を生きるマイノリティに寄り添おうとしている、ものすごーく真摯な作品なのは確かである。誰もがハッピーエンドを迎えられるわけではない、触れられないものもある、という誠実さ。それはアフターサンと共通する要素かも。大好きだ。
おわりに
さて、改めて。プライド月間は一つのキッカケである。性的マイノリティはずっといるし、その物語は作られ続け、変化し続ける。僕は、その変遷を追い続けたい。これからも、気が向いた時に。今度は『ムーンライト』でも観ようかな。なんか見るからに悲劇っぽくて敬遠しているのだが、うーん。
皆さんはとりあえず、どっかでレンタルして『裏切りのサーカス』を観てきてください。話はそれから。
(※1)アニメ『ヘルヴァボス』および『ハズビンホテル』のクリエイターであるVivziePopことVivienne Medranoのパワハラやトランス差別が問題視されています。それらの証言に対し、本人は今のところ無言を貫いている様子。早く何らかの声明を出してほしいし、ハズビンを配信しているAmazonはどう思っているのだろう。
VivziePop Controversy Explained | The Mary Sue
※本記事は、ディズニープラスにて配信中のアニメ『X-MEN '97』をまだご覧になっていない方へ向けて書かれた推薦文です。できる限り、ネタバレを含まないよう心がけています。
来たれ、X-MENの世界へ!
あなたは**X-MEN**をご存じだろうか?
wikiには、マーベル・コミックが発行するアメリカン・コミックスに登場する架空のミュータント・スーパーヒーロー・チーム、と記載されています。しかし彼らの戦いは、必ずしも**"架空"**のものとは言い切れません。
X-MENが誕生したのは、**公民権運動に揺れる60年代アメリカ。生まれながらに特殊な能力を持つ彼ら"ミュータント**"に対し、差別と憎悪の眼差しを向ける人類社会。それでも、人類との平和的共存を諦めないX-MENと、その指導者であるプロフェッサーX。そんな彼らの前に、**マグニートーが立ちはだかります。彼は、幼少期にナチスの強制収容所で家族を皆殺しにされ、成人後はミュータントとして人類から迫害**を受けてきました。その経験から、より優れた種であるミュータントが人類という劣等種を支配すべきだ、との考えに至り、X-MENと敵対します。
このように現実的な差別や戦争の構造と向き合い、戦い続けてきたのがX-MENの歴史であり、その最先端に位置するのが本作『X-MEN '97』なのです。
本記事は、X-MENをよく知らないという方や、実写映画版は知ってるけど昔のアニメは知らない(僕もそうです)という方へ向けた、「マーベル史上最高のプロジェクトの一つ」(Forbes)とも称される大傑作アニメ『X-MEN '97』を楽しむための推薦文です。僕は正直、マーベル史上最高傑作だと思っています。感想ブログはこちら→**『X-MEN '97』感想:普遍的で現代的で、政治的だから面白い! - 裏切りのサーモン**
終わりなきX-MENの戦いの歴史。その最前線へ、共に漕ぎ出していきましょう。
『X-MEN '97』とは?
X-MENと言えば、2000年から始まった実写映画シリーズ(ヒュー・ジャックマンがウルヴァリンやってるやつ)を思い浮かべる方が多いでしょう。
(黒いレザーでお馴染み)
あるいは、かつてテレ東にて放映されていたアニメ版(音響監督の岩波さんが海外アニメに声優たちのアドリブを乗っけて遊んでるやつ)や、**アーケードゲーム**を連想する方もおられるでしょうか。
(Shock! 嘘で固めたァ〜ナイフ切り付けェ〜)
(これはCOTA。後にストファイとコラボしたりした)
90〜00年代にかけて、X-MENブームは確かにあった、らしいです(僕はその頃、生まれていないか物心がついていないので、伝聞になります)。当時の記憶が明瞭な方々には、ここから先の解説など不要だと思いますので、サッサとディズニープラスに加入して97を観てきてほしいのですが(D社に金を落としたくない、という気持ちは大いに理解できます。僕も推しを人質に取られて苦しんでいる内の一人です)、どうせ皆さんは多忙な日々の雑務に追われて、X-MENのことなど忘れてしまっていることでしょう。仕方がないので、今から思い出させて差し上げます。
アメリカ本国では、92年から97年にかけてアニメ『X-MEN』(全76話)が放映されていて、テレ東版はその1〜43話までを(アドリブ満載で)放送していました。そして何を隠そう、このアニメ版『X-MEN』の約25年ぶりの正当続編が、本作『X-MEN '97』なのです。
(復活したX-MEN。90年代の絵柄でぬるぬる動くぞ!)
よって、旧アニメ版(全76話)を完走すれば、完璧な状態で97を楽しむことができるのですが、やはり多忙な皆さんは、そんなことできないしやらないでしょう。僕も観てません。正直、実写シリーズの内容を大体覚えていれば、それだけでも予習は充分なのですが。とにかく、解説していきます。この記事さえ読めば、あなたのX-MEN知識がゼロに等しい状態でも、問題なく97を楽しめるようになるはずです。その点は安心していただきたい。
あらすじ・登場人物解説
97年。プロフェッサーXが去り、新たな試練に直面するX-MEN。倒したはずのセンチネルの復活。マグニートーの来訪。そして形を変え襲い来る、差別と憎悪。メンバーひとりひとりの抱える苦しみ。それらが渦を巻き、チームに亀裂を生じさせ、やがて過去に類を見ない、壮絶な戦いの火蓋が切られることに……。
(番号を振ってみました)
①サイクロップス/スコット・サマーズ
「来たれ、我がX-MEN」
プロフェッサーの跡を継ぎ、X-MENのリーダーとなった。目からビーム(オプティック・ブラスト)を放つ。ジーンと結婚している。強く賢く優秀だが、やや傲慢で頑固な一面も。複数の実写映画に登場するも、あまり活躍には恵まれず。だいたいフェニックス関連でつらい目に遭っている。
②ジーン・グレイ
「人生を選べないなら何のために戦ってきたの?」
サイコキネシス(念力)とテレパシー(読心)能力を持つ。かつて、宇宙作戦時の事故で強力なパワーに目覚め、フェニックスの名で活動していたことも。現在はスコットと結婚し、子供を妊娠中。複数の実写映画に登場し、二回フェニックスになっている。
③ウルヴァリン/ローガン
「バラバラにして国連に送りつけてやる」
肉体再生能力(ヒーリング・ファクター)と、両手から飛び出すアダマンチウム(めちゃくちゃ硬い金属)の爪が特徴。いろいろつらい経験をしている人。ジーンのことを愛しているが、彼女の幸せを思って身を引いている。実写映画シリーズでは、ほとんど全ての作品で主役級の扱い。スピンオフの単独主役作も複数。今度の『デッドプール&ウルヴァリン』でも活躍の予定。
④ストーム/オロロ・マンロー
「我はストーム。自然の支配者なり」
天候を自在に操り、空を飛ぶことが可能。チームの精神的支柱。複数の実写映画に登場。
⑤ローグ
「落ち着かないと心臓発作で死ぬよ」
触れた相手の記憶や能力などを奪う。サイクロップス同様、能力の制御ができないため、普段は手袋を身につけている。ガンビットといい感じだが、以前はマグニートーと親しかった様子。複数の実写映画に登場し、記念すべき一作目『X-MEN』では物語の中心的な役割を担う。『フューチャー&パスト』にはローグ・エディションなる特別版も存在。
「君と踊れるならどんな男も喜んで手を握るさ」
触れた物質に破壊エネルギーを蓄えることが可能。キザな性格で、トランプのカードに破壊エネルギーを付与して、投げつけて攻撃することが多い。盗賊出身。ローグと相思相愛だが、彼女とマグニートーとの関係性にヤキモキしている。実写映画『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』に登場。
⑦ビースト/ハンク・マッコイ
「"ルイ、これは美しき友情の始まりだ"」
超人的な身体能力と頭脳を持つ。チームのメカやテクノロジーは、そのほとんどが彼の発明。チームの良心。名言や文学を引用して喋ることが多い。複数の実写映画に登場。最近は、とあるMCU作品のミッド・クレジットに、サプライズでカメオ出演した。
⑧ビショップ
「このバカが未来を奪おうとしたのか」
未来からやってきたミュータント。エネルギーを吸収して反射することが可能。時間を行き来するテクノロジーを有している。実写映画では『フューチャー&パスト』に登場。
⑨ジュビリー
「ただの学校じゃない。家族なの」
爆発する火花を発生させることができる。チームの最年少メンバー。任務で知り合った同年代の少年・ロベルトと親しくなる。
⑩モーフ
「サマーズの頭を切り落とすかと思ったよ」
変幻自在の変身能力を持つ。ノンバイナリー。
その他、重要なキャラクターを数名紹介。
○プロフェッサーX/チャールズ・エグゼビア
地上最強のテレパス。ミュータントの教育施設「恵まれし子らの学園」を創設し、X-MENを指揮した。現在は一線を退いている。だいたいのことは彼のおかげだし、同時にだいたいのことは彼のせいである。マーベル名物**"困ったおじさん"**の代表格。複数の実写映画に登場。MCUにも出た。
○**マグニートー/エリック・マグナス・レーンシャー**
磁力を操作し、金属を自在に動かす能力を持つ、通称「磁界王」。「ミュータントの解放」というプロフェッサーの理想に共感し、親友となるが、方向性の違いから反目。X-MENの宿敵として何度も衝突する。プロフェッサーが去ったあとの学園に、突如その姿を現す。複数の実写映画に登場。
○**ナイトクローラー/カート・ワグナー**
瞬間移動能力を持つ、青い肌のミュータント。敬虔なキリスト教徒で、悩めるX-MENの良き相談相手でもある。複数の実写映画に登場。
○ケーブル
ビショップと同じく、未来からやってきたミュータント。銃器の扱いに長ける。実写映画では『デッドプール2』に登場。
○センチネル
ミュータントを脅威と考える人類の科学者ボリバー・トラスクが開発した、ミュータントの殺害を目的とするロボット。様々なバリエーションが存在する。複数の実写映画に登場したが、特に『フューチャー&パスト』にて詳細が描かれた。
ミュータントの科学者で、遺伝子研究に傾倒している。人間やミュータントのクローンを作り出すことが可能。究極のミュータントを作り出すことに執念を燃やし、X-MENと敵対している。
こんなもんでしょうか。他にも多数のミュータントやヒーロー、ヴィランが登場しますし、小ネタ的なものまで拾い始めると収拾がつかないので、この程度で。確実に言えるのは、とりあえず上記のメンバーを把握しておけば問題なく楽しめるということと、**古今東西のマーベル関連知識を持っていれば、さらにめちゃくちゃ楽しめるということ。視聴中に誰が誰だかわからなくなったら、ぜひ当記事を読み返していただきたい。**あるいは、キャラクターのことをもっと深く知りたいと思ったり、当記事に記載されていないキャラクターに興味を持った場合には、ご自身で調べてみるのがよいでしょう。気になったキャラクターについて調べることが、アメコミ沼への第一歩です。
楽しみ方のヒント
続いて、本作を楽しむ上でのコツやヒントを紹介していきます。これは、僕が**"観てて楽しかった部分"でもありますので、なんなら先ほど掲載した感想ブログ**を読んでもらうのが手っ取り早いのですが(アニメ視聴前に読んでもあんまり支障ないよう書いてますので)、ここではより簡潔に、いくつかのポイントに絞って記載しておきます。
①単純にアニメとして完成度が高い
これに尽きますよね。躍動感あふれるアクション。キャラクターひとりひとりの内面を深く掘り下げる、素晴らしい脚本。その情感を引き立てる見事な演出。伏線とその回収があまりに美しい作劇。その全てが完璧に機能していて、非の打ち所がありません。「マーベル史上最高のプロジェクトの一つ」たる所以です。
特に演出は傑出しています。僕が好きなのは、**ジーン・グレイのテレパスを介して映像化される、彼女の心象風景。それは、今敏監督作品(『パプリカ』や『千年女優』など)を彷彿とさせるような、奇妙で異様な、驚くべき映像世界として表現されていて、観る者を圧倒します。あと、ザ・ニュートン・ブラザーズによる、往年のメインテーマ・アレンジを始めとする、音楽**も素晴らしい。最高のアニメです。
②現代的で政治的なテーマ性
先述したように、**X-MENの歴史は差別との戦いの歴史です。その最前線に位置する本作では、現代を生きる我々にとって(残念ながら)極めて身近に存在する、差別や暴力の構造が描かれています。同時にそれは、普遍的なものでもあるのですが(ゆえにX-MENの戦いは終わらないし、時代の声に応じて何度でも復活**する)。
彼らの前に立ちはだかるのは、差別主義者。あるいは人類(マジョリティ)による無自覚の差別。そしてそんな差別と憎悪、暴力に曝され、自ら対立と分断を望むようになってしまったミュータント(マイノリティ)当事者。さながら無間地獄の様相を呈する、苦しみの螺旋の中で、ヒーローたちも疲弊していく。やがてその歪みが、最悪の暴力の形をとって、大地に血の雨を降らす。
現代を生きる我々にとって無縁ではいられない差別と、その先にある虐殺という最悪の現実。この現代的で政治的なテーマを描かずして、なにがX-MENでしょうか。25年の時を経て、まさに今、**X-MENが復活した理由**がここにあるように思えてなりません。
③人間味あふれる魅力的なキャラクター
こういう話をすると、思想ばかりでつまらないアニメなんじゃないか(僕は思想こそいちばん面白い部分だと思いますし、差別反対や虐殺反対は思想ではないのでは?と思うのですが)と危惧する人もいるでしょうが、そんなことはありません。先に述べたように、単純にアニメとしての出来が良いため、話の内容についていくことさえできれば、まずつまらないということはないでしょう。
特に、キャラクターひとりひとりの心情描写はすごく丁寧なので、脚本の都合で動かされている感じがしません。むしろ、すごく生々しいというか、差別に立ち向かう理想の存在として、ヒーローという偶像を背負って戦う彼らが、実際には恋愛や家族など、一人の人間としての苦悩や葛藤を抱えていることが描かれていて、リアリティがあります。そんな、人間味あふれる(リアリティのある)彼らが、現代的で政治的な(リアリティのある)差別と暴力に直面するからこそ、観ている我々はそれを、今現実に起きていることと地続きで捉えることができるし、翻って、今まさに差別と暴力に苦しめられている現実の当事者たちにも、ひとりひとりの人生があるのだという、当然の事実に思いを馳せることができるのです。上辺だけの政治理論や党派性(イデオロギー)の話をしているわけではない、ということ。今を生きている(そして死に直面している)人間の話をしているのです。
そんなキャラクター同士の関係性が、ドラマの軸を担っています。スコット、ジーン、ローガンの三角関係(子供がいるんですよ?)や、ガンビット、ローグ、マグニートーの三角関係(三角関係が多い)など、目を離せない複雑な人間模様が描かれているのですが、その中でもやはり、代表的なものはプロフェッサーXとマグニートーの友情と対立でしょうか。彼ら二人の関係性は、遺伝子の二重螺旋構造のように、X-MENサーガの全体を貫くメインテーマとなっています(※1)。それは共存か戦争か、希望か絶望か、という根源的な問いを内包するものであり、まさに**X-MENのテーマそのもの。**そんな二人の関係性が、最新作97にて、どのように描かれるのか……。ぜひ最後まで見届けていただきたい。
(※1)『呪術廻戦』の五条悟と夏油傑の関係性に、だいぶ近いと思っています。というか『呪術』自体、X-MENに近い。特殊能力を持った子供たちの学校。教師が最強の能力者で、その旧友は能力者が非能力者を支配する世界の実現を目指していて、対立構造にある。虎杖悠仁の好みのタイプがジェニファー・ローレンス(実写X-MENにてミスティーク役で出演)ですし、たぶん作者はX-MENのこと好きですよね。
まとめ
現代的で政治的で、リアリティがあって、人間味のあるキャラクターたちがいて、映像も音楽も脚本も演出も、全部イイ!今世紀最高のアニメの一つであり、マーベル史上最高傑作であると、僕は確信しています。皆さんにもそう思ってもらう必要はないのですが、でもこんなに面白いのだから、どうか一人でも多くの人に観てもらいたいし、楽しんでもらいたい。そんな思いから、この記事は生まれました。このアニメには、人を救う力がある。あるいは、誰かを救うための勇気を与えてくれる。『X-MEN '97』との出会いを経て、より豊かな人生を送れるようになる人が、一人でもいてくれたら。この記事が、その手助けになることができたら。それ以上の喜びはありません。
いや、シーズン1の脚本と製作総指揮を担当して、なぜかマーベル・スタジオから解雇されたボー・デマーヨが復帰してくれたら、"それ以上の喜び"かもしれない。ほんと、なんでクビにしたんですかね、マーベルは……(現在、理由は明かされていない)。
あと、今からでも遅くないので日本語吹き替えを用意してくれたら、観る人も増えると思うんだけど。
※本記事はアニメ『X-MEN '97』のネタバレを含みますが、あまりネタバレを気にしないという方であれば、読んでから本編を視聴しても問題ないと思います。
※あと、話の流れで何作かの国民的アニメを批判しています。何かを批判する内容を読みたくない方はご注意ください。
来たれ、現代のX-MEN
アニメ『X-MEN '97』シーズン1を完走したので、感想を書いていく。今世紀最高のアニメの一つだった(one of the best)。比肩するのは『ニモーナ』と『ハズビンホテル』、『ヘルヴァボス』(※1)くらいか。とにかく大名作だった。普遍的なテーマに対する現代的なアプローチ。シリアスでポリティカルなメッセージ性。躍動感溢れるアクション。起伏に富んだストーリー。人間味を感じさせる魅力的なキャラクターたち。全方位に隙がない。僕は過去のアニメシリーズを観ていない(X-MENは実写映画と、一部の原作コミックのみで履修している)が、単なる懐古趣味で終わることなく(しかし同時に、おそらく過去シリーズのファンを楽しませることにも成功しているだろう)、今を生きる物語を紡いでくれた。僕はそのことがとても嬉しい。
物語は誰のために/永遠を生きる物語
僕は常々、魚介類の名前を冠する一家のアニメとか、未来の猫型ロボットとか、尻を出す幼児とか、そういうアニメに対し「いったい誰のために、何のために続いているのだろう?」という疑問を抱えて暮らしている。まぁ、観たいという人が多数派だから続いているのだろう。ポリティカルなメッセージ性とか、現代的なアプローチとかを、そういう作品に求めない人もまた多数派らしい。僕はいわゆる「思想が強い」作品が好きなので(むしろ思想がない作品は好きじゃないし、そもそもどんな形であれ思想のない作品など存在するだろうか、いやしない、と思っている)、あらゆる創作物に対し「出しな……てめ〜の……『思想』を……」という姿勢でいる。現代に物語を紡ぎ語るのであれば、現代社会を生きる現代の読者観客のために作るべきだ、と思っている。実際、上記に挙げたアニメたちも、原作漫画の時点では、あるいはアニメでも過去のある時点までは、その時の"現代"にコミットメントしていたのだ(コミットメントの使い方間違ってるかもしれない)。その「思想」の残滓が、普遍的な要素が、まだ僅かにそれらの物語の"現代"での価値を担保してくれているのかもしれない。
しかし時代を経て、どういうわけか、それらの物語を「永遠」に続けようと誰かが望んだ結果、物語の持つ思想の照準にズレが生じ、気がつけば「現代」を向いていない……なんてことがよくある。原作者が他界していると尚更だ。たとえ神様と呼ばれるような凄腕のクリエイターでも、未来を生きることは難しい。時代が人を造るからだ。人は死ぬ。しかし物語は、工夫次第で「永遠」に近い時を、生き永らえる可能性がある。
方法の一つは、そのクリエイターが生きた時代と共に、物語をそのままの形で保存しておくこと。つまり古典にすることだ。大事に保管し、研究し、後世へと伝えていく。後世の人がそれを読み解くとき、翻訳(当時の文化への理解)が必要となるが、学問の積み重ねがそれを助けてくれるだろう。古事記も竹取物語も、そうやってなんとか、ギリギリで今を生きている。
もう一つは、その時々の「現代」に合わせて語り直すことだ。アップデートとかブラッシュアップとかいうやつ(これを毛嫌いする方々は、原作の持つ古典的価値が毀損されることを恐れているのかもしれない)。時代の価値観に合わせて、不適切な表現を無くしたり、より適切なものへと変更していったりする(たとえば人権を尊重するのは時代の価値観に依らず、人類社会における当然の前提であろう、という考え方もあるだろう。確かにそれはもっともだが、しかし残念なことに、人権の尊重などという発想は人類史全体で見ると、ほんのつい最近言われ始めたことである。ずっと人は人を大事にしてこなかった。だからこそ今からでも変えていくべきなのだ)。前者(古典)を化石化とするなら、後者(語り直し)を進化と呼ぶ。どちらが悪いとかではないし、どちらも大事なのだ(化石とは古典であり、遺産であり、文化そのものだ。博物館こそ文化の集大成であり、永遠を実現しようとする神聖な営みの場である)。一言で表すと温故知新。事実、サザエもドラもクレしんも両方やっている。原作にはいつでもどこでもアクセスできるし、当時の文化を真面目に研究している学者もいるだろう。そして現代まで続く物語の中で、それぞれに進化を試みて、なんとか足掻いている。「永遠」を求めて。その過程で、しずかちゃんのお風呂もみさえのげんこつも減った。その成果と是非は、我々ひとりひとりが時代の変化と向き合いながら考えていけばよい。
僕はなんだか、「永遠に続けたい」という**マーケティング側の思惑が、目的と手段を逆転させてしまって、ついでに、原作者の跡を継いだ作り手たちと過去作を愛好するファンダムとの、保守的な懐古趣味が合わさってしまい、現代の読者観客にコミットメントしない賞味期限切れの物語がダラダラと続いているように見える(もっとも先に述べた通り、原作や過去作の持つ普遍的な価値や、なんとか足掻いて生み出された新しい物語など、ギリギリで現代に照準を合わせているものも存在している。全てがダメとは言えない)。もっと大胆なアップデート**をしてくれると僕は嬉しいのだが、今挙げたような諸事情がそれを許さないのだろう。昔話を繰り返しているだけで数字は取れる。資本主義においてはそれが正義になってしまう。
普遍のテーマ/現代のアプローチ
さて、大胆な脱線を経て本題に戻る。**X-MEN '97は、しっかりと"現代"に照準を向けていた。**現代社会を生きる観客、私たちひとりひとりに向けて語られる物語であった。そしてその物語は、過去のX-MEN作品による積み重ねの上に成り立っている。見事な温故知新。理想的な**"語り直し"**だ。
60年代に誕生したX-MENは、その歴史を**"差別との戦い"に捧げてきた。人類との共存を目指すプロフェッサーXと、人類との全面戦争を掲げるマグニートーの対立を軸に、迫害を受けるマイノリティの苦悩と、他者の善性(進歩)を信じる"希望"の尊さを、一貫して描き続けてきた。それは実写映画シリーズでも、近年のコミックでも同じ。それは同時に、少なくとも60年代から現代まで、人類がずっと差別の問題を解消できていないことの証左でもある**(もちろん、実際には遥か以前からずっと続いている)。ずっと、差別との戦いを続ける人たちがいた。その人たちと共に、X-MENはあった。(残念ながら)普遍的な問題である差別。それに立ち向かう、という普遍的なテーマをX-MENは掲げ続けている。そして今作『X-MEN '97』にて現代に蘇ったX-MENは、現代の差別に立ち向かうのだった。
リアリティのある差別と暴力
彼らの前に立ちはだかるのは、差別主義者たち。あるいは無意識の差別を行ってしまうマジョリティ。そしてそんな構造の中で傷付き、対立と分断を望むようになってしまったミュータント当事者。様々な差別と暴力が、人々の連帯を突き崩していく。戦いの日々を繰り返す中で、ヒーローたちも疲弊していく。先の見えない絶望の中で生じた社会の歪みは、やがて虐殺という最悪の暴力の形をとって、大地に血の雨を降らす。
作中で描かれる、様々な差別的言動は、そのどれもが古くからある典型的なものであると同時に、とりわけ現代のSNSなどの言論空間で頻繁に見受けられる、うんざりするほどの既視感に満ち溢れたものばかりだ。その繰り返しが、人々を疲弊させる。現代では誰もが疲弊している。そこから生じた歪みが、ミュータント(マイノリティ)と人類(アライ)の、そしてミュータント(マイノリティ)同士の連帯にもヒビを入れていく。これまたよく見る流れだ。
やがて、その差別的な歪み(人間を人間として扱わない価値観の蔓延)が臨界点を超えたとき、最悪の暴力……すなわち虐殺が発生してしまう。まさに我々が今生きる、現代社会における暴力の在り方そのものが描かれている。本作が作られているとき、まだイスラエルによるパレスチナでの虐殺は発生していなかったと思われるが、世界で戦争は起きていたし、ずっと起きているし、差別的な歪みと暴力の構造もまた、ずっとあった。だからこそ、X-MENもずっと戦ってきたのだが。
現代のヒーロー、その存在意義
このような、現代社会を生きる我々にとって、ものすごく身近な(リアリティを感じられる)差別と暴力を『X-MEN '97』は描いてみせている。まさに、現代でX-MENの物語を紡ぐ意味、その本懐を果たしていると言えるだろう。キッチリと、思想の照準が「現代(いま)」に向けられている。普遍的で具体的で、現代的で政治的で、だからこの物語は観る者の胸を打つ。現実味のある物語だからこそ、登場人物の情緒にも人間味を感じられる。そんな彼らが傷付きながらも、教授の夢と、仲間たちと、人類の善性を信じ……そしてより良い未来のために、命を賭して戦い続ける姿が、何よりも尊く輝いて見える。それこそがヒーローの役目、現代にヒーローの物語を紡ぐことの意味に違いない。差別と戦い続けてきたヒーローである**X-MENの現代の物語**として、今作は完璧としか言いようがないのだ。
一度は役目を終え「過去」のものとなったアニメ版X-MENを復活させ、「現代」のストーリーを語り直すことで「永遠」へとグッと近づけた。そんな作り手たちの手腕には脱帽する。マーベル・スタジオはなぜボー・デマーヨ(本作の脚本・製作総指揮)をクビにしたのか、意味がわからない。
"古典"(これまでの積み重ね)を守りつつ、同時に本作のような、優れた**"語り直し"が行われ続ける限り、X-MENは「永遠」であろう。**世界から差別が無くなる、その日まで。
(※1)アニメ『ハズビン・ホテル』および『ヘルヴァ・ボス』もまた、現代の差別や暴力の構造を見事に描いた作品である。特にハズビンは虐殺、ヘルヴァは性的マイノリティに関する描写が丁寧で、僕自身とても高く評価しているシリーズなのだが……。しかし一方で、クリエイターのVivziePopことVivienne Medranoのパワハラやトランス差別が問題になっており、そのことを考えると複雑な気分になるのも事実。作品との向き合い方は人それぞれなので、ひとりひとりが知り、自分で考えて答えを出していくことが大事なんだと思う。