ユダヤ人から見た小林賢太郎氏のホロコーストコント(JPN Editon) - Unseen Japan (original) (raw)

This is a special Japanese-language edition of our news article entitled “Holocaust Joke Lands Olympics Opening Director in Hot Water.” The original English version can be found here.

追記:この記事は小林賢太郎に関する議論がなされていた7月22日に書かれたもので、開会式ディレクター解任となる前のものです。

最近、朝、目を覚ましツイッターを開くと、迫り来る東京オリンピックに関する新しい論争がいくつも勃発するのを見ることに慣れてしまったように感じる。このような毎日のスキャンダルは、画面の右側にあるトレンド欄でよく目にする。直近の話でいうと、選手村が「中世の日本」のように、インターネット、テレビ、トイレのない小さな部屋だったという話だ。さらに深刻なのは、開会式と閉会式の作曲家である小山田圭吾(彼の芸名であるコーネリアスで国際的に有名)に対するものだった。小山田は、90年代に 身体的、性的、感情的に障害のあるクラスメイトを拷問したことを自慢していたというのだ。

少し前に麻生太郎財務相が2020年の東京オリンピックは「呪われた」とつぶやいたことがある。 (これは、日本での新型コロナウイルスの感染率が低いのは、国の優れた「文化的基準のレベル」によるものであると彼が主張したのと同じ時だった。)もちろん、世界的大流行によって試合全体が1年延期され、公的支援のレベルが低いことからこのように感じてしまうのは仕方のないことだろう。現場でのそのような実態だけではなく、日本オリンピック委員会会長による性差別的な発言、IOCのバッハ会長による日本人の「中国人」言い間違え、ロゴの盗用の主張、そして 増え続ける論争のリスト(全てを正当化するのに十分な量のウィキペディアのページ)を考えてみても麻生は正しいかもしれない。

それでも、今朝起きてツイッターに目を通した時、ホロコーストが登場するとは思いもしなかった。だが、トレンド欄では、「ユダヤ人」という言葉が気になる警告灯のように光っていた。文章を読むよりも前に、私はすぐに心配になった。 トレンド欄に「ユダヤ人」が載っていて良いことだとは到底思えなかったのだ。その上、よりによってなぜユダヤ人に対する意識が少ない日本でトレンド入りしているのだろうか。私はトピックタグに再び焦点を合わせ、恐る恐る読み上げた。「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」。そして、その文章の上に、トレンドの主題を示していそうなものを見つけた。「オリンピック」という言葉だった。

当時のツイッター・トレンドから。

お笑いだけの問題なのだろうか?

小林賢太郎は、人気お笑いコンビ「ラーメンズ」の1人だ。日本国外で、彼の最も有名な作品といえば、「日本の伝統」と題された彼の伝説的なコントシリーズだろう。これは日本の文化の面白い風刺的な側面を浮き彫りにするもので、少しシュールなものから完全に非現実的なものまであり、私の高校の日本語クラスでは定番となっていた。(彼らの「寿司」ビデオは特に人気が高い。友達に見せた回数は数えきれないほどだ。)また、小林は、東京時間の金曜日の夜(早朝PST)放送される、東京2020オリンピック開会式「United by Emotion」のディレクターでもある。

ツイッターで大騒ぎをとなっている問題は自体は、特にオリンピックとは何の関係もないが、「United by Emotion」ならぬ「United in Anger」(怒りでの結束)を引き起こしてしまっているだろう。小山田のスキャンダルと同じように(そちらの方がかなり悪いが)、これも 20年以上前に言ったことに関するものだ。それにも関わらず、こういった騒動は他の人間に対する認識の欠如さを示しているものばかりで、これはオリンピックで掲げられた理想とは正反対のものとなってしまっている。

「ホロコーストごっこ」

問題の論争は、ラーメンズが全国的な名声を得る直前の数年間に出したコントがことの発端だ。 1998年にコロンビアがVHSコレクションで公開したスケッチでは、子供向け教育番組「できるかな」のデュオパロディー(ラテンアメリカでも人気のある日本の番組)で、子供たちにはさみとテープを使ったペーパークラフトの作り方を教えたものだった。

そのコントで小林は主人公ののっぽさんを演じ、相方は擬人化されたハリネズミのゴンタを演じた。彼らはどうやって紙で遊ぼうか話していた。小林は、今までと違って新聞にバットと書き、野球のバットにすると言った。そして 新聞を丸めてボールと書けばボールの完成だ。観客に関しては、人型の切り抜きに人と書けばいい。

ゴンタを演じる片桐仁は、ちょうど人型に切ったものがあると言う。彼は急いで紙取りに行った。それを見た小林は「ああ、あの『ユダヤ人大量虐殺ごっこをやろう』と言った時のな」と言う。観客はこの左翼的冗談に大賑わいだ。小林は「戸田さん怒ってたなー。 放送できるかっ!てな。」と言い、紙の切り抜きを見て「こんなにあるのか」と驚いた。

嵐の予感

数十年前のこのほとんど忘れられていたコントは突然メディアを通して報道されることとなり、様々なリアクションをもたらした。その中でも多く見受けられたのは、ショックを受け不信感を示した人々の意見だろう。

本当の論争と言えるのか。

もちろん、何十年も前のコントを発掘したとしても古いニュースだという考えの人もいた。話題的な面においても、繰り返し行われたコントというわけでもなく、時効が過ぎた可能性のあるものという面においても、それは意味のない論争のようだった。

「開会式、閉会式のショーディレクター務めるラーメンズの小林賢太郎さんが二十年以上前のコントでユダヤ人ネタに触れてたって記事。 ……20年以上前のコントのネタまで持ち出して叩くんか。」

リアクションは、怒りや怒りに反対する感情的なものだけではなかった 。冷静に分別のある考えを持ったリアクションをした人たちもいた。

「ユダヤ人大量惨殺ごっこの件、ネタをもともと知ってた人たちの「ラーメンズ(のネタ)は好きだけど倫理的な観点で批判する人がいるのもわかるから否定できない」と、雑な擁護をしたり無闇に他人を攻撃したりしない姿を見て、推しが批判されたらすぐに頭に血が昇るオタクとの差を感じた」

被害者なき犯罪?

あるリアクションが私の胸に突き刺さった。

「ユダヤ人大量惨殺ごっこについて、「ユダヤ人が見ることを想定しておらず、見ると分かってたら間違いなくやらない人」だから「見逃して」って来てるラーメンズファンがいたけど、これは人権意識が問われる問題であって、当事者であるユダヤ人の目に触れるかどうかは関係ない。」

私はこれが最も注目すべきポイントかもしれないと思う。個人的な意見として、20歳の時のコントで小林さんの辞任を呼びかけるべきかどうかは疑問に思う。しかし、このコントが発信された根本として、「これは単なる学術的事実だから、ジェノサイドについて冗談を言うことができる」という考えがあるように思える。上のツイートにもあるように、当時(または今日でも)、ユダヤ人が日本でお笑い番組を見るとは誰も想像していなかったのだ。小林さんの考える範囲では、生きているユダヤ人は存在すらしていなかったのかもしれない。確かに、「ユダヤ人」という言葉がよくどう認識されているのかを今回の騒動は表しているように思える。歴史的なグループの用語として、主にホロコーストまたは古代イスラエル王国に関連したもののみとして捉えられている。日本(あるいは歴史的なユダヤ人コミュニティ)にユダヤ人が存在するかもしれないという考えは頭から消し去られているのだ。

日本では、国内で制作され放送されているものが外には出ないという考えがまだ残っている。完全に単一の日本人の聴衆のために作られている、そして他の誰もそれを見ることは決してないだろうと考えているのだ。マイノリティグループが日本に存在するという事実、そして特に彼らが聴衆の一部であるかもしれないという事実は、めったに考慮されないのだ。だから、こう言った状況では、ホロコーストというのはただ耳にしたことがあるひどいものという認識だけなのだ。実際に存在し、未だ続いているトラウマの源ではないのだ。それはただ歴史上の「何か」であるだけだ。

こういう考えが起こりうるのは日本だけではないが、国の均質性と日本語を学ぶことが不可能であるという仮定のもとに(よく特に難しいと考えられている)、このようなことが起こる。だから、傷つけようという意図はきっとないのだろう。何かを発言したとしても、それがその人に伝わらなければ、どうやって傷つけられるのだろうか?だが、今回はどうだろう?私はユダヤ人で日本に何年も住んでいたことがある。東京や大阪、神戸などに広がっているユダヤ人コミュニティにも参加した。そして、今このコントの話を耳にした。しかも、それは私がかつて大好きだった作品を作っていたコメディアンによるものだったのだ。

決していい気持ちはしない。でも、怒りを感じるというよりも感情が交錯しているといった方が正しいだろう。今回の騒動は日本でユダヤ人がどう認識されているのかという今までの経験を反映していると思う(ユダヤ人が少しでも認識されているのだとしたら)。だから小林さんの辞任を求めるというよりも、日本には色々なコミュニティが存在するという事実を認識する機会となって欲しいと思う。日本だけでなく、どこにいたとしても、決して閉ざされた環境はないのだ。人々は耳を傾けているのだから。

翻訳:川上唯