読書感想文「王墓の謎」河野 一隆 (著) (original) (raw)

世界宗教誕生前の「神」と人々との関係である。
交易や生産活動によって、宝飾品などの財がやってくる。交換や贈与によるものなので、それが個人だけでなく、集団に貯まることはインフレを招く。価値の低下である。適切な社会活動が行われなくなるので、社会不安に直結する。そうなると、その集団において、高価な副葬品(威信財)が吹き溜まってしまうことの「穢れ」を払ってしまいたくなる。誰にどうするか。神に捧げるのだ(まぁ、事実関係に争いがある受領拒否を原因とする供託のようでもある)。だが、神に受け取ってもらうには犠牲が必要だと考えた。もしくは、その集団の誰かの死を機会だとした。そうした奉納の儀として、より高く、我も我もと参加して墳墓を築いた。王が命じた、というより「奉り」に参加した、ということだろう。つまり、富の不均衡な集中を防ぐための昇華システムとしての神への贈与、すなわち価値創造されたしまった負債の消化するための宗教イベントとしての墳墓造営だった、ということだ。
だが、世界宗教誕生とともに、王墓、墳墓づくりは終わる。ムラの祭り的な土俗的な神聖観念からの解放され、生け贄や人柱が不要な観念論や形而上学が発達した。まぁ、少しは人類は、理性的になった。
いま、宗教的儀礼は一層簡素化され、先祖概念が薄まり、ファミリー墓の需要は絶賛激減中だ。庶民の墓はせいぜい卒塔婆が立つ程度の木の板に戻るんだろうし、著名人であってもイエの墓ではなく個人墓になるんだろう。そんな現在から、かつて王とされた人の墓を考えてみる機会をくれる一冊だ。
もう一つ。どうにも日本人の集団の紐帯とはキリスト教や仏教の洗練がなく、王墓を作っていた頃の土俗的な野蛮さを伴っている。世界宗教の統一的な暦の範疇外にあるため、多くの祭りがヤマから降りてきた霊や先祖への対処だったりする。そうした剥き出しの異質さ、すなわちゴッドや仏と、カミとの相性の悪さ=独自性(非合理性)となっているんだろうことも思う。

王墓の謎 (講談社現代新書)