天然知能【書評】AIにはないダサカッコワルイ知能とは? (original) (raw)
AIにならないために
「いままで私たちは、あまりに人工知能的知性を、人間に課し過ぎていたのではないでしょうか。」
AIブームの昨今、もう一度人間や生命の知とは何か、考えてみる必要がある。
いままでは、こんな哲学的な問いは考えなくてもよかった人が大半だ。しかし、現在は、AIの台頭、AIに劣る人間などのワードが叫ばれている。つまり、生活していく上での切迫した問いになった。
今回紹介する本からは、生命らしい、人間らしい「知能」の有り様のヒントをもらえる。
記事を読み終えると、自分自身の知のあり方を見直せるはずだ。
- AIにならないために
- 著者 郡司ペギオ幸夫
- 天然知能とは?
- 外部と「外部」
- 私の「痛み」の起源とは?
- 感染や偶発性
- 創造とは外部からやってくるものを受け入れること
- 哲学的な議論も
- かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか
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著者 郡司ペギオ幸夫
現在は早稲田の教授。
生命についての著作多数。ホームページを見てみればわかるが、かなり面白そうな人。
「考えるな、感じろ」とブルース・リーは言った。
山の向こうにも同じように風景が広がることや、
太平洋でイワシが泳いでいることを信じられる。
今までのこだわりが、突然どうでもよくなる。
計算を間違い、マニュアルを守れず、ふと何かが降りてくる。
それらはすべて知性の賜物である。
生きものの知性である。
今こそ天然知能を解放しよう。
人工知能と対立するのではなく、
意識の向こう側で、想像もつかない「外部」と邂逅するために。わたしがわたしとして存在するための哲学。
天然知能とは?
それでは、天然知能とはなんだろうか。他のタイプの知能と比較することでわかる。
一般的に言われる人工知能という意味ではなく、人間、生命も含めた「人工知能」という定義になっていることに注意。つまり、人間の思考ですら、著者に言わせれば人工知能的なのだ!!
ここに、「天然知能」という概念で伝えたいことがあるのだろう。また、人間の人工知能的な思考では、AIたちにとって代わられることを意味する。
知能のタイプを3種類に分ける。
・人工知能
自分にとって有益か有害かでわけ、自分に役に立つものだけを認識する。
「自分にとっての」知識世界を構成する。
・自然知能
自然科学的思考のこと。世界を理解するために、知識で分類、区別、理解していく。
「世界にとっての」知識世界を構成する。
・天然知能
「知覚されないものに対しても、存在を許容する能力」
人工知能や自然知能は、知覚されないものは問題にしない、知覚以前などどうでもいい。
ただ世界を受け入れる。
評価する軸が決まっていないし、場当たり的。
想定外の何か、予期しえない何かが存在するだろうことを受け入れ待っている。
自分が見ることのできない向こう側、自分の外側を受け入れる。
ここで、外部という概念について考える必要がある。
外部と「外部」
天然知能というものを考える上で、重要な概念が外部だ。
外部は、「自分からは感じることもできないし、知らない向こう側のこと」
見ることも、聞くことも、予想もできない。
一方、「外部」はこうだ。
自分にとって都合のいいものだけの集合体。
人工知能や科学にとっての「外部」は、自分にとって役にたつかどうかでしか認知しない範囲だ。本来は、先端=外部を相手にする科学ですら、「外部」ばかりを扱ってしまう。
この外部に誘惑され、何かを感じ取ってしまう経験は誰にでもあるのではないか?外部を常に受け入れる天然知能こそ、私たち人間の本質であったはずだった。ここにAIなどでは、決して到達できない生命の柔軟さ、創造性がある。
天然知能として外部と生きる様を、著者はダサカッワルイ、と表現する。
次の記事も参考になる。
手際よく処理したり、着実に探求を進めたりする活動の外部から訳の分からないものが闖入し、掻き乱してくることがある。その訳の分からなさに積極的に自分を開いていくこと、それが天然知能である。天然のまなざしで見るならば、世界は自分の了解を超えた訳の分からない外部の予感に満ちている。
私の「痛み」の起源とは?
人工知能的に、客観的に「痛み」ということを考えてみよう。そうすると、
・痛みの原因とその結果である感覚をどう指定するのか
・痛みを感じる文脈をほかの文脈からどう区別するか
という問題が浮かび上がってくる。これらは、無限後退を引き起こし原理的に解けなくなる。それでは、「痛み」は不可能なのか?いや、天然知能である私たちにはあたりまえだが「痛み」がある。
外部から際限のない文脈が押し寄せてくる。それが、文脈の軸と指定の軸をずらす。そこには、破綻と氾濫がある。
「痛い」は、私の中に閉じているのではなく、外部と一緒になって初めてある。
「痛み」は、無から有へと生じるものではない。
天然知能は、無から有へと起源するものではなく、以前からぼんやりと存在し、絶えず外部を待って、外部の到来によって変質しながら、以後も存在するのです。だから、天然知能は、或る存在様式なのです。
p156
天然知能は、私たち生命が存在していられる条件そのものの本質にかかわる。この点からも、この天然知能という概念で著者が訴えたいことの広さがわかる。
感染や偶発性
何だかわからない異質なものを感じ、惹かれてしまう。これは、感染という概念とも関係しているのではないだろうか。
感染することによって、人間は内側から大きく変化する。次の記事で詳しく書いている。
また、社会学者の宮台真司がいうような次の指摘と、外部との関係もおもしろそうだ。
人間とは、偶発性によって誘惑される存在。得体の知れないということによって誘惑される。
他者はコントロールできないから惹かれる。「機械と違ってコントロールできないから性愛しません」、という若者が出てくる。劣化だ。
次の記事にまとめている。
創造とは外部からやってくるものを受け入れること
流行りの人工知能に置き換えられない人間の特徴こそ、「創造」である。
天然知能だけが、創造を楽しむことができる。そして、天然知能は、自分らしさというものを肯定できる、という。
創造の定義は、今までになかったものを作ること。
自分らしさと外部の対応を考えよう。
自分らしく生きる者は、自分勝手で利己的な者でしょうか。
逆です。
周囲を気にせず、創造を楽しむ者だけが、他者を受け入れることができるのです。あなたが気にする周囲は、所詮、あなたが既に気づいている、あなたの内側の者にすぎない。周囲を気にし続けるあなたは、外部を感じることができず、自らの内側にとどまっているのです。
創造は外部を問題にするのです。だからこそ、周囲を気にせず、まるで孤立して、一人で勝手に創作しているように見える者だけが、知覚しえない他者を、受け入れることができるのです。自分らしく生きる者だけが、外部に対して開かれるのです。
p24
哲学的な議論も
本書は天然知能というものを、具体例を交えながら紹介してくれる。
しかし、哲学的な議論も盛りだくさんでとても刺激的だ。
次のような章がある。
・現象と実在
・人工知能と現象学
・思弁的実在論
・「世界」を否定する新しい実在論
・四方対象の解体
「外部」ではなく、外部を問題にする思弁的実在論や、新しい実在論と天然知能との関係についての考察も、哲学が好きな人は楽しめる。
そして、意識の問題、自由意志の問題にまで話が進む。これら高度な話題を幾つかのモデルを示しながら考察してくれる。そこで見えてくる「天然知能」の意味がとても面白い。
単なる問いかけ本ではなく、とても深い考察に満ちた本だ。ぜひ読んでみてほしい。
かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか
本書「天然知能」をさらに発展させた書籍も発売されている。ぜひ、合わせて読んでほしい。タイトルから秀逸。