飛鳥の亀石 亀は激動の古代史を見ていたか <トラキチ旅のエッセイ>第26話 (original) (raw)
奈良県明日香村川原。1匹の亀が路傍に佇んでいる。
「亀石」と、呼ばれている。
長さ約3.6メートル、高さ約1.8メートル。巨石である。
甲羅のようなその大石の下の陰から、三角形のクチバシ(?)が伸びている。
カエルのような目が一対、そこに乗っかっている。
この愛嬌のある亀がたたずむ明日香村辺りを古来より「飛鳥」(あすか)と呼ぶ。かつては日本の中心だった、輝かしい場所である。
いまはのどかなこの地に、西暦にして593年から694年まで、
推古天皇の豊浦宮、小墾田宮
舒明天皇の飛鳥岡本宮、田中宮
皇極天皇の板蓋宮
斉明天皇の川原宮、後飛鳥岡本宮
天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮
日本の中央政庁が次々と置かれ(※)、全国に向けてここから号令が発せられた。
この時代、日本にはどんな出来事があっただろうか。
それは、ひと言でいうと「激動」というほかない。
隋、唐の中国統一。それによる朝鮮半島の動揺。
友好国であった百済が、唐・新羅に攻められ、滅亡。
その再起のため、日本ははるばる援軍を送るものの、大敗を喫し、今度は自身に危機が迫った。
「このままでは唐に呑み込まれる」
そんな恐怖の中、日本は国内の統一を急いだ。中央集権を急加速させる。
国を護る教えとして仏教が盛んになり、諸豪族は古墳をつくることをやめ、代わりに、造寺・造仏にはげんだ。
混乱する朝鮮半島からは大量の亡命者が海を渡ってきた。彼らは技術と知見を携えつつ、各地に散らばり、開拓に参じた。
よって、飛鳥はいまのようにのどかではなかった。
外国の使節が大道を行き来し、建設の槌音もつねに絶えない。
国際港である難波の津(大阪)との間にはひっきりなしに伝令が行き交う、まことに忙しい都だった。
話を「亀」にもどす。
亀石は、いつからこの飛鳥の地にあるのだろうか。
実は、皆目はっきりしない。
そもそも、これが「亀」であるのかどうかについても、過去よりそう見られているというだけで、ほかにはそれを示す何の根拠も存在しないのだ。
ただ、ひとつロマンティックなことを言えば、飛鳥の地には、この亀石以外にも根拠不明な石造物がいくつもある。
そのうちの数体については、
「南太平洋の諸島に見られる石造遺産とのつながりがにおう」
と、されるものがあり、辿っていくと、なんと有名なイースター島の石像にまで話が(夢が?)つながったりもするそうだ。
ともあれ、亀石が飛鳥の時代以前よりここに置かれているとすれば、この亀は、激動の都の約百年間をすべてその目に眺めていたことになる。
「亀よ。もしもし亀よ」
と、当時のことを尋ねてみたいが、無論、語ってくれるはずもない。
(※)…現明日香村内に存在したことが想定される各「宮」に、近接する「田中宮候補地」を加えたリストアップとなる。
(写真は「写真AC」作者「Studio_Rishi_Toshi」さんからお借りしてるにゃ)
(上記は初出2009年。情報は当時のものにゃ! トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)