藤野の散文-私の暗黙知- (original) (raw)

*[ウェブ進化論]場面を作る。

例えば自分のこれまでを振り返り、若い人に「こんな面白いことがあったのよ」と話す人と。

「あーあー俺は一体何をしてきたんだろう」とこぼす人と。

どちらがいいかは言うまでもなく。

けれど面白いのは「実はどっちも大差ない」という場合も往々にしてあるということだ。

つまり「過去の解釈の仕方」のスタンスの問題である。

失敗であれ苦労話であれ、過去を面白く解釈して「これからに繋げる」というのは大事な性分というか、ある種の才能ではないかと思う。

関西人がよく言う「なんでもネタにする」というやつだ。

自分の過去なんて、自分でまあどうでも料理できる格好の素材である。

(けど他人の過去を不用意にネタにすると思わず滑ってしまうことがあるので要注意)

そして何よりも大事なのはそういう「自分の過去を要約して意味付ける」ということばかりではなく、

それらを「これからのストーリーにつなぐ」ということだろう。

人生は波瀾万丈、とまではいかぬとも「起承転結の物語」くらいのものには仕上げたい。

別に最期が大成功でなくても、大団円を迎えられなくても構わない。

そんな物語は当たり前にそこら中にある話だ。

結果がすべてなのではなく、辿ってきた道筋そのものが面白いのだと思う。

白紙に何かを描くって、なぜか楽しい感じがする。

*[ウェブ進化論]物語はこれから。

自分の過去は変えられない、という。

けれど「過去の意味」はこれから次第で変えられる、とも言える。

昔はやんちゃだったりドロップアウトしていたりしていた人が、何かのきっかけで目覚めて活躍している、というのはむしろ定番のストーリーと言ってもいいだろう。

「その躓きがあったればこそ」という話はそのくらいよくある話だ。

つまり今日これまで失敗をしたり、後悔したりということがあるのであれば、それは「反転のきっかけになる」ということだ。

なら「チャンスはいくらでもある」ということにならなる。

無為に過ごしていた若い頃とか、受験勉強にクサっていたいた学生時代とか。

ああいう息苦しさを感じていたから、今は自分のやりたいことを自由に探したい、と思える。

また自分がこれからどんな選択をしていくかということは、実は「かなり自由な世界にいる」ということに気付けたりするとか。

これまで生きてきた中で、今の自分が"一番のベテラン選手"なのは間違いないことだ。

二十歳のころの自分などまったくのガキでしかなかった。

そしてこれから生きていく上では「今の自分ですら一番若い」というのも事実である。

「過去をバネにするストーリー」を作り、ワクワクする展開にするのはこれからのことにしよう。

*[ウェブ進化論]眠気優先。

昔は25時間と言われていた人の体内時計が、最近の研究では「ほぼ24時間と少し」だと判明したらしい。

しかし個体差があるらしく自分はどうもリズムがズレがちだ。

これまでにも「二日に一回長時間寝る」とか「強制的に日の出と共に起きる」とか色々やってみたがどうも長続きしない。

休み前などでちょっと気が緩むと夜更かししたりドカッと長寝してしまったりということが続いていた。

特に無理に早朝に飛び起きてもよく解説にある「朝日を浴びて体内時計を修正する」というような気分にならないのだ。

なんか2時間くらいはぼーっとしている。

そこでテレワークの恩恵もあり、最近試しているのが「眠気を優先して暮らす」というやり方だ。

例えば自分は、夕食後から11時くらいまでの間に「必ず眠気を感じる時間帯」があることに気がついたのだ。

そしてそれを越えると今度は深夜の3時くらいまでは眠気を感じない。

多分脳は疲れているのに「眠気のヤマ」を超えてしまって「疲れているのに眠るきっかけがない」ような状態になっていたのだと思う。

なので「夜早めの時間帯に眠気を感じたら、躊躇なく寝る」ということにする。

そうすると午前2時くらいにはスパッと目が覚めるので、そのまま起きて本などを読む。

そうしていると6時くらいにはまた眠気を感じるので、ここでまた寝床に入ると90分程度で目がさめるといった具合だ。

今の所この「眠気優先生活」が一番頭がスッキリしている感じがする。

*[ウェブ進化論]小さく目標。

一年に52週。

これをもう60回も続けてきて未だに試行錯誤する時間の使い方。

言い訳がましいが、この迷いの理由には「自分の年齢が刻一刻と変化している」ということも大きいと思う。

若いころは、計画も予定もなくだらっと過ごすのがどこか心地よく背徳的な楽しみでもあったのだ。

「わざとだらっとしているのさ」というような感じすらあった。

で、多くの人は40歳を過ぎたあたりから異変に気付くようだ。

「あれ?あまりだらっとばかりしていられないぞ」とヒシヒシと感じるのだ。

それが50、60歳になると冗談ではなくなる。

身近ではなく恐怖として迫ってくるのだ。

そうして自分たちはようやく焦り出す。(汗)

本当にこれからを考えねばならなくなったと。

けれどそれでも「10年とか30年後の目標」というと遠くに霞んでしまう。(嘆)

もっと近い一年とか今月の目標、なんて言っても急に身構えて「一体何をするのさ?」なんて感じになる。

そして達成されたという記憶はない(遠い目)

そこでもっと短く。

この連休の目標、次の週末の目標、そして今日一日の目標くらいを考えてみたい。

「この週末には体のストレッチと筋トレだけはやっておこう」とか。

「この本だけは読んでしまおう」とか。

そんな"小さな目標と消化"をまず習慣にしてはどうだろうか。

大きな目標は、とかくサボる理由になりがちだから。

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*[ウェブ進化論]お座なりのない世界。

やがてAIが自分のクソ仕事を悉く駆逐してくれるその日を夢見る。

(そんな風に考えると毎日のクソ仕事がどうにも苦痛に感じてきた)

だってただ電話で連絡するだけ、とか。

ただメールを転送するだけ、とか。

ただの報告とか。

結論が出ている話を根回しに行くとか。

これまで何百年にも亘って、いわゆる「事務」を人間がこなしてきたことがどこか懐かしい。

「事務」はほぼ全てが単純作業なのだから、ようやくそんな単純労働から人間が解放される時が来たのだろう。

今の自分たちは「その事務がなくなったら自分たちはどうするの?」と不安を口にするけれど、それこそ「これほど有難いことはない」という風に理解して、ようやく「単純労働ではなく、自分で考えてすること」を考える余地ができたということである。

改めて自分の存在する意味とか、自分だからできることを考えなければならない。

「定型的に答えの決まっていること」というのはほぼ自分たちの介在は必要ないから、「決まった答えのないもの」についてこそ考える価値があるということだ。

例えば「道行く困った様子の見知らぬ人に声をかけるかどうか」とか、他人の意見に「あえて自分の意見を表明するかどうか」などの「正解かどうか分からないこと」などについて、これから自分たちは色々と判断していくということなのではないだろうか。

*[ウェブ進化論]できなくすること。

あたり前のことだが、自分たちは日常「大体できる世界」で生きている。

夜寝る場所がないとか、朝出勤できないとかバスに乗れない、ということはない。

仕事をしていても「到底できないものに囲まれている」ということはない。(まあできるものばかりでもないが)

物語の名言にはよく「できないことを数えるのではなくできることを見ろ!」というようなセリフがあるが、自分たちは実はもうちょっと「出来ないこと」についても考えるべきではないだろうか? と思った。

日常暮らしている世界は「なんとか出来る自分の世界」だ。

つまり「出来ないことにあまり遭遇しない甘い環境」だとも言える。

つまりまぁ”ぬるま湯”な日常だ。

だから「劇的に辛い状況」ということにはなりにくい。

「迷ったら苦しい方に行け」という格言がある。

もう「めちゃくちゃ苦しい方」というのは選びにくい(いやだよ)けれど「ちょっとは苦しい方に行け」と言いたいものだ。

そんな、どんどん「環境を厳しい方に持っていくことが経験値を上げるのだ」ということをぜひとも、若い人に伝えていく必要があるだろう。

「ぬるま湯とか既定路線」というものを避けていける人が伸びていくのに違いない。

*[ウェブ進化論]いつまでも、そのままでいる。

それにしても日本人の特徴として。

急に変われない。

大きな決断をしない。

むしろ、しがみ付く。

非常によろしくない性質だが、でもそれが後から見ると幸いしていたりすることも多いのだから苦笑するしかないという気もする。

グスグズしていたら、却って被害が少なくって結果オーライ、というのはよく目にする光景でもある。

日本人という単一民族はいないらしい(三民族のミックスらしい)けれど、それにしても見事なまでの事なかれ主義である。

よく「生物の急死は珍しい」つまりほとんどの場合その予兆があると言われるが「いくらはっきりと予兆が見えても」それすら知らんふりをしているのが、我われ日本人なのだ。

政治家や官僚の振る舞いは言うに及ばず、そういう態度を決め込んで、そのまま沈んでいった会社を自分はいくつも目にしてきた。

「沈む船上で椅子取りゲームをする」という表現があるけれど、まさにそれだ。

そして驚くべきことにそのまま沈んで逝くのである。

先の敗戦を見ても、日本人というものにはそんな特性がある、とあらかじめ理解しておいた方がいいだろう。

“信じられぬ愚策”というのは日本のお家芸なのだと思う。

*[ウェブ進化論]ババ抜きも後半戦です。

持ち家派か賃貸派か、という定番の話もこれからは答えが変わってくるという話。

例えば、手堅い投資方法として一棟マンションとか、古戸建て再生とか、タワマン節税など時代ともに流行り廃りがあるものだ。

これまでの不動産投資ブームは間違いなくゼロ金利が原因だが、ともかく「低利で借りて購入し、利回りを取る」というスタイルだが、これからはそれも「分かりやすいババ抜きゲーム」になっていくだろう。

「需要が右肩上がりではない」という初めての時代を前にして、自分なりの考えを持っておくことが必要だと思う。

そして例えば、マンション投資というのは「建物に期限があるもの」への投資行為である。

最近、非常に多くのマンションで維持管理費(修繕積立金)不足が問題になっているが、本来積み立てるべき金額を初期に低くしているから後から苦しくなるのは道理である。

さらに維持がちゃんとできても60年ほどで寿命が来る。

タワーマンションは100年持つというけれど、その後はどうすんのよ? と聞いてもゼネコンから回答はない。

すでに苗場などのリゾートマンションは廃墟化しているが、都心の高層建築物が墓標のようになる日を想像しておくべきではないかと思う。

フリーエネルギーの核融合炉なんかがうまく実現して、杞憂になればいいですが。

*[ウェブ進化論]少子化の先の風景。

「住まいは持ち家か賃貸か」というのは時代とともにずっと話題になり続けてきたけれど、いよいよ潮目が変わる時期に来ているようだ。

不動産業界の提灯記事は、業界をあげて「お祭り」を続けようとするから注意しておかねばならない。

元々「何を優先するかで選択肢が如何様にも決まる」という、決まった答えのない問いなのだが、ポジショントークで意見を作りやすいから未だにそういう記事をよく見かける。

賃貸は引っ越しがしやすいから、とか分譲は資産形成にいい、とかいうのがこれまでの常套句だったがいよいよステージが変わり始めている。

自分たちの周囲を見回してほしい。

すでに「余りそうな家」を抱えそうな人は結構いないだろうか。

田舎や郊外の実家とか、またそこから大都市圏に出て働く子供が分譲マンションを買ったとかいうケースでは、たちまち「家余り」の状態になる。

賃貸に出すにしても少し交通の便が悪いと借り手が付かない。

“たったここ20年で空き家が倍になっている”という事実。

想像以上に事態は進んでいると見るべきだろう。

「これまでの物差し」を判断基準にしていると、思わぬ落とし穴にハマる恐れがある。

(つづく)

お題「うちの自慢スポット」

はてなのAIお題シリーズ。

うちの自慢の場所、と言ったって元々活動範囲が狭いからそんなにはない。

料理もしないのでキッチンでもない。

トイレも風呂も寝室も普通だ。

自慢ではないが何か特徴があるとすればデスク周りになってしまう。

そしてここ数年でそのスポットに変化が出始めている。

特徴は「手の届く範囲になんでも置く」ということだ。

パソコンやスマホはもちろん、ティッシュとかサプリメントとか綿棒とか。

筆記用具やよく使う手帖やノート。

オーディオやエアコンのリモコン類。

そして今読んでいる本が一冊。

グルメ本も一冊。

湯呑みも定位置に必ず置いている。

そして気付いたのだ。

この生活の仕方、以前「訪問介護の同行」で見た高齢者の自宅とそっくりである。

おじいちゃん、おばあちゃんたちは生活の行動範囲が狭い。

そして足腰も弱っているからあまり活発にウロウロしない。

しかも生活パターンはかなり定型的だ。

そんな「高齢者の自宅」と自分の部屋はかなり似ている。

ということはそういう側面から見ても「自分は高齢化している」という風に見る方が自然だろう。

なむー。

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お題「断捨離」

はてなのAIがブログのお題を考えてくれるという企画。

自分の実家は代々収集癖のある家系で、父は昆虫の学会に入っていて「昆虫博士」と言われる学者とも知り合いで家には木箱に入った標本が今でも何十箱とある。

自分もフィギュアとか根付けとか時計とかが大好きだったけれど、どうも「収集は収集を呼ぶらしい」ということに気付いて途中で止めることにした。

何か「所有の虜」になってしまうような気がしたのだ。

もう"所有"そのものが自己目的化してしまうような。

そうして集めることで、またその世界の考察も深まり、さらにそういうことが好きになる…

という連鎖に入るだけの興味がなかったということでもあるだろう。

そして残ったのは書籍である。

買ったはいいが読んでいない「積ん読本」。

残しておきたい昔のコミックシリーズ。

好きな評論家の全集。

それらだけが「自分の荷物」となって残っている。

自分の断捨離の最後はこの本をどう処理するのか、ということに違いない。

どんどん厳選して最後は「私の100冊」くらいにできれば、そのくらいは遺しておいてもいいのかもしれないと思っている。

*[ウェブ進化論]クソ仕事亡きあと。

昨日クソ仕事から解放、という話をしたけれど。

「自分−クソ仕事=??」。

既存の定例会議とか、議題とか議事録とか、もう見た瞬間に「みんなで話す必要ある?」というようなものは論外だけれど。

自分たちは何か新しいプロジェクトとか異分野への進出とかいうことになると「じゃあまず資料をまとめてよ」という習性がある。

そして言い出しっぺか、その役割を押し付けられた人は結構な時間を費やして「数字の把握と資料を作る」というクソ仕事に没頭することになる。

けれどいかに市場を調べて有望である、とか反対に「すごくレッドオーシャンです」とか言ってもやる時はやるし、またその資料をパラパラと眺めつつ「やっぱり無理だな。大変過ぎる」ということはとても多い。

つまり「やるかやらないか」はすでに違うところで決まっていることがほとんどである。

強いていうなら「やるための材料を補強するためのクソ仕事」という感じだ。

どうせ直感で決めるのなら、それこそ生成AIに幾つか質問をして、それから直感を働かせればいいということになるだろう。

そんな無駄な仕事がホワイトカラーから急速に無くなりつつある、ということなのでプログラマー諸氏はともかく

「ホワイトカラー(−)クソ仕事=?」ということを真剣に考える必要がある。

自分の居場所がなくなることを想像しよう。

*[ウェブ進化論]クソ仕事から解放。

これまで"聖域"と勝手に思い込んでいた自分たちホワイトカラーたち。

ようやくここでも「やりやすいところ」からAIの波に呑まれ始めている。

受付とかコールセンターはすでに大手では「フルボット化」が進んでいて、人が介在せずに処理が完結することが多い。

事務系の仕事も、まだ人間が「縦割り」で作業を囲い込んでいるから整理が進んでいないが、いよいよ省人化の波に洗われる時が来ていると思う。

今世の中にプログラマーが不足しているのは、こうした「ホワイトカラーのIT化」が急激に進んでいるからである。

なので普通のプログラマーはあと5年も経てば急に余り出すのでIT業界の人もこの先のことをプランしておいた方がいいだろう。

一手間かける、などと言って「手間そのものが善である」というのはこれまでの美徳感であって、これからは「本当に手間をかけたいところ」にこそ手間の価値が評価されることになる。

「手間がかかっていることがいい結果をもたらす」という"労力の自己目的化"ではなく、できるだけ(自動化して)手間を削ぎ落としてこそ「人の手間の価値が上がる」ということだ。

そう思えば人が「人らしい、人ならではの仕事」に専念できて、そうでない仕事はコンピュータがやってくれるという、非常に人間的な時代に近づいてきていると言えるのではないだろうか。

*[ウェブ進化論]ホワイトカラーのあぐら。

以前、自分の仕事の中で「アルゴリズムで解決できないものはあるだろうか?」という記事を書いたことがある。

それは「アルゴリズムでできる仕事はいずれなくなる」という報道を見たからだった。

会社を作った頃から「これから雇うスタッフに説明するため」によく「仕事の意味」について考えていた。

コンピュータのプログラミングという仕事だって「世の中の分業の一つなのだ」と思いついてからはずい分と自信を持って話ができたと思う。

そしてその"分業"がどんどんアルゴリズムに置き換わろうとしている。

特にホワイトカラーの人は、これまで「ひと対ひと」でいわば聖域だったところと言えるだろう。

しかしご存じのようにホワイトカラーの仕事って大部分が「ほうれん草」であって、実はせいぜい「調整ごと」程度のことしかしていない。

思えばここ50年くらいはコピー機ワープロ、そして電子メールが整って「ほうれん草」が早くなったくらいの「スピード的な変化」ばかりだった。

いよいよそんなホワイトたちに「質的変化」がもたらされることになって、ようやくかいな、という気持ちの人も多いのではないだろうか。

人が判断すると言っても「撤退か継続か」とか「新規参入か見送りか」とかいうのだって自分たちは、もっともらしく考えているような顔をしているが、本当はいろんなデータをコンピュータが抜けなく分析した方がいい結果になるだろう。

(つづく)

*[ウェブ進化論]頼まれごとは試されごと。

IT業界では人材募集の時に「若くても一人称で動ける人」という表現がよく用いられる。

指示待ちでなく、他人事でなく積極的に動ける人のことだ。

一人称、二人称、三人称、と言うけれど、それほど自分たちは自我とか自意識が強い生き物なのだ。

常に自分のことを先に考えているし、常に自分からしか周囲を見ようとしない。

そしてそんな態度になっていることを自分ではまるで気付いていないのも常である。

それはともかく。

相談事をしていると「実に親身になって考えてくれる人」というのがいるものだ。

健康につけ、ビジネスにつけ、人間関係の悩みにつけ。

二人称、三人称ではなく一人称で考える。

恐らく話している時のその人は「自分の頭の中で自分のこととして」考えてくれているのだ、ということを強く感じる。

「"我がこと"として外部と接することができるかどうか」というのは実に重要な能力だと思う。

よく「頼まれごとは試されごと」と言う。

なら「相談ごととは我がことである」と思いたい。

コミュニケーションの薄いと言われるこれからの時代は、ますますそういう「一人称力」が必要になるだろう。

まず第一に「同調力」などが問われていたこれまでと比べると隔世の感がある。