西田幾多郎|場所 (original) (raw)

上に述べた所において、私は 叡智 えいち 的実在と自由意志との差別及び関係の問題に触れたが、自由を状態とする叡智的実在と自由意志とは如何なる関係において立つか。自由意志の本体という如きものが最高の本体とも考えられるであろうが、意志の自由とは行為の自由を意味し、行為の自由ということが 些 いささ かでも作用との関係において考えられるならば、なお全然対立的有無の場所を超越したものということはできない。我々はいつでも対立的無の場所における意識作用に即して、自由意志を意識するのである。更にこの立場を越えて真の無の場所に入る時、自由意志の如きものも消滅せなければならぬ。内在的にして即超越的なる性質は物の属性、力の結果ではなくして、力や物は性質の属性でなければならぬ、物や力が性質の本体ではなく、性質が物や力の本体でなければならぬ。真の無の空間において描かれたる一点一画も生きた実在である。 斯 か くして始めて構成的範疇の世界の背後における反省的範疇の対象界を理解することができるのである。 此 かく の如きものを叡智的実在と考えるならば、それは単に働くものではなく見るものでなければならぬ。色が色自身を見ることが色の発展であり、自然が自然自身を見ることが自然の発展でなければならぬ。叡智的性格は感覚の外にあってこれを統一するのではなく、感覚の内になければならぬ、感覚の奥に 閃 ひらめ くものでなければならぬ、 然 しか らざれば考えられた人格に過ぎない、それは感ずる理性でなければならぬ。対立的無の場所たる意識の立場から見れば、それは物の空間における如く単なる存在と見ることができ、 而 しか して物が力を 有 も つと考えられる如く、叡智的実在は更に意志を有つと考えることができる。

空間における物は内在的なるものの背後に考えられた超越者である。性質的なるものを主語としてこれを合理化する時、空間は合理化の手段となる、すべて現れるものは空間に於て現れるのである、空間が内在的場所となる、空間的ということが物の一般的性質として、すべてが一般概念の中に包摂せられるのである。空間的直覚の上に立つ時、性質的なるものは非合理的なるものとして、超越的根拠を有つものでなければならぬ。元来、性質的なるものの根抵には、ベルグソンが純粋持続といった如く、無限に深きものがある。而して 斯 か く性質的なるものの根抵が 何処 どこ までも深く見られるのは、真の無の場所における直接の存在は純粋性質ともいうべきものなることを意味するのである。空間という如き限定せられた場所からしては、何処までも量化することのできない超越的なるものというのほかはない。しかしかかる超越的なるものを内在化しようという要求より力の考が出て来る、我々は一層直覚を深めて行くのである。直覚を深めるというのは、真の無の場所に近づき行くことである。現象学的にいえば、作用を基礎附けて行くというのであろうが、作用は「作用の作用」の上において基礎附けられるのである、而して作用の作用の立場は真の無の場所でなければならぬ。これを非合理的なるものを合理化するといい得るであろう、主語となって述語となることなき基体が述語化せられ行くことである。

是 ここ において前に場所と考えられた空間は如何なる地位を取るであろうか。性質的なるもの、自己に超越的なるものを自己の中に取り入れようとする時、空間 其者 そのもの が性質的なものとならねばならない、空間は力の場とならなければならない、空虚なる空間は力を以て満たされることとなる。色もなく音もなき空間がすべてを含む一般者となり、色や音は空間の変化より生ずると考えられるのである。力というのは場所がこれに於てあるものを内面的に包摂しようとする過程において現れ来る一形相である。この故に判断や意志と同一の意義を 有 も っているのである。物理的空間は何処までも感覚的でなければならぬ、感覚性を離るれば物理的空間はなく、単に幾何学的空間となる、而して力はまた数学的範式となるのほかはない。感覚の背後に考えられる超越的なる基体が、無限大にまで打ち延ばされることによって、前に単に場所と考えられた空間と合一し力の場となるのである。非合理的なるものを内に包む意志の立場からいえば、 此 かく の如き場所は既に意志の立場といい得るであろう。この故に力の概念は意志の対象化によって生ずる物の底に意志を入れて見ることによって生ずると考えられるのである。無なる意識の場所と、これに於てある有の場所との不合一が力の場所を生ずる、有の場所から真の無の場所への推移において力の世界が成立するのである。有るものの場所となるものがまた限定せられ有であるかぎり、我々は力というものを見ることはできない。

例えば物体というものを考える場合、我々は何らかの性質的なるものを基礎として、これに他の性質的なるものを盛るのである、触覚筋覚というごときものが先ず 此 かく の如き基礎として択ばれるのである。物体というものが考えられるには、何処まで行ってもかかる基礎となるものを除去することはできない。超越的なる物という考は、かえって内在的性質を限定してこれに他の性質を盛ろうとするより起るのである、限定せられた場所の中に、場所外のものを入れようとするより起るのである。かかる意味においては、物を考える場合でも、判断は自己の中に自己を超越するということができる。此の如き基体となる性質を何処までも押し進めて行けば、 遂 つい に最も一般的なる感覚的性質となる。物質の概念は 斯 か くして成立するのである。物質は直接に知覚すべからざるものと考えられるが、それは特殊なる知覚対象ではないというに過ぎない。知覚の水平線を越えては物質というものはない。知覚とは直接に限定せられたものを意識することであると考えられる如く、限定せられた場所の意義は最後まで脱することはできない。無の場所における有の場所の限定ということが知覚ということでなければならぬ。而して限定せられた有の場所、即ち知覚の範囲に留まる間は、力の世界を見ることはできぬ。限定せられた性質の一般概念の中においては、単に相異なるもの、相反するものを見るのみである。力の世界を見るには、かかる限定せられた一般概念を破って、その外に出なければならぬ、相反の世界から矛盾の世界に出なければならぬ。この転回点は最も考うべきであると思う。

矛盾的統一の対象界を考えるには、その根抵には直覚がなければならぬ。数学的真理の如きものの根抵には一種の直覚のあることは、 何人 なんぴと も認めるであろうが、これを色や音の如きいわゆる感覚的直覚とは同じとは考えない。しかしすべて判断の根抵には一般的なるものがあるとするならば、色や音についての判断も一般者の直覚に 基 もとづ いて成立するのである。感覚的なるものの知識の根抵における一般者と、いわゆる先験的真理の根柢における一般者とは如何に異なるか。矛盾的関係において立つ真理を見るには、我々はいわゆる一般概念の外に出てこれを見るということがなければならない。いわゆる一般的なるものが見られ得るということが、先験的知識の成立する 所以 ゆえん である。これによって我々は 斯 か くなければならぬ、然らざれば知識は成立せないといい得るのである。既に一般概念の外に出ながら、如何にして更に判断の根抵となる一般的なるものを見ることができるであろうか。一般概念の外に出るというのは、一般概念がなくなることではない、かえって深くその底に徹底することである、限定せられた有の場所から、その根柢たる真の無の場所に到ることである、有の場所其者を無の場所と見るのである、有其者を 直 ただち に無と見るのである。斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる、相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができるのである。我々の見る知覚的空間は直に先験的空間ではない。しかしそれは先験的空間に於てあるのである、而して先験的空間の背後は真の無でなければならぬ。無の場所に於てあるということが意識を意味するが故に、それは先験的意識に於てあるということができる。これ故に一般概念の外に出るということは、かえってこれによって、真に一般的なるものを見ることである。先験的空間という如きものは、此の如き一般者をいい表したものである。

此の如き立場においては見るということは、単に記載することではなく、構成することである。真の直覚は無の場所に於て見るということでなければならぬ。 此 ここ に到って直覚はその充実の極限に達し対象と合一するということができるのである。右の如き極致に達せない間は、知識は単なる記載以上に出ることはできぬ。現象学的立場といえども、意識はなお対立的無の場所を脱せないのである、考えられた一般概念の外に出ることができないのである。現象学者の作用というのは、一般概念の 埒 らち によって囲まれた作用である、対象の一範囲という如きものに過ぎない。これ故に内に対象の構成を見ることができず、外に作用と作用との関係を見ることもできない。作用 其者 そのもの の充実という如きことは現象学の立場において現れて来ないのである。アリストテレスは感覚とは 封蠟 ふうろう の如く、質料なき形相を受取るものであるといったが質料なき形相を受取るものは形相を 有 も たないものでなければならぬ。 斯 か く受取るとか、映すとかいうことが何らかの意味において働きを意味するならば、それは働くものなくして働き、映すものなくして映すということでなければならぬ。映れるものを形相とするならば、それは全く形相なき純なる質料と考うべきであろう。これに反し、映された形相を特殊なるものとして質料と考うるならば、それは形相の形相として純なる形相とも考え得るであろう。かかる場合、我々は直に映するのと映されるものと一と考えるのであるが、その一とは如何なるものを意味するのであろうか。

その一とは両者の背後にあって両者を結合するということではない、両者が共に内在的であって、しかも同一の場所において重り合うということでなければならぬ。あたかも種々なる音が一つの聴覚的意識の野において結合し、各の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である。ブレンターノが「感官心理学」においていっているように現象的に結合するのである。唯、我々は感覚には意識の野を考えるが、思惟にはこれを認めないから、思惟の場所において 重 かさな り合う(ARCHIVE編集部注:ルビの位置は原文ママ)という語が一種の譬喩の如くに思われるのである。しかし我々の思惟の根抵に一つの直覚があるとするならば、感覚や知覚と同じく思惟の野という如きものが考えられねばならぬ、然らざれば現象学者の直覚的内容の充実的進行という如きものは考えられないのである。思惟の野において重り合うというのは、一般なるものを場所として、その上に特殊なるものが重り合うことである。聴覚の場合においては、個々の音の集団を基礎として、これに音調が加わると考え得るでもあろう。しかし真の具体的知覚においては、個々の音が一つの音調の要素として成立する、即ちこれに於てあると考えねばならぬ。空間においては、一つの空間において同時に二つの物が存在することはできないが、意識の場所においては、無限に重り合うことが可能である。我々は限なく一般概念によって限定せられた場所を越えて行くことができるのである。我々が個々の音を意識する時、個々の音は知覚の場所に於てある。その上に音調という如きものが意識せられる時、音調もまた同一の意識の場所に於てある。各の音が要素であって、音調はこれから構成せられているというのは、我々の思惟の結果であって、知覚其者において個々の音は音調に於てあるのである。しかし音調もまた一つの要素として、更に他の知覚に於てあることができる、音も色も一つの知覚の野に於てあるということができる。

斯くして知覚の野を何処までも深めて行けば、アリストテレスのいわゆる共通感覚 sensus communus の如きものに到達せなければならぬ、それは単に特殊なる感覚的内容を分別するものである。分別するといえば、直に判断作用が考えられるのであるが、判断作用の如く感覚を離れたものではない、感覚に附着してこれを識別するのである。此の如きものを私は場所としての一般概念と考えるのである。何となれば、いわゆる一般概念とは此の如き場所が更に無限に深い無の場所に映されたる影像なるが故である。知覚が充実して行くというのは、此の如き場所としての一般者が自己自身を充実し行くことである。その行先が無限であって、無限に自己を充実して行くが故に作用と考えられる、而してその限なき行先は志向的対象としてこれに含まれると考えられるのである。しかしその実はこれに含まれるのではなく、此の如き無限に深い場所に於てあるということを意味するのである。直覚というのも、かかる場所が無限に深い無であることを意味するにほかならない。斯くその底が無限に深い無なるが故に、意識においては、要素と考えられるものをそのままにして、更に全体が成立するのである。

現象学派においては作用の上に作用を基礎附けるというが、作用と作用とを結合するものはいわゆる基礎附ける作用ではなくして、私のいわゆる「作用の作用」という如きものでなければならない。この場所に於ては作用は既に意志の性質を含んでいるのである、作用と作用との結合は裏面においては意志であるといってよい。しかし意志が直に作用と作用とを結合するのではない、意志もこの場所に於て見られたものである、この場所に映されたる影像に過ぎない。意志もなお一般概念を離れることはできない、限定せられた場所を脱することはできない。直覚は意志の場所をも越えて深く無の根抵に達している。一般の中に特殊を包摂して行くことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志であり、この両方向の統一が直観である。特殊の中に一般を包摂するというのは背理のようであるが、主語となって述語となることなき基体という如きものが考えられる時、既にこの意味が含まれていなければならぬ。現象学において知覚が充実して行くというのも、この方向に向って進み行くのである。この方向においては基礎附ける作用も、基礎附けられる作用も、一つの直覚の圏内に入って行く、即ち共に無の場所に於てあるのである。直覚に分限線はない、知覚という作用を限る時、既に一般概念によって直覚の場所を限定しているのである。現象学者が知覚作用に生きるという時、既に範疇的直覚も含まれていなければならぬ、我の全体がそこにあるのである、私はこれを無の場所に於てあるといいたい。この故に知覚的経験を主語として、いわゆる経験界が成立するのである。

知覚作用として限定せられた直覚は、既に思惟によって限定せられた直覚である。我々が知覚に生きるという時、知覚は思惟の上に重り合うのである、知覚的なるものがその底の場所に映ったものが、その一般概念となる。我々が知覚的直覚という如きものを限定して見ることのできるのは、一つの意識作用が或一点から出立し、また元に 還 かえ ることが可能と考えられるが故である。一つの平面においては、 或 ある 或(ARCHIVE編集部注:ルビの位置は原文ママ)一の点から無限の果を廻っても、また元の点に還ることが可能でなければならぬ。或はこれを一つの意識面がそれ自身の内に中心を 有 も つともいい得るであろう。無限なる次元の空間とも考え得べき真の無の場所において、 此 かく の如き一平面を限定するものは一つの一般概念でなければならぬ。知覚の意識面を限定する境界線をなすものは、知覚一般の概念でなければならぬ。知覚的直覚というのは 斯 か くして限定せられた場所である。我々が知覚的直覚に於てあると考える時、我々は一般概念によって限定せられた直覚に於てあるのである、限定せられた場所に於てあるのである。一般概念は斯く意識面の境界線をなすが故に、一方において限定せられた場所の意義を有するとともに、一方においては自己自身を限定する場所の意義を 有 も っているのである。私が前に一般概念の外に出るといったのは、一般概念を離れるのではない、またこれによって一般概念が消え失せるのでもない、限定せられた場所から限定する場所に行くことである、対立的無の場所、即ち単に映す鏡から、真の無の場所、即ち自ら照らす鏡に到ることである。 此 かく の如き鏡は外から持ち 来 きた ったのではない、元来その底にあったのである。我々が真に知覚作用に生きるという時、我々は真の無の場所に於てあるのである、鏡と鏡とが限なく重り合うのである。この故に我々はいわゆる知覚の奥に芸術的内容をも見ることもできるのである。

元来知覚の意識と判断の意識とが離れているのではない。判断の意識を特殊なるものが一般的なるものに於てあるとするならば、知覚的意識面とは特殊なるものの場所に過ぎない、而して特殊なるものは小語的概念によって限定せられているのである。知覚的意識面というのは、色とか音とかいう如きいわゆる感覚の内容によって定められるのではなく、一般的なるものに対する特殊性によって定められるのである。物の大小形状は概念的に考えることもできるが、知覚的に見ることもできる。これに反し概念的なるものであっても、それが判断の主語として与えられる時、知覚性を 有 も つということができる。あるいは知覚の底には概念的分析を 容 い れない無限に深いものがあるというでもあろう。私もそれを認めるのであるが、かかるものの背後に概念を入れて見るかぎり、知覚といい得るのである。直覚を概念の反射鏡に照らして見るかぎり、それが知覚となる。真に概念を越えたものは最早知識ではない、知覚を芸術的直観の如きものと区別して、これを知識と考え得るかぎり、それは直覚 其者 そのもの ではない。我々は数学者のいわゆる連続の如きものを見ることはできぬ、しかも知覚の背後に概念を越えた何物かを見ると考えるのは芸術的内容の如きものでなければならぬ、ベルグソンのいう如く唯これとともに生きることによって知り得る内容である。知覚は概念面を以て直観を切った所に成立するのである。フッサールのいう如く知覚の水平面は何処までも遠く広がるであろう。しかしそれは概念的思惟と平行して広がるのである、これを越えて広がるのではない、何処までもこれによって囲まれているのである。無は何処までも有を裏打している、述語は主語を包んでいる、その窮まる所に到って主語面は述語面の中に没入するのである、有は無の中に没し去るのである。この転回の所に範疇的直覚が成立する、カントの意識一般もかかる意味における無の場所である。かかる転回を私は一般概念によって限定せられた場所の外に出るというのである、小語か大語に移り行くのである。 是 ここ において述語的なるものが基体となると考えることができる。これまで有であった主語面をそのままに述語面に没入するが故に、特殊なるものの中に一般なるものを包摂するという意志の意味をも含んで来るのである。

一般概念とは如何なるものであるか。一般概念とは特殊概念に対立して考えられるのであるが、特殊と一般との関係には、判断意識というものを考えねばならぬ。判断とは一般の中に特殊を包摂することである。しかし特殊概念は更に特殊なるものに対して、一般概念とならねばならぬ。推論式において媒語がかかる位置を取るものである。論理的知識とは、此の如き無限の過程と考えられるが、何処かに一般概念というものが限定せられ得るかぎり、論理的知識が成立するのである。然らばかかる一般概念を限定するものは何であるか。最高の一般概念は何処までも一般的なるものでなければならぬ、如何なる意味においても特殊なる内容を越えたものでなければならぬ。而して此の如くすべての特殊なる内容を越えたものは無に等しき有でなければならぬ。真に一般的なるものは有無を超越ししかもこれを内に包むもの、即ち自己自身の中に矛盾を含むものでなければならぬ。推論式においての媒語は一方から見れば大小両語の中間に位するものと見られるが、深き意味においては既にこの地位にあるものでなければならぬ。単に知識の立場からいえば、それは考うべからざるものでもあろう。然らば、矛盾の意識は何によって成立するであろうか。論理的には、それは唯矛盾によって展開し行くヘーゲルのいわゆる概念の如きものを考えるほかないであろう。しかし論理的矛盾其者を映すものは何であるか。それはまた論理的なものであることはできない。一度論理的なるものを越えるという時、矛盾其者を見るものがなければならぬ、無限なる矛盾を内容とするものがなければならぬ。私はこういう立場を意志の立場と考えるのである。論理的矛盾を超越してしかもこれを内に包むものが、我々の意志の意識である。

推論式についていえば、媒語が一般者となるのである。推論式においても、媒語が主要の位置を取っている。媒語が単に大語の中に含まれるとするならば、推論式は判断の連結に過ぎない。 苟 いやしく も推論式が判断以上の具体的真理を表すものと考えるならば、媒語が統一的原理の意義を含み、大語も小語もこれに於てあるのである、両者はその両端と考うべきである。媒語はこの場合、私のいわゆる意識の場所の意義を 有 も って来る、推論式において我々は既に判断の立場から意志の立場への推移を見るのである。判断においては我々は一般より特殊に行くが、意志においては我々は特殊から一般に行く、帰納法において既に意志の立場が加わっているのである。事実的判断においては、特殊なるものが判断の主語となる、特殊なるものによって客観的真理が立せられる、特殊なるものの中に判断の根抵となる一般的なるものが含まれていなければならぬ。かかる一般者は単に包摂判断の大語と考えられる一般者とは異なったものでなければならぬ。事実的判断は論理的に矛盾なく否定し得ると考えられる如く、その根抵にはいわゆる論理的一般者を越えて自由なるものがなければならぬ。私が 此 ここ に意志の立場の加入を考える 所以 ゆえん である。

意志は単に偶然的作用ではなく、意志の根抵には作用自身を見るものがなければならぬ、作用 其者 そのもの の方向を映すものがなければならぬ、いわゆる一般概念的限定を越えた場所に意志の意識があるのである。作用に対して自由と考えられるのは、作用とは一般概念によって限定せられたものなるが故である。判断の立場から意志の立場に移り行くというのは有の場所から無の場所に移り行くことである。有と無と相対立すると考える時、両者を対立的関係に置くものは何であるか。主観的作用から見れば、我々は有から無に、無から有に思惟作用を移すことによって両者を対立的に考え得るでもあろう。しかし客観的対象から見れば、有が無に於てあるということである、思惟の対象界において限定せられたものが有であり、然らざるものが無と考えることができる。思惟の対象界がそれ自身において一体系を成すと考えるならば、無は有よりも一層高次的と考えることができる。無も思惟対象である、これに何らかの限定を加えることによって有となる、種が類に含まれるという意味において有は無に於てある。無論、無と考えることは既に一つの限定せられた有と考えることであって、その以前に更に無限定のものがなければならぬといい得るであろう、 而 しか してこれにおいて有と無とが対立的関係に於てあると考えることもできるであろう。しかし無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である、いわゆる有も無もこれに於てある作用の作用の立場でなければならぬ。判断作用の対象として考えられた時、肯定的対象と否定的対象とは排他的となるが、転化の上に立つ時、作用其者の両方向を同様に眺めることができる。しかし措定せられた対象界から見れば、赤の表象自体は色の表象自体に於てある如く、有は無に於てある、物は空間を排するのではなく、物は空間に於てあるのである。働くものといえども、それが働くものとして考えられる以上、それが於てある場所が考えられねばならぬ、一般概念によって統一せられ得るかぎり作用というものが考えられるのである。作用自身を直に対象として見ることはできない、一般の中に無限に特殊を含みしかも一般が単に於てある場所と考えられる時、純粋作用という如きものが見られるのである。 斯 か く考えれば一つの立場から高次的立場への接触は、直線と弧線とが一点において相接する如く相接するのではなく、一般的なるものと一般的なるものと、場所と場所とが無限に重り合っているのである、限なく円が円に於てあるのである。限定せられた有の場所が限定する無の場所に映された時、即ち一般なるものが限なく一般的なるものに包摂せられた時、意志が成立する。

限定せられた有の場所から見れば、主語となって述語とならない基体は、何処までもこの場所を超越したものであり、無限に働くものとも見られるであろう。しかし意識するということは無の場所に映すことであり、この場所から見れば、逆に内面的なる意志の連続に過ぎない。限定せられた有の意義を脱しない 希臘 ギリシヤ 哲学の形相より出立すれば、何処までも質料を形相化し 遂 つい に純なる形相に到達するも、なお質料が真に無となったのではない、唯極微的零に達したまでである、質料はなお動くものとして残っている。真の無の場所においては、一から一を減じた真の無が見られねばならぬ。 此 ここ において我々は始めて真に形相を包む一者の立場に達したといい得る、極微的質料もその発展性を失い、真に作用を見るということができる。トーマスの如く善を知れば必ずこれを意志するという時、我々はなお真の自由意志を知ることはできない、真の意志はかかる必然をも越えたものでなければならぬ。ドゥンス・スコートゥスの如く意志は善の知識にも束縛せられない、至善に対しても意志はなお自由を有すると考えられねばならぬ。思惟の矛盾は思惟としてはその根抵に達することであり、ヘーゲルの哲学においての如くこれ以上のものを見ることはできないであろうが、我々の心の底には矛盾をも見るもの、矛盾をも映すものがなければならぬ。ヘーゲルの理念がその自己自身の外に出て自然に移らねばならないのはこれに 由 よ るのである。右の如く場所が場所に於てあり、真の無の場所からこれに於てある有の場所が見られた時、意志作用が成立すると考えられるならば、一般概念とは無の場所において限定せられた有の場所の境界線と考えることができる。平面における円の点が内部に属すると見ることができるとともに、外部に属すると見ることができる如く、一つのものが感覚に即して限定せられた有の場所と見られるとともに、無の場所に即して一般概念と考えられるのである。限定せられた場所が無の場所において遊離せられていわゆる抽象的一般概念となる。一般概念の構成作用、いわゆる抽象作用には意志の立場が加わらねばならぬ。ここにラスクのいう如き主観の破壊が入って来るのである。

前にいった如く、フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定せられた場所に過ぎない。真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に 充 み ちたものでなければならぬ。私はかかる直覚を真の無の場所に於てあると考えるのである。無限に広がる知覚的直覚面を囲むものは、一種の一般概念でなければならぬ。知覚的直覚というものが考えられる時、知覚作用というものが考えられねばならぬ。作用というものが考えられるには私のいわゆる「作用の作用」の立場から作用自身が反省せられねばならぬ。作用其者を 直 ただち に見るということはできぬ、一つの作用が他の作用と区別して見られるには、一つの一般概念によって限定せられた場所がなければならぬ、述語的なるものが主語の位置に立つことによって働くものが見られるのである。知覚の水平面は無限に遠く広がると思われるが、それは無限に深き無の場所において限定せられた一般概念の圏外に 出 い でない。一般概念というのは有の場所が無の場所に映れるものに過ぎない、有の場所と無の場所と触れ合う所に概念の世界が成立するのである。しかし単に有を超越し有がこれに於てあると考えられる否定的無はなお真の無ではない。真の無においては、かかる対立的無もこれに於てあるのである。限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ、かかる無が更に無に於てあると考えられる時、判断作用が成立するのである。すべて作用というのは一つの場所が直に真の無の場所に於てあると見られる場合に現れるのである、種々なる作用の区別や推移が意志の立場において見られ得ると考えられるのはこの故である。

有が無に於てあるが故に、作用の根抵にはいつでも一般概念なるもの、述語的なるものが含まれている。しかしそれは単に対立的無に映されているのでなく、直に真の無に於てあるが故に、遊離せる抽象的概念ではなくして、内在的対象となる。内在的対象とは真の無の場所に固定せられた一般概念である。作用は必ず内在的対象を含まねばならぬと考えられるが、かえって内在的対象に於て作用があるのである、内在的対象として限定せられた場所によって作用が見られるのである。真の無の場所は有と無とが重り合った場所なるが故に、作用の対象は何処までも対立的でなければならぬ。対立的ならざる対象を含むと考えられるもの、例えば知覚の如きものは、厳密なる意味で作用ではない、なお一般概念を以て囲まれたる有の場所たるに過ぎない、 未 いま だ場所が直に無に於てあるとはいわれない。唯判断作用の如きに至っては明にかかる対象の対立性が現れる。判断のすぐ後に意志がある、判断意識は有が直に無に於てあることによって現れるのである。アリストテレスの共通感覚を押し進めてカントの意識一般に至るには、有から無への転換がなければならぬ。無論、知覚といえどもそれが意識と考えられる以上、対立を含んでいるであろう。対立によって意識は成立するのである。意識の野において対象が重り合うと考えられるのも、実はこれによるのである。

有の場所が直に真の無の場所に於てある時、我々は純なる作用の世界を見る、普通に意識の世界と考えられるものは 此 かく の如き世界を意味している。しかし此の如き世界は、なお内在的対象界として概念的に限定せられた一つの対象界たるを免れない。内在的対象と考えられるものは無を以て縁附けられた有の場所である、あるいは対立的無によって限定せられた真の無の場所である。真の無の場所はなおこれより深きものでなければならぬ、なおこれを越えて広がるものでなければならぬ、かかる場所もこれに於てあるものでなければならぬ。 是 ここ において我々は初めて意志の世界を見るのである。知識的対象としては有と無との合一以上に出ることはできない、主語と述語との合一に至って意識はその極限に到達する。しかしかかる合一を意識する時、かかる合一が於てある知識の場所がなければならぬ。有るものは何かに於てあるという時、同一なるものも於てある場所がなければならぬ。同一の裏面に相異を含み、相異の裏面に同一を含むというのは此の如き場所に於てでなければならぬ。有と無と合一して転化となると考えられる時、転化を見るもの、転化が於てある場所がなければならぬ。然らざれば転化は転化したもの、即ち物としてそこに留まり、更に矛盾的発展をなすことはできぬ。矛盾の発展には矛盾の記憶という如きものがなければならぬ。単に論理的判断の立場から見れば、それは唯矛盾から矛盾に移り行くことであろう、その統一として単に自己自身において無限に矛盾を含むものを考えるほかはない。しかし 斯 か く考えることはなお判断の主語を外に見ることであり、真に述語的なるものが主語となることではない、限定せられた場所として意識の野を見ているのである。ヘーゲルの理性が真に内在的であるには、自己自身の中に矛盾を含むものではなく、矛盾を映すもの、矛盾の記憶でなければならぬ、最初の単なる有はすべてを含む場所でなければならぬ、その底には何物もない、無限に広がる平面でなければならぬ、形なくして形あるものを映す空間の如きものでなければならぬ。

自己同一なるもの自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むものすらこれに於てある場所が私のいわゆる真の無の場所である。あるいは前者の如きものに到達した上、更に於てある場所という如きものを考える要はないというでもあろう。しかし前者は判断の主語の方向に押し詰めたものであり、後者はその述語の方向に押し詰めたものである。内在的ということが述語的ということであり、主語となって述語とならない基体も、それが内在的なる限り知り得るとするならば、後者から出立せなければならぬ、後者が最も深いもの、最も根本的なるものといい得るであろう。従来の哲学は意識の立場について十分に考えられてない。判断の立場から意識を考えるならば、述語の方向に求めるのほかはない、即ち包摂的一般者の方向に求めるのほかはない。形式によって質料を構成するといい、ロゴスの発展というも、これより意識するということを導き出すことはできぬ。我々は一切の対象を映すものを述語の極致に求めねばならぬ。 苟 いやしく も意識するものというものを考えた時、それは既に意識せられたもので意識するものではない。

アリストテレスは変ずるものはその根抵に一般的なるものがなければならぬといったが、かかる一般的なるものが、限定せられた有限の場所である限り変ずるものが見られ、それが極微である限り純粋作用というものが見られるのであるが、唯全然無となった時、単に映す意識の鏡という如きものが、見られねばならぬ。一より一を 減 ひ いた真の零というものが考えられる限り、単に映す意識の鏡、私の無の場所というものも論理的意義を有するものでなければならぬ。純なる作用の根抵をなすもの、 希臘 ギリシヤ 人のいわゆる純粋なる形相という如きものも、一層深き無の鏡においては、遊離されたる抽象的一般概念ともなるのである。我々は常に主客対立の立場から考えるから、一般概念は単に主観的と考えられるのであるが、抽象的一般概念を映す意識の鏡はいわゆる客観的対象を映すものをも包んでなおかつ深く大なるものでなければならぬ。而してそれは真に無なるが故に、我々に直接であり、内面的である。判断の述語的方向をその極致にまで押し進めて行くことによって、即ち述語的方向に述語を超越し行くことによって、単に映す意識の鏡が見られ、これにおいて無限なる可能の世界、意味の世界も映されるのである。限定せられた有の場所が無の場所に接した時、主客合一と考えられ、更に一歩を進めれば純粋作用という如きものが成立する。判断作用の如きもその一であって、一々の内容が対立をなし、いわゆる対立的対象の世界が見られるのであるが、更にまたかかる立場をも越えた時、単に映された意味の世界が見られるのである。我々の自由意志はかかる場所から純なる作用を見たものである。この故に意志とは判断を裏返しにしたものである、述語を主語とした判断である。単に映す鏡の上に成り立つ意味はいずれも意志の主体となることができる、意志が自由と考えられる 所以 ゆえん である。意志において特殊なるものが主体となると考えられる、意志の主体となる特殊なるものとは無の鏡に映されたものでなければならぬ、限定せられた一般概念の中に包摂せられる特殊ではなく、かかる有の場所を破って現れる一種の散乱である。

以上述べた所は一般概念によって 囲繞 いじよう せられた有の場所を破って、単に映す鏡ともいうべき無の場所があり、意志はかかる場所から有の場所への関係において見られ得ることを述べたが、まだ単にこれに於てあるものに論及することができなかった。意志は真の無の場所において見られるのであるが、意志はなお無の鏡に映された作用の一面に過ぎない。限定せられた有の場所が見られるかぎり、我々は意志を見るのである。真の無の場所においては意志 其者 そのもの も否定せられねばならぬ、作用が映されたものとなるとともに意志も映されたものとなるのである。動くもの、働くものはすべて永遠なるものの影でなければならない。

この節の終の方において述べた所は説明の不十分なる所が多い、次の「左右田博士に答う」の終及び特に「知るもの」を参考せられんことを望む。