外務省: 『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第一冊』(日独伊三国同盟・日ソ中立条約) (original) (raw)

外務本省

『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第一冊』

(日独伊三国同盟・日ソ中立条約)

『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第一冊』(日独伊三国同盟・日ソ中立条約)は,日独伊三国同盟と日ソ中立条約の締結を中心に,太平洋戦争開戦までの時期における第二次欧州大戦関係の外務省記録を特集方式により編纂し,刊行したものです(A5判,本文666頁,日付索引35頁,総ページ数701頁,採録文書総数354文書)。本冊の刊行により,『日本外交文書』の通算刊行冊数は,210冊となりました。
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本巻の構成

  1. 一 防共協定の加盟国拡大と強化問題
  2. 二 日独伊三国同盟
  3. 三 日ソ中立条約
  4. 四 独ソ開戦後の対独伊・対ソ関係
  5. 〈参考〉
    • 「所謂防共協定強化問題(三国同盟問題)ノ顛末」
    • 「防共協定を中心とした日独関係座談会記録」
  6. 日付索引

本巻の概要

一 防共協定の加盟国拡大と強化問題

項目「一」では,防共協定の加盟国拡大,独伊による満州国承認問題および防共協定強化問題等に関する文書を採録しています。(102文書)

防共協定の加盟国拡大

昭和11(1936)年11月25日に日独防共協定が成立すると,翌12(1937)年春頃までには,同協定へのイタリアの参加について独伊間で合意に達していました。これに対して杉村陽太郎駐伊大使は,イタリアと協定を締結することによって得られる効果に疑問を呈しており,また対英関係への配慮からイタリア参加問題への深入りを避ける立場をとっていました。しかしその後,杉村大使の後任の堀田正昭大使(昭和12年7月着任)は,日中戦争に対するイタリアの好意的態度にかんがみ,日本側の消極的な態度は日伊関係の将来に悪影響を及ぼしかねないとして,イタリアの防共協定参加を認めるよう具申しました(10月18日)。軍部もまた,日伊提携を目的とした協定を急速に実現すべきとの意向を表明しており,11月6日,イタリアの日独防共協定参加に関する議定書(日独伊防共協定)が締結されました。
イタリア以外の諸国による防共協定への参加問題に関しては,昭和13(1938)年11月の五相会議において防共協定強化に関する政府方針が決定したのを受けて,かねてより防共協定への参加希望を表明していた満州国とハンガリーの加入を承認する方針案が浮上しました。昭和14(1939)年に入りチェコ併合問題をめぐって欧州情勢が緊迫する中,ハンガリーから早期参加の希望が伝えられると,日本はハンガリーと満州国による参加希望を「慶賀」する旨の情報部長談を発表し(1月16日),その後両国は2月24日に同時に防共協定に参加しました。またこの間ドイツ側からは,スペイン内戦での勝利を確実にしたフランコ政権の防共協定参加について打診があり,3月27日には同政権も参加しました。フランコ政権は当初,防共協定参加の事実を公表することに消極的でしたが,4月8日に公表の運びとなりました。

独伊による満州国承認

独伊による満州国承認問題については,従来より日本は両国へ働きかけていましたが,イタリアは,日本がイタリアのエチオピア併合を承認した以上,日本側に代償を求める意向はないとして,昭和12(1937)年12月1日,満州国を承認しました。他方,ドイツは何らかの代償を要求するではないかとの情報が伝わっていましたが,昭和13(1938)年2月10日に行われたヒトラー演説により,実質的にドイツは満州国を承認しました。しかしその後になってドイツ側は,満州国承認の法的手続きは修好条約の締結によりたいとの希望を伝えてきたため,ドイツと満州国による交渉の結果,5月12日,満独修好条約が締結されました。

防共協定強化問題

日独伊防共協定の成立後,大島浩駐独武官は日独関係の強化についてドイツ軍部およびリッベントロップとしばしば会合を重ね,昭和13(1938)年夏までに,陸軍において独伊との防共関係強化の方針を固めるようになりました。
昭和13(1938)年7月19日,五相会議は「日独伊防共協定ヲ強化スル方針ノ下ニ研究ス」べきことを決定し,外務省,陸軍省,海軍省の三省においてそれぞれ研究が開始されました。8月初旬,ドイツから帰国した笠原幸雄少将によってドイツ側が作成した三国協定案がもたらされると,同案をめぐって政府内で検討が行われ,その結果,8月26日,五相会議にて同案への対処方針が決定しました。そのポイントは,(1)協定が主としてソ連を対象とする趣旨を明確にする前文を新たに付すこと,(2)締約国が攻撃を受けた際の武力援助が義務的なものとならないよう修正すること,にありました。この決定は外務省と陸軍省からそれぞれ現地へ訓令として伝達されました。
9月末に宇垣一成外相が辞任し,10月末に有田八郎外相が就任すると,新たに駐独大使に就いた大島大使からドイツ側作成の新協定案が送られてきました。同案は,日本側が特に重要視した協定の対象範囲については,単に「一モシクハ多数ノ国」としており,また武力援助義務規定も含まれていたため,五相会議において再び検討が加えられました。その結果,11月11日,8月26日の決定を再確認する五相会議決定がなされましたが,同時に協定が想定する脅威の対象については特に「本協定ハ「ソ」ニ対スルヲ主トシ英仏等ハ「ソ」側ニ参加スル場合ニ於テ対象トナルモノニシテ英仏等ノミニテ対象トナルモノニ非ズ」との有田外相発言を確認することとなりました。
この決定は11月24日に大島大使に伝えられましたが,これに対して大島大使は,根本方針に重大な変更がみられるとして政府の真意を質すところとなりました(12月5日)。すなわち大島大使は,8月26日の五相会議決定において第三国に対抗する一般的援助条約が承認されたと理解し,この理解に基づいてすでにドイツ側との協議を進めていました。しかし,11月11日の有田発言に対する五相会議の了解(「英仏等ノミニテ対象トナルモノニ非ズ」)は,大島大使が理解する協定の根本方針と相違するものと考えられました。
この点をめぐって五相会議は,昭和14(1939)年1月26日,大島大使に対して政府の真意を直接伝えるため,伊藤述史公使をドイツに派遣することを決定しました。2月下旬にベルリンに到着した伊藤公使は,携行した訓令を大島大使に手交しましたが,その内容はこれまでの政府方針の趣旨を敷衍したものでした。これに対して大島大使と白鳥敏夫駐伊大使(昭和13年12月着任)は連名で,政府案では独伊の同意を得ることは「絶対不可能」であるとして,政府が最重要視する「秘密了解事項」(武力援助義務に対する留保および対外的には防共協定の延長であると説明することを規定)を削除するように具申しました(3月4日)。これを受けて政府は3月22日,1月26日付訓令を執行しても独伊が応じない場合の妥協案(秘密了解事項を削除し,同様の趣旨について細目協定を作成するか,あるいは独伊の事前了解を得ること)を五相会議決定し,現地へ訓電しました(3月25日)。
この妥協案について昭和天皇から御下問を受けた平沼騏一郎首相は,大島・白鳥大使が訓令に従わない場合には両大使を召還すること,これ以上政府方針を変更しないことを五相署名の文書として昭和天皇に提出しました(3月28日付)。また井上庚二郎欧亜局長は,妥協案は実質的に英米をも対象に含めるものだと批判し,既決方針を変更して独伊へのコミットを深めることは日本外交の独自性を奪うことになるとの意見書を平沼首相に宛てて提出しました(3月25日付)。
大島・白鳥両大使は新たな訓令に基づき独伊側と交渉を再開しましたが,大島が独側に対して日本の参戦義務を明言したことにより,以後,「参戦」の解釈と協定の対象範囲をめぐって交渉は平行線をたどることとなりました。4月下旬,大島・白鳥両大使は,もはや交渉は絶望的であるとして政府に本国召還を求めましたが,政府はあくまで既定方針での交渉継続を訓令しました。5月に入ると,日本の立場を示す平沼首相のメッセージがリッベントロップ独外相に宛てて伝達されましたが状況を打開するには至らず,他方で独伊は5月22日,二国間の友好同盟条約を締結しました。
こうした状況のもと,独ソ接近説がしばしば伝えられるようになり,大島・白鳥両大使からも,防共協定強化交渉が不調に終われば,独伊は対ソ妥協に躊躇しないだろうとの観測が寄せられました。その後も交渉は継続されましたが,日本政府からは新たな訓令が発せられることはなく,膠着状態のまま独ソ不可侵条約締結の報がもたらされ(8月22日),8月25日,政府は交渉を打ち切りの訓令を発出するに至りました。

二 日独伊三国同盟

項目「二」では,昭和15(1940)年9月に締結された日独伊三国同盟条約の成立経緯に関する文書を採録しています。(61文書)

独ソ不可侵条約の締結により防共協定強化交渉が頓挫し,昭和14(1939)年9月に第二次欧州大戦が勃発すると,日本は大戦に中立的な立場をとるとともに,対独伊関係についても「適度ノ提携及友好関係」を求めるにとどめるなど,消極的な方策をとりました。
昭和15(1940)年3月,日伊友好と経済関係の緊密化を主たる目的として,佐藤尚武元外相を団長とする使節団のイタリア派遣が決定しました。同使節団の派遣に際して外務省は,この機会にイタリア側に対して「何等カノ政治的「ヂェスチャー」」を示す必要性があると認識していました。そこで外務省は,将来にわたる両国関係の強固な結合を強調したムッソリーニ首相およびチアノ外相宛メッセージを佐藤大使に携行させてイタリア側の態度を打診することとなりました。佐藤大使は4月10日に神戸を出港し,上海,シンガポール,インドなどを経て,5月19日,ナポリに到着しました。
この間,欧州戦況は大きな変動を見せていました。北欧侵攻(昭和15年4月)を終えたドイツ軍はオランダを攻略し(5月15日蘭降伏),対仏攻略作戦に従事していました(6月22日仏降伏)。このドイツの進撃に乗じてイタリアが英仏に対する宣戦布告を検討しているとの情報がもたらされると,非交戦国としての共通の立場を前提に日伊関係の緊密化を図ることを検討していた外務省は,方針の変更を迫られました。その結果,当初予定していた日伊間の政治的協定の締結についてイタリア側と協議することは,再考を要するとの結論を佐藤大使に伝えることとなりました(イタリアの宣戦布告は6月10日)。
イタリア訪問後にドイツへの非公式訪問を予定していた佐藤大使に対しては,情勢の変化に伴い今後のドイツの動向を探るために,できる限りドイツ要人と接触するよう訓令が発せられました。これに基づき佐藤大使は7月8日にリッベントロップ独外相と会談し,この席でドイツ側に日独協力の希望ありとの感触を得た来栖三郎駐独大使は,日独協力の方法について意見交換したいとの意思をリッベントロップに伝えました。 佐藤・リッベントロップ会談の報告がもたらされると,政府内では日独提携強化の方法について陸海外三省の係官会議が開かれました(7月12日・16日)。その後,7月22日に成立した第二次近衛文麿内閣(松岡洋右外相)は,大本営政府連絡会議決定「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」(『日中戦争』第326文書)において,「速ニ独伊トノ政治的結束ヲ強化」することを基本方針としましたが,他方で,戦勝によりドイツ側が仏印および蘭印の権益に関心を持ち始め,日独協力交渉を行う際にも仏印・蘭印問題を持ち出してくるのではないかと懸念していました。そこで松岡外相は,8月1日,オット駐日独大使と会談して枢軸強化の日本側方針を伝えつつ,南洋への関心および対ソ・対米関係に関するドイツ側の意向を打診しました。これに対しドイツ側からはなかなか回答がもたらされませんでしたが,8月23日,突如としてスターマー独公使訪日の報が伝えられることとなりました。スターマー公使の使命に関しては,当初「不明瞭」であると報告されましたが,後になって,スターマー公使が日独協力協定案を持参して訪日する予定であることなどの情報が伝えられました。
スターマー公使は9月7日に東京に到着し,松岡外相との間で条約交渉が行われました。交渉は参戦の自主性留保の問題などをめぐって対立があったものの,9月24日に妥結し,9月27日,ベルリンにて日独伊三国同盟条約が調印されました。条約成立に対して英米政府は,三国間の既成の関係を単に明文化したものにすぎないとして比較的冷静に受け止めましたが,他方で各方面への大きな反響を伝える報告電報が寄せられました。

三 日ソ中立条約

項目「三」では,昭和15(1940)年3月から4月にかけての松岡外相欧州訪問と日ソ中立条約の成立経緯に関する文書を採録しています。(101文書)

昭和14(1939)年8月,独ソ不可侵条約を締結したドイツは,日本がソ連との間に不可侵条約を結ぶ意向があるならば,それを斡旋する用意がある旨を伝えていました。しかし日本政府は,不可侵条約交渉を提議する前提として,少なくともソ連による対中援助中止と日満に脅威を与える軍備の解消が先決であるとして,条約交渉に対して消極的な姿勢をとり,対ソ交渉は国境画定問題および漁業問題等の懸案解決に限定する方針をとっていました。
昭和15(1940)年4月,参謀本部の土橋勇逸情報部長を中心に,日中戦争処理促進の観点から,対ソ接近を図り全般的な対ソ国交調整をはかるための具体案として,「日ソ中立条約案」が浮上しました。同案は,陸軍内の同意を取り付け海軍の賛同を得て外務省に打診され,外務省では安東義良欧亜局第一課長が中心となって陸海軍側と協議を行い,5月12日,関係省会議にて「日ソ中立条約案」が承認されました。他方,東郷茂徳駐ソ大使からも,日ソ国交調整交渉に対してソ連側が前向きであることが伝えられましたが,東郷大使自身は国際情勢の変化をかんがみると,中立条約のごとき「軽度の政治的結合」の提案は時機を失していると主張し,むしろ不可侵条約の実現によって日中戦争の処理ないし日ソ懸案解決に好影響をもたらすべきと主張しました。しかし政府は,東郷大使に対して中立条約案の対ソ提議を訓令し,これを受けて東郷大使は,7月2日,モロトフ・ソ連外相に中立条約案を提示しました。これに対するソ連側の8月14日付の回答は,日本側提案を原則的に受諾するものの,その条件として北樺太石油・石炭利権の解消を求めるなど,日本側に代償を強いるものでした。
昭和15(1940)年7月に成立した第二次近衛内閣は,対ソ政策について「飛躍的調整」を図る方針を採択しました。これを踏まえ外務省では,不可侵条約の締結を柱に据えた新たな日ソ国交調整要綱案を作成し,同案に基づいて10月30日,建川美次新駐ソ大使は不可侵条約案をモロトフに提議しました。これに対してソ連側は11月18日,中立条約案を逆提案するとともに,再び日本側に北樺太石油・石炭利権の解消を迫ることとなり,これにより交渉は頓挫しました。
三国同盟交渉のために訪日したスターマー公使から日ソ国交調整のためにドイツは「正直なる仲買人」たる用意があると伝えられていた松岡外相は,この問題に対するドイツ側の斡旋を期待するとともに,日独伊にソ連を加えた「四国協商」構想を抱いていました。昭和16(1941)年2月に大本営政府連絡懇談会が決定した「対独伊ソ交渉案要綱」は,日独伊ソの四国間取極めの実現と勢力範囲の画定を期した「リッベントロップ外相腹案」をもってソ連を日独伊の政策に同調させるとともに,日ソ国交調整の実現を図ることを目的としたものであり,これは松岡の「四国協商」構想を具体化したものでした。3月12日,松岡外相は同要綱を携行してヨーロッパへ向けて出発しました。
しかし松岡訪欧と前後して,独ソ関係の変化を示す電報が大島浩駐独大使などから外務本省に届いていました。すでに前年(昭和15年)11月,リッベントロップ独外相は日独伊ソの四国間取極めについてソ連側に提議していましたが,これを受諾する条件としてソ連側が提示した条件はドイツの態度を硬化させるに至っており,その後独ソ国境付近においてドイツ軍が増強されつつある状況が報告されるようになりました。またドイツ側は日本に対して,対英攻略の一環として日本がシンガポール攻撃を行うよう要請していました。こうした情報について松岡は,3月下旬のドイツ滞在時にヒトラーやリッベントロップから直接伝えられることとなりました。
ドイツとイタリアの訪問を終えた松岡外相は,帰途モスクワに立ち寄り,4月7日,モロトフ外相に対して「四国協商」案ではなく,日ソ二国間の不可侵条約の締結を提議しました。これに対してモロトフは,前年11月18日と同様の冷淡な回答を繰り返したため,松岡外相は4月9日の会談で不可侵条約案を撤回し,今度は中立条約の無条件締結をモロトフに訴えました。しかしモロトフは,中立条約の締結に関してもその前提として北樺太利権の解消が必要であると主張し,結局その日の会談も物別れに終わりました。これを受けて松岡外相は4月11日,日本側の最終的譲歩案として,北樺太利権問題の解決のために努力する旨を述べた英文書簡の交換をモロトフに提議しましたが,この提案に対してもモロトフが抵抗したため,松岡外相は交渉打切りの意向を表明しました。しかし,翌12日に行われた松岡とスターリンとの会談において,ソ連側が中立条約案を受け入れる一方,北樺太利権に関する英文書簡に関しては,スターリンが,北樺太利権問題を「数月内ニ」解決するよう努力すると修正を加え,松岡外相がこれを受け入れたことで妥協が成立しました。日ソ中立条約は4月13日に調印され,松岡は4月22日に帰京しました。
日ソ中立条約は枢密院での審査を経て4月25日に発効しましたが,これと前後して独ソ関係の急速悪化が伝えられるようになり,5月中旬には,大島大使より独ソ開戦の場合に備えて採るべき日本側方針についての請訓電報がもたらされました。松岡外相は5月28日,ソ連との武力衝突を回避するようリッベントロップに宛ててメッセージを発出しましたが,6月4日,ヒトラーおよびリッベントロップと会談した大島大使は,両人から独ソ戦は不可避である旨を伝えられました。また6月17日には,独ソ開戦が間近である旨が伝えられましたが,日本政府内における対処方針が明確にならぬまま,6月22日,独ソ開戦に至りました。

四 独ソ開戦後の対独伊・対ソ関係

項目「四」では,昭和16(1941)年6月22日の独ソ開戦から太平洋戦争開戦までの対独伊および対ソ関係に関する文書を採録しています。(90文書)

オット独大使より独ソ開戦の報がもたらされると,外務省は日本の対処方針について検討を進めました。昭和16(1941)年6月25日付の「独蘇開戦ニ伴フ国際情勢ノ判断及対策」では,西部戦線におけるソ連の敗北は免れないとの観測のもとに,日ソ中立条約により日本は一応中立的態度を保持しつつも「撃蘇南進両略ノ態勢」の確立を方針に掲げました。各在外公館からは独ソ戦況に関する情報とともに,「静観」と「参戦」それぞれの立場からの具申電が寄せられましたが,特に大島駐独大使からは,直ちにドイツを支持すべしとの見解とともに,ドイツ側が日本の早期参戦を希望しているとして政府の決断を促す具申電報が届けられました。
日本政府は7月2日の御前会議決定「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」(『日米交渉』第86文書)にて「南方進出」の態勢強化を決定するとともに,独ソ戦に対しては「暫ク之ニ介入スルコトナク」密かに対ソ武力準備を整え自主的に対処するとの方針を固めました。この方針を踏まえて松岡外相は,7月2日,オット大使に対して,南方進出をもって英米勢力の伸長に対する抑止とし,これにより参戦と同程度に日独の共通目標に死活的な貢献をするとの日本の立場を伝えました。これに対してヒトラーおよびリッベントロップ独外相は,日本の消極的な姿勢に強い不満を示すとともに,南進は歓迎するも当面シンガポール攻撃までは至らないであろうと指摘し,独軍が快進撃を続けソ連の崩壊が間近に迫っている状況にかんがみ,崩壊後のソ連処分に日本が有利に参加するためにも,日本の自発的な参戦が望ましいと訴えました。
ドイツ側の要望を受けて日本政府の態度明確化を繰り返し求める大島大使からの要請に対しては,7月31日,改めて政府の立場を示す電報が同大使に宛てて発出されました。この電報では,7月2日の御前会議決定に基づき政府は目下新情勢に対処するため「全面的戦争態勢ノ完整」に努めており,日独協力はそれぞれの勢力範囲において「自強ノ方途」を講じつつ相互に策応することを主眼にするので,行動の「画一整斉」のみが唯一の協力ではないと論じてドイツ側を説得するよう大島大使に促しました。
ソ連との関係では,ソ連側が特に重視したのは,日本側に日ソ中立条約を独ソ戦へ適用する意思があるかという点にありました。この点に関して松岡外相はスメターニン大使に対して,中立条約は「有効だが適用しない」と述べてソ連側を困惑させました。しかし第三次近衛内閣成立後の大本営政府連絡会議決定「対ソ外交交渉要綱」(8月4日付)では,ソ連側において中立条約を厳守し極東に脅威を与えない限りにおいては,日本側も同条約の義務を守るべき旨を明らかにするとの方針を決定しました。松岡の後任の豊田貞次郎外相は同決定の翌5日,スメターニン大使にその旨を告げ,ソ連側はこれを評価し,満足を表明しました。
独ソ戦への速やかな日本の参戦を求める一方で,ドイツ側は日米交渉の進捗に関しても日本に対して強い不満を抱いていました。ヒトラーおよびリッベントロップからは,米国の参戦抑止が三国同盟の最大の目的であるにもかかわらず,日米交渉が妥結した場合,米国が太平洋方面の安定を得ると大西洋方面に参戦する可能性が高まるとして,日米交渉の即時中止を要求しました。この点に関しては,イタリア側からも同様の不満が寄せられました。さらにドイツ側は9月中旬以降,米国側に対して三国同盟条約の対米適用(独米戦勃発の場合は日本の対米即時参戦を招来する旨)に関する米国の見解を質すことを,繰り返し日本側に求めました。日本政府はこのドイツの要求が米国を刺激することを懸念し,より穏当な表現で適当な機会に米国に申入れるよう野村駐米大使に訓電しましたが,東条内閣の成立(10月18日)もあり,結局この申入れは見送られることとなりました。この問題に関してはその後,東郷茂徳外相がオット大使に,日米交渉において日本側が「毅然タル態度」を採ることでドイツ側が要求する以上の効果が得られるだろうと説明しました。
独ソ戦はその後,ソ連の頑強な抵抗によりモスクワ包囲戦が長期化の様相を見せる一方で,日米交渉がこう着状態に陥ると,東郷外相はオット大使に,三国同盟が日米交渉妥結の「最大困難ナル問題」となっており,日米交渉不成立の場合にはドイツが三国同盟に忠実な態度をとることを期待すると述べて,開戦が間近であることを示唆しました(11月30日)。大島大使からもヒトラーの対米決意が強硬である旨が伝えられる中,12月8日,太平洋戦争開戦に至ることとなりました。

〈参考〉

「所謂防共協定強化問題(三国同盟問題)ノ顛末」

有田八郎元外相による手記。昭和16(1941)年から18(1943)年にかけて執筆されたものに,戦後,極東国際軍事裁判で明らかになった事柄等を加筆したもの。昭和23(1948)年8月,総務局政務課によってまとめられた。

「防共協定を中心とした日独関係座談会記録」

昭和24(1949)年4月から5月にかけて,4回にわたって行われた元外交官による座談会記録。主な出席者は,有田八郎元外相,武者小路公共元駐独大使,堀田正昭元駐伊大使,井上庚二郎元欧亜局長など。