大人は判ってくれない イノセンツ (2021年製作の映画) (original) (raw)
4.0
テルマ(2017)の脚本家が監督にまわってつくった映画。
少女アイダは引っ越し先の団地でテレキネシスやテレパシーがつかえるベンやアイシャに出会う。自閉症の姉アナも精神感応ができるようだ。
当初はあそび仲間だったベンはサイコパス気質があり、能力をつかって人を傷つけるようになったので対立する。
道徳倫理や社会通念のない子供が凶悪な能力をもっていることが、きちがいに刃物のような様相を呈し、見ていてすごくはらはらした。息詰まる映画だった。
映画は見たままの印象で、いじめや無理解な大人などの寓意は読み取れるものの、とくに明らかなメッセージにはなっていない。
が、子供らは大人の理解できない高度な能力をつかって大人の解決できない問題に対処しようとしている。その豊饒ともいえる子供らの能力世界から見たとき、大人たちの経済的な生活の諸問題などが、ばかばかしいものに見えるという構造において、皮肉や風刺が成立している。
アイシャの母は台所でいつも泣いているが、大人らは各々、生きづらい俗世間をどうにか生きていかなければならないゆえに、つねに自身の悩みと屈託に沈んでいる。それが無関心や無理解の態度となって子供にあらわれる。
一方で子供らはテレキネシスやテレパシーをつかって人類の敵となるであろう邪悪を倒そうとしている。
ところが大人からは子供は子供でしかなく、アナは意味をもたない非言語の自閉症スペクトラムにしか見えない。
de uskyldigeという原題を翻訳機にかけたら“あどけない”とか“罪のない人”などと翻訳された。
じっさいには恐るべき能力をもった者が、端からは(大人からは)無力なde uskyldigeにしか見えないということの逆説をこの映画は言っている。
いずれにしてもたんに異能の子供らを描いたのではなく複合の寓意を持たせようとしている感じがあった。ともすればベンは「大人は判ってくれない」のジャン=ピエール・レオに見えなくもない。
この感じはテルマにも通じていて、テルマは見た人毎にいろんな印象のある映画だった。個人的なテルマの解釈は「宗教二世の悲劇」であり、それはこんな感じ。
テルマは厳格な信者夫婦の子に生まれた。つづいて弟のトロンが生まれるがなんらかの要因で死なせてしまう。両親は悲しみから逃れるために、何かと小賢しいテルマに弟の死の責任をかぶせる。心因性の発作も悪魔憑きのようにとらえて抗精神病薬を飲ませてテルマをグルーミング=手なずける。
こうしてテルマは両親にコントロールされて育ったが、親元を離れ寮生活をはじめ、アニャに出会いお酒をのんだり性的な高ぶりを経験し、また自身の診療歴を知って、両親によるグルーミングから徐々に覚めていき、最終的にアニャとふつうの学生らしい生活をつかみとる。
この解釈のばあいは超常現象の描写がぜんぶ両親の妄想であり、もとよりテルマは発作がある以外はふつうの子だったが、肥大した狂信者である両親には彼女がモンスターに見えていたのだった・・・。
この映画イノセンツもそのように大胆な解釈もできるようになっていて、すなわちそれぞれの自由な想像に委ねるという特長が作家・脚本家として優れていると思った。
imdb7.0、RottenTomatoes97%と73%。