日記(『手の倫理』読書メモ) (original) (raw)

8/11

『手の倫理』読了。事例や分類が多用されており、主張も一貫しているためわかりやすかった。正直に言えば物足りないと感じる部分もあるが、思考が整理された箇所や面白いと感じた箇所、自分の感覚を裏付けるような箇所もあったので、それも含めて読書メモを残しておく。

なお、私が物足りないと感じたのは、著者の取り上げるような介助やケアのシーンが私にとって馴染みのないものであったからかもしれず、現場に携わる人たちにとっては示唆に富んだ本なのだろうと思う。自分はともすると思考が宙に浮いてしまうたちであるため、実際の体験や事例から出発して思想を形作るプロセスには学ぶところがあった。

・道徳と倫理

道徳が個別具体的な状況に左右されない、普遍的で定言的なものであるのに対し、倫理は個別具体的な状況においてその都度立ち上げなければならない「すべきこと」にかかわる。倫理は道徳が適用できないような場において問題となる。つまり、道徳が通用しない、ならばどのように振る舞えばよいのかという「迷い」においてこそ倫理は立ち上がる。だから倫理とは創造的なものである。

・視覚から触覚へ

主体と対象との間に距離があることを前提とし、非時間的で一方的な視覚に対し、触れる側と触れられる側が距離ゼロの関係にあり、持続的で可逆的な触覚。触れ方が現れ方を決める(ふれる技術の問題)。相互的な関係の中で、時間的な幅が対象の無限の多様性を開示する余地を与える。

触覚は境界にかかわる感覚である。自他の境界線を溶解させることもあれば、自己の輪郭を確認させることもある。

・「さわる」と「ふれる」

「さわる」が対象に対する一方的で不干渉な接触であるのに対し、「ふれる」は相互干渉的であり、ふれる側がふれられる側からの影響によって変化する可能性を孕んでいる。

一方で、「ふれる」を超えた場所にはまた「さわる」がある。死にゆく身体にさわり、その生物としての有限性を知るように、交感を拒絶する対象の「絶対的な遠さ」を触知すること。「ふれる」という人間的な次元には還元できない絶対的な距離の触覚があり、この地点から他者との交流について考える必要がある。

・信頼

触れる側、触れられる側、どちらにも接触した時に何が起こるかはわからない。その危険にもかかわらず接触が許されるとき、そこには信頼がある。信頼は、だから無根拠である。信頼することによって相手からの情報が伝わり、こちら側の情報が伝えられ、相互的で生成的なコミュニケーションが可能になる。

信頼とは相手を受け入れ、相手に身を預ける場として自分を開くこと。

接触は伝えたい情報だけでなく、伝えたくない情報まで伝えてしまう。「ふれる」のコミュニケーションは当人の意思を超えたコミュニケーションであり、対話者たちはその場で生じるメッセージにこたえる波のような非人称の存在になる。

・フレームという概念(ここが一番面白かった)

同じ服を脱がすという行為が「介護」として現れるときと、「セクシャルなもの」として現れるときがある。「介護」というフレームが、「セクシャルなもの」というフレームに横滑りしてしまう、そのトリガーとしての触覚。世界がリアリティを持っているのはそこにフレームが機能しているからだが(少なくとも本書からはそう読解できた)、そのリアリティが書き変えられてしまう瞬間がある。「気がふれる」という言葉に表されているように、「ふれる」ことは自己同一的な主体と世界の崩壊でもありうる。状況にとって、自分にとっての異物になること。そのことが個別に異なる状況に分け入り、他者に触れながらその場における振る舞いを模索することへと繋がる(道徳が通用しない地点で創造される倫理)。

・とはいえ全体的に議論がやや楽観的であると感じた。著者は「触れる」ことを通して「相手の動きや感情が伝わってくる」と主張するが、そこにミスアンダースタンディングの可能性や、他者の感情を捉えることのできない人のいる可能性に対する立ち入った考察はない。また、触れることによって喚起される未知な感覚や誘惑、自分を「その場の状況においてふさわしくない存在」にしてしまうような触覚の逸脱性を前にして、著者はそれが「よい結論」に至った例のみを引き合いに出して、「触覚の非道徳性が倫理の可能性を開く」と述べるが、このとき倫理を開いているのは触覚ではなく良心なのであって、その良心が働かないのであれば、挙げられた事例において、触覚が倫理的であることはなかったのではないか。たとえば他人の身体に触れたいという触覚的欲望を前に、正しい判断がなされないことがあるにもかかわらず、その事実に対する考察を抜きにして「非道徳的な感覚と出会うからこそ、そこから状況に深く分け入り、悩み、他者と関わりながら行動規範を立ち上げていくことができる。よって触覚は非道徳的であるがゆえに倫理的である」などと結論してよいのか。行動規範を生み出せる可能性とそれが失敗する可能性は五分五分なのだから。倫理は創造されるとは限らない賭けのようなものであり、その危うさこそが倫理を倫理たらしめているのなら、もう少しその創造の場に踏み込んだ考察が必要であると感じた。