多様性を認めるという言葉が苦手 (original) (raw)

多様性を重視する社会に推移しつつある。そういった言説を唱える企業や個人は、ここ数年よく見るようになった。

そんな中でも、「多様性を認める」「数ある多様性が認められる社会」みたいな言い回しを見かけることがある。これが私はとてつもなく苦手だ。苦手どころか、嫌悪感を覚えていると言ってもいい。一体何様なんだろう?と思う。

誰が誰を認めるって話をしてるんですか?

この多様性を認めるという言葉が指す多様性とはなんだろうか。概ね性的少数者のような、ある集団におけるマイノリティのことを指す場合がほとんどだろう。では、誰が認めるのか?当然マイノリティ自身がマイノリティを認めたところでなんにもならない。マジョリティが、マイノリティを認めようという話をしたいのだ。

当然迫害されればいいなどという話をするつもりはない。私はこの、マジョリティが安全な立場からマイノリティを認めようと言ってるこの構図が気色悪いと言っている。

認めてもらわないとだめですか?

私はある集団においてはマジョリティだし、またある集団においてはマイノリティの特性を持っている。大抵の人はそうだ。そうでないなら、いわゆるステレオタイプってやつなのかな。あいにく、僕には広義の社会においてマイノリティとして扱われる特性をいくつか持っている。マイノリティとしての私は、誰かに認めてもらわないとだめなんだろうか。認めてもらわないとここにいてはいけないのだろうか。マジョリティのフリをして、マジョリティに媚を売って、マジョリティに同調して生きる以外に方法はないのだろうか。

多様性を認めるという言葉がこうも市民権を得ている現状は…あまりにも残酷に、その現実を僕に突きつけている。

認めるという言葉は、強者からしか出てこないのではないか。弱者が強者を認めるのは当然の必然と言える。意図してこの言葉を使うというのは、自分が安心できる強者であるから、弱者を認めてやろうという浅ましさの現れに思える。

本当に強者の言葉だろうか?

では、この発言をする人は紛れもない強者と言えるだろうか?あいにく、そうではない。ほとんどの人はマイノリティな部分がある。それが社会的に、社会人のコスプレをして金を稼ぐうえで、あるいは家族のような小さな共同体で過ごすうえで障壁になるかならないかの差が問題になるだけだ。

では先に上げたステレオタイプはどうか?ほとんどの人がマイノリティを持っているという前提を置くなら、このステレオタイプは必然マイノリティに属することになる。つまり、誰もがマイノリティになるはずなのだ。

じゃあなぜ、こんな言葉がまかり通る?

先に言ったような、社会人のコスプレを、うまくやれる人たちというマジョリティが世界を支配しているからで、その人達の大部分は、自分自身の内包するマイノリティに無自覚だからだ。

良いように見れば進歩の途中

この状況を、好意的に、この浅ましさに肩入れして話すとすればこれは進歩の途中なのだ。人は弱い。マイノリティをマジョリティで取り囲んでいじめて気持ちよくなるのをやめろと言ったところで、行動を変えることはないと子供でも想像できる。いじめがなんでなくならないと思う?

だからあくまで強者の立場を取らせて、認めていこう、と言っている。

では、悪くみればどうか。私には、悪くと言うより現実はどうかという方がスッキリする。結局、マジョリティに擬態するしかないのだ。楽に擬態できる程度のマイノリティだけで済んでるなら大変楽なものだが…。自分がマジョリティでいられる環境に身を置く、ということもできる。結局、世知辛い人生を歩むことになる。

認めるという言葉の多様性

では認めるというのは、承認する、というような意味あい以外にはどういう意味を持つだろうか。認識する、という意味も持てそうだ。本来、こちらを重要視するべきなのだ。多様性を認めるではなくて、多様性を認識するといえばいい話だが、そうはなっていない。ただあることを知ろう、というだけでも良かったのを、どういうわけか「認める」なんて言葉を使ったがために、変な誤認もまかり通っている。

この考え方の危ういところ

この考え方自体がどうも、マイノリティだということだ。だけど、少しずつ違和感を感じている人を見るようになった。Xで「多様性を認める」で検索すると、まさにこの歪さに目を向けている人も、多様性に対して認めるとか気持ち悪いとか、どちらもおかしくて、ただ知ればいいということを話している人もみるようになった。そういう書籍も出てきた。認識が逆転する日も近いだろう。だからこんな駄文をしたためることもできる。

多様性を認める

多様性を認めるという言葉の最も危ういところは、この言葉の浅ましさや傲慢さではない。多様性を認めない人を認める必要が生じるということだ。だけど、ただ多様性を知れば良いという解釈なら、この矛盾は生じえない。多様性を知りたくない、知らない、知るつもりもない人を知るのは簡単だからだ。そういう人もいる、終わり。不寛容に寛容になろうとする必要もない。

この言葉も、悪いことばかりではない。結果的に人々に多様性と評される人々の存在を知らしめる結果になっている。いかに傲慢で浅はかな表現であろうとその目的は実は達成できるのではないか。そして、知ろう、と言っても知る気のない人にも、こういうアプローチならリーチできるのかもしれない。人の支配欲や庇護欲のようなものを刺激できる。おぞましい話にも思えるが、政治というのはそういうものなのかもしれない。

マイノリティに優しく庇護しようとするのではなく、ただ知ることが大事だと思う。認めるという言葉は、そこに大きな断裂がある。