払暁 (original) (raw)
普段キャンプをすることがない私にとって、「最高のキャンプ」とはほぼ、最初で最後のキャンプを意味する。
そんな経験が、まだ自分が故郷の北海道にいた、大学3年の時にあった。
当時の私は学生寮に住んでおり、新しい入居希望者の募集や入居後の新生活フォローをする委員会の委員長を担っていた。
住んでいた寮が「自治寮」という特殊で怪しげな環境というのもあって、ただ黙っていれば自動的に入居者が獲得できるわけではなかった。
潜在入居希望者に対して、通常のアパートとの違いを説明したり、魅力をアピールしたりしないとなかなか入居してくれない。そして、入寮後の新生活へのフォローを丁寧にしないとカルチャーショックですぐに退寮してしまう。そんな厄介な事情があったのだ。入居者が欲しいなら特殊さを改めれば良い話だが、その特殊さを愛するがゆえに新たな仲間を歓待したいという気持ちの原動力になっているのでこの点はどうにも致しがたい。鶏と卵の挿話の逆である。何の逆かは知らないけれど。
私の住んでいた寮では4月と10月に新たな入居者の受け入れをしていた。当然、4月の受け入れのほうは新入生が一挙に押し寄せるので、寮内でも歓迎イベントが多数あり華やかである。私が担当していた10月の枠は、上半期で退寮した学生の分の補充という意味合いで、その人数規模も4月の10分の1くらい。どうしても地味な印象があった。自分は4月担当の委員長を希望していたが、立候補した委員長選挙で負けたので、半年後に人気のない10月担当の委員長に再度立候補し、無投票当選を果たしていた。例え閑職であったとしてもせっかく委員長と冠のついた役をやるならば、「10月の受け入れも捨てたもんじゃないぞ」と寮生を見返してやるような活動をしたいと思っていた。そして、私が委員長をやったという痕跡を後世に残したかった。今までの寮の歴史で誰もやったことがなく、一回目が好評に終われば伝統行事になりうる企画をやり遂げたい。その思いで企画したのが「秋の受け入れキャンプ」だった。
「秋の受け入れキャンプ」とは読んで字の如く、新入居者を連れてキャンプに行こうというシンプルな企画である。後期の授業が始まり、11月の寮祭を控える中での敢行という、とってもタイミングの悪い企画であった。いつもは食いつきの良い寮生たちも腰が重く、参加表明したのは新入居者を受け入れた部屋の住人と、キャンプ経験豊富な有志数人。それに委員会のメンバーという小規模のものとなった。まぁ良いだろう。何だって初めはこんなものさ。
キャンプ企画をするにあたって、ひとつだけコンセプトがあった。それは、「ただただ楽しいだけのイベントにしよう」というものだ。私のいた寮、というか大学は、何かにつけてイベントを奇抜で過酷なものにする、という奇癖を抱えていた。途中にはさむミニゲームに負けると全員分の昼食をおごらされたり、休憩中に上級生の気まぐれで車が出発して数名置いてきぼりにあったりと、旅の道中に無闇にスリルを盛り込みがちであった。それはそれで楽しい側面もあるが、私が主催の企画はただのご褒美イベントがいいなと思っていた。そういう強烈な刺激がなくとも、人はイベントを楽しめるのだと示したかったのだ。
キャンプの目的地は北海道京極町に決めた。大学のある札幌からは2時間弱の立地にあり、羊蹄山を一望できる最高の立地であった。キャンプ地だけは委員長である私の独断で決めたが、それ以外のキャンプに必要な諸々の手配はすべてチームメンバーに役割を振り分けた。振り分けた、と言うと聞こえがいいが、要は私がキャンプなるものに対してあまりに不案内なので、勝手のわかったメンバーに代行してもらっただけである。おかげでキャンプ地の予約、現地までの車のレンタル、バーベキューの用意、テントのレンタルなどはすべて私以外のメンバーの力で具現化した。そのおかげもあってか、いまだに私はキャンプをするために、どんな設備が必要かをよくわかっていない。自分でやったこと以外は学習できないのが人間である。
そしてキャンプ当日。補充した新入居者のうち5名が参加してくれた。出発にあたって、私は委員長として挨拶代わりの一発芸をした。この寮のイベントでは、主催者代表がピン芸を披露してからスタートするという奇習その2がある。そういうところも一般学生から忌避されるところだと思う。どんな芸を披露したかは覚えていないし、間違いなくスベっていたが、「スベった空気を共有するところも含めてイベントである」ということを新入居者に味わってもらう、重要な通過儀礼だ。参加者に過酷な体験を強いたくはなかったが、私自身が自分の意志で過酷な思いをすることは構わない。この一点が、私の革新性と寮の伝統とが折り合う唯一の交点であった。ともあれ、私の1泊2日のキャンプでの役割はこれで終了した。それまでの寮生活でスベリ倒してきたので、心の傷はなく、穏やかな心持ちで車へと乗りこんだ。
最初の目的地は『野々傘』という、うどん屋で腹ごしらえ。キャンプより前に別のイベントで不意に立ち寄って、とっても美味しいお店だったので、ぜひ他の寮生にも紹介したかったのだ。私のお気に入りは舞茸天ぶっかけ。現在は知らないが、当時の北海道では『うどん』というのものがそれほどグルメとして認知されていなかった。北海道は圧倒的に『そば』の国。そんな物珍しさもあってか、参加者に大変好評だった。
次の目的地はふきだし公園。何があるというわけではないが、ただただ美しい水の流れる公園である。都会の喧騒から離れ、大量のマイナスイオンに身を委ねて、心の穢れを洗い流した。
最寄りのスーパーでバーベキューの買い出しをしたあとは、いよいよキャンプ地へ。羊蹄山の麓に開けた広野だ。県外の学生にとってはこれぞ北海道そのもの、といった雄大な光景だった。普段の寮生活では、無闇に汚れたり、無闇に痛めつけられたり、無闇に財を失う企画ばかりなのだが、今回のキャンプはただただ平和に、バドミントンやサッカーを楽しみ、仲良くバーベキューの肉を分け合い、ノンアルコールで青臭い将来の夢なんかを満天の星空の下で語り合った。当時は3年生の初秋だったが、2年半の学生生活で初めてキャンパスライフらしいキャンパスライフを過ごした。なんで俺にはこれまでこういう学生生活がなかったのか。なんであんな奇想天外な寮に入ってしまったんだろう。あのキャンプに来ていた寮生は、上級生から順に、寮文化に染まりきった毒素のデトックスの反動で呆けた顔をしていたように思う。めちゃくちゃ真剣に日々を過ごしていたが、その熱量のベクトルがとんでもなく明後日の方向に向いていたのではないだろうか。私はそんな自問をしながら、蝦夷富士を黙念と眺めていた。
夜がとっぷりと暮れ、就寝の準備を始めた頃に、一同はある異変に気づいた。寒い。寒すぎる。寒さに備えて万全の防寒対策を施したつもりであったが、その想定を遥かに上回る厳しい寒さだった。道理で私たちの他にキャンプをしている客がほぼ皆無なわけだ。私たちはやんわりほんのりと、疑似遭難状態にあった。北海道の冬を舐めていけないのは間違いないが、秋も舐めてはいけなかった。各々のテントは会話も少なく、寝袋にくるまって冷気の侵入を慎重に防ぎ、歯をガチガチを震わせながら朝が訪れるのを辛抱強く待った。
そんな寝たか寝てないか朦朧とした内に、朝焼けの時がやってきた。テントから這い出てみると、凍てついて澄み渡る朝の冷気は突き刺すように鋭く、その隙間を縫うようにして朝日のやんわりとした温もりが身体を纏った。全ての光彩が薄く、それでいて輪郭のくっきりした鮮やかさを備えていた。目を閉じると物音ひとつしないという物音。風が吹くとかすかに草木の擦れる音が聞こえ、次いで朝露で湿った土の香りが鼻腔をくすぐる。普段全く意識することのない五感をフル活用で、大地の呼吸を感じ取った。これはすごい。今なら地球が自転している速度を肌感覚で味わえるかもしれない。それくらい全身で地球を浴びていた。しばらくするとちらほらと寮生が起きてきた。皆一様に感動していたが、その頃には小鳥の囀りなども聞こえてきて、いくぶん賑やかな装いの朝の姿に変わっていた。
その翌年以後、寮で秋のキャンプはおそらく一度も開催されていない。私の願いも虚しく、秋のキャンプは寮の歴史上、最初で最後のイベントとなった。私の委員会では、オープンキャンパスに乗っかったオープンドミトリーというパロディ企画を新たな試みとして実施したのだが、なぜかそちらは恒例行事として残ってしまって2024年現在もその様子が観察できる。自分の狙った形ではなかったが、自分が寮にいた痕跡を微かに残すことはできたようだ。
そして、私が味わった厳かな朝は私だけの密やかな思い出となった。