50代早期退職者tudanumax の日記 (original) (raw)
本日兵庫県知事選挙の結果が出て、元知事が激しい選挙戦を制したとのこと。
私は、約1週間前のブログで、これまでの元知事に対するマスコミの報道姿勢のあり方について疑問を呈しておいたが、その後も大手のマスコミ各社の報道姿勢には変化はなかった。
むしろ候補日直前に行われた、22の市長らによる対抗馬候補への支持表明の記事を大きく報道したり、朝日新聞に至っては11月15日に兵庫県知事選に至った経緯と題した従前通りの公益通報に関する問題について元知事の対応に問題があることを暗に主張する内容の記事を出したりしている。これまでの報道に関する反省や問題意識は全く感じられなかった。
このままではマスコミの信頼が失われる事態になりかねない。マスコミがしっかりしてくれないと、ネットにも裏付けのない憶測に基づいた情報が溢れており、誤った情報に躍らせる危険性があることは言うまでもない。今回の一連の報道に関して、報道機関自らがきちんと検証する姿勢を示して、信頼を回復することを願っている。
現在、私の故郷である兵庫県において知事選挙が行われている。
このことに興味を持ったのは、先週実家に帰省する機会があり、選挙について家族と話す機会があったから。この点については情報が錯綜しているが、ちょっと信じられないような事態が起こっている。
端的にいうと、マスコミ報道とネット情報が完全に乖離しているということ。このこと自体は東京都知事選挙でもあったので、さほど驚きはしない。しかし、そのことを全くマスコミが報道していないということに驚き、背筋が寒い思いがした。
ネット情報では前知事の選挙演説には多数の聴衆が押し寄せている。前知事は、つい1ヶ月前にはマスコミ報道でパワハラをし、おねだりをし、公益通報をした職員を自殺に追い込んだとんでもない人物として報道されていた。そのような人物の選挙演説に多数の聴衆が来ているのはどう考えてもおかしい。
どうもそれまでのマスコミ報道がおかしいのではないかという疑いが浮上している。100条委員会の調査でもパワハラなどの事実は出てきていないし、職員の自殺も公用パソコンに保存されていた知られたくない情報が明るみに出ることを苦にした可能性が浮上している。マスコミが視聴者にこれまで植え付けてきた前知事の人物像がぐらついているのだ。
私には、何が真実なのかを判断するような力はないが、1つ指摘しておきたいのが、このような情報が錯綜し、従前とは違う見方が出てきていること自体は報道する必要があるのではないか。そして、今回の場合、マスコミには報道する責任があるのではないか。
マスコミが、これまで前知事に対して、その人格を否定するような報道をしてきたことは誰もが認めるところだろう。ネット情報に疎い県民は、マスコミによって形成された人物像に基づいて投票するだろうし、仮に情報に気づいてもマスコミが報道していないことを重視して、やはりマスコミが形成した人物像に基づいて投票すると思う。しかし、それが公正な選挙なのだろうか。
通常は報道の自由の中に報道しない自由もあるだろう。また選挙期間中の報道の中立公正の要請があることも確かである。
しかし、私は、今回のケースでは、マスコミ自体が選挙の候補者の人物評価の形成に事前に関与していることがポイントだと考えている。マスコミがそのような先行行為を行なって関与している以上、従前と違う人物評価もありうる事態が生じている場合、それを是正する義務を負うのではないか。
もちろん、その後のネット情報が誤りで、むしろ誤った情報が流布されていると判断しているのかもしれない。そうだとしても無視して報道しないというのは納得できない。現に前知事が追い上げているとの報道もある。それはそれでまさに選挙の公正が害されようとしていることになる。反対の有識者の意見をのせるなどして報道することは可能だし、むしろすべきだろう。
あるいは、ネット情報は今回の知事選挙とは関係がないと判断しているのかもしれない。しかし、知事の人格評価に関わる事実を事前に幅広く報道しておきながら(おねだり記事などがそれにあたる)、今回のネット情報は人格評価とは関係がないというのは明らかに無理があるように思う。
マスコミが選挙候補者に対して一定の人物評価を形成し、それに基づいて選挙が行われる。その人物評価が誤っている可能性が指摘されているのに、何も報道されない。日本もロシアと同じではないか。今回は、マスコミが報道しないことの恐ろしさを感じた。
本日は、聴講生として通っているB大学で講義と演習に出席した。
まず2限の中国文学の講義。私は今の中国は好きではないが、この授業はなかなか興味深いものだった。中国では紀元前1000年ぐらいの殷の時代に描かれたと思われる詩が残っており、当時の人々の恋愛思考が現代とさほど変わらない形で残されていた。また、時代は遡って杜甫(712〜770)の書いた詩では、戦争に送られた人達の気持ちが生き生きと描かれている。教授は、このような詩が有名にならないから戦争が終わらないと述べておられた。
4限は哲学演習。ブログには書かなかったが、先週私が担当範囲を報告し終わっていたので、楽な気持ちで演習に参加できた。学者の哲学論文を読解する講座で、議論を理解するのに苦労する。今回は、下記のような論文を読む上での注意点が印象に残った。
専門家の意見でも鵜呑みにしないことや陥りがちな誤解など、本では学べない有意義な時間になった。とりわけ執筆者が断定している部分が本当なのか、執筆者が書きやすいように議論を誘導していないか、有名な議論にあえて引き付けて批判している場合には仮にその批判があたっているとしても、それまでの全部の議論が誤っていることになるのかなど。
今回は、議論についていけないところや先生の質問に対する応答など積極的に演習に参加できた。
帰省最終日は、墓参りに行く。
娘を新神戸駅まで送り、それから1人でお墓に向かう。
実家の墓は、墓地の中でも上の方にあり、息を切らせて階段を登っていく。祭日の昼前だが人の気配がない。最近、墓の管理をしない人が増えているようで、管理料不払いで撤去された空間や、墓石が割れている、草が伸び放題になるなど荒れている場所が増えている。
遊びに行く余裕はあり、市内はごった返しているのに。先祖を大事にしない、心の荒れた日本人が増えていることは確かのようだ、
寂しい気持ちになったが、高台にある墓から見える神戸港は、今日も美しい。
急きょ帰省して3日目。
今日は、母校の文化祭に娘とでかける。
大学までの道のりは、昔とは随分変わっているが、ところどころのポイントは覚えている。
約30年ぶりの母校は、文化祭で人が多いことあり、大学の敷地が狭く感じる。また、以前なら自由に行き来できていた附属高校、中学の敷地がフェンスで囲われて入れなくなっている。昔の開放的な雰囲気が失われているのは残念。
どうも2人とも人混みが苦手で、早々に退散。
今日も1万歩以上を歩く。