ungra’s diary (original) (raw)

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孫さんが若かりし頃、「一日一発明」のアイデアを考え、「ダメならすぐ次」を考えるという習慣を行っていたというのは、起業家伝の中では知られた話だ。

(孫さんの言わばファーストキャリアは、シャープへの自動翻訳機への売り込みから始まっている)

学生時代に彼の来歴を読んだときは、単に「すごい!」と思っただけだが、今ならそれに近しいことが出来そうだ、と思いついた。

無論、当時の孫さんのそれと同じではなかろうが、似た習慣をクセづけることは可能そうなのだ。

彼の経験と違い、年も重ねたのでさほどの価値があるとも言えないかもしれないのだが、効率的かつ成長的なアウトプットの出し方の基軸として参照できると考えたわけだ。

自分の場合は、「(物理的な)モノ作り」だけではないが(それ故の強みもあるかもしれないが)、既に発明のシーズがいくつかある。

やや特殊だと自分で思うのは、「根っからのエンジニア」ではないからだ。

機械いじりが好きな子供だった訳ではない。

(そういう子で囲まれていたが、根っから文系の自分は彼らを冷ややかに眺めていた覚えすらある。笑)

「まず作ってみよう」から「考えない」。

これは「弱い・弱点」だと思われるかもしれないし、実際そうかもしれないが、自分は必ずしもそうとも捉えていない。

「設計図と工程の仕様・指示がしっかりしていれば、わざわざ作らなくてもいいんじゃね?」というのが自分の基本思想と言える。

なぜか。

簡単なことで、(物理的にモノを)作るのには、手間とコストがかかるからだ。

エジソンには憧れがあり、子ども時代は伝記を繰り返し読んでいたが、彼は自分の発明に夢中になっているうちに、知らずに経費がなくなっていた、というエピソードが印象に残っている)

考えるだけなら低コストで済む。

(無論、完全に空論で済ませる、ということもないのだが)

また、「実際のモノ作り」は、自分よりも得意な人に委ねたほうが効率的かつ確実に作れる、ということもある。(その意味では、自分のスペックを最初から正確に見積もっているとも言える)

「実際のモノ作り」に「走る」か否か。

そのビジネス判断こそが重要と言えないだろうか。

ビジネスシーズ~マーケティング・ビジネスモデルの着想までを、簡易な形で育てつつ落とし込み、「可能性がありそうだ」となれば、少し深く考えてみる。

そうした逆算的思考を重層的に積み重ねる。

この習慣をクセづけていけたなら…と目論んでいる。

前回は【実体経済編】として、自分の影響を受けた高橋亀吉について述べた。

今回は理論経済学についてである。

以前にも述べたが、学生時代も既存の経済学の理論や、経済学史にはある程度目を通したものの、「腹落ち」するものがなかった。

また、興味はあったものの(高橋の指し示した実体経済分析には具体的関心があった一方で)、理論経済学に関しては、「何を、どのように探究したいのか?」も明確ではなかった。

自分がそのヒントを得たのは、(むしろ実務である)インターンシップであり、後に「企業家のビジネスモデル」に焦点を当て、現在に至る。

ネタ明かしかつ専門的になるので、ここでは詳細に踏み込まないが、どのような軌跡を辿ったかについて少しだけ述べておきたい。

テーマ設定自体は、比較的早い段階に定式化されたものの、「どうやって?」というのが見当がつかなかった。

既存の経済学のモデリングでは全然役立たないのでは?と思っていたからである。

恐らく、時代というか、経済学各理論の細分化された発展において、道具立てが急速に揃ったということが幸いしている。

実際、AI絡みや、また(同垢別ブログで示唆した)数学的絡み、さらには自然言語処理的な着想も加わっている。

それ以前に、自分自身で準備した理論的フレームワークが非常に多くあり、それら道具立ては「最後の仕上げの肉付け」に使うといった位置づけになるのだが。

理論的には、上述の枠組みは、「ミクロ経済学」のほうに収まっていく。

自分が経済学史を吟味して気付いたのは、ミクロ経済学の哲学的基盤というのは、重要部分は20世紀前半の「限界革命」以来殆ど更新されてない、ということだ。

(日本の高校政治経済テキストも含め、既存のミクロ経済学のメインの理論枠組みは、サミュエルソンの「新古典派総合」とヒックスのIS-LMモデルをカバーすれば事足りると捉えている。これらの「退屈さ・役立たなさ」を痛感・疑問視した人は少なくなかろう。あとは細分化された方法論的進化は各種見られるが、経済学の主流を変えるには至っていない)

また急いで付け加えるべきは、自身の特殊なリバタリアンとしての特性である。

ハイエクは経済学面では名高いが、彼のモデルにも納得感はなかった。

(リバタリアンは政治哲学面に及ぶわけだが、ここでは逸れるので措いておく)

そこで、初めて既存の「金融理論」(マクロ経済学およびマネタリズム)との絡みの言及に至る。

「あれも×、これも×」というが、「じゃあ自分はどんなモデルならいいのか?そもそも自分で独自の理論モデリングなんか可能なのか?」という話になる。

限界革命」の話は、経済学史上では繰り返し出てくるわけだが、「彼らの理論モデルがどのような意味があるのか?」は、学生時代は一向に理解できず、分かろうともしなかった。

が、「自分の理論モデル(の仮説)」を持つと、見方が一挙に変わってくる。

(当然だが、そこには数学的確信が不可欠となる)

理論経済学をやると、「均衡、均衡ってうるせーな」と思うわけだが、その核心を会得できるようになったのだ。

自分は、言わば「逆・出羽守」と自認している。笑

が、日本の経済学者は、「自分の理論モデルを作る」という習慣というか、それがそもそもどのような営みなのか?ということがピンと来ていないのではないだろうか。

「経済現象を、数理モデルで表現する」

というのは、かなり特異な作業である。

コツがわかると非常に楽しくなってドンドン自分でやりたくなってくるのだが、「独自の経済学と数学的センスの結合」というのが不可欠になると考えられる。

日本では、マクロ経済学者やマネタリスト、ないしファイナンス論者だらけになるのは、実務・政策ニーズからくるのが大きいという以外に、「教育的に量産しやすいから」という「経済学(教育)界の大人の事情」も左右しているのではなかろうか。

何が言いたいかというと、別に、日本でも世界的な理論経済学者は全然育てられるということなのだが、現状では、そうした研究・教育基盤には十分になっていない。

それは、日本ではそうしたトレーニングを受けた経済学者がおらず、「既存のモデルに当てはめた説明や、計量・解析・シミュレーションを行う」ことだけが目的のカリキュラムに堕しているからである。

(独創性が不可なのではなく、生まれ得るが、主流を占めにくいという、学術知識流通・政治構造の問題がある。そこには世代の問題も大きいのだが)

自分には、ミクロとマクロの経済学を完全統合する独自のプログラムを持っている。

まだ完成していないのだが、理論と実証の統合体としてのイメージに向かって進行中である。

そこでは、自分なりの金融モデルを基点(基体)に立ち上げる訳だが、これが非常に手間のかかる作業なのだ。

理論経済学はとてつもなく楽しい。

だが、これは自分が哲学→数学をやったという独自の特色ありきゆえに気づけた視点ではないかという気がしてならないのだ。

自分が最も影響を受けた経済学者について…

それはスミスでもケインズでもない。

「知る人ぞ知る」としての、かなりマニアック寄りの存在だ。

昭和期に活躍した経済評論家・経済史家の高橋亀吉(1891-1977)である。

日本史上では、昭和の「金解禁論争」で言及される一方、現在でも近代日本経済史においては、高橋の『大正昭和財界変動史』は必須の史料として位置付けられると見ていいだろう。

高橋は通常、「経済学者」として言及されることはほぼない。

(英語にすれば同じだが、日本では「エコノミスト」と紹介されるのが常である)

理論経済学の系譜にはないからで、彼の経済評論は、一般に分かりやすい一方で、数理モデルや数式などによる表現は原則的に見られない。

それ故に、経済学界の「主流」は占め得なかったといっていいだろう。

それでも、学生時代に最も熱心に読み込んだのは、彼が著した膨大な経済史書・経済評論書(の一部)であった。

彼が行うのはあくまで実体経済分析であるが、視点が非常に産業経済や国内外全般に目配りをして網羅的な上、彼の本領である経済史との突合という独特の視座から、常に経済を眺めるということを行っている。

その魅力に取りつかれたわけで、今では彼の著作もかなり有している(著作群は膨大なのでほんの一部に過ぎないが)

もしかしたら、今の日本で最も「高橋亀吉フリーク」は自分かもしれない。笑

とはいえ高橋は、自分の生前に没している歴史的人物であり、対象とする時代も石油ショックまでに留まる(死の直前まで、高橋は、福田糾夫等、政財界に広範に信奉者や影響力を持つ驚異的な存在であった)。

学生時代に考えていたのは、「高橋の視点を受け継いだ経済分析を行えないか」ということだった。

彼のように分かりやすく、なおかつ骨太の視座や研究のあり様というものが継承されないのは、まさに「歴史的損失」と言わざるを得ないからだ。

学生時代も実体経済に広範に興味は持っていたものの、そのような気負いはその時点では手に余るものだったのは言うまでもない。

「自分が経済分析をやるだろう」といった見通しも明確ではなかったし。

はっきり言えるのは、「経済は生きもの」であるということだ。

高橋においては、ナマの経済分析・経済評論を常にリニューアルしつつ、歴史上の経済条件とも突合する、フィードバック式の方法論こそが最大かつ特有の強みであるとみている。

既存のマクロ経済分析というのは、数値参照の方法論こそ確立されているものの、この「生きものとしての経済」を扱う「有機性」に乏しいとは言わないが、恐らく「(一般向けの)表現として」はもっと工夫を行う余地があることを示唆していないか。

今回は【実体経済編】とし、理論経済学については、次回に改めることとする。

「解の無い世界」に生きている、という決まり文句があるが、自分はそれが嫌いというか、釈然としないものをずっと感じていた。

正論を言っているようでいて、どうも何か「逃げている」ような気がしてならなかったからだ。

「正解はない」にせよ、現代社会に生きていれば、常に「決断・判断・行動」を迫られるのが現実だ。

「解が無い」という言説には釈然としない一方で、ある程度合意というか、納得感のある部分もある。

大部分の人は、「最適解」より、「現実に妥協する」選択肢を、消極的に、あるいは強制的に「選ばされる」ことが殆どではないか、と想像されるからである。

そう考えてくると、「解が無い」に、なぜ釈然としないかの「答え」は見えてくる。

「自分一個人」に即して言えば、「とことん納得感の得るまで」考える、模索する上で「結論を出す」ことが出来るからだ。

それは「結果の如何を問わず」、「自分一個人にとっては」「解(あるいは解法=解の出し方)」である、ということなのだ。

逆に言うならば、世の人の大部分は、そのように「とことん納得感の得るまで」考える、模索するといったアクションは取らないし、取り得ないのではないか、と思っている。

そうなれば、「現実の中であり得る選択肢で、最も良さそう(というより最悪ではなさそう)なものを選ぶ」といった「妥協策」に落ち着くのは自然というものだろう。

「解の無い世界」は、やはり「逃げ」である、と考える。

なぜか。

「現実」は、「誰か」が出した「決断・判断・行動」の「結果」であるのは間違いないからだ。

自分は、「行動」を起こす前に、必ず「仮説」を立案し、「行動したうえでのシナリオやシミュレーション」を組み立てた上で実行に移す。

そうすると、当然ながら「仮説」とか、「シナリオ・シミュレーション」の通りに動くということはあり得ない。

自分だけでつくったプログラムでない限り、当然のことである。

「大筋で当たる」といったことはあり得るが。

しかし、想定と違う部分に対して、「どこがどう、なぜ違う・違ったのか?」を、絶えず検証する(=PDCA)に肝があることは言うまでもない。

それは「解が無い世界」に生きている、というのだろうか。

そうではない、と思う。

自分の求める方向性(志向性)においては、「出したい結果」、あるいはそれを実現するに至る過程を求めに行っているからだ。

学校で習う数学のように、「Aか、Bか」といった明確な「解」でないにせよ、「連続的、動的な世界の中で」、自分も同じく「連続的、動的な形の解」を求めに行っている、というべきだろう。

「100点満点」ということはあまりないかもしれず、だが「100点未満」というだけでなく「120点」など「100点より上」のことも起き得るだろう。

勝負事に関して、「負けに不思議の負けなく、勝ちに不思議の勝ちあり」という名言がある。

どんなゲームも「相手」がいる。

勝負事は生き物であり、「勝ち」か「負け」かという結果だけに注目するならば、「拾い物の勝利」ということはあり得る。

少なくとも、何らかの形で「結果」を求められるポジションの人であれば、「解の無い世界に生きている」という言い方はすべきではない、と考える。

「決断・判断・行動」の瞬間というのは、考えてきた「仮説」をぶつける時だ。

そこには「なぜ、その仮説をぶつけるのか?」「いつ、どのようにその仮説をぶつけるのか?」の理由付けや注釈を、明確に説明する責任が伴ってくるだろう。

そうでなければ、来たるべき「結果」に対する「検証」が出来ないからだ。

ただ、ある組織があったとして、皆が別々の方向を向いていて不統一である場合は、確かに「解の無い世界」という言い方が当てはまるだろう。

「志向性」の統一が成されないならば、そもそも「仮説」を、(成員内で)「有意に共有」できないだろうからだ。

「成員内で互いに足を引っ張り合う」か、(例えば二大政党制の国会など)情勢に応じて「別の解」が選ばれる、ということはあり得よう。

世界には、自分一人で生きているのではない。

「自分がコントロールできる現実」というのは、世界の非常に僅かな部分に過ぎない、ということは言える。

しかし、「変わりゆく世界」に応じて、「自分自身=自分の立てる仮説」も常に変化させ続けながら、現実にぶつかり続けていく。

「別解を出す」というのは、そのような意味合いだ。

「同じ世界=現実」を見ていたとしても、アクターによりポジションにより、「解の出し方」は全く異なる。

しかし、彼らが何らかのポジティブな「結果」を出していたなら、それは彼らなりの「解」であると言えるだろう。

「自分が自分である限りは、自分にベットして別解を出す」。

そう言い切れない限り、常に世から妥協を迫られ続け、「解の無い世界」を言い訳に、後悔や後退戦を迫られたり、また他者を傷つけたりすることを強いられざるを得ないのではないだろうか。

「とことん納得感の得るまで」考える、模索するアクションが担保される限りは、「結果の如何を問わず」、「別解」には確実に向かうことが出来るのだ。

pha「パーティが終わって、中年が始まる」が気になり、チラ読みしたら面白かった。

正確には「(将来的に)骨身に染みそう」と「予感」した、とでも言うべきか。

「チラ読み」に終始したのは、「恐れを成した」からか。

連想して想起したのは、だいぶ前に読んだ、確か柄谷と中上の対談だったと思う。

(違ってたら申し訳ないのだが。後から訂正するかも)

中上がちょうど、「ある年頃になってくると、何かをestablishして行くことを考えねばならなくなる」と述べていたのが印象に残っていたのだ。

そういうことは、確かに自分も散々考えた気がする。

が、「カネで買える幸福」に興味がない故の苦悩は、前に述べたかもしれない。

「財産を(自分のために)築くこと」には何の興味も持てない。このこと自体は、20代辺りには既に分かっていた。

「じゃあ、何を目当てに?」そこに、この数年苦しんできたと言えるだろう。

発想や方向性という点でも、その構築という点でも。

答えは出して、それに向かっている。

言ってみるなら、所謂「財閥」路線ではなく、渋沢栄一路線に近いが、それよりも更に近いのは、大隈重信福沢諭吉路線だ。

彼らをロールモデルにしてきたのは事実だが、今書き出してみるとだいぶ違う気がする。

自分が想像以上に、「創作・制作」寄りだったのだ。

また、「数学」的特性も、「後天的」だったが、今後更に伸びるだろう。

「教育による分配」路線という点では概ね想定通りの方向である一方で、「自分自身の特性の変化」はやや意外な方向に遂げた、というのが実際のところだ。

「財産のestablish」という側面も無論なくはないが、スピード感は想像されるより、非常に鈍い筈だ。

(代わりに、規模は桁外れにデカくなる可能性もある。しかしそれも分配ありきで、自分が財閥を築きたい為ではない。「どう分配するのか?」モデリングの為に時間を投下していくことになる筈だ)

自分は、やりたいことが特殊かつ多方面にわたる為、「一体どう整理がつけられるのか、どこに向かえば良いのか?」が一向に見えない時期が、あまりに長く続いたのだ。

自分の「自由」において、「成長の過程も速度も内容も、全て自分で決める」ことが最重要ポイントになっている。

だから、自分の出した解は、誰とも全く似通ってない。

それ故に、まだしばらくも、「誰にも頼らず進める」、「たった1人の闘い」を、ひたすら楽しみ続けるだろう。

一方で、現状も「孤独・孤立」ともかなり異なるのも特色だ。

学生時代と異なり、単にポジショニングに終始しているのでなく、既に「発信・還元できる内容」を念頭に接点を持ち始めているからだ。

まだ歩み始めたばかりだが、それでも楽しい。

これから1年〜1年半はまた正念場ではあるが、とても楽しみで、「怖さ」も消えているのは特色だ。代わりに「プレッシャー」が少しずつ覆い始めている。

今年初からマネー投資を再開し、約半年。

人生で3,4回目ほどになる。

今のところ少額だが利益を出している。

この相場状況で敗けていたら全くセンスがないからやめておけという話だろうが…笑

「マネー投資」という営みには、興味0ではなかったが、「第6,7番手」くらいに回っていたように思う。

タネ銭の有無ということもあったが、「そこに割ける時間がない」特に、「そのための知識・情報収集に時間を割きたくない」ということが最大だったと思う。

したがって、再開できたのは、曲がりなりにもその余裕が出来たから、ということが言える。

重要なのは、「投資スタンスとポジションを定める」ことだ。

少なくともそれを実感として体得できたことは大きい。

無論、今後、額が上下したり、手法や対象を変えていったら、何がしかは変えていったり、深化・進化することはあり得るだろう。

所詮はまだ「入門者・初級者」に過ぎぬ。

「第6,7番手」というのは、自分の興味の中でも相当「後方」に位置することを意味している。

「他の色々興味あることをがっつりしたうえで、それでも余裕ある状況で初めて」時間やお金を割いてもいいよ、ということに他ならない。

したがって、再開した今もなお、情報収集や勉強に使う時間は僅かで、そうした「ポジション取り」(=情報収集の時間は最低限で収益を出せること)をしているといって良い。

情報収集と言えるレベルかすら曖昧なレベルで、カンにかなり近いと思うが。

その程度で問題ない手法ということだ。

今は、本当はマネー投資には良い相場状況と見ることも出来る。

が、自分は今その「ポジション取り」できる状況にない。

自分自身の面、環境の面双方でそうだ。

「少額でも利益を出す」というのは、かなりのポイントだと思う。

「勝つ」ということも大事なのだが、「身の丈の利ザヤ・時間・相場」感を知った、という点が重要だと考える。

無論、「景気状況に乗った」という相場観自体はあった訳だが、「市場の/市場という時間」に自分(のマネー)を乗せるという感覚を得るという体験が大事ということだ。

「ズボラなままでも良い」という「今のスタイルに合っている」ことを最重視している訳だ。

短期間で取引を繰り返せば、収益を重ねることはできるし、その自信もあり、いずれ挑戦するつもりではある。

が、そのためには、その「原資・時間・腹構え」が必要だ。

「身の丈の自分」を受け止める、ということが重要だ。

「今の自分」には「今の自分に見合うだけのマネー」しか手に入らない、という当然の、そして厳然たる事実を受け止めるということ。

「大きなマネー」を、いきなり獲りに行こうとするならそれなりのリスクを冒す必要がある。その準備があるなら、無論それでよいだろう。

そこからしか始まりようがない。

この10年ほどの間に、「詐欺」というのが、非常に身近で見聞するようになった印象がある。

というのも、子どもの頃は、「詐欺」というのは、そこまでポピュラー(?)な犯罪ではなかったように記憶しているからだ。

自分の場合、「クロサギ」というヒットマンガが大好きで、繰返し読み続けてきた名作と位置付けているが、「クロサギ」はむしろ、「現代の状況に対する予言的作品」として、捉えるべきだろうと今は思っている。

最近は「生成AI」を用いての詐欺ビジネスが大流行のようだ。

有名人のフェイク動画を投資広告に用いて一般ユーザーを誘導したり、偽の会議動画を作って巨額の金を振り込ませた、というのはつい近日のニュースで報道されていた。

「投資広告フェイク動画」に関しては、ホリエモンが「こんなんに引っ掛かる奴いるのか?」と疑問を呈していたら、想像以上に誘導される人間があまりに多く、彼自身が対策に動かざるを得なくなった、と語っていたのが興味深かった。

本人自身が関係なくとも、フェイクで勝手に利用されている有名人は、注意喚起を促さざるを得ない事態が生じているというのもまた苦々しくも興味深い現象と言わざるを得ない。

「日本人はマネーリテラシー、投資リテラシーが低い」と言われていて、近年は諸々の投資教育も盛んだ。

NISAや、日本経済の地盤沈下・上がらない給与に伴う将来不安から、「何らかの将来の備えを」という動きに駆り立てられている状況も、顕著に観察できる。

詐欺というのは、まさにこうした「不安」や「焦り」に狙いを定めたものということが出来る。

自分は近年の「詐欺」には思うところが二つある。

1日本人の「〇〇さんだから信用しておカネを預ける」というあり方が、詐欺の温床になっていること

2ある時点までは、通常のビジネスをやっていた業者がカネ詰まりから、その事業の終焉間際に、「詐欺」を企てる、という現象も観察されるようになったこと。

それ故に、「最初から『詐欺目的』のビジネスとして設立されたのか、それとも、当初は『通常の事業目的』だったのが、行き詰まり、あるいは『詐欺商法が効率が良い』と気づいた業者(詐欺犯)が詐欺に転じたのか、区別がつきにくくなる」という事象が、非常に多くなったこと。

また、そこには、政治・法制度側の事情も深く絡んできている。

法制度の複雑化や、短期間での制度改正が各領域で非常に増大しているが故に、市民には混乱を引き起こしやすく、それ故に、むしろ「行政が『詐欺のネタ』を提供している」という側面も否定できない。

今回は、タイトルに掲げた通り、1が主題となる。

2のほうも非常に興味が深いが、別の機会に順次扱っていきたい。

自分は最近、全然別ジャンルの本で、それについて考えることになった。

「〇〇さんだからこそ信用しました」などと言って、「安易に平気で」自分の虎の子の大金を預けてしまう人が、いかに多いか。

そこには、「ブランド信仰」も含まれる。

最近大流行(?)の、美容ビジネストラブルがそうだ。

見てくれの看板(ホームページや各施設)が立派だと、「早く変わりたい」という「焦り」が手伝って、中身の吟味を怠り、安易に大金を預けてしまう。

尤も、「中身の検証」というのは、専門的内容であればあるほど、検証は難しくなる。

すると余計に、「〇〇さんだからこそ信用」のドライブが働きやすくなる、という訳だ。

「自分の(生活・人生の一部と言っても過言ではない)カネ」なのに、「自分の目や頭で判断する」という動きが介在しないことには驚かざるを得ない。

が、自分自身に即していうと、結構人生のステップで(主に当然「失敗」)体験を含めた、様々な「学習」の機会があった、と振り返ることが出来る。

自分は別にマネーの専門家でも、マネー犯罪や法律の専門家でもない。

だから別に、そうしたものを見抜ける専門的な技術を持ち合わせている、という話では全然ない。

が、「良い意味での(?言わば『善意の』)懐疑」の念を働かせることが出来るし、もしその知識がなかったとしても、「落ち着いて調べる」だけの気持ちの準備や環境はある、と言える。

つまり、「あまりにもピュア(うぶ)過ぎる素人」が多すぎるし、その人たちは「〇〇さん(=彼らが『信用』出来ると考える特定個人や『資格を持った専門家・専門職』)が言っているから」と思い込んだら、それを検証せず(出来ず)、「すぐに丸のみ」してしまう、ということを指摘したいのだ。

また、詐欺の技術も高度化すると同時に、上述の通り「訳アリ」になり、元は普通の事業・仕事に従事していた人が「詐欺」に転じる場合もあるから、そうなると、素人でなくとも容易に見分けは付かなくなるのも無理ない面もあると言える。

言えるのは、現代には「〇〇さんだから信用」出来るという個人や専門家・専門職などあり得ない、という何の面白みもない「真実」だけだ。

が、「詐欺料になる」というリスク込みなら、そうした「信用」をしたければどうぞ、という話でしかない。

かくいう自分も、Web通販サイト上に「出品」している(ように見える)「商品」やその「業者」に引っ掛かる、ということを去年は特に何度も経験した(幸か不幸か高額被害はなかった、と思う。再検索・再注文で対応)から、ようやく気を付けるに至っている、という笑えない状況でもある。

楽天Amazon上ですらそうなのだから、結局「ブランド信仰」をあげつらう自分も全く「同類」でしかない。

つまり「詐欺の隆盛」というのは、「便利すぎる世の中特有のリスク」という側面もあるのだ。

「何でも厳しく細かく、事前に吟味したり検証したりしない」からこそ、巧くそれにつけ込んだ詐欺も蔓延ることになる。

「詐欺師(詐欺業者)」に感心するのは、「コアな人気寄り」の商品を熟知したうえで、巧みに誘導画像を準備していることだ。

「詐欺師」は、間違いなく「人間心理の専門家」である。

自分の場合、(多少は経済的にもかもしれないが)時間的・心理的余裕があるから、こうして俯瞰して眺めることが可能だが、生活に追われたり、カネに追われているほど、それは不可能になる。

「不安」や「焦り」に駆られている人は、初めから「カモ」たらざるを得ない、という身も蓋もない結論になってしまう。

しかも彼らはほとんどの場合、そうした状況を人に相談・共有できる環境を持たないか、あるいは自分自身をその状況に追い込んでしまっている。

クロサギ」にも丹念にそうした過程が描かれているが、「詐欺」には、そうした技術やコンテンツだけでなく、「カモの心理の推移フロー」の把握があって、巧みに、また必中で追い落すことができる構造へと造り込んである。

「引っ掛かる、または引っかかったあと」で気付く(=「カモ」状態になっている人)のは不可能、と自分は見ている。

余裕があるうちに、その知識やテクニックを見つけて磨いておく・関係先を準備しておくか、引っ掛かりそうな人には、念入りにレクチャーしたりこちらから注意しておく、という対策しかないのではなかろうか。

これはだから、「マネーリテラシ―」というのは、実際は関係ない、というのが重大なポイントとなる。

「カモ」というのは、「情報を見抜く力」が備わってない以上、どういう情報や知識を入れようが、引っ掛かるものは引っ掛かる(「一度引っ掛かったカモは、何度も詐欺に引っ掛かる」という法則も観察されている)のだ。

「マネーリテラシ―」以前に、もっと強くこの点は注意されるべきではないだろうか。