映画 西部劇『荒野の決闘』「チワワ最高d(≧▽≦)b」 (original) (raw)
引用元:kamakura-kawakita.org
ストーリー
「駅馬車(1939)」「怒りの葡萄」のジョン・フォードの復員第二作で、ス テュアート・N・レイクの著作に基くサム・ヘルマンのストーリーから、この映画の製作者のサミュエル・G・エンジェルがウィンストン・ミラーと協力して脚本を書いたもの。主演は「運命の饗宴」のヘンリー・フォンダ、「血と砂(1941)」のリンダ・ダーネル、新人ヴィクター・マチュアの三人で「スタンレー探険記」のウォルター・ブレナン、新人キャシー・ダウンズ、「春の序曲」のアラン・モーブレイ、「駅馬車(1939)」のティム・ホルト等が助演している。撮影はジョー・マクドナルドの担当である。1983年12月10日よりのリバイバル時に邦題を「いとしのクレメンタイン~荒野の決闘」に改題し公開。
1946年製作/97分/アメリカ
原題:My Darling Clementine
劇場公開日:1947年8月30日
引用元:https://eiga.com/movie/44387/
登場人物・キャスト
役名 | 俳優 | 日本語吹替 | |
---|---|---|---|
NET版 | PD版 | ||
ワイアット・アープ | ヘンリー・フォンダ | 小山田宗徳 | 大塚智則 |
チワワ | リンダ・ダーネル | 翠準子 | 渡邉絵理 |
ドク・ホリデイ | ヴィクター・マチュア | 内海賢二 | 真田雅隆 |
クレメンタイン・カーター | キャシー・ダウンズ | 武藤礼子 | 梅田未央 |
オールドマン・クラントン | ウォルター・ブレナン | 槐柳二 | 矢嶋俊作 |
ヴァージル・アープ(英語版) | ティム・ホルト | 納谷六朗 | 福里達典 |
モーガン・アープ(英語版) | ワード・ボンド | 富田耕生 | 高橋珍年 |
ジェームズ・アープ(英語版) | ドン・ガーナー | 古谷徹 | 小林悟 |
ビリー・クラントン(英語版) | ジョン・アイアランド | ||
グランヴィル・ソーンダイク | アラン・モーブレイ | 島宇志夫 | 斎藤亮太 |
不明その他 | N/A | 勝田久相模武渡部猛水鳥鉄夫立壁和也島木綿子野本礼三島宇志夫緑川稔 |
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/荒野の決闘
感想
『ローマの休日』を機に、昔の白黒映画にも手を付けだしたのですが、白黒映画でしか摂れない栄養素がありますね( *´艸`)
現代のカラー映画の映像美は素晴らしいですが、白黒映画の質素感というか、俯瞰的な雰囲気というか、小汚い感じが最高です。
アニメで例えると、昔のアニメは荒削り感が迫力を生み、アナログの質量が感じられますが、現代のアニメは加工やCG技術が美しく洗練された反面、昔のアニメにある質量が感じられない気がするのです。
どっちが優れていて、どっちが劣っているという話しではなく、どちらにも良し悪しはあるということです。
現代でなければ表現できないこともありますし、反対に現代では表現できないこともあります。
何が言いたいかというと、本作『荒野の決闘』は現代では表現できない、ロストテクノロジー映画だということです。
ヘンリー・フォンダ演じるワイアット・アープは、家族で牛追いをしながら、カリフォルニアに向け旅をしていました。
ですが、その道中でクラントンという一家に「牛を売れ」とせがまれるのですが、ワイアットはきっぱりと断るのでした。
そんな出来事がありながら、アープ一家は近くにあるトゥームストンという町へ休憩のために立ち寄りました。
そこで酔って暴れる先住民に遭遇します。
トゥームストンの保安官は怖気づいてしい、たまたま居合わせたワイアットに保安官バッジを渡し、逃げ出してしまうんですね(^▽^;)
仕方なく、ワイアットは先住民の無法者が籠城している娼館の2階から忍び込み、見事無法者を制圧し事件を解決してしまうのです。
町のみんなは「新たな保安官になってくれ」と、ワイアットに頼みますが、ワイアットは断り、末弟のジェームズが留守番をしている野営地に戻って行くのでした。
ですが、野営地に戻ってみると……ジェームズが何者かによって殺されており、牛も盗まれていたのです(゚Д゚;)
アープ一家はトゥームストンの町に戻り、一度は断った保安官の仕事を引き受け、職務の傍らジェームズを殺した犯人を調査することになりました。
大筋の流れは末弟のジェームズを殺した犯人を探すという名目で展開されますが、本作の一番の見どころは、サイドストーリーだと思います。
トゥームストンの町には個性豊かな人々が沢山いるんですが、中でも、酒場の歌姫チワワと賭博の元締めで、医者の資格を持っているドク・ホリデイとの交流が見どころでしょう。
チワワはドクの情婦で、激情的な人なんですが、このチワワが人間臭くてめっちゃいいんですね( *´艸`)
現代でいうところの悪役令嬢的立場で、事あるごとにワイアットの邪魔をしたり、ドクの恋人であるクレメンタイン・カーターがドクを訪ねてトゥームストンの町に来たときも、チワワは嫌がらせのようなことをしたりします。
ですが、チワワを嫌いになれないんですよね( ;∀;)
例えば『ベルサイユのばら』に登場した悪役令嬢たちはみんな、人間らしく、それぞれの弱さを持っていて魅力的だったのですが、本作のチワワも人間の弱さというものが感じられて好きなんですよ。
素晴らしい作品に共通するのは悪役が魅力的であることだと思うのです。
物語の主人公の多くは、大抵お人好しの善人であることが多いでしょう。
不思議なことに善人でなければ物語が作れないんですね。
アリストテレスはその著書『ニコマコス論理学』の中で、このようなことをいっているそうです。
あらゆる芸術、あらゆる希求、そしてまた、あらゆる行動と探索は何らかの善を目指していると考えられる。それ故に物事が目指しているものから、善なるものを正しく規定することができる。
つまり何が言いたいかと言いうと、芸術=物語は善を目指しているのです。
例えるならネガティブよりポジティブが望ましいとされる風潮があるのもそれです。
話を戻しますが、主人公が悪役なら物事は善に進まないんですね。
でも、人間は善だけでなく悪も併せ持つ矛盾した生き物。
創作者は何故かわかりませんが、善人ばかり描いていると辛くなるのです。
創作者に限らず、視聴者も善人過ぎると「水清ければ魚棲まず」ということわざが表す通り、嘘らしく感じてしまって感情移入し辛いと感じ、逆に悪役の方が親近感がわくことってありますよね(^▽^;)
意外と悪役が言っていることの方が、物事の真理を突いているなんてことも多く、物語における悪役はアンチテーゼの役割を担っているのです。
悪役がいるから、ヒーローは輝くことができる。
本作のチワワは悪役令嬢的な立ち位置ですが、その人間としての弱さに親近感が湧いて、すごくいいキャラなんですよ(T▽T)