【戦後75年】秘密の中絶施設、二日市保養所(福岡県筑紫野市) (original) (raw)

戦後75年

秘密の中絶施設、二日市保養所(福岡県筑紫野市)

■引き揚げ女性襲う絶望 暴行、望まぬ妊娠に救いの手

昭和20年8月15日、戦争は終わった。だが、それから苦難の道を歩くことになった女性たちがいた。旧満州(現・中国東北部)や朝鮮半島から郷里を目指したが、待っていたのは財産略奪にとどまらず、ソ連兵などによる性的暴行だった。結果、妊娠や性病感染を強いられ、絶望の中で博多港へ着いた女性たちに救いの手を差し伸べた施設があった。福岡県筑紫野市にひそかに設けられた二日市保養所だ。ここでは当時、違法だった中絶手術が超法規的措置として行われた。長い間、秘密のベールに覆われていた同施設の戦後を振り返る。(永尾和夫)

◆郷里を前に自殺

敗戦により難民となった海外在住者は660万人。全国18の引き揚げ港は、一路故国を目指して降り立った人の群れであふれた。中でも大陸に近い博多港は、全国有数の引き揚げ港となった。厚生省博多引揚援護局の資料では、博多港に帰って来た人は139万2千人。一方、朝鮮半島や中国大陸などへ帰る人たちも50万5千人おり、合わせて200万人で博多港はごった返した。

そこで目立ったのが、顔を黒く塗りたくって男装しながらも、腹が膨らみ、妊娠したと思われる女性たちの姿だった。性病感染も多数いた。こうした中で、博多港上陸を目前にした少女が飛び込み自殺をして衝撃を与えた。

ソウルの旧京城帝国大学では、この状況をいち早くつかみ、医学部を中心に支援活動を展開していた。同大学医学部助教授だった田中正四医師は自身の引き揚げ後、博多港でかつての教え子の女性に偶然再会。しかし彼女も妊娠しており、中絶手術を受けたが、母子とも死亡したと伝わる。

この出来事にショックを受けた田中医師と、法文学部助教授で後に著名な文化人類学者になった泉靖一氏が「中絶する施設が必要」と国に働きかけ、施設を設けることになった。

◆400~500人を手術

厚生省引揚援護局が、戦時中は陸軍の保養所だった武蔵保養所を借り上げ、外務省の外郭団体・在外同胞援護会救療部が医療機器を準備した。こうして、昭和21年3月、秘密の中絶施設として二日市保養所は開設された。スタッフは医師2人と看護婦10人。浴室だったところを手術室にした。当時、母体保護法もなく中絶(堕胎)手術は堕胎の罪として違法だった。

同年7月に「外地引揚げの御婦人方に告ぐ」のタイトルで出された新聞広告がある。それには「兄弟や夫にも明かされず、暗澹(あんたん)たる日々を送っている不幸な御婦人方の相談にのります。経費など心配は無用」といった意味の文面がつづられ、遠まわしの表現で性的暴行の被害者支援を約束している。広告は、厚生省博多引揚援護局保養所と在外同胞援護会救療部の連名だった。だが、だれがいつ決定した措置なのか、分からないままだ。

「患者」は、博多港からトラックに載せられて二日市保養所にやってきた。博多引揚援護局史によると、患者の内訳は「不法妊娠(暴行による妊娠)」218人、「正常妊娠」87人、「性病」35人などとなっている。

地域別では「満州」142人、「北鮮」90人、「南鮮」64人の順。旧満州で対日参戦したソ連兵から暴行を受けたケースが多かったことが分かる。ただ、これは開設から9カ月間の数字で、実際の手術件数は「400人から500人」と当時の医師が証言する。

患者は妊娠5カ月が最も多く、8カ月の患者もいた。そうなると、母体にも危険が及ぶ手術となったが、麻酔なしで行われたという。手術に立ち会った元看護婦は「女性たちは声も出さずに頑張った。手術を受けると、明るさを取り戻して退院していった」と語っている。

過去を封じ込めながら、新たな人生のスタートを切っていった女性たち-。

任務を終えた二日市保養所は昭和47年秋に閉所、施設を引き継ぐ形で済生会二日市病院が開設された。

◆人道行為伝える

取り出された胎児は、保養所の桜の木の下に埋められた。

昭和56年、二日市保養所設置の真相を知って感動し、「仁」の文字を刻んだ石碑を建てた高校教師がいた。碑には「堕胎が当時、法律で禁止されていることを知りつつ、職を賭(と)して行った彼らの人道行為は後世に伝えられるべきと思い、この碑を建てた」と刻まれる。さらに済生会二日市病院の院長だった水田耕二医師が同57年、その隣に「水子地蔵堂」を建立、供養を続けている。

同病院の間野正衛前院長は「終戦から半世紀たったころから、関係者もようやく口を開くようになった。当時の診療録は焼却されたようだ」と指摘。「自分がその立場なら、同じことができるだろうか」と語っている。

二日市保養所があった場所は現在、済生会二日市病院の特別養護老人ホーム「むさし苑」となっている。その一角にある水子地蔵の前では、毎年5月14日には同病院が供養祭を開催しており、「今後も静かに供養を続けていきたい」という。