Homare's Diary (original) (raw)

キンモクセイの花の香りがする季節がやってきました。この香りがすると季節の変わり目が来たと実感します。

キンモクセイとは別に好きな香りは白檀。白檀の香の匂いがすると思わず足が止まります。茶席では白檀などの香が炊かれますが、普段の場において香が焚かれることはかつては多くなく、一方で京都では街中で香の匂いを感じることが多く、お茶の街だ…とつくづく思ったものです。

鎌倉でも香の匂いがする場所が多く、ここもお茶の街なのだな…と思いますし、そもそも香というのが日常生活の中に浸透しつつあるのだなと思います。

イタリアカプリ島に行った際には、多くの香水店がありました。中でもカルトゥージアは600年の歴史を持つブランドで、最近は麻布台ヒルズに店舗が出ています。シャネルなんてカルトゥージアから見たら商業的には成功したものの、100年の歴史なのですよね。

日本のお香も歴史があって、安土桃山時代に創業された薫玉堂は400年の歴史。薫玉堂は六本木ミッドタウンにお店があります。

国を超えて香りというのは、普遍的な価値があり長い歴史の元にレシピが作られている世界なのですよね。

今年の都心における夏日は現時点で150日。平年よりすでに30日以上多く、約5ヶ月間夏日なんだそうです。

今いるところは、谷戸なので日が隠れるのも最近は早く16時頃には日が山に陰り、朝晩は冷え込むようになってきました。日中の日だまりの庭では、ショウリョウバッタ、イナゴ、オオカマキリなどが飛び交っています。

先日、谷戸の奥の山の小径でマムシがいたそうです。ここには珍しいカエルなど様々な生き物がいる。だから、それもそうだろうと思うのですが、これだけの生態系が維持されているのは、造成などの人の手があまり入らず、農業による農薬の影響がないからだと思うのです。田舎でも農業をやっているところでは、農薬のせいで昆虫や両生類が減っていて、思ったほど生息していないことが多いですから。

春と秋は、鎌倉では動植物が多く見られる季節。暑くもない、寒くもない。色とりどりの花が咲き、蝶やバッタが飛び交う。そういう季節が減っていってしまうのは由々しきこと。

夏生まれの僕は暑さには強く、いつも夏の終わりを寂しく思い、夏がいつまでも終わらなければいいのに、何なら常夏の陽気でもいいのにと大人になるまでは切望したものですが、いざそれが現実となるとなんて情緒がないのだろうか…と思います。

ランニング時に補水をするには、都心であればSuicaが使える自販機が路上にすぐに見つかり、それで事足りていたわけです。鎌倉にはSuicaが使える自販機にほとんどお目にかかることができません。100円玉二枚を持ち歩き、釣り銭を受け取ることも煩わしい。汗だくの体でコンビニに行くのも後ろめたい…

CokeOnはコカコーラの自販機に限定されるものの、キャッシュレスで買えるのでとっても便利。鎌倉にはSuicaには対応していない自販機が多い中で、CokeOnに対応した自販機は比較的多いので、重宝しています。

日々の歩数がカウントされて蓄積されるとスタンプがたまって、無料で飲料が引き換えられるし。とはいえ、自販機は値引きをしないで飲料を売っているわけですから、そのくらいしてくれないと割が悪いし、上手い自販機への囲い込み戦略だと思うわけです。

かつて至るところにあり販売の主力だった自販機は、コンビニに押され、そのコンビニが定価販売をやめるようになり、自販機で飲料を買う機会は全体的にかなり減少しました。その状況を反転させる施策かと思います。そもそも、自販機が街頭にここまで置いてある国って日本くらいですよね。

個人的には、アクエリアスよりポカリスエットだし、綾鷹より伊右衛門なので、このアプリにはランニング以外において肖ることはないですけど。サントリーや伊藤園の自販機も何とかしてくれないものですかねえ…今どき現金なんて時代遅れだろ…ってね。

素晴らしいピッチングをしたものの2発の被弾で敗戦となったパドレスのダルビッシュ投手がインタビューでこう言っていました。

「本当に人生で言うと、ほぼ死ぬ間近なので、だから、その“死にたくない”ってところが強い。やっぱ野球の中で年齢もそうですし、その中で年齢に負けて消えていくってのは、なるべくもがきたいってところがある」

着ていたTシャツにはガンで若くして逝去した義理の兄である山本“KID”徳郁さんの写真。彼の強い意志を感じました。

スポーツというのは、決して長くはない選手生命の終わりという『死』を常に意識しながら、いかに最高のパフォーマンスを出すかということを考えている人は多い。大谷翔平さんもSEIKOプロスペックスのCMの中で同じような事をいっていました。大谷さんは、いつか自分がマウンドを降りるときが来る。だから、それまでの間の挑戦を楽しみたい・・でした。

スポーツに魅了されるのは己の限界、選手生命の終わりという『死』に向き合って挑戦している人の姿が、無上に美しいから。不謹慎な言い方なのかもしれないけど、余命宣告を受けた人が、限りある時間を生に固執しつつ、生きた証をこの世に残そうとする姿にも同じように尊い美しさがある。

『物質とは弛緩であり、精神とは緊張と収縮。生命活動とは降っていく物質に対して抗っていくことである』とベルクソンは言っています。そう、抗う姿が美しいのですよね。

誰もがその事を知っている。でも、抗うことをやめ楽な生き方をしてしまう。棺桶に自ら入りに行くようなものなのですけどね。

ペンや時計は腕が一本しかない以上は、趣味で幾つか持っていたところで、仕方がない代物だったりします。

人によって、場面で使い分けるという人もいるかもしれませんが、ずぼらな人間なので決めちゃうとそればっかり使うわけです。ボールペンはROTRINGのマルチペンしか使ってない。万年筆も何本かありますが、最近はTWISBIのDiamond Miniばかり。モンブランやペリカンのボールペン、セーラーのプロフェッショナルギアやレフティ用のプロフィット万年筆も筆箱が定位置。パイロットのスケルトンのカスタムヘリテイジは使わなくて勿体ないので息子にあげてしまいました。(大いに喜んでました)

時計もいくつか持っているのですが、いつも一番身につけているのはLUMINOXで、クオーツのアナログ時計を5つ程度を気分で使い分ける感じ。時計はコロナの時に3-4本売り払って減らしたのですが、また最近買ってしまって元に戻っています。

最近、自動巻きの時計が気になったりします。SEIKOやオリエントのダイバー式です。ただし、ダイバーズ時計はクオーツで持っていますから、わざわざ手間のかかる自動巻きを所有したところで、何の意味があるのか・・使わない万年筆よりたちの悪い待遇になってしまうのではないか・・とも思うわけです。

そもそも、自動巻きは常に腕に身につけていないと、ゼンマイが巻き上がりませんから、ローテーションで使っていなかったりするといざ使おうという時には止まっているでしょう。巻き上げてくれる便利な機械もありますけど、そこまでに固執するのでしょうか。(きっとしないと思う)それに、日差5秒程度のずれが生じるのでしょっちゅう時刻合わせも必要です。クオーツでもぴったり合っていないと気になる人が、それを許容できるのでしょうか。できないでしょう・・きっと。

自動巻きの時計というのは、今の時代においては『精巧に時を刻む装飾品』であり、実用的アイテムではないわけです。ゼンマイを常に巻き上げ、時刻を合わせ、オーバーホールをお金をかけて定期的に行う。これは、決して他の人に気を向けることを許さない奥さんみたいな存在。そういえば、時計をころころ変える人は浮気性な人だとどこかに書いてあったような・・

老人になるとふとしたことで転倒をするようになる。上皇后様も転倒で大腿骨骨折の重症。そしてこうした出来事をきっかけに寝たきりの生活になっていってしまう。

小学校の頃はよく転んだ。そして、膝に擦り傷を作って絆創膏を貼って手当てをした。高学年にもなりそうしたことはほとんどなくなっていった。中学や高校ではすっころぶということは無かったと思う。大人になってからも同じ。仮に躓いても体制を制御し、全く制御不能の転倒ということはなかった。

6月に暗がりの植栽を挟んだ歩道を乗り越えようとして、低く張られていたロープに気がつかず、転んだのは近年まれに見る制御不能の不覚のアクシデントだった。

昨日、研修オブザーブで後ろの事務局席に座って状況を見ていた。その際に机から少し離れた床下の埋め込み式コンセントから電源をとってPCを操作していた。こういうところから電源をとるときは、延長コードで電源タップを経由して電源をとるのだが、僕はポータブル性の高いUSB-Cアダプターと長いケーブルを使っているので直接床下電源からコードを繋いでいたわけです。

まあ、通常であればそれはなんの問題もないのですが、講師のPCに不具合があって僕のPCに切り替えて投影を行う必要が生じたのです。前の講師席に行った上で後ろの座席から急いで自分のPCを取ろうとした矢先にいきなり足に引っかかるものが…

そうです、床下から伸ばした細い電源コードの存在だったのです。今回も見事に受け身もとれずに肩から落下。

幸いなことにパソコンは落下せず、僕も肩から転倒しつつも、膝を擦っただけで大事には至らず。変に手を突いたりしなかったことも良かったのだと思います。床もかなり柔らかいクッションが張られた床だったことも幸いでした。

それにしても、全く意識していないところで足下を掬われ転倒するという状況が続いたので、僕もさすがに恐ろしい気持ちになりました。どちらも不注意であるというのは変わらないのですが、以前だったらそもそも気がついたのではなかろうか…それは視力の衰えもあるのかしら…などと思ったわけです。

前回は夜の路上で夜目が利いていれば防げたこと。今回においては、細くて黒いコードとはいえ視界に入っていたら跨がなかった。自分は老眼もないし、目は良いよねという過信があったからなのでしょう。

いつもの感覚…だったり、自分の感覚だけをあてにしないこと。自分を疑っていかないととんでもない目に遭うなということを痛感した一件でした。

健康診断の結果が戻ってきた。そこに書かれていた意外な注意書き。胸部レントゲンの結果として、『肋骨骨折・骨折後の疑い』

6月に転倒した際にアバラをやられたのでしょうね。しかもまだ治っていない。確かに頭も打って3針縫いましたが、右肩から全体重で倒れましたし。当初は胸の痛みは強かったものの、2週間もすると落ち着いたので、骨折ではないと思っていたのですが…

それにしても梨状筋症候群や気管支喘息といい、病気で仕事など休んだことなどないのに、問題が続くときは続くものです。体をキープすることには意識を向けているつもりでも生きていれば相応に何かが起こるものなのですよね。

まあ、アバラやられた位だったら自覚症状もさしてないし、不幸中の幸いだと考えるべきかもしれません。頭蓋骨や首をやられていたら、深刻な自体になっていたと思いますしね。