戦争について考える (original) (raw)

戦争と国家の密接な結びつき

ベンコはまた戦争と国家の結びつきについても示唆的なことを語っている。アテナイの重装歩兵が民主国家を可能にしたのであり、大砲が国民国家を可能にしたのである。ベンコの言葉に耳を傾けてみよう。

「私が行ったこと、それは地理戦略について研究することです。すなわち地政学と地理戦略がひとつの全体を形成していると、私は常々考えてきました。へロドット誌が海の地政学に関する号を出版したことは,いま私を楽しませてくれています。結局、 『領土の不安定性』のなかで私はそれについて語っています。それ故に,軍事領土について語ることなく、政治領土を語ることができないのは明らかですし、歩兵にしろ、騎兵にしろ,砲兵にしろ、また海軍力や空軍力にしろ,今日では衛星にしろ、それらと結びつけられた空間と時間での権力関係が存在するという理由によってのみ,政治的領土性があることは明白です。ある意味で領土的空間は権力関係の産物であり、その関係は階級関係、つまりある社会内部における対立関係と同時に,技術的関係をも経由しています。騎兵の発展、海軍力の発展は空間の組織化であり,それぞれの交通技術や通信技術が時間と空間を組織化しています。それぞれの技術が,それに固有の時間性の休制を組織するのであり、伝書鳩と対になっている馬の時間性の体制は,大砲や船の時間性ではありません。城塞を見ると、それは弓矢の射程の上に構築されています。ヴオーバン(Vauban)やクーホルン(Cohorn)の風の要塞と防塁システムが球体の弾道学をめぐって組織されているのに対して、私は要塞ではなくて城塞について語っています。さておのずから両者の間にある幾何学の相違に気づくでしょう。つまり中世の城塞と、大砲と完全に結びつけられた防塁システムとの間に築かれた空間の差異の重大さです。しかも大砲の能力によって、領土全体でそれぞれの防塁システムだけではなく、国境システムも再組織化を余儀なくされました。ヴオーバンはフランスの全ての国境線を再組織化しました。彼は自らの調査旅行、その分析、調査統計によって領土の碁盤目状配置に関与したのです。彼が演鐸的な統計などを基礎にしていることを忘れてはなりません。それ故に地政学とは,戦争の遂行(パフォーマンス)がいかにして、都市および,最終的には国家の組織化に関与するのかを知ることだと私は思います。古代の都市国家、古代のポリスは戦略の上に組織化されており、古代都市の首長が自らを、戦争の長を意味する「Stratege」と呼んでいたことは偶然ではありません。アテネという都市は、武装した人々を城壁に引き入れ、この城壁の外側での聞いにこの人々を連れ出す前に.人々を集合させるのに用いられたアゴラを傭えた戦争機械です。さらにアテネ都市国家は動員システムを備えていました。したがって都市は戦争の組織化のうえに構築されるのであって、この戦争組織が同時に政治なのです。人は兵士であるから市民になるのであり,市民であるから兵士になるのです。市民であることの資格(cittoyennete)と戦場があらゆることを組織するのであり, 「都市国家」としての都市の組織は,都市国家間の対立というタイプの組織化と結びつけられます。都市国家から国民国家へと移行する時に,さまざまな設備の性能が変化することになります。大砲の能力が,「国民国家」を可能にしました。つまり空間の組織化が,もはや騎兵だけではなく弾道学と結びついた、あるいは装甲歩兵や兵士一市民の部隊の移動と結びついた空間と時間の別の組織化になったのです。この意味で「地政学」や「地理戦略」と呼ばれる知に至る多様な要素が存在しています」。

ジョルジュ・ベンコ「空間、時間、権力ーポール・ヴイリリオと会う」

https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space05/08benko.pdf

人類の時空間の歴史--勢力均衡の戦争の時代から核戦争の時代へ

フランスの地理学者のジョルジュ・ベンコ(Georges Benko)によると人間の時空間は歴史的に三段階で変容してきた。
第一は空間の時代であり、地理的な差異が決定的に重要な意味をもっていた。日本とヨーロッパは遠く離れた異世界だった。「まず空間だけがあり,その空間のなかでの移動は、人間の速度あるいはロバ、農耕馬、使役馬の代謝速度に結びつけられます」(ジョルジュ・ベンコ「空間、時間、権力ーポール・ヴイリリオと会う」p.120)。これは基本的に農業の時代であり、隣国との原初的な戦争の時代である。
第二は空間と時間の時代であり、移動可能性が重要な意味をもつようになる。「空間一時間は本質的に鉄道、自動車、飛行機の到来に結びつけられます。アインシュタイン相対性理論のなかで相対性を証明し、示すために常に列車を利用していることは偶然ではありません。よって空間一時間の観念は、蒸気機関あるいは通常の鉄道体系と結びついた交通手段、自動車と同時代的であります」(同)。これは産業革命以後の近代の時空間の時代であり、ウェストファリア体制のもとでの勢力均衡の戦争の時代である。
第三は、空間と速度の時代であり、「瞬間的な移動,つまり速度が光速になっているテレビとともに起こることです。対蹠的に直接に情報を知らせることが可能になることであり、それが光速です」(同)。これは現代の情報化時代である。この時代において重要なのは時間ではなく空間と時間の関係としての速度である。これは核戦争の時代である。
この新たな時代においては、時間と空間の意味が変容する。日本人にとって日本の領土である青ヶ島を訪れるのは、隣国である韓国を訪れルよりもはるかに長い時間を必要とする。東京に住む人にとっては韓国は青ヶ島よりもはるかに「近い」のである。これは地理的な位置が政治的な位置とはまったく異なった意味をもつというこどある。

第二期の近代の時空間の時代には、地政学が重要な意味をもっていた。ある国が地理的にどのような場所に存在するかということが、決定的に重要な意味をもっていたのである。しかし現代の情報化時代においては、このような地理的な位置はそのような基本的な意味を喪失した。核ミサイルは地球上のどのような場所でもほとんど同時に、そして即時に爆撃できる。もはや地政学ではなく、ヴィリリオの主張する時政学の時代なのである。攻撃のターゲットをみるまなざしが一変したのである。

ジョルジュ・ベンコ「空間、時間、権力ーポール・ヴイリリオと会う」

https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space05/08benko.pdf

西洋の戦争における速度の論理

ヴィリリオにとってこの速度の論理こそが、西洋の近代戦争を駆動させてきたのである。

「しかしながら、産業革命以来私たちは何に気づいただろうか。《戦争の時間》の期間の削減である。西洋の軍隊のあらゆるエネルギーは、敵に対する全面的かつ迅速な勝利を目指すのである。国民の戦争とともに、ヨーロッパにおいて明らかにますます進行する紛争の短縮が目撃された。数年(1870、1914、1940)から数日(1967、1973 年の近東)へ、そして最終的には限定核戦争の潜在的可能性によって、紛争の時間は数時間となるのである。」(Virilio 2018:30-31)

実際、易々と国境を越えるミサイルの速度に身体が反応することは不可能であり、身を守るためにはレーダーや人工衛星などのメディアを介して、敵の攻撃以上の速度を要求するほかない。こうした速度の論理のもとでは、敵対する諸国家は、優位を得るためにさらなる速度を求め続けるだろう。

しかし、ヴィリリオの言うように、必ずしも戦争は、こうした速度の論理だけで駆動しているわけではない。加速する近代戦争の傍らで、常に原始的な戦争が生き延びているのである。近代戦争の出現以後、新たに復活する原始的な戦争は、「ゲリラ戦」、「持久戦」と呼ばれることとなる。つまり原始的な戦争は、加速する戦争に対抗するために「減速する」戦争として復活するのである。ヴィリリオはこの二つの戦争の対立は、スペイン独立戦争でのナポレオン率いるフランス軍とスペイン民衆のゲリラ闘争に見いだされると述べる。

「最初の《近代》戦争とはナポレオン帝国の戦争である。同時代の歴史の中で初めて、大衆と財力が戦争に利用されたのである。……しかしこの巨大な勝ち誇った軍隊は、スペインで重大な失敗を被った。この失敗はもっとも前兆にすぎない。大衆と全体主義の力は、古代の方法、農民の戦闘方法の前には無力である。そこから続く歴史に目をやれば、近代的軍隊の破壊力の指数的増大にもかかわらず、この最初の失敗の恒常的な周期性、繰り返しが目撃されるだろう。ベトナムの長期的戦争が、まさにこの最近の例なのである。」(Virilio 2008:31-32)

(小泉 空「加速と占拠―ポール・ヴィリリオ『民衆防衛とエコロジー闘争』から見るメディア政治―」による)

ヴィリリオ『ブンカー・アルケオロジー』による加速する戦争と待機する戦争

1975 年の『ブンカー・アルケオロジー』においてヴィリリオは、近代戦争と原始的な戦争との対立、あるいは西洋の戦闘と東洋の戦争との対立を、加速する戦争と待機する戦争の対立として描いている。

「西洋では戦争の時間は消滅することを目指す。ここに核の現状の意味を説明するものがある。しかし西洋の軍事制度はいまだ孤立したものではない。もう一つの思考が現代の戦争機関のすぐ近くで存続しているのであり、時代遅れな思想と原始的な戦闘が続いているのである。私たちは軍隊の最新の進化を分析するとき、あちらこちらで生き残っている古代の軍事思想と現代の軍事制度を支配するシステマティックな知性とのあいだのこの二重性を、たいてい見落としてしまっているのである」(Virilio 2008:31)

ヴィリリオはこの二重性を、「技術者や科学者によって(空間、時間を)《縮められた》戦争」と「農民による《延長された》戦争」の対立に言い換えている(Virilio 2008:26)。つまり一方には、加速する近代戦争があり、他方には、減速する原始的な戦争があるのである。(小泉 空「加速と占拠―ポール・ヴィリリオ『民衆防衛とエコロジー闘争』から見るメディア政治―」による)

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