2024年上半期に読んでよかった本まとめ (original) (raw)

2024年の上半期に読んでよかった本たちです。

去年のものはこちら↓

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「スピノザ 人間の自由の哲学」

スピノザ 人間の自由の哲学 (講談社現代新書 2652)

ゆる哲学ラジオきっかけで読んだスピノザの入門書の1冊目。

哲学の本は読める/読めないの好き嫌いが激しくて、読めないものに関しては本当にもう全く頭に入ってこない……ということも多いのですが、スピノザの主張には納得できるものが多く、自分がもともと持っていた問題意識と通じるところもあり、一発で好きになってしまいました。

嘘を嘘と見抜ける人にしてくれるのが哲学

知とか知恵とか言いますが、そもそも知恵があるとはどういう状態を指すのでしょうか。いろいろな説明の仕方があるでしょうが、わたしなりに表現するなら、知恵がある人とは「何が本当で何が嘘か分かっている人」のことだと思います。逆に言えば、知恵がない、あるいは足りない人とは、本当のことと嘘の見分けがつけられない人のことになるでしょう。そうすると、知を愛し求めること=哲学とは、要するに、何が本当で何が嘘なのか知ろうとすることに他なりません。

このような原義に立ち戻って考えるなら、哲学する自由が何を指すのかは明らかです。それは何よりもまず「知りたがる自由」なのです。つまり内容は何であれ、とにかく自分が気になることを自分の頭で考える自由、自分が本当だと思えることに自分の足(頭?)でたどり着こうとする自由のことなのです。

知恵がある人とは何が本当で何が嘘か分かっている人であり、哲学はその違いについて知るために学ぶものだというのがスピノザの主張です。

人はいとも簡単に嘘を鵜呑みにし、内面化し、ろくに咀嚼しないまま安易にアウトプットしてしまう生き物です。それを嘘と自覚しているかしていないかに関わらず、どこかから借りてきた言葉を、さも自分の言葉かのように取り込んでしまえます。

この思考停止の作業に歯止めをかけてくれるのが哲学で、自分や自分以外の誰かにとって都合がいいだけの嘘を注意深く取り除いていくことで、知恵というものは備わるのである……というスピノザの、すごく健やかで前向きな精神性がずっと心地いい。こんなに読み心地のいい哲学の本があるのか!!というのが素直な感想です。実際には考えているようで考えられていないというようなことはありますが、ちゃんと自分の頭で考えて、嘘と本当を判断できるような大人になりたいものです。

人間に「哲学するな」と言っても無理

このように、自然権をふまえない社会規範はいくら立てても無効であり、もしそうした規範を無理矢理立てる人がいたら、その人は「無茶苦茶あほ」である、というのがスピノザの政治哲学の核心となる主張です。

人間の自然権に大幅な可塑性があるにもかかわらず、そこにどうしようもなく残る、いくら強制されてもそう簡単に手放したり譲ったりできない部分。これこそあの、『神学・政治論』全体を通してスピノザが強調してやまなかった「哲学する自由」です。魚に陸上で暮らすを強制できないのと同じように、人間に哲学しないで生きていくこと、つまり何が本当で何が間違いなのか考えないで生きていくことを強制するのは、人間の自然権のつくりからして不可能だというのです。

人間はたとえ誰かに禁じられたとしても、知ることと知ったことを表現すること(=哲学すること)をやめることはできない。そのような本質に反した規範は決めるだけムダ(著者の言葉を借りるなら「無茶苦茶あほ」)というのは、社会の末端で暮らしていると、しみじみと実感することも多いです。「あほ」なローカルルールにがんじがらめの会社や人々があまりにも多いせいで、昨今では「ブルシット・ジョブ」などという新概念すら生まれる始末。

なんの理由も抵抗もなく守られるルールというものもあるには違いありませんが、どんなに強いても守られていないルールには、守られないに値するだけの”イヤさ”があります。にもかかわらず、魚に陸で暮らせというのに近いような生物的特徴として「土台無理ですよ」と言いたくなるようなことも、規則にすれば何も考えずに守るだろうというのはいかにも「あほ」っぽい発想です。

逆に言えば、「あほ」達の言いなりにならずに人間として生きていくには、哲学が必要不可欠であると捉えることもできます。自分以外のなにかのいいように使われて消耗していると感じるなら、自分に吐かれている嘘がどのようなものなのか、その嘘によって誰が得をしているのか、どれほど無理筋な社会規範を敷こうとしているのか……などについて知ることが必要である、と解釈しました。

「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」

はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)

ゆる哲学ラジオきっかけで読んだスピノザの入門書2冊目。

こちらは「暇と退屈の倫理学」「目的への抵抗」の著者、國分功一郎先生の解説です。國分先生の本をめちゃくちゃ読んだ上半期。

スピノザ的賢者のあり方

次の「賢者」の話も、私の好きな箇所です。

もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ〔.....〕ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。(第四部定理四五備考)

これはまさしく「多くの仕方で刺激されるような状態」にある人のことです。「嘲弄」ではない笑いやユーモアは「純然たる喜び」であり、そうした喜びに満ちた生活こそ「最上の生活法」だとも述べられています。そういう生活法を知っている人こそが賢者なのです。

賢者とは難しい顔をして山にこもっている人のことではありません。賢者とは楽しみを知る人、いろいろな物事を楽しめる人のことです。なんとすばらしい賢者観でしょうか。

ここ、なんだかすごく爽やかで私も好きな箇所です。

哲学って「あれはダメこれはするな」ばっかり言ってて堅苦しいような印象がありますが(少なくとも自分は「説教くさいしわけのわからんことばっか言ってる、インテリ集団の嗜み」みたいな印象でした)、どんなことにも「これって楽しい!」とか「興味深い!」と思える人こそが賢者だ、というスピノザの定義はすごくカラッとしていて軽やかで、読んでいるだけで楽しくなってきてしまいます。

哲学することや知識を得ようことの純粋な動機は「喜び」という感情であるという指摘には、どことなく救いがあるというか、それでいいんだと思わせてくれる安心感があります。賢くなければ偉くなれないからとか、勉強しないと社会の役に立てないからといった理由からではなく、シンプルに自分が楽しいから哲学する人が賢者なのだそうです。素敵。

スピノザが陽キャすぎる

襲撃事件の翌日、スピノザをそのまま家に泊めた医師ファン・ローンは、アムステルダム市長に相談して彼の保護を求めます。市長はスピノザをしばらく町から遠ざけ、近郊の田舎で隠れて暮らさせることにします。そこまで船で向かうことになりました。

次の日、港まで同行する護衛の兵士が来ました。ファンローンも途中まで同行することになるのですが、スピノザは彼らに突然、「一緒にビールを飲もう」と言い出します。真面目な兵士たちは頑固なカルヴァン教徒で、「危険な異端者」スピノザの護衛も公務で仕方なくやっていたことでしたから、この申し出に困ってしまいます。

結局、船が出るまでの一時間、彼らは一緒にビールを飲むことになるのですが、兵士たちはスピノザの語る釣りの話にすっかり愉快になってしまい、最後は大きく帽子を振ってスピノザを見送ったといいます。スピノザは釣りの達人でもありました。人生のさまざまな楽しみに通じていたようです。

アムステルダムを離れることが決まった時も、ファン・ローンに「私は大いに笑うことと、今後自活していくのに必要なだけ働いて、夜は哲学を研究して過ごせるようにすることを望んでいます」と述べたと言います。この逸話は、スピノザの真剣かつ豪快な人柄を、生き生きと伝えてくれています。

スピノザ、なんだかやたらずっと”陽”の者の気配がして、読んでいると若干怯むことすらあります。哲学者なのに……(偏見)

私は大いに笑うことと、今後自活していくのに必要なだけ働いて、夜は哲学を研究して過ごせるようにすることを望んでいます」に関しては「本当にそう」としか言えることがありません。自分は陰キャですがスピノザの生き方には憧れと尊敬の念を抱いてしまいます。すごくいい人生を送った人なんだろうな〜という気がしますね。

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「暇と退屈の倫理学」

暇と退屈の倫理学(新潮文庫)

かなり骨太な内容ながらとんでもなく読みやすくおもしろすぎて売れまくったという「暇倫」を、やっと読み終えることができました。まだ全部を咀嚼しきれてはいないものの、「じゅうぶん豊かで、貧しい社会 ――理念なき資本主義の末路」と同じく、人生のバイブルレベルで「読んでよかった」と思える一冊でした。

”暇な時間”すらも経済活動の一端を担わされるディストピア

するとこう考えねばならない。労働者を使って暴利を貪りたいのであれば、実は労働者に無理を強いることは不都合なのだ。労働者に適度に余暇を与え、最高の状態で働かせることーー資本にとっては実はこれが最も都合がよいのだ。

そのことに気がつき、それまでの生産体制を一新するスタイルを発明したのが、アメリカの自動車王ヘンリー・フォード [1863-1947] である。

もちろん、企業とはそういうものだという考えもあろう。だが、ここではそういった価値判断が問題なのではない。重要なのは、一見労働者をおもんぱかっているように見えるフォーディズム的労務管理は、その名の通り、新しい型の管理にもとづいているということ、そして、その管理は余暇を取り込む形で形成されているということである。

フォードは、自社の労働者たちがフォードの車を買い、自分たちの足として、そして余暇のためにそれを用いることを望んでいた。フォードが労働者たちに十分な賃金と休暇を与えたのは、労働者たちに抜かりなく働いてもらうためだけではない。そうして稼いだお金で労働者たちに自社製品を買ってもらうためでもあった。フォードで働いてもらい、フォードの車を買ってもらう。そしてレジャーを楽しんでもらう。

一九世紀の資本主義は人間の肉体を資本に転化する術を見出した。二〇世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出したのだ。

だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。

資本主義が労働者の可処分時間や労力、精神力などを搾取する……という批判はわかりやすく、しばしば見かける論点のひとつですが、國分先生に言わせればそんなものはもはや序の口です。資本主義の本当のヤバさは、それ以外の余暇時間までもを、経済の歯車を回転させるためのガソリンとして使おうとすることである……という怖すぎる指摘がなされています。怖すぎ。

そしてどうしても考えてしまうのは、「じゃあ、その次は?」ということですよね。仕事の時間も趣味の時間もすべて資本に収束する世界で、経済に還元されない営みが息をする余地などがありうるのだろうかということです。

いまは「お金にはならないけど、これをやっていると楽しいからやる!」と言えることでも、いずれは資本主義に飲み込まれて「お金になるからやる」もしくは「お金にならないからムダ」のどちらかに仕訳されてしまうのではないか。それをおっかないとか、いやだなと感じることすら、この”次のステージ”が始まってしまえば、前時代的な価値観として顧みられることすらなくなるのかもしれません。

もしくはBIやAIのようなものが経済活動をぶん回すことを代替してくれたり、無力化してくれる可能性もあるけど、なんだか「そうはならなさそうやな」といううっすらとした絶望感もあります。資本とか経済がもたらす消費の快感を、人間がそう簡単に手放せるような気がしない。となれば、資本主義はもう本当のこの世の終わりまで、未来永劫続いていくのではないかという気すらしてきます。

人類の知恵すらも消費社会に注がれる燃料にされて、いつか尽きるのかもね

ならばこう言えよう。贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである、と。

(中略)

人間はおおむね気晴らしと退屈の混じり合いを生きている。だから退屈に落ち込まぬよう、気晴らしに向かうし、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目をつけ、気晴らしの向かう先にあったはずの物を記号や観念にこっそりとすり替えたのである。それに気がつかなかった私たちは、物を享受して満足を得られるはずだったのに、「なんかおかしいなぁ」と思いつつも、いつの間にか、終わることのない消費のゲームのプレイヤーにさせられてしまっていたのだ。浪費家になろうとしていたのに、消費者になってしまっていたのだ。

人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵をもっている。そこから文化や文明と呼ばれる営みも現れた。だからその営みは退屈の第二形式と切り離せない。ところが消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している。

本来、自分自身を退屈させないために行われてきた知的な営みも悪用され、摂取すればするほど消耗してしまう社会に、もうすでになっているのだという指摘。言われてみれば確かに、文系学問が「社会の役に立たない」といって軽視されたり、芸術や娯楽に携わる人々の労働力が安く買い叩かれたり、漫画原作のドラマ脚本が”より売れる”とされる形に歪めたれたりといった事例は、現代においては枚挙にいとまがありません。経済を回さないものには価値がないのであれば、それこそ「自活していくのに必要なだけ働いて、夜は哲学を研究して過ご」す人間などは、もはや社会のお荷物でしかありません。絶望。

人類の知恵が消費社会によって絶滅させられるのだとしたら、未来にはもうディストピアとしか言いようのない世界が広がっている可能性もあります。それはそれで、人類はもうそういう末路を選んだのだというだけの話かもしれません。

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「心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学」

心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学 (講談社選書メチエ)

最近読んだ本の中ではいちばんストレスなく読めたというか、内容がしっくりときて読みやすかったのがこの「心はこうして創られる」でした。心理学の実験をもとに、人はいかにその場限りのつじつま合わせで思考や感情を想起し、体感し、表現しているかのか、つまり「心には表面しかない」のである、ということを解説しています。

マインドイズフラット

本書で筆者は、心には表面しかない〔本書の原題はThe Mind is Flatである〕、と読者を説得したい。心の深みという、その発想そのものが幻想だ。心に深さがあるのではなく、心は究極の即興家なのだ。行動を生み出し、その行動を説明するための信念や欲望をも素晴らしく流暢に創作してしまう。しかし、そうした瞬間ごとの創作は、薄っぺらで断片的で矛盾だらけ。映画のセットがカメラ越しには確固たる存在に見えても、じつは張りぼてなのと似ている。

この本を読んで真っ先に思い出したのが、YouTubeで聞き齧った程度の「嫌われる勇気」の知識で、「レストランのウェイターに水をかけられて怒るのは水をかけられたからではなくて、怒りたいから怒ったのだ」(※不正確です)という解釈でした。

本書では、自分の身の回りに発生したなんらかのものごとに対して喜んだり、怒ったりするようなときは、そのものごとに対する”絶対的に起こりうる、本能的な心の動き”のようなものは存在せず、瞬時に「こういうときにはこういうリアクションを返すのがふつうだ」という、相対的な選好をおこなっているのだと指摘されています。

そしてその反応は、当人の先入観や錯覚や経験則などによってちぐはぐだったり不自然なものになるのがふつうであり、心の奥底から湧き上がってくる感情や、自分自身では合理的だと感じている解釈などは、その場限りの即興劇のようなものでしかないといいます。

絶えざる再創作という考え方は、とりわけ次のことに思い至ったとき、目まいのような不安を誘う──このほら話がいったん暴かれたら、個人としてであれ社会としてであれ、私たちの振る舞いを判断する客観的かつ外的な尺度があるなどという考え方そのものが、非現実的であるだけでなく、まったくもって擁護できないものとなってしまうではないか、と。その通りであり、私たちがその上に建物を築くことのできる強固な基礎というのは、結局のところ存在しない。新たな思考や価値や行動を正当化したり吟味したりできるのは、過去の前例の数々という伝統の枠内でのみなのだ。もちろん、どんな前例を当てはめるべきか、どの前例が優越すべきかは、ちょうど法律がそうであるように、論争の余地がある。それは、何でもありだという意味にはならないけれども、だがたしかに、私たちの生き方と社会を構築するのは、本来的に終わりのない、創造的な過程であることを意味する。何をもって自分の意思決定や行動の基準とするかということ自体も、その同じ創造的過程の一部なのだ。つまり人生とは自分たちで遊び、自分たちでルールを創作し、点数をつけるのも自分たちであるようなゲームなのだ。

思考に限らず、人生とは、各々が好き好きに前例や慣習や評価基準を生み出し、それに照らし合わせていいとか悪いとかいって右往左往しているものである、というのが著者の結論です。本当にそう。

この世に普遍的で絶対的な価値などというものはなく、すべてが相対的なものであるにもかかわらず、一部の人々はまるで万人に共通する”価値あるもの”が存在するかのように振る舞うし、それを他人に押し付けさえするものです。そんなのはその場限りのつじつまあわせにすぎないのに、まるでそれがこの世の真実であるかのようにふるまうのが社会であり、人生であるという著者の指摘は、あまりにも身もふたもなくて笑ってしまいますが、個人的にはすごく好きな考え方です。マインドイズフラット。

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「モンテーニュ―『エセー』の魅力」

モンテーニュ―『エセー』の魅力 (1980年) (岩波新書)

40年以上前のモンテーニュの解説書を図書館で借りたらだいぶ昔の本にもかかわらずすごく読みやすくてよかったので、古本を購入しました。原先生はモンテーニュの「エセー」の翻訳者で、翻訳書も何冊か出版されているようです。買いやすそうな文庫もあったのでそろえてみてもいいかも。

誰かのためではなくて、自分のために生きなければならない

「われわれはいままでに他人のために十分に生きて来た。今度はせめてわずかばかりの余命を自分のために生きようではないか。われわれの思考や意図を自分の方へ連れ戻そうではないか。自分の隠退を確保することは、些細な仕事どころか、それだけで精一杯で、ほかのことなど考える余裕はないのである。神様が引越の用意をする暇をお与え下さるのだから、その準備をしよう。荷物をからげよう。早くから友人たちに別れを告げておこう。われわれを自分以外のところに縛りつけ、自分自身から遠ざけるあの横暴な拘束から身軽になろう。あの強い束縛をほどかねばならない。今日からは、これを愛しあれを愛するのもよいが、ただし、自分以外の何ものとも結婚してはならない。つまり、自分以外のものを所有してもよいが、それから引き離されるときに、一緒に自分の一部まで剥ぎ取られてしまうほどに執着してはいけないということだ。何よりも大事なことは、いかにして自分を失わずにいるかを知ることである」(一の三十九)。

モンテーニュは後年になるにしたがってストア派の教えから距離を置いていったようですが、「自分以外の何者とも結婚してはいけない」という確固たるポリシーからは、やはりセネカの影響を強く感じます。

セネカの主張にも「他人のために自分の時間を使ってはいけない」というものがありますが、たとえ相手が愛する家族や友人であっても、周りの人間のために生きたり、自分の行動指針を預けたりしてはいけないのだという極めて個人主義的な発想は、モンテーニュの思想のベースになっているのではないかと思います。

さらに、彼は自由を束縛されることを何よりも嫌った。「私はあらゆる種類の束縛に服することを避ける。とくに名誉の義務による束縛を避ける。人から与えられるもので、そのために感謝という名目で私の意志が抵当に入れられるものほど高くつくものはないと思う。だから売り物の奉仕の方を喜んで受ける。私は本当にこう思っている。売り物ならお金を払うだけですむが、別のものには私自身を与えることになる、と。名誉の掟で私を縛る束縛は、私には法律の束縛よりもずっときつく、ずっと重いように思われる」(三の九)。自己の自由を守り抜き、いささかも意志を曲げず、理性の膝を屈しないというのが彼の原則なのである。

「感謝という名目で私の意志が抵当に入れられるものほど高くつくものはない」という一文はあまりにも痛快すぎて好き。

ここで見逃せないポイントは、主語に感謝の気持ちそのものではなく”感謝という名目”とおかれているところかなと思います。モンテーニュとしても、名誉とか社会通念とか倫理観とか同調圧力といったものにこれまでさんざ思い悩まされた末の結論なのだろうなというのがひしひしと伝わってきますね。最高。

人が日記を書く理由

それが、一五八八年版になると、「けれども、あまりにも特殊な生活を送る私が、自分を世間に知らせようと望むのは道理のあることだろうか」と自問しながら、「私は卑しい輝きのない生活をお目にかける。だが、それはどうでもよいことだ。あらゆる哲学は平凡な私人の生活にも、それよりももっと豊富な生活にも、同じように当てはまる。人間は誰でも自分の中に、人間の性状の完全な形をそなえている」(三の二)と答え、さらに、自己を研究し、自己を語るという点では現存する人の中で自分にまさる者はあるまいと言って、自信のほどを見せるまでに変わって来た。「だが、少なくとも、次の点では私は規則にかなっている。すなわち、いかなる人も、自分で知り且つ理解している主題を、私がここに企てた主題を論ずるよりもうまくは論じなかったという点、そしてこのことにかけては、私は現存する人の中でもっとも造詣が深いという点である。第二に、いかなる人も、自分の扱う主題を私ほどに深く掘り下げなかったし、その部分や関連を私以上に綿密に調べもしなかったし、また、自分の仕事において、自ら立てた目的に私以上に正確に、完全に到達しなかったという点である」(三の二)。

ここは「人が日記を書く理由だ!!」と興奮しながら読みました。

自分のもつ問題意識について、自分以上に真剣に考えてくれる人間はいません。それはやはり、家族だろうが友人だろうが無理なものは無理なのです。自分で考えるしかない。前段の「自分以外の誰とも結婚してはいけない」と通ずるところがありますが、家族をもつことは悪いことではないけど、それなしでは生きていけなくなるような状態は望ましくない、というスタンスを崩すことなく持ち続けた人なのだと思います(モンテーニュは「自分自身の自由な店裏の部屋をとっておいて、そこに自分の自由と隠遁と孤独を打ちたてることができるようにしなければならない」という表現もしています)

単に自分が大好きというだけではなくて(それも多少ありそうですが)、みんなもっと自分自身の人生とか、抱えている問題とか、自分オリジナルの哲学みたいなものに関心を払ったほうがいいし、そしてそれをするには日記を書くのがいいよ〜と言ってるのではないか、と感じました。

モンテーニュ、ちゃんと自分の頭で考えて悩み抜いた末に強烈なパンチラインが生み出されているのあまりにかっこいいし、研究者や解説者にも恵まれているのもあると思いますが、読めば読むほど味がしてたまりません。いずれ原典も読まなければ……。

「三体」

三体 (ハヤカワ文庫SF)

「ニュース! オモコロウォッチ」で言及されているのを聴いて文庫を買いました(ネタバレを警戒したわけではなくて純粋にきっかけとして)

おもしろすぎる〜〜〜小説読めない勢ですがSFはなんとなく勢いで読めちゃいますね。こんなに分厚いのにわーっと1冊読めちゃいました。SF、楽しい……。言ってることが意味わからんすぎるのが逆にいいのかもしれません。読み飛ばし能力が鍛えられる!!

それでいて「三体」はおもしろうんちく的要素がそこここに散りばめられていて知的好奇心が満たされるのがにくいポイントです。どうせなら言っていることの雰囲気だけでもつかみたくて物理を勉強したくなったのでKindle Unlimitedで簡単そうな物理学の本を読んだりしていますが書かれていることの1/10も理解できていません。にも関わらず読んでいてちゃんと楽しいの、ベストセラーの凄みを感じます。がんばってシリーズ読破するぞ〜〜〜。

2024年上半期に読んだ本一覧

  1. 本のある空間採集: 個人書店・私設図書館・ブックカフェの寸法
  2. スピノザ 人間の自由の哲学
  3. 目的への抵抗
  4. 忘れる読書
  5. ものがたりの家-吉田誠治 美術設定集
  6. 大学教授こそこそ日記 (日記シリーズ)
  7. 運動の神話(上)
  8. 運動の神話(下)
  9. 歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術
  10. 多様性の科学
  11. 暇と退屈の倫理学
  12. 人はどこまで合理的か(上)
  13. 超人ナイチンゲール
  14. 心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学
  15. 三体
  16. バッタを倒しにアフリカへ
  17. 走ることについて語るときに僕の語ること
  18. モンテーニュ―『エセー』の魅力