持つべきものは友 ―水へのアクセスと人間関係 (Access to water and personal relationships) (original) (raw)
持つべきものは友 ―水へのアクセスと人間関係 Petr Matous 東京大学公開講座 安田講堂 2009年10月17日 ご来客の皆様、こんにちは!ただいまご紹介に預かりました、ペトゥル・マトゥシュと申します。本日こうして、この由緒正しき安田講堂にて、素晴らしいご来客の皆様の前で、一人の若いヨーロッパ人研究者が、アジアとアフリカのスラムにおける水についてお話をする。なぜ私がこのような幸運な機会に恵まれたかをご説明するところから、本日の講演を始めさせていただきたいと思います。 私は、今からちょうど7年前、応用力学を勉強するためにチェコ共和国から来日しました。そして、日本での研究生活に励む中で、日本政府が支援するフィリピンのマニラにおける水道民営化に関する研究に携わる機会に恵まれました。もとの専門とは少し異なる分野でしたが、とても楽観的な性格の私は、ここに残り、今日まで修練してきました。 研究を続ける中で、私はinformal settingの水道システムの中で、ある概念がとても大きな力を発揮しているということに気付きました。それが、本日のテーマでもあります、「ソーシャル・ネットワーク」、日本語で言えば「社会ネットワーク」です。ソーシャル・ネットワークは、本当に大きな役割を担っており、本日お話する内容の大部分が、このソーシャル・ネットワークについてです。 このように、日本に来て、専門が変わり、手探りで始めたソーシャル・ネットワークの研究でしたが、今では研究の対象範囲も広がり、このソーシャル・ネットワーク理論を用いて様々なインフラストラクチャーへの住民のアクセスを扱うようになりました。例えば携帯電話。近年のグローバル化の影響で、世界中の人々が持つようになっています。そして特に私が驚いたのは、水道はなくても携帯電話は持っているという人が数多くいるということです。また、他にはエチオピアの農民への新技術の導入や、日本国内の限界集落での基礎的サービスの研究設計にも関わっています。 このように様々な分野に関わってきましたが、やはり最も注目すべきは水です。水は、世界中で興った文明にとって、特別な宗教的、文化的、そして精神的な意味を持っています。きっと皆様も、昨今の世界の水問題について、テレビや新聞で聞かれたことがあると思います。気候変動、砂漠化、汚染された水で命を落とす子供達、そして水紛争。最近の国際世論調査で、水問題はグローバルな問題の中でも最も高い優先順位になっています。このような状況を見ていると、まるで世界中の水資源がいずれなくなってしまうかのような強い懸念が世界中にあります。 しかし、実際には地球上にある水の総量は一定なのです。もちろん、分子レベルで水分子H2Oが壊れることも稀にありますし、宇宙から水が飛来してくることもありますが、この数年で見れば水は全体的に 増えたり減ったりしないのです。例えば飲水や、灌漑、洗濯などに水を使っても、その水は破壊されるわけではないのです。使う分は、生産される。問題は、いかにしてこの水資源を管理、効率的に、必要としている人々に安価に配分するか、そしてどのように再利用するかということなのです。 どうすれば、皆が安心な水を得られるシステムを設計し、管理できるのでしょうか。その方法は、地理的な環境によって大きく異なります。特に、都市と農村部での違いは大きいです。今日のお話は、特に都市に住む貧困層が水道にアクセスする上での課題についてご説明し、そして「コミュニティ・アプローチ」と呼ばれる解決策をご紹介します。 人々が水へのアクセスを得る上でソーシャル・ネットワークがどのような役割を果たすのか。そして、これらの貧しい国の水資源について知ることが、東京の日常生活について考える上でどのような意味を持つのか。今日のお話が終わった頃には皆さんにこれらの点について、私の考えをしっかりとお伝えできていたら嬉しく思います。 本日のお話の中では、この画面にあります三角形の図を使って、水問題の重要な点をご説明します。一般的に、水資源が、環境的、社会的、そして経済的に持続可能であるためには、いくつかの仕組みが正常に機能する必要があります。これらの仕組みは、いくつかの細かいタスク、つまりいくつかの明確な作業で構成されていて、どのような作業が必要であるかは、その地域の独自の特性によります。 私がお話する内容は、都市の中でも最も忘れ去られている地域に関するものです。このような、行政サービスが乏しい地域を、スラムと言います。国連の統計によると、世界の人口の三分の一にも上る約10億人が、スラムに暮らしています。そしてこの数字は、農村から都市への移住が進む中で、どんどん増えているのです。このように農村から都市へと移住するペースが最も早いのが、サハラ砂漠以南のアフリカです。これらの地域では既に都市に住む人々はスラムで暮らしているのです。例えば、エチオピアの首都でありますAddis Ababaの実に70%がスラムで構成されています。他方、現在の日本には、スラムはありません。私が住んでいた学生寮は、スラムに限りなく近いほどに古かったですが、それでも東京の全域で、水道や基本的なインフラは整備されています。 誰もが、必要な分だけの水を、安価に得ることができる。そして人々が支払う水道代で、水道局の費用をまかなうことができます。日本でもホームレス人口が増えたり、ネットカフェ難民が社会問題になったりしていますが、それでも、最も貧しい日本人でも、水へのアクセスがなくて苦しんでいる人はいません。 このように、東京のシステムは東京では見事に機能していますが、先ほど申し上げましたエチオピアのAddis Ababaのようなところでは全く同じようには機能しません。国連の調査によると、発展途上国の都市が都市インフラの整備に使える財源は、先進国と比べて実に30分の1しかありません。 私が、アジアの水道事業者と話をすると、その事業者が官であるか、民であるかに関係なく、みんなが、水資源と財源が足りないから、スラムに水を提供することは難しいと言います。中には、貧困層から水道代を取ることはできないと考えているけど、無料で提供することもできないというジレンマに悩む事業者もいます。あるいは、スラムに水道を提供しても、水道管を壊されたり、中古の金物として売り飛ばしたりしてしまうだけだと考える人もいます。 また、それ以前に、スラム住民は土地の権利を持っていないため、そもそも水道事業者が水道を提供することはできない場合もありますし、水道事業者の作業員も、治安などを理由にこれらの地域に入りたがらないこともあります。このように、都市の貧困層は清潔で安全な水へのアクセスが難しいため、女性や子供が水を媒介とする伝染病で苦しむこともあります。しかし、彼らは決して諦めません。合法的に水を得る方法がないなら、他の方法で生きていこうとするのです。 一つの方法は、水を法外な価格で売る業者から買うということです。あるいは、別の方法は、水道システムに違法に接続し、水を盗む方法です。しかし、こうして水道管を切って非合法な接続を作ることは、水道システムの効率性と安全性を大きく損ねます。アジア開発銀行の調査によれば、水道システムを通る水の実に半分が失われることも珍しくないのです。このような状況は、コロンボ、デリーやジャカルタで実際に確認されており、水道事業者の経済的な持続性を大きく損ねることになります。また、財源の不足は職員の低い給与の原因になっており、低い給与は不正を引き起こし、時には水道業者の職員自身が水を盗んで違法に売っている事例もあると言います。 このような状況の中で一部の水道業者は、スラムを避けてきたことがかえって長期的には組織の存続や、水資源の持続性を損ねていることに気がつき始めています。しかし、必要となる膨大な量の水や、潜在的なリスクを考えると、なかなかスラムに水道を提供するという一歩を踏み出せずにいるのです。このように、サービスを提供できる範囲を狭め、そして水道の効率性を損ねてしまっている状況を打破するため、新たなアプローチを試している都市もあります。インド西部の都市でありますアーメダーバードもそのような都市の例です。アーメダーバードでは、スラム住民から水道代を回収することをあえてせず、水道使用量のメーターすらついていない無料の水道を提供したのです。こうすることによって、水道代を払えなくて水にアクセスできない人はいなくなります。しかしこの方法にも欠点はあります。 このサービスを導入してから、スラムの人々は水道を止めなくなったのです。それどころか、とても驚いたことに水道を止める蛇口がそもそもついていない場所もありました。その地域に住む人々は水をずっと出しっぱなしにしていたのですが、さすがにこの無駄遣いのため、都市のほとんどで水は夜中の二時間しか使えなくなってしまったのです。しかし、このように水道が使われない時間が長いと、水の圧力が弱いため、汚染物質が入り込みやすくなります。しかし、いまさらこのような状況を悔やんでも、無料サービスというのは一度提供されてしまったら、実用的にも、政治的にも、有料にはできないものなのです。 スラムで持続可能な水システムを実現するためには、東京のような発展した都市では必要ではないような特別な作業が必要になることもあります。全体的に、民間か公共かによらず、水道事業者はスラムが持つ独自の課題を解決し、人々に水へのアクセスを与えることはできずにおりました。 このように都市の貧困層が物質的にも社会的にも困難な状況にある中、インフラ整備につきましては「コミュニティ・アプローチ」という新たな方法論が広く認められるようになって参りました。現在では、「参加型」、「ボトムアップ」、「コミュニティ」や「小規模水道事業者」など、多様な概念がよく使われます。ここで言います「コミュニティ」という言葉は、一般的にとてもロマンチックな用法で使われます。つまり、同じスラムの住民には対立もなく、常にフレンドリーで、集団的な幸福のためにはいかなる協力も惜しまないような使われ方がしばしば見られるのです。貧しい人々が、自分たちの生活環境を改善する活動に参加することは、貧しい人々の権利です。言い換えれば、「貧しい人が自分自身を助けることを、助ける」ことが重要なのです。これを水資源について言えば、コミュニティに一括で水資源が与えられ、コミュニティの人々がこれを自分たちで分配します。 このような方法は、貧しいコミュニティの人々が、生活必需品である水を管理する権限を与えられることによってある種の力を得るという意味で「エンパワーメント」と呼ばれることもあります。それと同時に、権限をコミュニティ自身に移すことは予算が乏しい途上国では財政的にも重要なことです。また、途上国の水道業者の視点から見ればこれは水道を引くことなくまとまった量の水を貧しい人々に売る効率的な方法でもあります。 私がこの大学の学生達と共に携わったアジア開発銀行のコンサルティング・プロジェクトでは、中央集権的な水道事業者よりも、地域に根ざした組織の方が、次のような利点があるということが分かりました。まず、社会的、地理的な知識と経験が豊富であること。次に、常にその地域の中にすでにいるということ。そして、時間の機会費用が小さいこと、つまりその組織が水道事業に関わることこそが、その組織がほかのことに関わるよりも地域のためになるということです。 このような特徴があるから、これらの「コミュニティ・ベース組織」は地域の住民とのコミュニケーションでもより良い結果を残しています。必要な場合には必要なプレッシャーをかけ、水道に関わる作業が効率的に行われるように管理をするのです。また、中央集権的な水道局などと違って、政府によって監視されていないため、滞納者に対してもより厳しく対処することができます。よって、水を違法に盗んでいくいわば「水泥棒」による被害を抑えて効率的に水を届けることができるのです。これは、中央集権的な水道事業主が失敗をする最も大きな理由であり、このようなコミュニティ・ベース組織の活用が急速に広まっているのもうなずけるのです。 しかし、このような方法が浸透した今も、コミュニティの中でどのような仕組みが働いているのかはあまり知られていませんでした。だからこそ私はこの七年間の中でフィリピンを中心にインド、ベトナム、ケニアやエチオピアでコミュニティ・ベース組織が成功しているメカニズムを研究してきたのです。 これらの調査で私は、コミュニティ・ベース・プロジェクトで大きな利益を得るスラム住民に出会いました。中には、子供を大学に通わせるほどのお金を得ている人もいました。しかし一方で、コミュニティのメンバーであるはずなのに、生活に必要な量の水にもあり付けない人もいたのです。 Addis Ababaでは、地元のNGOから無料の水を得ているいくつかの家族に出会いましたが、中には娘が毎朝、学校に行かずに遠くまで水を取りにいかなくてはならない事例もありました。ケニアのナイロビでは、水道を通す経路が決まった後、その経路の上に住む家族の家を壊してしまっていましたが、家を壊された家族に対しては何の補償もありませんでした。 私は資本主義に反対しているわけではなく、自由競争の下でより優れていることが市場獲得と利益につながっていいと思いますが、先ほどお話したような事例は決して競争市場ではありません。私は、一部の権力者が水という生活必需品を完全に掌握して、独占することによって残りの人々がツケを払わなくてはならないようなこの状況に懸念を感じました。 これは、富めるものがもっと富み、貧しい人がもっと貧しくなるような問題ではありません。水を独占した人々は必ずしもコミュニティで最も裕福な人であるとは限らず、地域で食べ物を売り歩いていた女性や、あるいは定職につくことができなかった人々であることも珍しくなかったのです。これらの人々は、例えば次のような特徴のいくつかを備えています。水行政を扱う役人が遠い親戚にいたり、初期投資が必要な場合にそれを貸してくれる知り合いがいたり、地元の教会やモスクで活発に活動していたり、問題があった時に他受けてくれる友人がいたり、地元の祭りや葬式に頻繁に参加していたり、地元NGOのスタッフの親密な関係にあったり、開発に関わる用語について知識が豊富だったり。 同様に、コミュニティ・ベース・プロジェクトで損をする人々は必ずしも最も貧しい人たちではありません。募集期間が終わってしまうまでプロジェクトのことを知らなかったり、初期費用を貸してくれる友人が見つからなかったり、水道が健康や経済状況にもたらす長期的なメリットを理解できなかったり、あるいは単純に水道システムを使わせてもらうことができなかったり。これらの人々は社会から隔離されたところにいて、友人も少ない人が多いのです。 確かに、地元に根ざした業者や、あるいは住民が管理した方が、部外者が水を管理するよりも効率的であることが多いと思います。しかし、様々な都市のスラムで話を聞いてきた印象から申し上げますと、これらのコミュニティ・ベース・システムが必ずしもコミュニティを作っていない事例も数多く見受けられます。むしろ、より友達が多く、より広く強い社会ネットワークを持つ一部の住民が、情報や資金へのアクセスの良さからコミュニティ・ベース・システムをうまく利用して他の人々を搾取していることさえ珍しくありません。 このような事態を打開する方法を考えるためには、先ほど申し上げたような印象を客観的に再確認し、原因を特定する必要があります。情報へのアクセス、ローンへのアクセス、あるいは行政的な特権は、研究対象として抽象的過ぎると思われるかもしれませんが、十分、研究に値する対象であるということが分かってきました。コミュニティで利益を得た人々の強みは、個々人が持つ個人的なネットワークの中に埋め込まれたものです。人々は、他の人々との互恵的な環境を作り、ネットワークを徐々に、構築することによってこれらの資源を活用できるのです。このような人間関係の構築は意図的というよりは、日々の生活の副産物として得られるものなのです。 経済学的に言うと、これらの人々は自分たちの将来の効用のために、社会ネットワークの中で資源を作れるよう投資をしているのです。このような言い方をすると功利主義的で楽観主義的なように聞こえますが、経済学の定義は往々にしてこのようなものが多いのです。 そしてそういう意味において、このような社会的な資源は、一種の資本であると考えることができます。フランスの著名な社会学者であるピエール・ブルデューは、このように社会構造の中に埋もれた資源のことを、「ソーシャルキャピタル」と名づけました。このように「ソーシャルキャピタル」という言葉が生まれたのは西ヨーロッパですが、途上国のスラムにおいても大きな意義を持っています。このような恵まれない地域、都市計画でいう「胴枯れ地帯」のような場所では、様々な組織や法制度が十分に機能しておらず、情報にアクセスしたり、借り入れができる組織にアクセスできることこそ、日々の厳しい生活の中でとても重要なのです。 皆様の中には、ソーシャルキャピタルの異なる定義を聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。例えば日本語には「社会資本」という言葉があり、ソーシャルキャピタルを直訳すると「社会資本」になってしまいますが、この日本語はまったく異なる概念を意味するものなので、混乱を避けるために本日は英語のまま、「ソーシャルキャピタル」という言葉を使わせていただきます。 私の目的のひとつは、このソーシャルキャピタルと、人々が水にアクセスできる度合いの関係を知ることでした。すると、最も根本的な疑問にぶつかるのです。つまり、ソーシャルキャピタルとはどうやって測るのか、ということです。 デューク大学で社会学を研究するナン・リン教授によれば、職業こそ、ある人の社会における地位と資源へのアクセスを最も如実にあらわすものです。異なる職業についている人々は、異なる資源、例えば異なる情報へのアクセスを持っており、これらの資源が有効であるシチュエーションも異なります。よって、異なる職種の人々とのつながりがあるということはより多くのソーシャルキャピタルを持っていることの指標になり得るのです。 私は、シカゴ大学のドナルド・トライマン名誉教授が発見した、古今東西、津々浦々の職業の分類方法を用いて、それをもとにソーシャルキャピタルを測るための職業リストを作成しました。そして、調査したサンプルを分析することによって、信頼性のある指標化手法を作ることができました。 その中で対象とした九つの職業群を今からご説明します。決して難しいものではなく、例えば、このスケールの場合は、 九つのうち七つのポジションに知り合いがいれば、ソーシャルキャピタル点数は7点になるということです。お配りした資料には、東京大学のイケダ・ケンイチ教授が、日本におけるソーシャルキャピタル測定のために用いた職業のリストがあります。もしご興味があればぜひ後ほど、休み時間などに、皆様ご自身がどの職業の方をどれぐらい知っているかを振り返って、ソーシャルキャピタル点数を数えてみて下さい。 この調査で私達は、フィリピン共和国の首都でありますメトロマニラのスラム地域において、12のコミュニティ・ベース水システムを対象としました。 正直に申しますと、私とチームのアシスタント達は当初、調査地の治安についてとても心配しておりました。そんな心配をする私達に追い討ちをかけるかのように、調査を開始する前日に調査地の近くで現地のフィリピン人が、現地組織に雇われた暗殺者によって殺されていたのです。私がこの話で最も驚いたのは、この暗殺者が受け取る報酬よりも、水道へのアクセスを得るための初期費用の方が高いということでした。 治安の心配を抱えながらも、私達は地元の方々の信頼を得るために、スラム地域初日から長い時間を過ごしました。すると、徐々に地域の方々が私達を食事に招いて下さり、私達は地域の子供達と遊ぶようになり、一人の女の子は私の絵まで描いてくれました。当時の私は神が長く、外見がイエス・キリストにとても似ていたため、カトリックのフィリピン人社会ではこのことが大いに役立ったように思います。次第に私達は地域の方々とお酒を飲んだりカラオケをしたりするようになり、今でも連絡を取り合っています。 しかし、つい先週の台風で集落が流されてしまったことを彼らから聞き、無事であったことにほっとしながらも、悲しい気持ちは隠せません。 話を戻しますと、私達はこのフィリピンでの調査の中で、都市のこの地域におけるコミュニティ・ベース水システムの典型的な例を知ることができました。 まず、誰かが水道局から水を一括で購入し、徐々にコミュニティの内部でこれを分配するネットワークを構築し、初期費用を徴収します。住民の中にはこの水を購入せず、代わりにバケツで水を買う人もいます。このことはこの図に示している通りです。 集めた情報から私は、水システムの費用と、一般的な家庭の収入を概算することができました。この図は、最初の2年のネット・プレゼント・バリュー、つまり日本語言えば正味現在価値を三つのグループの消費者について比較したものです。正味現在価値の割引率は10%で、使用する水の量は全てのグループで等しく月に40平方メートルとしました。 より簡潔に言い換えますと、これこそ、三つのグループが2年間で支払う大体の金額なのです。そしてこれが意味することは、コミュニティ・ベース・システムを管理する者は利益を得る一方、他の住民は比較的に高い費用を支払い、更にまったく水へのアクセスがない人は最も高い費用を払っているということです。 そしてこの研究の最も重要な問いをいま一度考えます。この傾向は、人々のソーシャルキャピタルと関係しているのでしょうか。そうです、皆様がもうお察しの通り、関係性があることはかなり確からしいのです。 この定量的な測定によって、コミュニティ・ベース・プロジェクトの、言わば勝者と敗者には明らかな違いがあります。最も豊富なソーシャルキャピタルを持つ人々が水資源を支配し、最もソーシャルキャピタルが貧しい人々は良いアクセスを得られず、より高い料金を払うことになるのです。 このような状況を踏まえますと、「コミュニティ」というものは手放しに賞賛されるべきものではないということが分かりますし、これは他の水事業者にとっても同じことが言えるのです。これらのコミュニティで水資源を牛耳る人々は、これらのコミュニティ・ベース水資源を管理する上で規制もなく、登録もなく、モニタリングの義務もないのです。 しかし、水道料金の引き下げを強要することは必ずしも解決策になりません。これらの水道管理者はソーシャルキャピタルについては裕福ですが、金銭的には困窮していることが少なくありません。よって、投資に対して十分なリターンを得るためには、比較的高い水道料金を設定して、システムの故障や不正利用による損失に備える必要があるのです。 特にスラムのように技術力が乏しい場合は、このようなことが頻繁に起こります。 また、正規のローンを組むことができない彼らは、高利貸しの高い金利にも苦しめられています。全体で言いますと、コミュニティの技術的、マネジメント的、そして経済的なキャパシティは、正式な水道局と比較して弱いのです。だからこそ、よりソーシャルキャピタルが豊富な人々が、そうでない人々を搾取することによって、システムが機能しているのです。よって、内部における格差に目をつぶれば、外部から見たこのシステムは十分正常に機能していると言えます。 それでは、私が理想的であると考える結論を申し上げます。理想的には、コミュニティや、地元の小規模水道事業者が、中央集権的な水道局などが失敗する作業、例えばいわゆるフリーライダーと呼ばれる不払い世帯などを管理し、取り締まるべきです。その上で、サービスの正当性など、小さな組織では十分ではない点について、水道局が支援をしていけばいいのです。 いくつかの予測によると、次の15年間で世界には8つの新たなメガシティー、つまり100万人都市が誕生します。そしてこれら8つの都市のうち実に7つが、アジアおよびサブサハラアフリカにあるのです。 しかし、都市の成長が最も多く起こるのは、これらのメガシティーの近くに生まれる少し小さな都市です。そしてこれらの都市には、十分なインフラがありません。アジアの経済成長は水の需要を増やしますが、同時に都市の改善と水資源の開発への投資も増大させます。 しかし、サブサハラアフリカの展望はアジアほど明るくありません。専門家は、サハラ砂漠以南に位置するこれらの国々では農村の貧困がより多くの人々を都市のスラムに追いやると予測しています。また、地域のエリートと、様々な社会的な機会に恵まれない貧しい人々の間の格差も広がっています。更に、これらの地域は気候変動の悪影響を最初に被る地域であると言われています。 都市の水システムの改善は確かに大いなる挑戦ですが、水の管理は紛争や汚職の撲滅、あるいは貧困の根絶と比べるとまだ実現可能な方です。スラムの水システムの開発を支援することが、何百万人という人々の生活を大きく改善する、大きく、しかし実現可能なステップであることは疑いの余地がありません。 日本はこの中でどのような役割を担っていけるでしょう。日本間違いなく大きな力になれますし、既に力強い支援の手を差し伸べています。そして皆様は、ご存知の方もいらっしゃると思いますし、意識されていない方もいらっしゃるかと思いますが、税金を納めることによって支援の手を差し伸べておられるのです。日本政府は、大使館を通じた直接の無償援助や、他国間の国際機関と通じて、必要とする人々に必要とする水道サービスを提供しています。 最も水を必要とする人々に水を届けるためには、地元の小さな組織にあるような豊富な知識が必要です。しかし、日本政府が外国の小さなコミュニティと直接やり取りをすることは可能ではありません。更に、先に申し上げましたように、これらのコミュニティは放っておくとソーシャルキャピタルが乏しい人々を差別的に扱う傾向があります。 よって、私は日本政府が被援助国の政府や中央に近い組織とやり取りをし、その中で地元をしっかりと巻き込んだ支援をするべきであると考えています。端的に申し上げますと、それぞれのプレイヤー、それぞれの関係者は、自分たちが最も適していることをすべきなのです。 日本政府は相手国政府や水道局に技術的、経済的な支援を行うほかに、小規模水道事業者を認可したり登録したりする仕組みの開発、更にはこれらの事業者が提供するサービスを管理するためのシステムの導入を行うべきです。また、ビジネスモデルの設計にも関わり、異なる状況での適切な水道料金の設定と、不当に高すぎる料金を設定する事業者に対する罰則を設けるべきです。 更に、コミュニティ内の差別を防ぎ、問題が起こった場合に解決するための法制度、そして水道局と小規模水道事業者が最も基本的な技術ノウハウを交換できるような仕組みを整備すべきです。それに加えて、ルールを守っているコミュニティ組織に対して条件の良いローン制度が新設されれば、水道システムは大幅に改善されるでしょう。 本日お話させていただいた内容は海外の水資源の状況でしたが、そこからここ東京についても学ぶべきことがあります。東京では清潔な水にアクセスするために友人を作る必要はありませんが、多くの貴重な情報を得るためには、やはり多様な友人関係が重要です。そうして様々な友人の生き方を少しずつのぞくことで自分自身の人生にも彩りが生まれ、世界の人々の多様な価値観や考え方への理解が深まり、寛容な多元的社会の発展に寄与するのです。 私の人生は、東京に来てから色々な意味で大きく変わりました。しかし最近ではこの変化の本質が、チェコから文化の大きく異なる日本へと移り住んだこと以上に、小さな町から世界有数の大都市、巨大なメガシティーへと移り住んだことであると考えるようになり、自分でも驚いています。この本郷キャンパスにいれば、キャンパスの外の方々と全く接触することなく何日も過ごすことができます。そして現に、工学部の学生の中にはそのような生活を送る人も少なくありません。 大きな都市には多種多様な人々がいます。しかし、逆説的なことに、多くの研究によれば小さな村の住民の方が、都市で生活する人よりも多様なソーシャル・ネットワークを構築しているのです。これは、東京のような大都市では、自分自身と職業、趣味や社会的規範が似ている人が数多くいるので、自然とそういう共通点の多い人達と接触する機会が多くなるからなのです。 だからこそ私は時には、いつもの日課からほんの少しでも離れ、新しい人と出会うことによって視野を広げる機会がとても大切だと思っています。これは別に、街中やパーティーで見かけた最初の外国人にいきなり「やぁ!友達になろう!」と声をかけることを進めているわけではありません。例えば、ボランティアに参加する, 運動部に入部する。私の場合は相撲部に入ったことによって、東大の他の場所では出会ったことがないような人達に出会うことができました。 そこで発見した日本文化の深さは、日本人の学生にとってさえ不思議なものも少なくないと思います。そしてこの経験は、私が日本を理解する上で大きな一歩となりました。そして本日、私が、こうして皆様の前でソーシャル・ネットワークの大切さについてお話をさせていただけたこと、この光栄な事実そのものが、惜しみないご支援を下さった多くの方々、そして本日の私を真剣に聞いて下さった皆様との、身に余る素晴らしいソーシャル・ネットワークによるものであると、深く感謝しております。 本日はご清聴、本当にありがとうございました。
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