福島県の県庁所在地 中央にある“郡山市”でなく なぜ県北の“福島市”に? | NHK (original) (raw)

【視聴者からの疑問】

ある日、NHK福島に視聴者から質問が寄せられました。
「福島県庁は、なぜ郡山市ではなく福島市になったのか。」
この短い単純な疑問には、多くの思いが込められています。

福島県内には、人口30万人規模の大きな都市は、いわき市・郡山市・福島市の3つがあり、地域性は多少異なるものの、それぞれ同じくらい発展しています。
とりわけ、郡山市は県の中心に位置していて、交通の要衝でもあり、経済県都の異名を持っているんです。

【答えを求めて】

県文化振興財団・山田英明さん

福島県出身でもある私は、まずは手がかりをつかむべく、福島市にある県歴史資料館に向かい、資料館を運営する県文化振興財団の山田英明さんに協力をお願いしました。
山田さんは、収蔵資料を熟知している頼もしい存在で、ずばり「福島市が県庁になったのはなぜか?」を聞いてみました。
山田さんは、まず福島県の成り立ちを知ることが大事だと答え、一緒に関連資料を調べてみました。

すると、「福島県」という県名が歴史に登場したのが、今から155年前の明治2年であることが判明。
江戸時代から続く藩を廃止して、あらたに県を置く「廃藩置県」で、最も多いときで10の県が誕生し、その後に、旧福島県・磐前(いわさき)県・若松県となったんです。

わかりやすく地図で示すと、この3県が、今でいう会津・中通り・浜通りのもとになったと言えます。

当時、旧福島県の県庁が置かれた場所はどこだったのか。
そのヒントが、今も県庁の敷地内に残されていました。
本丸跡と書かれたこちらの石碑。

当時、ここには福島城が建っていて、本丸の隣にある殿中、いわゆる御殿が県庁舎として使われていたことが発覚。

県庁敷地内に設置された看板

「旧福島県だけで考えると、なぜ福島(今の福島市)に県庁が置かれたんでしょうか?」

「やはり戊辰戦争の影響が大きいと思います。まだ戊辰戦争が終わって間もない時期なので、白河にしても、二本松にしても、やはり復興の過程にありますから、そうなりますと当時の中ですとやはり残るは福島かな、という消去法的な考え方もあったんだろうと思います」

【さらに答えを求めて】

旧福島県の中で福島が県庁所在地に選ばれた理由がわかったものの、3つの県がその後はどうなったのか。

「福島県史料情報 創刊号」福島県歴史資料館より

明治9年8月21日。3つの県がひとつにまとまる出来事が起きました。
全国の府と県の統廃合を進める明治政府から通達が届きます。
「若松県、磐前県を廃止して、福島県が両県の土地と人を引き受けるよう」命じています。結果、福島県がひとつとなって、県庁は旧福島県当時の場所に、そのまま留め置かれることになり、その後もこの場所が県庁として使われているんです。
また、通達が出された8月21日は、現在の福島県ができた日として、「福島県民の日」として制定されたんです。

「福島県史料情報 創刊号」福島県歴史資料館より

こちらは、明治13年に完成した県庁舎です。2階建てでこぢんまりしています。

「ふくしまの歴史ダイジェスト」福島市教育委員会より

なぜ今の福島市に県庁がとどまり続けたのか、なぞは深まるばかり。
そんな中、救世主・山田さんが福島県史の中に手がかりがあると教えてくれました。

「『このときなぜ若松、磐前両県が廃止されて福島県に合併されたのか、あるいはなぜ県庁の本庁が福島に置かれたのか、その理由は詳らかにしえない』というふうになっているんです」

「福島県史 第4巻 近代1」福島県より

資料を読み込んでみると、
①会津地方は不便であるとともに、戊辰戦争で朝敵とされた名残りをなくそうという政府の方針があった
②郡山はそれほど大きくはなく、歴史的に県庁が所在したことがなかった
③福島は商業都市で、東北をおさめる陸軍「仙台鎮台」に近かった
などの記述が。
ただ最後には「確実な根拠はない」との文字も。

納得できそうで何かが足りない。
山田さんと時代背景を踏まえ、ある説を導き出しました。

「可能性としては、福島が他の若松や平に比べ養蚕が盛んだったので、経済的に一番豊かだったというのが大きいと思います」

「このとき郡山は、発展という意味でそこまでなんですか?」

「この頃から郡山の開発も始まっていたんですが、まだこの明治9年の合併の段階で比べれば、ダントツで福島の方が栄えていますので、この時点で郡山が県庁所在地の対抗馬になるかというと、まだちょっと時期が早いと思います」

現在では、福島市と郡山市、いわき市が、ほぼ同じ規模の都市になっていますが、ひとことでまとめると、当時は、まったく違って、福島市が、郡山市やほかの都市よりもずっと発展していたということがわかりました。

整理すると以下のようになりました。

①当時、もっとも勢いがあった産業は養蚕業で、県内では県北が一番盛んな場所だった
②中心の郡山は、農地を開発する安積開拓が始まったばかりで、まだ原野が広がっていた。福島の方がずっと栄えていた
③人口や経済の規模が比較的大きな地域だった、若松・二本松・白河は戊辰戦争の被害が残っていた

結果として県庁が福島に置かれた


今回の取材で、新たな発見がありました。
それは、福島市に県庁が置かれた後で、移転をめぐる大きな動きがあったということ。
そもそも「県庁の移転は可能なのか?」「どのような福島県庁移転の動きがあったのか?」を調べました。

【県庁の移転は可能なのか?】

取材したのは、総務省自治行政局行政課。
すると、県庁の位置を変更するには条例が必要で、県議会で出席議員の3分の2以上の同意があれば、移転は可能ということでした。
意外にあっさり答えが出てしまいました。

ここで一呼吸して、いよいよヘビーな話に入ります。


【どのような福島県庁移転の動きがあったのか?】

ときは、今から142年前の明治15年。
現在の郡山市に県庁を移転すべく運動が起きたんです。

なぜ運動が起きたのか、資料を読みあさるうちに、経緯を詳しく知る人にたどり着きました。

郷土史家で、会津若松市に住む石田明夫さん(66)です。
福島県の謎に関して長年研究し、県庁移転に関する多くの資料を分析してきました。
あいさつもほどほどに、単刀直入に質問をぶつけてみました。

「なぜ、当時(明治15年)、郡山に移転という話になったんでしょうか?」

「これはですね、特に若松県(現在の会津地方)と磐前県(現在の浜通り)の人たちは、当時は歩いて福島まで行かなきゃいけない。歩くと、2日か3日ぐらいかかる人がいるんですね。県北の福島となるとやはり1日余計にかかるということで、その辺がネックだったわけです」

福島県道路風景画帖(高橋由一)製作年・明治10年代後半

こちらは、明治10年代後半に製作された県内各地の道路の風景画です。
一部には馬を利用する人もいましたが、歩いて目的地に向かうのが当たり前でした。
面積が広いことで有名な福島県。
歩いて県庁に向かう苦労が、この絵からもうかがい知れます。

【県庁移転のキーマン】

阿部茂兵衛氏

また、移転を巡り、中心的な役割を果たした人物がいたことも、大きく影響したと言います。

「郡山で貿易商をしていた阿部茂兵衛さん。安積開拓にもすごく努力された方なんですけれども、その人たちを中心として県庁をぜひ郡山に移転できないかという運動が起こるわけですね」

「何か狙いがあるんですかね」

「郡山の人たちは磐前県と若松県の人の声を代弁しているんですね。遠い地域の人たちっていうのは、なかなか県庁までは行くのが大変だと。現実的な問題がそこにあります」

「代弁の役割も担っていたと」

「そういうことですね」

【衝撃の事実】

明治15年 新築の県会議事堂
「ふくしまの歴史ダイジェスト」福島市教育委員会より

そして、移転運動から3年後の明治18年には、当時の県議会で県庁の郡山への移転案に関する決議があり、賛成37・反対16の賛成多数で、なんと可決しました。
県民の将来にわたる不便さをなんとかしなければという意見が勝りました。

ところが、県庁移転は実現しなかったのです。

「反対派(信夫郡・伊達郡・相馬郡など)がおりましてですね。反対派が当時の伊藤博文(政府高官)や西郷従道(政府高官)らに金品を贈りまして、なんとか福島にとどまってほしいという運動をするわけですね。それが功を奏したことがひとつ。
もうひとつは、移転の中心だった阿部茂兵衛が明治18年に亡くなってしまったんですね。そんな関係で内務省の方が県議会に対しまして、県議会の議決をほごにしてしまったという経過があります」

当時の政府の対応について、郡山市史では「後世永く侮を遺した政府の一大失政と言うべきであろう」と断じています。

それからおよそ40年後の大正13年。
郡山が町から市になり、移転運動が再燃します。
ところが2年後の大正15年、大正天皇の崩御により、もめ事は一切取りやめて喪に服すことになり沈静化。

【郡山の“意地”と“執念”】

県郡山合同庁舎

それでも郡山の人たちは、県庁移転を諦めなかったと言います。
かつての県庁移転の熱意が現れているのが、現在の県郡山合同庁舎。もともと郡山市役所として100年近く前に建てられました。

「昭和5年にはね、県庁用の建物を造ってしまったんですね」

「造ってしまった・・・これは簡単に造れるものなんですか?」

「簡単に造れるものではありません。これは郡山の経済力がそのころからやっぱりあったんですね。是非とも県の中央に位置する郡山、交通の便も非常にいい郡山という形で、経済県都と今でも言われている郡山に県庁を誘致したいという願いがあったわけです」

【県庁移転の動きは他県でも】

ここまで、人間味あふれる県庁移転をめぐる攻防を紹介しました。
ただ、移転をめぐる動きは、他県でも見られます。

★他県の事例★

▼奈良県 奈良市→橿原市 移転求める動き
・2018年に県議会で過半数が移転賛成
・多額の移転コストなどを背景に実現不透明

▼長野県 長野市→松本市 移転求める声

▼群馬県 前橋市→高崎市 移転求める声

奈良県では、奈良市から橿原(かしはら)市に移転を求める動きがあり、2018年に県議会で過半数が移転決議に賛成するも、多額の移転コストなどを背景に実現不透明な状況です。
また、長野県では県庁所在地の長野市から松本市に、群馬県は県庁所在地の前橋市から高崎市に、それぞれ移転を求める声が長年にわたり続いています。

★県庁など移転の実績★

◎明治~昭和
・移転事例複数あり
・明治17年 栃木県庁 栃木市→宇都宮市
◎平成~令和
・平成3年 東京都庁 千代田区→新宿区

実際に、明治から大正・昭和にかけて移転した事例が複数あり、明治17年には隣の栃木県で現在の栃木市から宇都宮市に移転しています。
また、平成3年には、東京都庁が千代田区から新宿区に移転していますが、平成から令和にかけては移転ではなく、庁舎の建て替えや改修の事例が多く見られます。

なぜ近年になってからは移転の事例がないのか。
理由はいくつか考えられるものの、各県の事例を取材していて、共通する背景があります。

★移転が難しい理由★

◎通信・交通が発達し、不便解消などのメリットが小さい
◎県内各地に県の出先機関を整備済み
◎移転そのものに膨大なコストがかかる

今回の取材では次のような結論に至りました。

県庁移転は制度上は可能だが、
現代においては移転メリットが小さく、何より膨大なコストがかかるため簡単ではない

【取材後記】

県庁所在地に不満を抱いている人は、大きく2つに分かれます。
1つは、自分が住んでいる自治体の方が県庁所在地にふさわしいと言いたい。
2つは、単純に県庁が遠くにあり、利便性が良い場所に来ないかなという期待から。
この双方の声を取材の中で何度も耳にしました。
私も取材を通して、福島県の県庁所在地の謎に迫りましたが、歴史的な背景やその後の移転運動など、事実を知れば知るほどいろんな思いが込み上げてきました。
その中でふと思ったのは、福島県内外で移転を求める声はいまだ続いていますが、それはある意味、県庁所在地になりうる自治体が同じ県内に複数あるということで、幸せなことなんじゃないかと。
今後、人口減少が進んでいく中で、現在の県庁所在地、また県庁所在地になりうる自治体がどうなっていくのか。
さらに、県の将来がどうなっていくのか。
あわせて考えていく必要があると感じています。