映画『風よ あらしよ 劇場版』公式サイト (original) (raw)
関東大震災後の混乱のさなか、ひとりの女性が憲兵に虐殺された。女性解放運動家の伊藤野枝。貧しい家で育った野枝は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受け、結婚をせず上京。自由を渇望し、バイタリティ溢れる情熱で「青鞜社」に参加すると、結婚制度や社会道徳に異議を申し立てていく。伊藤野枝を演じたのは吉高由里子。平塚らいてうに松下奈緒。また野枝の第一の夫、ダダイスト・辻潤を稲垣吾郎が、また後のパートナーとなる無政府主義者・大杉栄を永山瑛太が演じる。吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の評伝小説『風よ あらしよ』を原作に、向田邦子賞受賞の矢島弘一が脚本を担当する。本作の演出を務めた柳川強は「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子の波乱万丈の人生を描いたNHK連続テレビ小説「花子とアン」のディレクターも務めており、本ドラマでも主演を演じきった吉高由里子とは9年ぶりのタッグを組んだ。ひとりの女性の短くも激しい生涯から100年経ったいま――なにがかわり、なにが残されているのか。
「女は、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」事が正しく美しいとされた大正時代―。
男尊女卑の風潮が色濃い世の中に反旗を翻し、喝采した女性たちは社会に異を唱え始めた。
福岡の片田舎で育った伊藤野枝(吉高由里子)は、貧しい家を支えるための結婚を蹴り上京。平塚らいてう(松下奈緒)の言葉に感銘を受け手紙を送ったところ、青鞜社に入ることに。青鞜社は当初、詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放を唱える闘う集団となっていく。野枝の文才を見出した第一の夫、辻潤(稲垣吾郎)との別れ、生涯のパートナーとなる無政府主義の大杉栄(永山瑛太)との出会い、波乱万丈の人生をさらに開花させようとした矢先に関東大震災が起こり、理不尽な暴力が彼女を襲うこととなる――。
1964年、大阪府出身。過去の主な演出作品に、戦争関連ドラマ『鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~』(07年 放送文化基金賞本賞、ギャラクシー賞優秀賞、文化庁芸術祭テレビドラマ部門優秀賞)『最後の戦犯』(08年 芸術選奨文部科学大臣新人賞) 連続テレビ小説『花子とアン』(14)特集ドラマ『永遠のニㇱパ』(19)『流行感冒』(21)土曜ドラマ『やさしい猫』(23)映画作品として『返還交渉人~いつか沖縄を取り戻す~』(18)など。
1975年、東京都出身。2006年11月劇団「東京マハロ」旗揚げ。
2016年に放送され好評を博したTBSテッペン!水ドラ!「毒島ゆり子のせきらら日記」の脚本を務め、第35回向田邦子賞を受賞。関係者から“女性の気持ちを描ける男性劇作家”として注目を集め、テレビ初作品となったNHK Eテレ「ふるカフェ系ハルさんの休日」は現在も脚本を手掛けているほか、『コウノドリ〜命についてのすべてのこと〜』『健康で文化的な最低限どの生活』『ハルカの光』『東京の雪男』『やさしい猫』など数多くの脚本を担当。
作詞・作曲・編曲を手掛けるマルチ音楽コンポーザー。1993年、See-Sawのコンポーザー兼キーボディストとしてデビュー。
現在はアニメを中心とした劇伴音楽やテーマ曲を手掛け、『鬼滅の刃』、『ソードアート・オンライン』、『魔法少女まどか☆マギカ』等、数々の話題作を担当。アニメ作品以外にも、北野 武監督・主演映画『アキレスと亀』やNHK歴史番組『歴史秘話ヒストリア』、NHK連続テレビ小説『花子とアン』の音楽を担当するなど、ジャンルを問わず幅広い作曲・音楽プロデュースを手掛ける。今回、本劇場版の為に書き下ろした「風よ、吹け」FictionJuncton feat.KOKIAが公開に先駆け12月にリリースした。
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒。会社勤務などを経て作家デビュー。93年『天使の卵――エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞、03年『星々の舟』で直木賞、09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞を受賞。21年、大正時代の女性解放運動家・伊藤野枝の生涯を描いた『風よ あらしよ』で吉川英治文学賞を受賞。エッセイ『記憶の歳時記』、小説『ある愛の寓話』『Row&Row』「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズなど著書多数。2013年からは、NHK FM「眠れない貴女へ」のパーソナリティーをつとめている。
1992年NHK入局。主なプロデュース作品に、ドラマ8『バッテリー』(08)BS時代劇『テンペスト』(11)連続テレビ小説『ごちそうさん』(13)土曜ドラマ『経世済民の男 小林一三』(15)大河ドラマ『おんな城主 直虎』(17)など。
私が伊藤野枝と初めて出会ったのは、おそらく大学時代に『ブルーストッキングの女たち』(作:宮本研)を見た時です。雑誌「青踏」に集まる女たちの葛藤、大杉栄をはじめとする男たちとの恋愛模様などが大正絵巻の中で描かれた戯曲の佳品。何よりも、若い私は伊藤野枝の“奔放さの魅力”に惹かれました…。以降、この戯曲は“私のお気に入り”となり、様々な劇団の再演を見に行く事が続き、いつしか「野枝を自分の手で描いてみたい」という大望を抱くに至ります。 作り手の常というものです。
が、なかなか実現する事はありません。無政府主義者の活躍や、震災後の虐殺などに物語としての希望が見出せない、ましてや時代劇は予算がかかる、と言われ続けてきたのです。
しかし、諦める事も、作り手の常として…ありません。
少し立ち止まって、何故自分は野枝に惹かれるのか?私を虜にし続ける理由はなんだろう?その根本は何なのか?もう一度見つめ直す事で企画の強さが生れるのではないか、と考えました。それが、企画書の最初の1行になるからです。
「自由、自由、自由・・・」野枝は、当時の女性ががんじがらめに縛られた「女はこうあるべき」という「因習」と立ち向かいます。そればかりか、人の自由を奪いすらする権力とも立ち向かう事になります…。誤解を恐れずにいえば、フェミニズムの視点からよりも「個人として自由でありたい」という彼女の自由を渇望する芯の強さ、ぶれない強さ、に自分は惹かれるのだろう、と思い至りました。
そんな時、まるで満を持したように、村山由佳さんの小説『風よ あらしよ』が世に出ます。600ページ以上の大作、そして野枝が乗り移ったような村山さんのほとばしるような圧倒的な熱量。そしてそれと前後するように、香港で声をあげ始めた周庭さんやデニス・ホーさん、スウェーデンでひとり座り込みをするグレタ・トゥーンベリさん、#me too運動など、いわゆる「わきまえない女たち」の出現も後押ししました。原作の“嵐のような熱量”と“世の中の風”が相まって、ようやく企画はGOとなったのです…。
今考えてみると、野枝の存在自体が少し時代を先取りし過ぎていたのではないか、そして時代がようやく彼女に追いついてきたのではなかろうか、と分析します…。
そして、資本主義が行き詰まりを見せ、99:1の格差があらわになり「権力の横暴が剥き出しになってきた今だからこそ、野枝を描くべき必然が生れたのだ」と強く感じます。
私が一番好きなのは「わたしが育った村ではね・・・」と、野枝が「組合」による助け合いの中で育ってきた幼少時を語るシーンです。ここで野枝が語っている事は、まさに“共助”の世界。行き詰まりを見せる現代社会に対して、変革のヒントを与えてくれる考え方だと思っています。(『無政府の事実』という論文で、野枝はこのような考え方を綴っています)これぞ“コモンの自治論”です。野枝がその後も生きていたら、どんな発想をしたのか?それは私たちに残された課題だと思います…。そんな思いを、フィクションの中ではありますが、ラストシーンで幼い魔子ちゃんに託しています…。
今年9月16日、私は静岡の沓谷にある、野枝と大杉の墓の前にいました。
言うまでもなく、野枝と大杉が惨殺されてから100年目の忌日…たくさんの方々が集まり口々に語っていたのは「100年で一区切りがついた訳ではない」という事でした。
私もそう思います。“伊藤野枝の生と死”を描くこの映画は、単なる歴史劇ではありません。まさに「今」を照射したものだと思うのです。
柳川 強