宮古地方の歴史 沖縄観光情報 Webサイト:真南風プラス (財)沖縄観光コンベンションビューロー (original) (raw)

宮古地方の歴史が文献に登場するのは遅く、1317年中国温州に漂着した「密牙古」人が、「みやこ」という名前が初めて中国の史書に登場したものとされています。

1365年与那覇勢頭豊見親(よなはしいどぅとぅいみや)が中山王・察度(さっと)に入貢し、宮古首長を拝命しました。
1500年、宮古の仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみや)は尚真(しょう・しん)王の派遣した中山軍とともに、100隻の連合軍の先頭に立ち、八重山で起こったオヤケアカハチの乱を平定に力を尽くしました。この結果宮古・八重山は琉球王朝の支配下に置かれることになりました。漲水御嶽(はりみずうたき)とその石垣は、この乱の戦勝記念に築造されたものと言われており、現在でも宮古島市平良(ひらら)内で見学することが出来ます。

1609年に薩摩藩が琉球に侵入した後、琉球王府は宮古・八重山への税として、1637年に人頭税(にんとうぜい)を実施。数え年15歳から50歳までの男女1人1人に対し税を課しました。あまりの過酷さに、143cmほどの人頭税石と同じの背丈になると税を課せられた、という伝説を生み出しました。実際には年齢による課税であり、身長は関係ありませんが、人頭税石は税の過酷さの象徴として、現在も残っています。
現在は工芸品として知られる宮古上布は、貢租の中心で、人びとに苦役を強いることになりました。

1771年、明和の大津波が島を襲い、4集落の人家が流され宮古島だけで2,500名余りもの死者を出す惨事となりました。
1873年、台風のため現在の宮古島市上野宮国海岸沖で座礁したドイツの商船ロベルトソン号の乗務員を救助したことから、後にドイツ皇帝より博愛記念碑が送られました。

明治時代、廃藩置県後も過酷な人頭税は続いていましたが、新潟県出身の実業家・中村十作(なかむら・じっさく)、那覇出身の製糖技師・城間正安(ぐすくま・せいあん)ら指導者や、農民代表の西里蒲(にしざと・かま)、平良真牛(たいら・もうし)らによって人頭税撤廃運動が起こり明治政府と帝国議会に請願、1902年議会で廃止が決まり、1903年にようやくこの悪法も終わりを告げました。

戦後は、宮古には米軍統治のもと宮古民政府が置かれましたが、その後琉球政府に統合され、1972年、沖縄県として日本復帰を果たしました。