2024-07-27 「てあて・まもり・のこす 神奈川県立近代美術館の保存修復」(神奈川県立近代美術館 鎌倉別館) (original) (raw)

夏の盛りの鎌倉市街地はかすかに涼しい海風が吹いており、なんだかいい気分になったのも束の間、鎌倉別館まで歩く間に酷く汗をかいた。

神奈川県立近代美術館鎌倉別館に行くのは初めてだ。葉山の方はどうかというと、これも記憶にはない。保存修復にフォーカスを当てた展示を首都圏で行うのは珍しいと思い、何の作品が展示されているのかも調べず、横須賀線総武快速線を一気に南下した。展示室は広くなく、人もそう多くはない。

古賀春江《窓外の化粧》1930,神奈川県立近代美術館

何か作品を見た覚えはあるが、このとき作者の古賀春江の名前を知り、《窓外の化粧》という作品をよく思った。ワニスの塗り直しという修復が行われたと紹介されていたように思うが、画面の多くを占める青は印象的だった。この作品の修復が行われたときには、ドラクロワの例の作品の修復*1のように一定の驚きがあったのではないか、と想像する。鑑賞者は修復の前後で違う青色を見ていたわけだが、このとき、作品はどこにあるのだろうか。美術作品は永続するようでいて、時の中で刻一刻と変化している。作者の表現する美的な意図と、鑑賞者が考える意図の間の決定的な断絶に対して、どう考えるか、私にはうまく分かっていない。

山本鼎《哥路》1917-1918,神奈川県立近代美術館

木版の作品。87.0×55.5と比較的大型の絵画で、犬と婦人の眼差しが印象的だ。犬の後肢の脱力具合や、毛の落ち着いて流れている感じから、長くこの婦人と暮らしているのではないかと思わせる。他方、婦人は左眉をわずかにしかめ、こちらを見ている。頬に淡い朱色の着色をされているのは、炬燵で火照っているからか、あるいは。口元を犬で隠す婦人に、私は少女らしい茶目っ気を感じた。山本鼎について軽く調べると、作品の描かれた頃に北原白秋の妹いゑ子と結婚をしているらしい。しかも、『哥路』という小説まで書いている。どちらが先に成立したのか……。

この作品の右側の欠損は、意図的なものでなく、欠損なのである。何か重要なモチーフが描き込まれていたとは思えないが、刷ったあとの状態で鑑賞してみたかった。それでも、修復したというひびや亀裂はさほど気にかからず、手当てがすごい、と純粋に感動した。

高橋由一《江の島図》1876-1877,神奈川県立近代美術館

《江の島図》を鎌倉別館で鑑賞したのは、純粋によかった。初めて見る絵だが、圧倒的に「この作品はここで見るべきだったのだ」と感動した。江の島の(湘南の)いつも少し気怠い海風や、このあたりで生活している様子、恐らく日中の活動を終えて夕暮れの近づく空の色。《江の島図》は初めて鑑賞するが、私にとっては江の島はやや馴染みのある風景で、150年近く経過しても変わらないその土地の風や光を、高橋由一の目や筆を重ねて見ることに尊さを感じた。一枚の絵が何であるか、ということのうち少なくない比率が、結局個人的な経験に依るのだろう。

作品の修復もかつてなされ、いまも安定した状態とのことだが、この展示の面白い点が額縁だ。上の画像の額縁は、いわばオリジナルのものだそうだが、額縁自体の劣化が進んでいるため、他の展示へ貸し出す際にはこのオリジナルの額縁を模した額縁に入れて貸し出しているのだそう。カンバスに描かれるものだけなく、額装も作品の世界を左右する。額縁・額装に関しては8月に見た「空間と作品展」(アーティゾン美術館)でまた色々と知り面白かったのだが、このときはひとまず、額縁の保存について考えたこともなかったので、保存するというのはずいぶん大変なものごとだと衝撃を受けたのである。

アルベルト・ジャコメッティ《裸婦小立像》1946頃,神奈川県立近代美術館蔵|正面から

小立像という名だけあり、直方体状の土台を除くと6cmほどの高さしかない。

アルベルト・ジャコメッティ《裸婦小立像》1946頃,神奈川県立近代美術館蔵|向かって左側から

こんなに小さくてもジャコメッティの彫刻だと分かるのだから、ジャコメッティの作家性はずいぶん尖っている。この小さな作品をどう保存しているのか(「まもり」)、展示内で明確に分からなかったことが惜しい(どこかで説明されていたのかもしれないが、そうだとしたら見逃した)。自分だったらどう保存するだろう。彫刻作品自体を固定し収納する小さな内箱を作ったうえで、他の作品と同程度のサイズ感にするために、50cmくらいの外箱に収納するくらいのことしか考えられない。そもそも作家は作品を保存することまで考えて創作しているのだろうか。これまた「TRIO展」(国立近代美術館)で指示書のある現代作品の展示を見たが、それもずいぶん珍しい話なのではないだろうか。作家が「自分の作品が(発注者の空間や美術館といった公共空間で)展示されるだけでなく、(梱包等を施されたうえで)収蔵され、(時が経てば)修復される」というプロセスを考えることはあるのだろうか。このプロセスはいつから起こったのだろうか。

捕虫記録紙とファイル

作品を保存するうえで脅威となるものの一つ、虫。記録紙に、虫のイラストが描かれている部分もあり、面白くて撮影した。昨年の私の誕生日には、5~6mmくらいの飛ぶ黒い虫がいたらしい。

修復に使う道具一式

美術作品をどのように修復し、保存し、展示するか。作品修復以外について、ちょうど大学の「博物館資料保存論」「博物館展示論」で学んでいたこともあり、実際の関連用具・資料を見ることが出来たのが非常に良かった。この数日後からスクーリングが始まった「ミュゼオロジーI」の勉強にも活かせる部分があった。それはそれとして、美術作品が作者のもとを離れたあとのこと──その作品が滅失しない限り、ずっと続く時の中で考慮されること、というのは、作品に影響があるのだ。この展示では特に触れられていなかったように思うが、美術作品を「正式に撮る」ことも、似た観点で興味深いことだと想起する。

作品修復について、多分さまざまな観点で研究されているだろうが、もれなく私も気になる。作家の手元を離れた作品の、人生というか、作品生・作品自身の経験のようなものと、その各ポイントでさまざまな鑑賞者が自己の人生の一部として触れる作品に対する体験と、というものを検討したときに、作品修復はどちらにとってもかなり大きなポイントだ。それがなぜ大きいのか、その大きさをどう判断するのか、ということについて、考えてみるのもいいかもしれない。

帰り道、なんだかんだ、神奈川にいると懐かしい気持ちになる、ということも考えていた。