バウハウス100年映画祭 (original) (raw)

バウハウス100年映画祭

『バウハウス 原形と神話』DVD発売決定!

イントロダクション

20世紀の二つの大戦の間にドイツに生まれたデザイン・アート・建築の奇跡“バウハウス”。
バウハウスとはいったい何なのか?

建築やデザインに興味のある人ならその名を聞いたことがあるだろう。モダニズムのパイオニアとして、建築、インダストリアル・デザイン、グラフィック・アート、写真など広範な分野で世界に衝撃と感動をもたらしたバウハウス。
それは、1919年、第1次大戦後のドイツで、芸術と技術の新たな統合を目指し創設された学校だ。
創設者は、フランク・ロイド・ライト、ル・コルビュジエと並ぶ近代建築の巨匠、ヴァルター・グロピウス。そして三代目校長はもう一人の近代建築の巨匠、ミース・ファン・デル・ローエが務めた。 その学校はこれまでになかった独自の教育システムを作り上げ、様々な芸術分野に革新をもたらしたが、ナチスの迫害をうけ、わずか14年間の活動で幕を閉じる。しかし、現代の生活環境・様式につながるモダニズムの基礎を作り、造形教育の規範を作ったことで、バウハウスは今もなお世界中の建築やデザインなどに影響を与え続けている。
グロピウスやミースをはじめ、信じがたいほど豪華な教師陣、パウル・クレー、ヴァシリー・カンディンスキー、ヨハネス・イッテン、ラースロー・モホイ=ナジ、ハンネス・マイヤーなどが集い、ヨゼフ・アルバース、マルセル・ブロイヤー、マックス・ビルなど名だたる才能を生み出したバウハウス。
伝説的な創造者たちが理想に燃えて突き進んだ時代。そして生み出された奇跡。誕生から100年という節目を迎え、バウハウスとは何なのかを紐解いていく。

バウハウスとは何か?

バウハウスは、第一次世界大戦終戦直後の1919年4月に、新生ドイツ、ヴァイマール共和国の設立宣言が行われたその歴史的な地に、建築家ヴァルター・グロピウスが設立した造形学校です。2019年、開校100年の記念年を迎えています。ちなみに、「バウハウス」の「バウ」はドイツ語で「建築」を意味し、「ハウス」は「家」や「館」を意味します。「建築の館」という意味があります。

グロピウスによる設立宣言は次の言葉で始まります。「すべての造形活動の最終目標は建築である」個々の造形芸術のジャンルの垣根を取り去り、それらの「総合」を目指すというバウハウスの根本的な姿勢を示す言葉です。

この学校は、それまでの芸術学校とは一線を画する画期的な学校でした。グロピウスは、社会から遊離した孤高の芸術家の育成を目指す旧来の伝統的なアカデミー教育を否定し、科学技術の発展著しい時代にふさわしい、社会や芸術の動きを敏感に受容しながら造形活動を行う新たなタイプの芸術家(建築家とデザイナーら代表される)を育成し、その活動により社会を変えていこうという高い理想を掲げました。

こうした理想を実現するために、グロピウスは、当時の芸術世界の最先端で活動し国際的に注目されていた芸術家たちを教師として招きました。絵画芸術の革新の先駆者のヴァシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、画家で教育理論家のヨハネス・イッテン、構成主義の先鋭的な作家、ラースロー・モホイ=ナジ、舞台芸術の革新者、オスカー・シュレンマーなど気鋭の芸術家たちは、自らの芸術の実践と理論をバウハウスでの教育に惜しみなく注ぎこみ、その理念を力強く推し進めたのです。そうした教育を受けた学生の中から、ヨゼフ・アルバース やヨースト・シュミット、マルセル・ブロイヤーのような優れた人材が頭角を現し、教える側に立ってバウハウスの教育をさらに展開させました。優れた教師たちが注いだ造形教育へのエネルギーと、それにより創造性を触発された学生たちのエネルギーとが相互に作用しあって、バウハウスは新時代のための芸術家たちの揺籃の場となったのでした。

1933年にナチスの弾圧により閉校を余儀なくされるまでの14年間の活動と成果は、その後の造形教育の方向性、デザインや建築の方向性に多大な影響を与え、今日にまで続いています。

Text: 深川雅文(キュレーター/クリティック)

バウハウス三都物語

ヴァイマール・デッサウ・ベルリン

ヴァイマールのバウハウス

1919-1924

バウハウスは、第一次世界大戦前、ザクセン王国のヴァイマールにあったザクセン大公立美術大学と同工芸学校を併合した形で、第一次世界大戦終結後の1919年、新生ヴァイマール共和国に誕生しました。その建物は、ベルギー人建築家、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの手によるものでした。美術大学の校舎は、1904-1911年にかけて、そして、美術大学に対面する工芸学校の校舎は、1905-1906年にかけて建設されました。設立時には両校の校舎が、バウハウスの校舎として利用されました。規模的により大きな旧美術大学校舎はメインの校舎となり、校長室などが配置されていました。旧工芸学校校舎は工房棟として使われました。現在はともに、主にヴァイマール・バウハウス大学の校舎として利用されています。
工房棟の玄関に入ってすぐの階段の周辺には、バウハウスのマイスター、オスカー・シュレンマーが描いた壁画やレリーフが修復されて現在も見ることができます。また、歴史的な1923年のバウハウス展開催とともに建設されたバウハウスの実験住宅(ハウス・アム・ホルン)は、バウハウスが主体となって設計・建設した最初の建造物(設計:ゲオルク・ムッへ)として重要です。
バウハウスは、市議会の右傾化により1924年にはヴァイマールを去らざるを得なくなりここでの活動に終止符を打ちますが、複数の都市からバウハウス受け入れの申し出がありました。中でも産業都市デッサウが最も積極的な受け入れを表明し1925年に同市に移転します。

デッサウのバウハウス

1925-1932

デッサウ市からの受け入れ条件には、新たなバウハウス校舎ならびにマイスターハウス(教師用住宅)の建設も含まれていました。そこで、校長であり建築家であるヴァルター・グロピウスは、自らの設計でバウハウス・デッサウ校舎ならびにマイスターハウスを建設しました。1926年の12月4日、バウハウス校舎の落成式が千人を超える人々を迎えて盛大にとり行われます。20世紀モダニズム建築の白眉の一つとされるバウハウス・デッサウ校舎は、国際的な大反響を呼び、学校の名を世界に轟かせました。
グロピウスは、校舎と教員住宅以外にも、テルテン居住区(労働者向け住宅プロジェクト)、労働安定局などデッサウ市の新たな建築も手がけました。バウハウスの建築科に関わったハンネス・マイヤー(1928年より二代目校長)などの建築家たちもデッサウでの建築計画に参加し斬新な建築を設計しています。これらの建造物は、ユネスコが定める世界文化遺産に「バウハウス 関連遺産群」として登録されており、観光資源として地域に貢献しています(関連遺産群にはヴァイマールのバウハウス関連建造物も含まれる)。
1932年、デッサウ市議会でも右翼勢力が優勢となり、バウハウスの閉鎖が議決されました。

ベルリンのバウハウス

1932-1933

三代目校長のミース・ファン・デル・ローエは、バウハウスを私立学校としてベルリンで継続するために尽力し、1932年10月に、ベルリン・シュテーグリッツの旧電話工場で再開しましたが、1933年4月、警察とナチスの突撃隊が校舎に踏み込み占拠する事態となります。教授会は、7月20日にバウハウスの閉鎖を決定し、8月10日に学生たちにバウハウスの閉鎖を伝えました。創立以来、14年間の短命でしたが、造形教育と建築・デザイン領域での後世への影響は計り知れません。
学生総数は、約1250名を数えます。ドイツ以外の国々からの学生も多く、国際的な色彩を持った造形学校でした。日本からは、水谷武彦、山脇巌、山脇道子、大野玉枝の4人の学生が入学しており、帰国後、バウハウスの理念と教育を伝えました。

Text: 深川雅文(キュレーター/クリティック)

劇場情報

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