えす、えぬ、てぃ (original) (raw)
#つくのラジオごっこ
メインはTwitter(@tsuku_snt)のspaceにて、友達と一緒にその時話したいことについてあーだこーだ言ってます。
ラジオ「ごっこ」という名前の通り、
ここ数年ラジオに何度も面白い!となってきた私が小さい頃やってたごっこ遊びのように好きな番組への憧れを詰め込みまくって話をしています。
どんな話をする上でも「好き」を核において話がしたい。その中で、"ラジオ"でしか見えないものがあると思ってやっています。
またAnchorのアプリを使ったひとりで喋る #つくのラジオごっこ もしています。
AnchorというアプリはSpotifyと繋がっていて短いですが、Spotify上の音楽を流せます。
なので、ここでは自分の「好き」とそこから考えたことを話しつつ、最後に延長線上にある「好き」な音楽を流します。
また #つくのラジオごっこ というハッシュタグを最近つけています。
メインがTwitterのspaceになるため、コメント機能がないのですが以前ツイキャスでお話をした時、コメントをもらいつつお話できたのがとても楽しかった記憶があります。
そのため、実際拾えるか拾えないか、そもそもリアクションがくるのか分かりませんが、ハッシュタグを作りました。良ければご利用いただけると嬉しいです。
ともあれ、どんな媒体・テーマ・やり方でも変わらず、「好き」の話をしていこうと思います。
最近すごく思うのは、私は自分の「好き」をアウトプットしながら自分の外に出たその「好き」を確認することが大好きなんだと思います。
よければ、お付き合いいただけたら嬉しいです。
ひとりでの #つくのラジオごっこ
エピソード1 "ラジオ"の話
エピソード2 エンタメの話
エピソード3 ブルーピリオドと表現すること、好きなものの話
番外編1 withセンパイ
エピソード4 THE TAKESの話
エピソード5 HIPHOPのライブを観て考えた話
ぜひ私のスペースに参加してください! https://t.co/m18QtO4dwV
好きに喋るよ!!!— つく (@tsuku_snt) 2022年7月20日
日本語ラップって面白いな?!って話をソラちゃんに聴いてもらった回
#つくのラジオごっこ 雑談回
https://t.co/ueRK6Ni7mo
駆け足なとりあえずにんげんおもしろいしたのしいね?!の1時間でした!しーくんリスナーさんありがとうございました!!🙏🙏🙏 #つくのラジオごっこ 自分甘やかしてドーナツ食べて寝ます🐕— つく (@tsuku_snt) 2022年7月28日
友達のしーくんとごった煮雑談をした回
#つくのラジオごっこ 畳屋のあけび
https://t.co/v5C1S94ceE
そんなわけで #つくのラジオごっこ 、#畳屋のあけび のお話でした。本当に面白い舞台観れて嬉しかったな…とはしゃぎ回った。本当に、まじで、観れて良かった。ありがとうございました!!— つく (@tsuku_snt) 2022年8月4日
配信で観た畳屋のあけびが面白かった話をソラちゃんとした回
#つくのラジオごっこ アンサンブル・プレイ
https://t.co/T17tUBgaIr
まじで好き勝手解釈という名の妄想を話し倒した #つくのラジオごっこ でした!— つく (@tsuku_snt) 2022年9月17日
2022年9月に発売されたCreepy Nutsさんのアンサンブル・プレイについての妄想を語る回
#つくのラジオごっこ 1周年だよやった〜!
https://t.co/UJoxGzlhsH
そんなわけで #つくのラジオごっこ 1周年でした〜〜〜!雑談回だよ!ってやると自分がめちゃゆるゆる喋っちゃうなってのと好きなものの話をしちゃうなっていうのとミスドが美味しいことがわかる回でした!!!改めて1年ありがとうございます!!— つく (@tsuku_snt) 2022年9月23日
なんとこの遊びを始めて1年が経ちました
エピソード6 伝わりますか?
今更ながらに伝わるって難しいな〜と思った話をひとりでしている
#つくのラジオごっこ 最近楽しかったこと
そんなわけでただひたすら最近どう?何が楽しかった?って話してる雑談ラジオごっこでした #つくのラジオごっこ https://t.co/b1MYjnJQ2z
— つく (@tsuku_snt) 2022年11月15日
最近どう?何が楽しかった?の話をソラちゃんとする回
#つくのラジオごっこ(録音) 「好きに値する」ってなんだろう
色々あったので「好きに値する」ってことについて考え込むのにソラちゃんに付き合ってもらう回
#つくのラジオごっこ コチラハコブネ、オウトウセヨ
新年だから延長しちゃえ!ってしたらまじでまとまらなかったコチラハコブネ、オウトウセヨの感想 #つくのラジオごっこ です📻本当に改めて幸せで大好きなお芝居でした…🙏2日から聴きにきて頂いた方々ありがとうございました! https://t.co/f6nMWfIS91
— つく (@tsuku_snt) 2023年1月2日
ポップンマッシュルームチキン野郎さんの22年12月公演「コチラハコブネ、オウトウセヨ」の感想をソラちゃんと語りました
#つくのラジオごっこ FLOLIC A HOLIC
https://t.co/Yiapikg1d0
ちょっとフロホリ好き過ぎて完全にドッグランだったね、予想通りね。本当に、元気が出る大好きなエンタメだったので、話せてスッキリした〜!ありがとうございました! #つくのラジオごっこ— つく (@tsuku_snt) 2023年3月18日
フロホリこと東京03さんとCreepy Nutsの公演についてソラちゃんと語りました
#つくのラジオごっこ 好きなチャンネルが増える話
「推しを複数作ってリスクヘッジ!」は無茶言うなと思うけど好きなチャンネルが増えるのは楽しいという話
#つくのラジオごっこ ノンバーバルパフォーマンスギア
— つく (@tsuku_snt) 2023年6月16日
ソラちゃんと京都でロングラン公演されているノンバーバルパフォーマンスギアについて語りました。
#つくのラジオごっこ エブエブと映画を贈ることwithなっぱちゃん
友だちのなっぱちゃんと映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」の感想を。それから、映画体験の話。
#つくのラジオごっこ 毛布みたいなエンタメ・カツ丼みたいなエンタメwithなっぱちゃん
なっぱちゃんと一緒に「救われたエンタメ」の話から毛布みたいなエンタメとカツ丼みたいなエンタメ、人が作ってることの話になりました
#つくのラジオごっこ あの頃のインターネットあるいは発信することされることwithづめこさん
前回エピソードでその人にとっての大切なエンタメの話を聴きたくなって2人目づめこさんに聴いてきました。インターネットやそこで出会ったあるいは運営していた個人サイトの話から何故かラップバトルの話まで?!
※根本的なネタバレが多々あります!※
なんだかずっと、からくりサーカスのことを考えている。43巻の長い長い物語だ。描かれたエピソードはたくさんある何重にも重なった物語だから、その全てを一度に思い出すことは出来ない。だけど、その節々で揺れた心が、気が付けば思考をからくりサーカスへと戻してしまう。
物語はカトウナルミが見るからにお金持ちな少年・才賀勝を助けるところから始まる。見捨てるか見捨てないか。その人生の中にある多くの選択肢の中から「助ける」を選んだことで奇妙な運命へと導かれていく。
また、その中であるるかんという人形を使う銀髪の美しい少女であり、勝を助けることを自分の人生の役目だと信じる、しろがねとも出会い、勝の、ナルミのしろがねの運命が大きく動き出す。
何故勝が狙われるのか、という謎は、やがて多くの人の怒りや悲しみ、思いを絡めて、途方もなく大きな物語へと発展する。そこで出会う、何人もの人にも物語があり、役割があり、願いがある。また、中には間違いを犯すこともある。そういうものが積み重なって積み重なって、その構造もまた、愛おしくて私はたまらないんだと思う。
人には役割がある。それはなんとなく生活していると自分の中に染み付いてくる感覚である。役割や「分相応」のようなものに気が付いたら操られて自分がどうしたい、を考える間もなく「こうした方がいいらしい」に支配されている。
そうじゃなくて、自分の好きなことをしていいんだよ、と言われてもそれが浮かばない。
そのことを考えるのもきつい。どっちかにしてくれ、と、その質問に鈍く痛む頭で思う。完全に自由を奪うのか、それともなんの役割も与えないか。でもそのどっちか、が無理なことくらい分かってるから、もう黙ってろよ。
役割に縛られたくない、という気持ちと「あなたの役割はこれだよ」と指し示してほしいという気持ちは、矛盾するけれど、両立する。
縛られたくはもちろん、ないはずだけど。だけど、人は「存在理由」を同時にどうしようもなく求めてしまう。
それが地位であることもあれば、愛情であることもある。愛情も愛されることもあれば、逆に愛してもいいのだ、と思えることであることもある。
カトウナルミの場合、その欲していた「存在意義」はなんだったのか。物語を通して強さと優しさの象徴でもあり、不器用ながら、誰もが見惚れるようなひとだった彼。
物語の全てを知った後、1話をもう一度観て、私は深くため息を吐いてしまった。
彼の願いは、欲した「存在意義」「役割」は1話からなんだったら、明確だったように思う。
誰かを助けること、笑っていて欲しいと願うこと。人の笑顔を求めるのはゾナハ病の症状があるから、だけで説明するには、からの心はあたたかすぎる。あたたかく優しく、柔らかい。
ナルミはある奇病にかかっている。
ゾナハ病と呼ばれるその病気は、人を笑わせないと神経麻痺を起こし、やがて死ぬほど苦しむことになる。そのため、ナルミは最初サーカスの客寄せのための着ぐるみに入って登場する。
ナルミは、ともかく人を笑わせる才能がないのだ。この病気に対して相性が悪すぎるのだけど、ともかくセンスがない。だから発作のたびに苦しむのだけど、ひょんなことから助けた勝は、そんなナルミの振る舞いに笑い、嬉しそうに笑顔を見せる。
そのおかげで、ナルミは息苦しさが止まる。その構図の美しさが私は好きだ。
俺のために笑え、という。
その行動は大いにズレていたりするんだけど、ナルミは笑わせようとしたわけじゃない行動で、誰かの柔らかな笑顔を引き出したりする。全編を通してそうだ。ナルミの姿はつい笑顔をこぼしてしまうような、それこそ副交感神経が作用してホッと安心するような、そんな気配に満ち満ちている。
彼は人を助ける。誰かのために、でとんでもなく力を尽くす。だけど、ナルミはずっと一本その理由がぶれないのだ。自分のために。最初からそうだった。ナルミは「ナルミのため」に勝を助けると決める。
そのことを誰よりもナルミは知っているし、それでいいとしている。
そうだ、だからきっと、私は彼が好きでたまらないのだ。
笑っていて欲しいと思うこと。誰かのために何かをしてあげたい、と思うこと。
それは時に暴力を生む。これは、からくりサーカスを観る前から度々私が考え込んでしまうことだ。
愛は素敵だ、誰かの笑顔を望むことも。だけど、それって自分の欲望と近くて、だからか、時々とんでもない暴力へと繋がってしまう。
からくりサーカスの大切なキーワードである「笑わせる」。
作品の中で、最初に笑わせるために取られたのは思い出すのも恐ろしいような殺戮だった。私は最初読んだ時、あまりにも残酷で何が起きたか分からず、思わずページを戻してしまった。そうして何度もコマを読み進め、細かいところに目を凝らし、気のせいでもなく、見間違いでも勘違いでもないことにぎゅっと心臓が軋んでしまって本を閉じた。
なんてことを。
酷い、という言葉も残酷という言葉も追いつかない。1人を笑わせるために、起こした悲劇。
それは笑いの感覚が違うとか、価値観が違うからとか、そういうことではなく、ただただ、ただ、その根底に怒りと憎しみがあるからだった。
この自分の……そう、たぶん、笑わせたい相手ではなく自分の恨みを晴らしたいという感情。いや、もしかしたら相手の、でもあったのかもしれない。だけど、いずれにせよ「復讐すれば」笑える、というひどく後ろ暗い、うら寂しい、「笑い」じゃないか。
読み終わって数日、私はそのことが、無性に寂しい。
誰かを笑顔にしたいというのは、確かに愛のはずなのに。
笑わせたい、笑顔でいて欲しい、幸せでいてほしい。
あるいは。
そうして自分が、幸せでいたい。
そんな、それだけならあたたかなはずの気持ちはだけどいつでも簡単に踏み外す。間違える。
何故ひとは生きているんだろう。
私はこの漫画を読みながら何度も考えた。
ゾナハ病に苦しみ、死にたくない、自分の思うように生きたい、と願った人も多く出てくる。
また、人形と人形使いと戦うことや、そもそもがある少女を「笑わせたい」と願ったことが悲劇を呼んだことで「なんで人は生きてるんだ」「何があったら人は人なのか」を考えてしまう。
人は、笑えば人なのか。だとしたらなんで人は笑うのか。
何度も、作中彼らは問い掛け、同時に問い掛けられる。使命に燃え、命を捨てる人に。どうやったら人になれるのかと悩む人形に問い掛けられることもある。
それを見ながら、気が付けば自分が問いかけられたように感じた。
人とは、なんなのか。
魅力的なキャラクターがたくさん出てきて、そうしてその人物たちがいなくなるたび、ああ、いなくならないでほしい、と思ったし、生きていてほしい、と願った。そうして生きているんだなあと思った。
どうしようもなく、生きていた。
ゾナハ病に罹って、死にたくないと願い、でもそうして任された役割に「死ぬ」ことを選ぶこと。
ゾナハ病は、そのまま合併症などを引き起こさない限り、死ねなくなる。ただただ、死ねないまま、死ぬような苦しさを味わう。
死ねない、ということは、生きている、ということとイコールではない。
だからか、その病の末の役割を受け入れた人たちが死へと進む描写に分からなくなった。
生きたいと思ってほしい、と思った。
しかし、生きたいと思うことが幸せかは分からない。生きている時間のなか、憎み、恨み、怒りを抱えながら生きていた人たちを見て、どうしていいか分からなくなった。
何があったら生きているのか、人間なのか。どうやって、生きていけばいいんだよ。
それでも、ナルミは勝は言う。自分の信じる自分でいること、俺は俺になる、を目指すということ。
思えば、一度は自分がした選択肢を後悔した勝が、「自分の選択を正解にしたこと」これだって、「俺は俺になる」だ。
強くなって、自分の選択を正解にする。
繰り返し、繰り返し繰り返し思い出してる。仕事でやられそうになるたびに頭の中で唱える。ナルミだったら、勝だったらどういうかを考える。過度な自己卑下に逃げ出しそうになった時に「諦めんな」と声がする。
怖くてもいい、逃げ出したくなっても、悪態を吐いてもいい。それでも、本当に大事なものを手放しちゃいけない。なりたい自分を、諦めちゃいけない。
ナルミは強い。すごくすごく強く、格好いい。
だけど、その姿に惹かれたのは、冒頭、勝とのエピソードで、自分も昔はヒョロヒョロで弱く、泣き虫だった、という話があったから、というのも大きい。
少年漫画の王道として、弱い人が強くなる、はある。(実際、この漫画の中でも勝はまさしくそんな進化を遂げる)
だけど、既にわりと最強に近い姿を見た後に弱かったこと、今もなんなら怖いことを真っ直ぐに口にするナルミだから私たちは、そして勝やしろがねは惹かれたんじゃないか。
勝は、最初、ものすごく弱かった。泣き虫で後悔をして、守られることしかできない子どもだった。
だけどずっと、大切なものを手放さない強さは持っていた。自分がなりたい、と思ったものを口にして一歩を踏み出す強い子だった。
そして実際そのままずんずんと進んで、最後は、本当に格好いい、強くて優しい少年になっていた。
強いから平気なのではない。繰り返しにはなってしまうが、自分の大切なひとを守れる「強い人」がありたい自分だから、強くなれる。
その事実はほんの少し、私たちの背中を押す。
何より、笑ってくれるひとがいてくれないと困る、守りたいと思う人がいないと困る、だから誰かを助けるのは、笑顔でいて欲しいのは自分のためだ、と言い切る姿を見ているとなんだか、分かったような気がするのだ。
思えば、作中、守られるだけだった勝がそうして「誰かを守る」ことができるようになったとき、きっと、あの時に勝は、自分は目の前の人を愛していると確信できたような気がする。
そして「愛している」と確信できることは愛されているということなんじゃないか。
フランシーヌを愛して半ば無理やり奪い取った白金がどれだけ彼女を愛しても愛しても、満足できなかったことからもそんなことを思う。フランシーヌは、白金のことを全く愛していなかったわけじゃない。だけど、彼が欲しい形じゃなかった。彼が渡したい形でもなかった。
たぶん、愛にはそういうところがある。
どっか自分勝手で、だけど誰かのためが自分のためで、そういう表裏一体の混ざり合った、弱くて脆くて、だけど切実なそんな感情を、愛と呼ぶんじゃないんだろうか。
それはナルミの、勝の、あるいはしろがねの。
フランシーヌや白銀、白金だけではなく、作中描かれた色んな愛の表現を振り返っても思う。
どこか自分勝手なところはある、あるのだけど、自分すら惜しくなくなるような、そのくせ、だからこそ、自分を軽んじるわけにはいかない、とぐっとお腹に力を入れるような。
そんな確かな熱量の愛情たちのことをずっと考えていると体の奥底からぽこぽこと力が湧いてくる。
人生は選択の連続だ。いつだって正解を選びたい。選びたいけど、人は間違える。
時には無意識に、時にはこれが正しいと信じ込むことで。
特にからくりサーカスではただ本人だけで間違えるのではなく、間違えた結果、取り返しのつかないような酷いことを他人へとしてしまう。時に、命を奪うこともある。
命をただ奪うだけじゃなく、尊厳を傷付けることもある。
許せない、と思う。
同じくらいの報いを受けろと過った瞬間だってあるし、そうして復讐に燃えたひとも、いた。
だけどまた、許したひともいた。
私は、それにも驚いた。驚いたし、許すだけしなく「自分だって同じだ」と告げたひともいた。それも、少なくない数。
私は、それが無性に嬉しかったのだ。
人は、間違える。間違えない方がいい、傷つけないほうがいい。だけど、どうしたって間違える。
間違えた人間を許せ、というのは、じゃあその人に傷つけられたことをどうするんだ、とも思う。間違えたひとだけ許されたとしても、傷付けられた人の傷が癒えるわけじゃない。癒えるような傷じゃないことは往々にしてある。
だけど、だ。
だけど、私は「幸せになりたかっただけじゃないか」とその間違えを口にした、その心が嬉しかった。
悪いことをしたからと言って、人生が終わるわけじゃない。そのまま生きていかないといけない。生きて、償う、というそういう単純なことでもない。
だけどそこにある思いが幸せになりたかっただけだ、と形づけられたことをずっとずっと思い出している。
愛すること、自分を生きること、強いということ。
そして、人間とは何か。
そんな大切なことを教えてくれたこの『からくりサーカス』という作品は、タイトル通り、舞台であり、またサーカスだった。
私たち読者を心から楽しませるために趣向と工夫が凝らされた物語。
「鑑賞者」のいるサーカス、そこで描かれた物語たち。
フランシーヌの最期すら、観る人が変わると解釈が変わる。何を知ってるか知らないかでも変わる。そこに悪意を見出すこともできる。ただ、そこに寂しさや愛情を見出すことだって、できる。
フェイスレスは、まるで物語を観るようにある意味で俯瞰して、勝の冒険を見ていた。きっとそこで、人知れず、感情移入をする瞬間もあっただろう。
台詞としては「イライラした」と言っていながらも、観ることをやめられなかった、きっとそれが何よりもの事実なのだ。
彼の最後の決断は、そこにだって理由があるんじゃないか。
彼は、心を動かした。勝に、勝の言葉や行動に。自分自身の心を重ねて。何百年と誰からも心を寄せられなかった、その彼が。
自分からその心を寄せたんじゃないか。
だから、勝の言葉が届いたんだ。そう思いたい。
わからない。いつだって優しい方に世界を見たいと思っている。そういう観客で、ありたい。
だけど、それ以上にこの世界は悪意で受け取ったほうがわかりやすいことがあまりにも多い。
だけど、思うのだ。私は、私になりたい。そういう私になりたい。
人生が自分の思うように描くべきだというのなら、私の人生がそういう形であってほしいと心から願ってしまう。
あの物語を読んだ後から頭の中、心の中に住み着いた彼らがそれでいいと頷いてくれている。そんな気がしている。
からくりサーカスには、ここに書ききれないくらい魅力的なキャラクターたちが出てくる。語り尽くせないくらいの素敵なエピソードが、瞬間が、台詞がある。
全てを語りたい気もするし、語らずに何も知らず、あの形で出会ったあなたと話したいようなそんな気もする。
(と言いつつ、かなり核心のネタバレをしてしまった。どうしてもあの感想の好きなところを話す上で避けられないものだったんだけど、もし読む前にこの記事を読んだ人がいたらどうか忘れて欲しい)
きっとあの作品はサーカスなのだ。物語として出会うのが、1番面白い。
そこには笑顔にしたいという、つまりは、幸せにしたいという切ないくらいに強い気持ちがたくさん込められている。そんな作品があることが、私は何より、心強く嬉しく思っているのだ。
なんでこんなに考え続けているか、と考えて、シンプルに面白いからだ、と思った。シンプルに面白い、それはすごいことだ。
実際、例えばその映画の広がり方や、創意工夫、また、スクリーンにかかるまでの熱量やそこにあるドラマなど、この映画の「魅力」はたくさんある。あるのだけど、でも突き詰めればまず第一に面白かった、なのだ。
ところで、私には大好きな映画館がある。
兵庫県尼崎市に昔からある塚口サンサン劇場という映画館で、エプロンでも来れる映画館、というキャッチーな言葉がとても似合う。オレンジを基調とした可愛らしい映画館は映画好きはもちろん、地元の人たちにも愛されている。
特定のジャンルに強い映画館のように見えるが、数年通った私は思う。特定のジャンル、ではなくて、全ての映画をこの映画館やそこにいる人たちは愛している。だから、塚口サンサン劇場は強いのだ。
そして、今回私は「侍タイムスリッパー」をその塚口サンサン劇場で観た。おかげさまでもう少し近場の映画館でも上映があったが、どうしても私はこの映画館で観たかった。
「侍タイムスリッパー」を観ようと足を運んだ休日の昼間。映画館のロビーにはたくさんの人がいた。
中でも私が嬉しかったのは「久しぶりに映画館に来た」という会話や空気を味わえたことだった。どこか落ち着かない、そわそわした空気。
小声で囁かれる会話が心地いい。
言葉にしないお約束が通じる「内輪」の、それこそ映画好きが集まる上映回も好きだけど、私はこういう時の映画館も大好きだ。
新鮮にスクリーンの向こうに心を揺らし、驚き、笑って、最後は夢中になって息を飲む。
そんな空気を、この映画館は私の知る中でも1番味わえるのだ。
そんな私の期待通り、その日の塚口サンサン劇場もよく笑い声で揺れ、息を飲んで、最後はみんな、あの景色の中にいたように思う。
その経験含めて最高だったな、と振り返ってふと思うのだ。
映画が好きな人も久しぶりに観た人も考察したい人もただただ受け取りたい人も。みんなが揃って楽しんでいた。その光景が本当に嬉しかった。し、それは、まるで、あの映画と地続きじゃないか。
侍タイムスリッパーは、コメディだ。
笑いどころもたくさんあって、劇場ではたくさんの笑い声が起こる。スクリーンの中の出来事は全部虚構だけど、それをみんな喜んで、笑って、楽しむ。
それは、劇中、初めて時代劇に触れた時の高坂新左衛門の気持ちと一緒だった。
息を飲んで夢中になり、怒り、笑う。時には、涙を流す。
高坂は幕末の藩士だ。会津の武士で、剣道を嗜み、論語も諳んじることもできて、振る舞いもとても紳士だ。
なんだかんだと現代に彼が馴染んだのは、きっとその人柄の良さもあるだろう。
そしてその彼が、同じように、スクリーンの前、虚構を愛して、映画を愛している私たちと同じように心を動かす。もうそんなの、高坂に夢中になってしまうに決まってるのだ。
劇中で、彼を助けてくれる色んな人たちのことを「ご都合主義だ」と感じなかったのもそこで、彼の真っ直ぐさや優しさは思わず手を差し伸べたくなるところがあった。
救われた、と彼は言う。
時代劇を見て、そこにある人の営みに「救われた」と彼は言った。その言葉に、私は救われた気がした。
彼は、幕末の世から時代劇の撮影所へと辿り着いた。危うい言葉ではあるけれど、「終わりかねない」時代に、図らずも彼はまた立ち向かうことになる。
そこで彼は、終わりを止める、とかではなく、ただ、ただただ、その時を生きる。
大義や、自分の人生の意味ではなくただ真っ直ぐに自分の信じた、自分が出来ることを精一杯やる。
終わるとか終わらないとかじゃないのだ。大義だとかでもないのだ。ただ、彼が、信じた、「こうせざるを得ない」中で、彼はもがく。
そこには何も出来ないまま、「終わってしまった」時代への後悔でもあるように思うし、自分が何をすべきなのか、を問いかけ続けた姿みたいにも思った。いずれにせよ、私たちはそのスクリーンの向こう側の光景に夢中になって真剣に見つめてしまった。
気がつけば、同じところで、私は生きた、そんな気すらしていた。
最後、あるシーン。
ああ、きっと、監督やスタッフ、役者たちは「伝わる」と思ってくれたんだな、と思ってしまった。真剣に息を飲みながら、どこか頭の片隅で物語とはまた別軸に、感動した。
このシーンが「伝わる」と思ってくれた。それだけの時間の積み重ねだった、という自信と愛がそこにあった。
最初から最後まで全力で、映画の世界を楽しんだ。映画館全体があの撮影所にいた、そんなような気がした。
そうして、最後の最後、スクロールが流れる。
そこに、たくさん、あの作中に見た人たちがいた。演者もスタッフもみんなまぜこぜで、みんなで映画を作っていた。
それは、まるでこの映画の物語そのもののような気がした。映画を作って、届ける。それが、こうして広がっていく。
ああほんとに、すごい。しっかりとコメディで愛にあふれた、本当に幸せな映画だった。
主人公に特化した感想を「つくのラジオごっこ」で一人喋りしたりしました。声が完全に嗄れててお聞き苦しいですが、それでも語りたくて仕方ない、勢いだけは伝わる気がします。
15分弱の短い音声なので、よければ。
Thalaviaaの感想をどう綴っていいか、分からずにいる。本当に苦しくて、でも確かにめちゃくちゃ好きで、でも、と延々と観た時から思い出している。
お芝居として好きな瞬間が詰まりまくっていて、そして物語として飲み込みにくい(面白くなかったわけでも、理解できないわけでもなく、あまりにも悲しくて辛くて)から、きっと言葉が出てこないんだ。
オーストラリアで過ごすヴィシュワが結婚のためにインドにいる父と会おうとしたことで自身の父のこと、自分の仲間が置かれている状況を知り「指導者(タライヴァー)」になる物語。
前半のダンスチーム、タミル・ボーイとしてのステージや練習シーンでたくさんのダンスを観ることができて、その自由さに心がわくわくする。
少し前、ヴィジャイさんのダンスについての評価が話題になっていたけれど、思い出しながら深く深く頷いてしまった。
特に物語の中、タミル・ボーイのステージに様々な人がつい身体が踊りだし、シャツを使った振り付けを自分たちも踊ってしまう、というシーン。わかる、わかるよ!と思いながらニコニコしながら観た。分かる。私はダンスが決して得意ではなく、いや得意じゃないくらい苦手であまり「踊りたい」と思うことはないのだけど、それでも身体が揺れそうになる。あんな風に軽やかに動けないことは百も承知で、それでも身体がリズムを刻む。
そしてそれがある意味で、後半のあるシーン、悲しみにも繋がる。
踊ってるヴィジャイさんが好きだ。踊りで、この人はこんなに人を幸せにするんだ、と思う。
父が言う、「暴力ではなく勝つんだ」という台詞を繰り返し思い出している。
ふと思う。今回の映画に限らず、父と息子、の息子としてヴィジャイさんの作品をいくつか観てきた。
ヴィジャイさんは強い。めちゃくちゃ強い。それこそヒーロー映画、スター映画という枠があることを含めても、いやでもやっぱりめちゃくちゃ強い、と思う。アクションも綺麗で容赦なく、格好いい。
だけど、そのいくつかの作品でヴィジャイさんは父から言われる。暴力ではなく、正しく勝つこと。その方法で勝ち続けること。それが、もしかしたら私がヴィジャイ映画が好きな理由かもしれない。
圧倒的な暴力や復讐、殺すこと、は描く。描くのだけど、それが「正しさ」とは呼ばない。それ以上に、暴力以外の方法で、圧倒的に勝つということの真っすぐさも描いてくれる。だからこそ、私は安心してこの映画を観ることが出来るのだ。
そして、だからこそ。ある瞬間の「目の色」の変化が悲しかった。目の色、という表現は比喩として知っていたけどこういうことか、と思う。
(そしてもちろん、あの表現を演じて成立させてみせるヴィジャイさんに改めて惚れ直しちゃうんだけど!)
「一度ナイフを握れば、それが守るためであれ、壊すためであれ、手放せない」
劇中、繰り返し出てきた言葉が「彼の」言葉になってしまう。それは、いっそ、美しさもあり、また絶対的な力に見惚れそうになるシーンでもある。
また、それはそのまま「指導者(タライヴァー)」になる彼を讃えるシーンへと続く。だけど、どこか、ずっと悲しい。それでいいのだと思う、確かに彼も、彼自身が望んだんだと思う。
だけど私は、結局最後まで「どうして」と思い続けていた。
祭りのシーン、踊らずにはいられなかった身体も。麻薬ラッシーによってわずかに緩んだ心から漏れた言葉や歌声も。
親友が来てからのヴィシュワの変化が愛おしくて前半なんなら目立つな〜と気を緩めながら観ていた彼の存在に後半ずっと感謝していた(と同時に、だからこそ彼のことだけはヴィシュワは失いませんように、と願っていた)
そんなのお前に似合わない、と言ったあの言葉が、嬉しかったな。だって、本当にあまりにも「指導者」が似合い過ぎるから。きっと誰もが疑うこともなく、ヴィシュワ、ではなく、タライヴァーとして観る。
だけど、確かに彼の近くに指導者じゃなく、ダンスが好きで、いい加減なところもたくさんあって、だけど憎めない「ヴィシュワ」というただの男だってことを知る人がいるのは、本当にかけがえないことじゃないか。
あの最後を、私はハッピーエンドと呼んでいいのかわからない。ただ、あまりにも血が流れ過ぎていること、また誰かの思いが踏み躙られていることをずっと考えている(彼の決意と車のハンドルを握るシーンが、ヴィジャイさんに纏わるシーン以外では心に深く突き刺さっている。どうして、と理由が分からないという意味ではなく、分かるからこそより、何度も問いかけている。どうして)
ただ、あの病院のシーンとそのあとの街のシーンがあったことを、忘れずにいたい。分け与えるのではなく、分かち合う。流れている血の色で、判断できないこと。
あの小さな女の子たちが繋いだ手のことだけは、忘れずにいたい。どう受け取ったら良いか分からないけど、あの瞬間を大切にした方が良いことだけは、分かるのだ。
ラジオはずっと、特別だった。なんとなく格好良くて近寄りがたく、特別。
それが当たり前の日常になってからもう4年が経つらしい。更に言えば好きなラジオは8年目、ということはその半分を聴いてきたことになる。
まだまだ新規リスナーだと思っているのに気がつけば「あああったな」と出てくるエピソードに微笑んでしまう頻度も増えた。
特徴的な唯一無二な企画もノミネートしたしてない関わらずの珍迷場面たちも。何気ないメールも印象的なメールも。
それに対しての源さんの言葉も。
まるで宝物のように降り積もって宝箱がいっぱいになっている。
最初は、radikoの使い方すら実はよく分からなかった。エリアフリーや有料会員もよく分からず24時間以内、や3時間縛りもちゃんとは分からず、結果、YouTubeの公式チャンネルが公開していた過去の放送を何度か繰り返し聴いた。
当時は札幌にいて、札幌だから聴けないのかと思い(そんなことはなかった)大阪に帰った際、ようやく聞くことができて「源さんのラジオが聞けた!」と興奮した回。確か、あれはずんの飯尾さんがゲストで、MIU404の8話の話をしていた。
その回で初めてしっかり「放送」としてラジオを楽しむことができて、それで「ああ、ラジオを私は輪に入って楽しむことができるのか」と感動した。
はぐれものたちが集まる深夜ラジオ。
そこは結束がどうしても強くなるしそれが魅力だとも思う。だけど「入れない」と思う場所が多い私にとって「開かれた内輪」がどれだけ心強かっただろう。
今は変わったし、また源さんの心持ちも違うとは言われているけれど初めてラジオCMの「友だちの家に遊びにいくように」という言葉を聴いた時に妙に納得したのを覚えている。
まさしくそれだった。
何時に聴いていても。リアルタイムでも、タイムフリーでも。過去の録音やSpotifyの配信を聞き返していても。深夜の気心の知れた相手と一緒にいる時の感覚がそこにはあった。
眠れない夜を、眠らない夜に変えた。やがてそれは一つのラジオ番組だけが好き、だったのをどんどん「ラジオが好き」に変えてくれた。好きなラジオ番組がいくつも増えて、そのうちのいくつかとはお別れしたこともある。
その時、耐え難いような寂しさと痛みに堪えることになって、我ながら少し驚いた。あんなに、縁のない存在だと思っていたのに。
だけど「星野源のオールナイトニッポン」が教えてくれた「ラジオは楽しい」に感染し、ラジオの楽しみ方が広がっていったから、それは当たり前といえば当たり前だったのかもしれない。
こんなに辛いなら、好きにならなければよかった、なんて過りかねないくらい好きになったラジオたちを、でもやっぱり自分の人生から跡形もなく消してしまえばそれは、どの番組であってもきっと自分の人生の形を変えてしまうのだと思う。
そんな存在が自分の人生で増えて本当によかった。
星野源のオールナイトニッポンが好きだ。前提、源さんのことをアーティストとして好きだから、というのはある。
ラジオで聞けた作品が生まれるまでの工程や作品への思い、それに纏わる思い出を聞けた時にすごく素敵なものを分けてもらったような特別な気持ちになった。
だけど、きっと、それがなかったとしても、私は星野源のオールナイトニッポンが好きだ。
自分の好きなカルチャーの話じゃなくても、それこそ、何一つ分からないけど自作パソコンの話を楽しそうにしているのを聴けるだけでも、私は嬉しい。
自分の生活の中、源さんの笑い声が響く2時間があること。それは、日々の必需品で、日常で特別なのだ。
今回、400回記念で、様々な方からのお祝いコメントがあった。その一つ一つに嬉しそうに声を弾ませる源さんの姿が目に浮かぶようで聴いているだけで、本当に幸せな気持ちになった。
そして何より。源さんにとってのラジオの原体験とも言えるコサキンのお二人からのコメント、その自由さに、ああ、このラジオを源さんは聴いてきたんだな、と思った。何も分からなかったけど、妙に腹落ちするような、そんな気持ちがあった。
いつかのエッセイ、源さんが言っていた。メールを送らない、Twitterで実況するわけでもなく、誰かと話すわけでもなく、でもただ、ラジオを聴いている、あなたがマイクの向こうにいる。
その時、源さんのまっすぐな目と目が合ったようなそんな気がした。
だからラジオがこんなに好きになったのだ、と思った。
その時の感覚に繋がった。ああ、ラジオが好きでよかった。私も、源さんも。そして、それがこうして夜と夜を繋いで、時間を越えて、今日に繋がって、本当に良かった。
いつか終わりはくるだろう。だけど、できたら、そんな朝はなるべく遠くだといい。もう少しあの安心できるくだらなくてばかばかしい、だけど大切な夜と一緒にいられますように。
本当に、400回、おめでとうございます!
映画の力を信じたかったのだ。
観終わって、考え続けながらその言葉に行き着いた。この作品を作った人も、劇中の人たちも、そしてこの映画を好きだと思う人たちも、きっとみんな、映画の力を信じたいと思っている。それが、きっとSNSはじめ、熱量のある言葉がこの作品の周りに集まってる理由だろう。
「お前が芸術(シネマ)を選ぶのではない、芸術(シネマ)がお前を選ぶのだ。マイボーイ」
そんな印象的な言葉に惹かれ、この映画を観ることに決めた。またピストルと8ミリカメラを構え睨み合うキャッチは観終わった後見返すと深くため息を吐いてしまう。本当に名シーン過ぎる。
あらすじとしては血を見るだけでも失神してしまうキルバイは警官に内定していたにもかかわらず、冤罪にかけられ、投獄される。そこから再起をかけるため、悪徳警官からギャング・シーザーの暗殺を命令される。
映画監督になりすまし、シーザーの映画を撮りつつ彼に近付くキルバイ。だが次第にふたりの間に変化が生まれていく、という物語。
これだけ読んでもある程度「きっと映画に魅了されていくんだろうな」ということは伝わる。
伝わるのだけど、実際に映画として観て、キルバイとシーザーが映画に魅了されていくこと、またその中でも時折、当初の目的に揺れ動くことなどを含めても「芸術がお前を選ぶのだ」という言葉について考えてしまう。
映画を撮る楽しさの前に、そもそもシーザーが映画が好きで、自分の映画を撮るために映画監督を募るシーン。そこにもまず、私はじんとしてしまった。
色黒のヒーローなどいるものか、と言われ、激昂する姿や、キルバイに出会い、クリント・イーストウッドとの思い出を語るシーンなどは無邪気な少年のようでもある。
後に語られることではあるけれど、シーザーは残虐が本質ではなく、あの純真さや好きなものへの真っ直ぐさこそが本質なんだろう、と思う。
そう思えば思うほど、ギャングになるまでの過程や理由を思って、なんとも言えない気持ちになるのだけど。
映画を撮らずにいられない。どんな状況でも、カメラを回せ、というシーザーはもちろん、気が付けばカメラを構え、絵を考えるキルバイもまた、任務を越えて、彼の物語を撮り、作り上げることに夢中になる。
あの瞬間の、彼の決意をただ「友情」と呼ぶのは少し迷う。もちろん、それもあるだろう。だけど、それ以上に自分が撮る作品の終わりはこんなもののはずじゃないという思いがあったんじゃないか。
やがて、物語は深い森に住むシーザーの故郷、仲間であり家族である部族とその人たちを差別し、搾取する権力との構造へとつながっていく。
敵わないもの、変えられないもの、圧倒的な暴力。ピストルとカメラで睨み合った彼らが、「芸術(シネマ)」を、信じる。
信じたかったのだ、と思う。
実際、劇中、クライマックスだけじゃなく、映画だから、の奇跡が起こる、映画を撮りたいと思うこと。映画を通して伝わること。
それを身をもって知った彼らだからこそ、映画を、芸術を信じる。
それは作中の彼らだけではなく、この映画を作った人たちもそうだった、とラストの映画館のシーンを思う。私たち観客が眺めるスクリーンと重なるように描かれた映画の中の白いスクリーンは「届くでしょう」と語りかけているような気がした。
ここまでこの映画を観た、暗闇で目を凝らすように映画に時間を使うあなたならきっと。届く、伝わる。そこにあるもの、いる人のことを想像してくれるでしょう。
私は、映画で伝わらないこともあると思う。どれだけ分かりやすく、緻密に作り上げられた物語や演出も歪んで受け取られたり届かなかったりすることもある。だけど、それでも、伝われ、と祈られることが好きだ。
私が目にする以上に「伝わらない」に向き合ってきただろう創作者が自分ができる全てをもってして、「伝われ」と願うこと、「伝わる」と信じること。それを信じ続けられるということこそ、ある意味で「芸術が選んだ」あなたなのかもしれない。
そして私は、出来るなら、そうであって欲しいと思う。映画が、芸術が、そんなものであってほしい。
言葉や文化背景が違う私にこんなにも熱量が届くんだから。
同時に映画は、物語は恐ろしいものだと思う。あの作品を観て、怒り、看板を踏みつける姿を観ながら、感動と共に恐ろしさも感じた。
物語は心を動かす。だけどそれは使い方を誤れば、あるいは使う人間が悪意を持てば、いやなんなら持たなくても暴力へと変えることが出来てしまう。
また、シーザーの出身とを重ねて彼が成り上がるには結局暴力しかなかった、という感想を見た。いやでも、そうだったのか?と今日一日中考えていた。
確かに、結果として彼はそれを選んだ。だけど、その中でも映画を観続けたこと、憧れたこと。そのことを私は信じたいと思う。
変えられないことはたくさんある。
たくさんあるけど、映画やスポーツや勉強や、もちろん、それを選べることも特権と言われたらそうだけど、それでも、と思う。
(これは、同じくインド映画である「エンドロールのつづき」や「ビギル」「スーパー30」が好きな私の身勝手な願いではある。それは認める)
それは彼ら自身が、という話でもあるし、私の、という話でもある。
知るということ、同じこと、違うこと、でも、ああして笑い合うこと。美しい景色。私は、それを、映画で知る。
きっとそれにだって、意味はある。
私は、映画の力を信じたいのだ。
私がこの映画でとびきり好きなシーンは、嘘か本当かは分からないけど、シーザーにとっては真実である、クリント・イーストウッドとの思い出のシーン。
また、それを受けてのレイ先生、キルバイの言葉。私は、本当だといいな、と思う。というか、本当なんだ、それはもはや。
ピストルではなく、カメラが武器だ。そうである、あなたはヒーローなんだ。そのことを、ずっとずっと考えている。そうであって欲しいと、願いながら。
2024.9.24追記
ジガルタンダ・ダブルX、私の好きなヴィジャイ作品とも共通するところなんだけど「自分を誇れ」というメッセージとして私は受け取っており、
どんな立場、背景、関係の人間もそれを否定できないし、させてはいけない。というのとともに「なぜ否定するのか?(否定する権利があなたにあるのか?)」でもあるわなーとか。
メルサルの空港のシーンが私は好きなんだけどそれにも通じる。
なぜこちらが変わらなければいけないのか、という主張。
その上で、とはいえ地球は一つしかないし「共存」を目指す時、どんな方法があるのか、には当然なるんだけど、あの映画の中ではそれに対しての答えは明確に出てるよね。なあ、マイ・ボーイ…。
文学フリマが終わりました。今年も文学フリマ大阪に参加して来ました。できたら事前にブログで告知したかったんですが、バタバタしてるうちに当日を迎え、バタバタしてる間に1週間が経ってました。こわい。
去年、Creepy Nutsのオールナイトニッポンが終了したことを自分の中で消化するために本を出す、と決め、実際出して。
そこで本を手に取ってくれた方から「好きなものについてまとめた本を出しなよ」と背中を押され、じゃあ、と星野源さんについての文をまとめた本を出すことにしました。
なんせこのブログも(自覚はあるけど)ともかく更新頻度がバラバラだし、ジャンルもバラバラ。確かにそれが何かしらのジャンルごとにまとめられた方が、確かに読む側としては分かりやすい。
何より「好きなものの話」を読みたい、と思ってもらえることは無性に心強く、じゃあ出しちゃおう!と決心しました。
最初に出す本を源さんの話にしたのは、冒頭の「はじめに」にも書きましたが、私が一度、今自分がやってるような好きなものの話、の根っこ、大好きな面白いや楽しいを手放そうと思ったことがあったからです。
何かを好きでいることに疲れ、傷付くことが怖くて、だったら最初から何かを好きでいることをやめたらいい。私にとって「好き」は面白いや楽しいということです。
だけど、それは違うぞ、と思えたのは星野源さんに出会ったからでした。この人を好きになると自分が持ってる自信や価値観がひっくり返る。なんとなくそんな予感から「好きになるまい」と思っていたことが信じられないくらいに、圧倒的に支えられた4年間でした。
いや、ある意味でめちゃくちゃ納得がいく気もします。
一度固めかけた「面白いや楽しいを諦める」という価値観を覆してもらったわけなので。
そんなわけで、そんな本のはじめにです。
そして本を作りながらふと、出会ったやまねよしの様の絵に「自分にとっての表現の話がしたい!」と急遽出すことになった「たとえば こんなかんじ」。
これも、ほとんど衝動みたいな本です。こうしてブログを書くこと、そしてラジオごっこをやることに今年、心が折れそうになったことがありました。
誰にとっても意味がないんじゃないかとか、「この程度」と言われるものなんじゃないかと数日、悶々と悩んでめそめそしたりもしました。
それでも、やりたいからやるんだ、とやまね様の絵を観て思って、ちゃんとそれは本という形にして残そう、と決めました。衝動だったけど、今、やって良かったなあとしみじみ思います。
今回は、去年と違い、色んな人を巻き込みました。表紙を作ってくれたやなぎちゃん、絵を依頼させていただいたやまねよしの様。一緒にブースを作り上げたソラ吉ちゃん、ブースだけじゃなくお品書きや無配のポストカードも作ってくれたminoriさん。それから無配からアクセスしたら今回のコンセプト「星座と灯台」のイメージ動画にアクセスできるようにしたりもして。
こちらの動画は学生時代の先輩のモリコ先輩と、音楽をmuseoに。いきなりの依頼にも関わらず、二人とも最高なものを作ってくれました。まじで観てほしい。
それから。文フリで実際にお手にとってくださった皆様、本当に本当に、心からありがとうございました。
2回目でも変わらず、文フリって圧倒的に楽しくてそれから、ちゃんと絶望するな、と行き交う人を見ながら考えていました。特に私が参加するようになったここ2年は出展者も、入場者も凄まじい人数がいます。
これだけの人が本を作りたいと思い、実際作ってたくさんたくさん、本が並んでいる。その中で、自分が本を出す意味ってなんなんだろうといつも挫けそうになります。
特に私は私の好きなものの話、というわざわざ本にする意味って?と聞きたくなるような題材なこともあり、途方に暮れます。
あれだけたくさんの本がある中で手に取ってもらう、の難しさについても考えてしまう。
だけど、そう思いつつ、終わって数日、考えていました。
今回、去年のラジオ本を読んで、と新刊を買ってくださった方がいます。ブース前で見本誌を読んで、じゃあ、と買っていってくださった方がいます。
あれ、本当に物凄い経験だと思いました。
目の前で自分の文が受け止めてもらえるかどうか、が見える。ドキドキしながら本を読む人を眺めたあの数分間は、たまらなく苦しくて、幸せでした。
あの数分間を思い出したり、本を手に取ってくれた方の言葉を思い出したら、なんだか、やってけるような気がしています。
それでもやっぱり「誰に頼まれてなくても自分がやりたいからやる」という軸は、これからも、文を書くときもラジオごっこをやるときも忘れずに、手放さずにいたい。そう思ってます。
思ってるけど、きっとそう思い続けることができるのは、そうしたら誰かに絶対に届く、と信じられるあの瞬間があったからです。本当にありがとうございました。また、どこかで読んだり、聴いたりしていただけますように。
通販もやってます。よろしければ!
※これはキンプリはうっすら履修な人間の勝手な感想です※
応援上映、初体験でした。
ちょうど、他劇場で監督のトークイベントがあることもあり、人いるかな…とドキドキしつつ向かった劇場。
でもそれも杞憂で、そこそこの客入りの中、ペンラの光景も見たいし、と後方席をゲット。
どちらかといえばペンラも使い慣れているか、 と言われたら使い慣れていない。
今回使用したペンラは今年のミッチーさんワンマンで買ったペンラ だし
(ありがとうミッチーさん、たくさん色変えれて助かりました)
その時も一回のみのライブ参泉(ミッチーさんのライブではこう表現される)
カチカチペンラの色を変えるのに慣れていないどころか、何色がどの順番で入っているのかもあんまり把握していない。
その前に行ったことがあるペンラを利用するペンラは色は変わらず、だったので
いけるか?つけないほうがいいか?でも振ったほうが楽しいよな、と周囲を見回しつつ…。
結果、応援上映、行ってよかった。
普段応援上映にどうしてもノリきれるか不安で行ってこなかったけどキンプリについては応援上映大正解すぎる。
一番の理由については後から書きたいけど、そもそも今回、「キンプリを観よう」と決めたのも、どちらかといえば、作品そのものよりもエリートのみなさんが楽しんでいる様子を体感 したい、だった。
身近にキンプリエリートな友だちがいる関係で、その作品への愛情はもちろん、そこから発展しての世界や人間関係、そもそも作品への愛情の深さに触れる機会は多い。
だからこそ、どうせならその愛情含めて新作を楽しみたかったのだ。
キンプリとは、プリズムショーと呼ばれるきらめきを競い合う競技をする物語である(これも解像度が低い説明かもしれない)
そして今回の『KING OF PRISM -Dramatic PRISM.1-』はそのショーの様子をテレビの生中継という形で楽しむ。
おかげで冒頭や合間にスポンサーである十王院グループのゆりかごから墓場までなCMたちが差し込まれる。
私は応援上映で予告前、映画の提供他、これから上映される別作品の予告や
映画館スポンサーへもしっかり応援するというスタンスがあるというのが、すごく良いなぁと思っていた。
もうそれ、絶対楽しいじゃん。
そういう意味でもこの「番組」というスタイルはそんなエリートさんたちの鍛え上げられた掛け声やペンラ芸を思う存分楽しめた。
すごい、本当に。
全てを拾うし、かといって過剰じゃない。
セッションみたいだなぁ、と思うし、これはセンスと一緒に歩んできた歴史なんだろうね、と若干見当違いかもしれない感慨をしみじみ感じていた。
何よりこのキンドラはそのコンセプトの性質上、なんとなくしかキャラクターを知らないくらいの人間いやなんならほぼ作品を知らないひとにとっても楽しみやすくなっ ている。
いわば、テレビをたまたま着けたらやっていた番組、を楽しむように見ることが出来る。
もちろんそれを全力で応援するのも「こういうのがあるんだ」と出会うこともできる。
なんだかその体験が楽しかった。
と、結構途中までライトに楽しんでいたのだ。
なんとなく事情を知っているくらいのキャラクターたちそれぞれのプリズムショーはそれぞれの個性や思いが伝わってきたし、知らないからこそ、楽しめるいろんな表現、そしてそれこそペンラの色んな変化をまるごと楽しんでいた。
それが、思わぬ刺さり方をしたのが一条シンくんのターンだった。
友だちの推しというのもあるけれど、私はキンプリすげーと知らないながらに思うのはこの一条シンくんの物語がすごく興味深い、と感じるからなのだ。
プリズムショーに偶然出会い、自分も同じように誰かを幸せにしたい、きらめきを届けたいと歩みだした一条シンくん。
その歩みが、いつも心に響いてしまう。
それは、そのプリズムショーが素敵だからというのもあるし、
このキラキラとした愛情表現をファンたちもするコンテンツの概念 みたいだなぁ、とも感じるからだ。
色んな考え、推し方もあるんだろうと思うし、 こればかりは完全に部外者の勝手な感慨ではあるけど、何かを「好きだ」と思う気持ちがそのままキラキラと輝く応援上映を観ているとなお さらそんなことを思う。
好きだ、という気持ちから始まった何かには、 できたら幸せな時間を過ごしてほしいという勝手な願いもある。
だからこそ、今回のキンドラで一条シンくんの「 自分だけを観てほしい」というショーと、そこからの流れがすごいな…と感じ入ってしまった。
もちろん、あのショーはシンくんの意志、というよりもシャインの暴走でもある。あるんだけど、でも、 そうだよな、とも思う。
好きだという気持ちの暴走や暴力性を時折考えて落ち込む人間だからかもしれないけど、なんだかいつも、シンくんのあのショーは、食らってしまう。
そして、だからこそ7人のショーを最初は拒絶されること、それを受け止めて謝ることにだだ泣きしてしまった。
シャイン関連のエピソードをしっかり追えていないので、 事情は詳しくは私にはわからない。
だけど、むしろ分からないからこそ「こわかった」と拒絶する観客の気持ちもわからなくはない(シャインのことをほぼ忘れていた私にとってはシンくんのショーとして見えていた((友だちとのLINEでシャイン…!ってなった)
かといって、プリズムショーをしているスタァが「僕だけを観て」と願うことはそんなに悪いことなのか、とも思う。
プリズムショーがまっすぐでキラキラしていることは分かる。わかるけど、でもだって、やっぱり観てほしい、と思う。
好きだ、という気持ちやキラキラとした楽しんだ気持ちがそのまま点数化するからこそなおさら。そりゃ、愛されたいって思う。
でも、その愛されたい、が怖く感じること、も痛いほどわかって心臓が痛かった。
さらに言えば「好きな人がステージ上で謝る」 ことを目撃したファンの気持ちを想像してめちゃくちゃ苦しかった 。シンくんのショーはこんなもんじゃない、と思うファンほど苦しかったんじゃないですか…あのシーン…。
だけど、それに真摯に謝って、ショーを始めること、そしてそれを求めるファンの姿は私には「そうだったら良いな」と思う光景だった。
間違っても、やり直せる、そんなショーだったらいい。
もう一回、と立ち上がれる、それを肯定する、 その光景は確かにきらめきに満ち溢れたプリズムショーだった。
(関係ないけれど、あの曲のバージンロードのその先、という歌詞も勝手に深読みして泣いていた。そうだよね、バージンロードを歩くことはゴールじゃなくて、そのあとに生活は続くんだよ…)(たぶんそんな歌詞ではない)
そして、そしてだ。そのあとのシーンが、本当に、今回応援上映で観てよかったと思う瞬間だった。
光が消え、ショーを続けられなくなった瞬間。
あの真っ暗な中、観客たちが歌いだす。 そしてそれが画面向こうだけじゃなくて、 観客席のこちら側からも始まる。
ちょっとずつ声が重なって、それぞれの推しの色に灯されたペンラが、あたりを照らす。
あの光景、本当にきれいだった。すごい。現実だった、 プリズムショー。
そしてそれは、あのONE PIECEも応援上映の際参考にしたというキンプリだからこそ、 の光景でもあるような気がした。
何年もこうしてエリートがつなぎ、プリズムスタァたちを信じてきて、それがここに繋がるんだな、 と思って泣いた。それは、本当に美しくて、愛のある光景だった。
どうだろう、これは、どれくらいズレた感想か、わからない。
だけど、私にとっては、そういう「好き」があんなきれいな景色を生み出すというそのことがとんでもなく、嬉しかったのだ。
好きは時々、暴走することもあるけれど。扱いが難しくて、厄介なところも多々あるけど、だけど、そうだよな、こんな美しい景色に繋がるんだよな。
いったん私はそれをかみしめながら「ああ、プリズムショー最高だったな」と思ってる。
今日一緒に劇場で観たエリートの皆さん、 ありがとうございました。