★後藤里菜『沈黙の中世史』と「感情史」 (original) (raw)

★後藤里菜『沈黙の中世史』は、ちくま新書から今年7月に出ました。「感情史から見るヨーロッパ」という副題がついています。著者は、まだ30代のヨーロッパ中世史家です。

◇次のような章立てになっています。

第1章 祈りと沈黙

第2章 統治の声の狭間で

第3章 感情と声、嘆き、そして沈黙

第4章 聖と俗

第5章 聖女の沈黙

第6章 沈黙から雄弁へ

第7章 沈黙を破る女

◇前半(第4章まで)はやや平板な印象がありましたが、後半(第5章以降)は著者の面目躍如という感じでした。「中世ヨーロッパ世界の面白さ」は十分に伝わってきました。後半は「ジェンダーから見た中世ヨーロッパ」と言ってもいい内容でした。特に第7章ではクリスティーヌ・ド・ビザンという女性が生き生きと描かれていて、魅力的な最終章になっていたと思います。

◇巻末の「読書案内」はとても参考になります(田川建三の著書があげられていない点については先の記事で触れました)。「感情史」が、歴史学の狭い一分野ではなく、きわめて学際的であることもよくわかります。

◆やや難があるとすれば、次の3点でしょうか。

① 図版が鮮明でなかったこと。

②『沈黙の中世史』という書名が、内容とあまり合致していなかったこと(声や嘆きや叫びや文字による主張にも、多くのページが割かれていましたので)。

③音楽に触れていなかったこと(沈黙や静寂や声を考えるうえでも、文字によらないコミュニケーションを考えるうえでも、聖歌やオルガンの果たした役割に着目することは重要だと思っています)。

◆個人的な関心からすると、日本の仏教の瞑想や読経、聖[ひじり]や尼僧などと比較されているとすばらしかったと思います。もう一冊別な本が必要になってしまうでしょうが。考えてみれば、日本の文化も沈黙や静寂、声、喧噪などの宝庫です。

◆勉強不足で「感情史」についてはわからないことが多いのですが、「感情史」という視点を持つことで、今まで以上に歴史の中の「揺らぎ」や「流動性」に焦点を当てることになれば、非常に有意義だと思います。ただ、一時よく使われた「心性史」とはどう違うのでしょうか? 「感情史」は政治史や経済史をも覆うものなのでしょうか? 「感情共同体」という語もあるようですが、「感情」をさまざまな領域に拡大することで生じる危険性はないのでしょうか?

◆根本的には、「感情とは何か」という問題があります。感情と心(あるいは精神)のつながりや差異、感情と身体のつながりや差異はとても難しいテーマですが、それらを考えずに「感情史」を書くことはできないと思います。また、歴史の中で生きた人びとを叙述しようとすると、感情だけをすくい上げるわけにはいかないという問題に逢着するでしょう。さらに、感情を時代や地域を越えた普遍的なものと考えることができるかどうかという問題もあります。ある地域に生きた過去の人びとの感情とそれぞれの国民国家とグローバリゼーションの中で今を生きる歴史家や読者の感情とは、必ずしも同一ではないでしょう。私たちには、過去の人びとを「感情的に」同一視し、時間の隔たりを越えて共感したいという欲求が常にあると思いますが、自分たちと過去の人びとのズレを知ることもまた重要です(「私たち」の中のさまざまなズレを知ることが重要であるように)。

◆また「感情史」という訳語を使うにあたっては、日本語の「感情」という語感にも注意しなくてはならないと思います。英語の emotion はかなり強い意味の語だと思いますが、日本語の「感情」はもっと広い意味を持ってきました。しかも、そこには濃淡がありますし、「移ろい」という意味さえ隠れているかも知れません。

◆「感情史」という語は、「人びとの感情にも焦点を当てた歴史」というような、広い意味に受け取るべきなのでしょう。

★著者は、今後、「規範と神のもとの定位置を重んじる中世らしさの亀裂」(284ページ)をさらに探究するのだと思います。ヨーロッパ史でも、アジア史でも、日本史でも、亀裂のない歴史というものはあり得ません。整序された中世ヨーロッパ史も必要ですが、さまざまな亀裂や揺らぎを含んだ、豊かな中世ヨーロッパ像が描かれることを楽しみにしています。