『二箇相承』は北山本門寺系の文書である。 (original) (raw)

いつもみなさん、ありがとうございます。

さて日蓮正宗創価学会等の大石寺系教団信者さんの多くは大石寺が正統である根拠に『二箇相承』を挙げますが、そもそも同抄は真蹟不存、上古の正写本も存在しません。

加えて『二箇相承』はその存在が北山本門寺に伝わっているとされてきたものです。仮に『二箇相承』を日蓮真蹟だと仮定するなら、日蓮日興の血脈は北山本門寺に伝わったことになり、日興の正統な後継は北山の式部阿闍梨日妙、あるいは西山の蔵人阿闍梨日代のどちらかということになってしまいます。そもそも『二箇相承』の写本は北山本門寺に伝わったもので、同抄が大石寺に伝わった記録など何一つ存在しません。言わば大石寺北山本門寺に伝わったとする偽書まがいの『二箇相承』を「パクって」無理矢理、大石寺の正統性の根拠として盗用しているだけなのです。

それが違うというなら、『二箇相承』が大石寺に伝わった記録や証拠を示せばよいだけですが、何も証拠がないので、嘘をついて「大石寺に伝わった」と無理矢理強弁することしか日蓮正宗信徒はできないありさまなのです。『二箇相承』が大石寺に伝わっていたとする記録は一つも存在しません。あるのは北山本門寺の『宝物目録』のみです(富士宗学要集9-21)。

論点を整理するために、『二箇相承』本文の各写本・記録とされるものを少し並記してみましょう。

①京都要法寺・日廣本(1468、非公開)

②住本寺日叶『百五十箇条』(1480)

③左京日教『類聚翰集私』(1482)

④同『六人立義破立抄私記』(1489)

本成寺日現『五人所破抄斥』(1516)

要法寺日辰(日燿)本(1556)

大石寺日主本(1573〜?、非公開)

ちなみに冒頭の画像は⑥のものになります。

まず最古の写本とされるものさえ1468年のものであり、そもそも弘安5年(1282年)から既に186年もの時間が経過しています。1468年とは応仁2年、つまり「応仁の乱」の翌年であり、既に室町時代を通り越して戦国時代に突入しています。したがって『二箇相承』が鎌倉時代に存在した証拠を同時代の文献や史料等から裏付けることができないのです。簡単に言えば『二箇相承』は歴史学的に鎌倉時代の史料ではないということです。

加えて①には「重須にて二箇相承全文を書写す」とあります。また⑥には北山本門寺にて書写されたことが記録され、日耀写本はそもそも西山本門寺に現存しています。したがって『二箇相承』はそもそも北山本門寺(重須)に伝わった、あるいは北山本門寺で創作されたものであり、それが大石寺に伝わっていた記録など何一つ存在しないのです。

また⑤によるならば「一向御正筆に非ず偽書謀判也。又日興の手跡にもあらず、蔵人阿日代と云う人の筆に似たりと承り及也」(日蓮宗宗学全書7-182)とあり、やはりここでも『二箇相承』が北山本門寺系で創作された偽書である見解が示されています。

なお、これらより古い記録であると大石寺が主張する『本尊得意抄副書』(徳治3年、1308年とされる)は偽書の可能性が高く、ここには挙げておりません。

「『本尊得意抄副書』と『常修院本尊聖教事』との矛盾」

そもそも1299年時点で『常修院本尊聖教事』に記録されておらず、富木常忍が所有していなかった可能性の高い『本尊得意抄』を、どうして伊予公日頂に送付することができるのか不可解です。しかもこの中には『二箇相承』本文は全く引用されておりません。しかも「日蓮から日興のみに伝わった」とされるものがなぜ六老僧の日頂に伝わっているのでしょうか。そもそも同抄の日頂真蹟は現存せず、筆跡から偽書扱いされているのです。

普通に考えてみれば『二箇相承』が日興在世中に現存したと仮定するならば、日興が富士を離山する理由が存在しなくなります。『身延山付嘱書』には「背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」とあり、その真蹟が当時の日興の手元に現存していたら、それを見せるだけで波木井実長と民部日向は日興に反論できないことになってしまうのです。

追記

なお創価大学の宮田幸一氏の「日興の教学思想の諸問題(1)資料編」(初出『創価大学人文論集第18号』、2006年)http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/nikkodoctrine1.html で、ネット上で2012年3月の加筆において、「富士門流掲示板」の議論を紹介しています。これによるなら、本門寺大堂本尊とともに『二箇相承』写本が重須6世日浄により書写されたことが日向定善寺文書に記録されており、大堂本尊裏書とともに『二箇相承』が本来「日蓮→日興→日妙」の正統を証明するためのものであったことになります。これもまた『二箇相承』が北山本門寺(重須)の正統を示す文書であったことになり、何ら同抄が大石寺の正統を示すものではないことがわかるかと思います。