思考遍歴 (original) (raw)

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バタイユについて語らずにバタイユについて語り続けること。クロソウスキーブランショレヴィナスを語りながら、それでいてバタイユを遠方に望むこと。

そしてとりわけ、存在論的飢えを忘れてはならない。「偽物の太陽であることは醜い」ことを理解し、固辞すること……、ここには太陽が存在するということの証明が賭けられているのだ。

https://x.com/pripri_anime/status/1774451598158090536?s=20

本当にやるのかと一瞬間思っては目が覚めてしまった。『アーサー王宮廷のヤンキー』から『ディファレンス・エンジン』を通過して『プリンセス・プリンシパル外伝』へと至るのが目に見えたんだよ、お兄…………

まあ嘘なのは間違いないだろうが、『プリンセス・プリンシパル』自体がスチームパンクの金字塔『ディファレンス・エンジン』を踏襲していることから、同じ共同執筆の「赤い星、冬の軌道」だったり、またスパイ×宇宙繋がりの『007 ムーンレイカー』だったりを思い出し、「スチームパンク×スパイ×宇宙」にそれなりの信憑性を感じてしまった。私は無知だから前例があるんかしらんが。

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ブランショの『明かしえぬ共同体』における「無頭人(アセファル)」の記述を読むたび、全員自死を定められた秘密組織「TENET」を思い出し、もしかしたら二つって同じなんかしらん、と勝手に思っている。勝手にね。

でも、『TENET』の哀愁をこの本に投影するのは間違っていないと思うのだが、いかがでしょう?

正直なところ、当事者以外は口を挟まないべきだと私は考えている。これは恐らく潔癖症の視点であろうが、しかし当事者以外があれこれ類推してゴシップを生み出すのを私は嫌というほど見たのである。そのせいで当事者間の関係にもつれが生じ当初の目的にも滞りが、という流れも莫迦になるほど見たのだ。だから、当事者どうしで話し合うことが一番望ましいように私には思えるし、それ以外の人間は粛々と黙っておけばいいと思っている。

もちろんこれは絶対ではない。当事者以外に発言権があるからこそ、保たれる客観性もまた存在する。或いは、そこから問題解決の端緒が掴めることもある。ケース・バイ・ケースなのだ。良い時もあれば悪い時もある。私が見てきたのは専ら後者なのだが。それに前者の方が趣味が良い気がする。と、それだけである。

恐らく、ここに私の弱味があるのだろう。当事者ではないからこそ書けない、という倫理が私の根底にはある。いや、当事者を名乗れるほど情報が足りていない、という言い換えが正しいのかもしれない。いずれにせよ、当事者ではないことに幾許かの恥じらいが私の中にはある。

見えるものしか信じられないのは悪癖だろう。だがこの延長線上にバタイユがいるのである。奇妙な話ではあるが。

バタイユの寡黙を私は愛してきた。かれの沈黙はすなわち夜の静けさなのだ。存在の揺蕩う静寂において《何者でもない》の沈黙を聞き分けること。それこそが『有罪者』に流れる音楽なのである。私はこの音楽を万事において求めてきた。

饒舌には歌い得ぬ音楽がある。その音楽は沈黙によって友愛を歌い上げる。結局のところ友愛なくして沈黙はありえない。沈黙には沈黙の語りがある。文脈の脱落する内奥においてしか捉えられない文脈がある。それを敏感に聴き取りその瞬間の不可能を理解すること。この不可能を知らずしてバタイユの友愛は語り得ないことだろう。

我々とは《諸世界の底》において連帯する《何者でもない》人間のことである。そこには無限の可能性がある、無限の不可能を背後にして。

なんというか、30歳やら40歳にもなると、脈絡の無い生き方というのが難しくなってくるようだ。どれほどぶっ飛んだ言行を繰り返そうが、どこか拭いきれない倫理観がある。それは外的に規定される私が、内的に規定される私とに生じる齟齬を、無意識か有意識で認めていくということなのかもしれない。
バタイユの『有罪者』が好きでよく読むが、わざと散らした文脈の中に、散らしきれなかった哀愁が感じられて、それがこの本を悲愴たらしめているように感じる。例えば、この本にロールのことがあけすけに書いてあったらば、そこまで悲しい書物にはならなかったかもしれない。或いは、アセファルの企てが潰えたことが書いてあったらば。────この本は形骸したものの声として私の耳朶をうったのだ。
氏(伊藤計劃先生)がポストモダンを捨てたのは30代の初めのことだった。私は、氏が形骸化したものに辟易したものだと思っている。「From the Nothing, With Love.」を読むまでもなく、『虐殺器官』を読めばわかることだ。あれはポストモダンへの訣別の書ですよ。
何かを持つには早すぎ、何かを持たないには遅すぎる、そんな時期が人生にはある。それから免れることは、まずできはしない。

それとも、18歳の若造がこんなことを言うのは癪でしょうかね。

肉だ、と心の一部が言っている。肉の言い分だ。無視しちまえ、と。
ウィリアム・ギブスン,黒丸尚訳,『ニューロマンサー』,早川書房,1986年,289頁)

ニューロマンサー』の肉体性について語ってみる。

脳-身体という野卑な二元論を『ニューロマンサー』へそのまま応用すると、ギブスンは「電脳空間」に代表される「脳」について語りながら、その実、「膚板」「リンダとの関係」に代表される「身体」について語っていることが分かる。それこそ伊藤計劃は、ギブスンの流行に絆されない冷静を「ガーンズバック連続体」でもって評価したわけだが、『ニューロマンサー』にもまた同じ評価を当てはめることができるだろう。つまり、脳化社会(=情報化社会)がどれほど進行しようと、肉体を無視することはできないのだ。いや、出来るのかもしれない。ありったけのアパシーを弥終に。
いずれにせよ『ニューロマンサー』の先見性は、SFガジェットの使い方に留まらず、「肉体の再発見」という事件無しには語りえないように思われる。その点で、電脳三部作は「いま、ここ」の物語だと言うことができるのではないだろうか。

何が言いたいかというと、Vtuberのお弁当箱とは「肉の言い分」であるということです(放言)。