西田幾多郎の「場所的論理」と時間性における「包含的」言語の可能性 (original) (raw)
西田幾多郎の「場所的論理」と時間性における「包含的」言語の可能性
1. 「西田幾多郎の「場所的論理」と時間性における「包含的」言語の可能性」, in NOE Keiichi, LAM Wing-keung and CHEUNG Ching-yuen (eds.), 『日本哲学の多様性.21世紀の新たな対話をめざして』, Tōkyō, Sekaishisōsha, 2012, 239 p.; p. 104-112. Résumé 本論文は、西田の場所的論理、および時間性の概念における彼の包含的言語について解析する。場所的論理は「包含的」構造を有する。最も簡潔な形にすると、より理解しやすくなる。それは、プラトンが着想した次の基本的言明から始まる:“「すべて 『有るもの』は何かに於てある」。プラトンの影響は、アウグスチヌスの現在と自己の準空間的性質のそれと同様、西田に彼自身の場所の概念を更に深く掘り下げ、時間に関する有名で古来のアポリアを独自の方法で再解釈することを可能にした。確かに、西田の時間性の概念は、場所的論理と同じく「包含的」である。彼にとって「すべて有るものは時に於てある」。時は実在の根本的形である。しかし「時は更に現在に於てある」。この前提から西田は、更に視点を広げ、現在自身は自己に於てあることを確立した。事実、真の自己は正に現在自身である。全てを包む最も包含的な段階は、永遠の今であり、そこでは時が回転する。 西田の「包含的」言語の主な用語は、「場所」、「於てある場所」、「野」、「面」、「包摂する」、「含む」、「内包する, 包む, 包含する, 包括する」であり、これらは『働くものから見るものへ』(1927)、『一般者の自覚的体系』(1930)、更には西田の時間性に関する主論文、特に「永遠の今の自己限定」(1931)に見出すことができる。各々の場合について、特定の文脈の中で、何が最も包含的な段階であり、何がこの包含的な段階に於てあるか、を本論文で検証してみたい。このように進めることで、西田の場所的論理および時間性の包含的構造全体、更にはそれらに秘められた可能性を見出すことができるであろう。その例として、歴史との関係を強調する現在の見解、基本的かつ倫理的自己にの力説、そして他人性に関する重要な理論。
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Activities of collection and exchange of knowledge in the Society for Science on Form, Japan, are described. The society was originated in the joint meetings of the groups of "physics of form" and "stereology". The word KATACHI (Japanese expression of "form") has a less-restricted definition and has meanings of gaining some completeness. That is contrasted with the western word "symmetry" which has a clear definition and gives norms of beauty. KATACHI appears in all fields and its notion can be shared beyond the difference in the terminology of different fields. It is found that researches from broad range of fields in science, technology and art, can have active discussions and exchange of knowledge under the aspect of KATACHI. It is expected that the aspects of KATACHI in a variety of fields lead to a transdisciplinary integration of knowledge.
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