秋の初風(あきのはつかぜ)と敏行朝臣の事 (original) (raw)

秋の到来を初めて感じさせる風を

「秋の初風」(あきのはつかぜ) と言います。

「秋の初風」には、

まだ夏の名残りが消えないものの、

明らかに風に秋の風情のある

物寂しくて蕭条とした感じがあります。

平安時代前期の勅撰和歌集『古今集和歌集』に藤原敏行 (ふじわら の としゆき) の

まさに「秋の初風」を表した歌があります。

秋立つ日詠める

秋来ぬと 目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる

立秋の日に詠んだ(歌)

(立秋の日になっても) 秋が来たと、
はっきりと目にはみえないけれど、
風の音で (秋の到来に) ハッと気づきました。

「秋立つ日詠める」というのは、

「立秋の日に詠んだ歌」という意味です。

「立春」になり、

暦の上では秋が来たといっても、

まだ暑さが残るこの時期には

まだ秋の風景は見当たりません。

作者は「目にはさやかに見えねども」と

言っています。

それでも、とどことなく吹いて来た

爽やかな乾いた風の音をふと耳にすると、

じっとりとした夏の風とは違う

ささいな変化に気づき、

「あぁ、やはり秋が来ているのだなぁ・・・」と

感慨の色を深くしているのです。

藤原 敏行(ふじわら の としゆき)は、

三十六歌仙の一人にも名が挙げられた、

平安時代初期の優れた歌人です。

勅撰和歌集には合計29首の歌が選ばれています。

特に秋の歌が得意で、

『古今和歌集』には、上記の歌の他にも

次のような秋の歌を残しています。

・秋の夜の 明くるも知らず 鳴く虫は

わがごと物や 悲しかるらむ

(秋の長夜が明けるのも知らずに鳴き続ける虫、

私のように何か悲しくてたまらないのだろう)

・白露の 色はひとつを

いかにして 秋の木の葉を ちぢにそむらん

(白露の色は一色なのに、どうして秋の木の葉を

多彩な色に染めるのだろう)

・なに人か 来てぬぎかけし 藤袴

来る秋ごとに 野辺をにほはす

(どんな方が来て、脱いで掛けたのか。

藤袴が今年も咲いて

野辺に良い香りを漂わせるよ)

また藤原敏行は、歌人であると同時に、

高名な書家としても知られており、

『江談抄』第三には、

小野道風 (おののとうふう) が

村上天皇に我が国の書の上手は誰かと問われ、

「空海、敏行」と答えたという逸話があります。

「三筆」(さんぴつ)

9世紀頃に活躍した、

唐風の力強い筆跡の三人の書家

嵯峨天皇、橘逸勢、空海

「三蹟」(さんせき)

10世紀頃に活躍した、

優美流麗な和風の筆跡の書家

小野道風、藤原佐理、藤原行成

敏行の書で現在も残っているのは、

貞観17(875)年に鋳造された、

京都神護寺の梵鐘(国宝) のみです。

この梵鐘は、序詞 (じょことば) を橘広相、

銘文を菅原是善(菅原道真の父)、

揮毫 (きごう) を藤原敏行の手によるものと、

序、銘、書のいずれも

当代一流の者によることから

「三絶の鐘」(さんぜつのかね) とも呼ばれています。

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ところで『今昔物語』巻14と

『宇治拾遺物語』巻8の「敏行朝臣の事」に

藤原敏行に関する興味深く、

よく似た説話が収められています。

平安時代、貴族の間では、

書写した契文 (けいもん:証書や手形) を

寺院に奉納して極楽往生を祈願することが

流行しました。

藤原敏行は、能書家として有名であったので、

誰れかれ注文するのに従って、

法華経の写経を200部請け負っていました。

ところが急に亡くなり、捕らえられ、

地獄で閻魔大王の裁判を受けるために

引き立てられて行きました。

それは、藤原敏行に経を頼んで書かせた者達が

その功徳により、天にも生まれ、極楽にも参り、

また人に生まれ変わるとも

善い身となって生まれもするはずだったのに、

藤原敏行が経を書き奉る時、

魚を食い、女にも手を出して、

精進潔斎する事もなく不浄の身で

女にうつつをぬかしつつ書き奉ったため、

その功徳が叶わず、

猛々しい身に生まれてしまったので、

藤原敏行を恨み、

「この恨みを晴らしたい」と訴えたためでした。

これを聞いた藤原敏行は、

身を切るほどに思われ、心も凍りつき、

(死んでるけど) 死にそうな気分になりました。

閻魔大王が

「お前は、本来授けられている命は

あとしばらくあったが、

その経の書き奉り方が汚らわしく、

清らかでないままに書いたため、

訴えが起こって捕らえられたのだ。

速やかに訴える者どもに引渡し、

好き放題にさせるがよい」と言うと、

藤原敏行はわななきわななき、

「四巻経の書き供養する願がありますが、

そのことを未だ遂げもしないのに

召し出されてしまいましたので、

四巻経を書いて供養します」

と願い出ると許され、

死後二日目に生き返ることが出来ました。

ですが、生来の色好みの心が顔を出し、

経や仏の方に気持ちが向かず、

この女のもとに行き、あの女に思いをかけ、

何とかいい歌を詠もうと思っているうちに、

冥土での約束を忘れ果て、

経を書く暇も無くなり、虚しく年月が過ぎ、

経も書き上げないまま、授かった寿命が切れ、

遂に死んでしまいました。

その後12年程経ち、

顏や様子が恐ろしく変わった敏行が

紀友則の夢に現れて、

「怠け心のせいで、経を書かずに死んだ罪で、

酷い苦しみを受けています。

私を哀れと思われるのなら、

経を書くために自分が用意した紙を捜し出し、

三井寺にいる何某という僧に頼んで

四巻経を書写供養させて欲しい」

と大きな声をあげて泣き叫びました。

紀友則は早速、その料紙を手に入れ、

急ぎ三井寺へ、夢に見た僧のを訪ねたところ、

その僧は紀友則と同じ夢を見たことを言うと、

紀友則も夢を見て、この料紙を手に入れ、

参ましたと言って手渡すと、

僧は真心を尽くして自分の手で書き

供養し奉ったところ、友則と僧の夢に、

今度は喜ばしげな顔に変わった敏行が現れ、

堪えがたい苦しみを少し免れたと語りました。