「信じれぬことは、自然なことなのさ」 (original) (raw)

「身内によるアリバイ証言は証拠能力が低い」「親族の事件は捜査できない」……これらは、穴埋めのやっつけ企画のような単発刑事ドラマの中でさえ頻出する設定であるが、たとえフィクション上のルールであったとしても、「覚醒剤を舐めて検査」や「銃を撃ちまくる日本の刑事」より自然な形で受け入れられたように思う。

つまり、善悪とは別のところで、人というのは身内や仲間内のことを庇いがちであると、根拠はどうあれ、多くの者が“なんとなく”認識しているということだろう。聞きかじり程度の心理学や行動学すら備わっていなくとも、おそらく「自然に考えれば」といった枕詞と共に語られる、大袈裟に言えば人という生き物のどうしようもない生態のようなものだ。それゆえに、先に挙げたようなルールが受け入れられているのだろう。

しかしながら、他人の「身内への甘さ」に対して強く憤る者もまた多い。いや、それぞれの案件内容や自身の境遇によっては、殺意すら湧き上がっても不思議なことではないのだが、事例ごとの詳細に関係なく、それこそルールとして「身内を庇うこと」を悪だと考えているような者を目にすることがある。正直に言えば、狂信めいたものを感じることすらある。

だが、人間本来の生態ではないかとさえ考えてしまうほどの心理の癖からは、そうそう逃れられないようで、私が観察している「身内庇い断罪派」の方々も、その言動を辿ると言行不一致な面は割と容易に発見できる。さらに辿れば自ら矛盾の匂いを嗅ぎ取ったらしい場面を見つけることもあり、それで襟を正してくれれば良いのだが、大抵は屁理屈にしか思えぬ言い訳をこねまわし、なんとか自身の正当性を主張しようとしている。端的に言って見苦しく、「こんな奴が身内にいたら、さすがに人間本来の生態も発動しないだろう」と思いつつも、実際に身内になってみたら案外どうにか手心を加えようとしてしまうかもしれず、最終的に「とりあえず、こんなのが身内に居なくて助かった」と安心していたりする。この結論が見苦しいものではない、などとはさすがに言えない。言えてしまう方が自分にとって悪手である。結局、身内より仲間より、まずは自分自身が大事なのである。

もっとも、「人類ミナ兄弟」「友達の友達はみんな友達」といった思想を信じれば、全人類身内同士ということにもなり、だとすれば人間が人間について語ること自体、身内贔屓・身内庇いに陥り易いのかもしれず、ひょっとしたら既存の人間論のほとんどが無効なのではないかとさえ思えてくるが、これもまた自分庇いによって導き出された答えなのかもしれない。

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空想刑事読本