〈三浦半島めぐり②〉東京湾に大海神が眠る?、海南神社と安房忌部が結ぶ富士鎮魂祭祀の影。 (original) (raw)
相州三浦総鎮守『海南神社』、左手が境内社『高家神社』
2024,10,6
三浦半島巡りの2回目。相模国から房総半島安房国へ渡る東京湾淡水門を考察しております。
宮下文書岩間本p266のヤマトタケルとオトタチバナヒメが畏れていた、東北の悪神海神の祟りとは一体誰のことを指しているのか?。神道が祖霊信仰である特質上、誰かしら阿族祖霊に行きつくハズだ。悪神の『悪』とは突出したツワモノの意味。
前記事ではあくまで可能性の一つとして、これを淡津佐国の地主神マゴコロ夫妻なのではないか?と推測したわけだ…。そもそも彼らが房総半島へ渡った理由の一つとして、このマゴコロ夫妻を封じ込める使命もあったのではないかと…。
今回の三浦半島巡りでは、安房神の海神要素がチラついて来ることになる。淡水門両岸の主要神社は緻密なレイライン網を形成しており、祭祀のエキスパート集団・忌部氏が想像以上に暗躍していた。
〜皇祖マゴコロタケル・マゴコロアイヒメ〜
▲諡・真心武命(諱・阿和武男命)
▲諡・真心合比女命(諱・松島比女命)
※松島毘女命はツクヨミ妃・月桜田毘女命の実妹。
※※夫妻御子は皇祖アメノオシホミミ、ただ一柱。
マゴコロヒメではなくマゴコロアイ?ヒメでした。フリガナがなくて正確なところは不明ですが、仮称としてマゴコロアイヒメと表記いたします。
よく読んでおりませんでしたm(_ _)m
申し訳ございませんでしたm(_ _)m
- 東京湾を跨ぐ安房国海神?
- 海南神社はやはり海神信仰だった
- <背景①>清和天皇、清和源氏が何故特別なのか?
- <背景②>平安時代の祭祀に隠される、富士山鎮火祭の影
- 海南神社に安房神が祀られている件
- 海南神に御子がいた?房総半島『海南刀切神社』
- 城ヶ島土地開発で潰された『楫の三郎山神社』
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東京湾を跨ぐ安房国海神?
まず注目すべきは、三浦半島の最古級神社が安房国海神に由来している点。さらに、そこに安房忌部祖神フトダマが祀られている点。
古代東海道の三浦半島までの浦賀支線上に、安房口神社がある。三浦半島から安房国へ旅立つ人々にとって、海神信仰の重要性を示している。
なぜ房総半島へ渡るのに三浦半島を経由するのか?といえば…。縄文海進時代の房総半島は殆ど孤島に近い半島だった。律令制度下の東海道は湾部が大きく、内海が入り組んでいた。つまり西国から東海道を経由して安房国へ入るには、三浦半島の浦賀付近から東京湾浦賀水門(淡水門に比定)を渡るのが最速であったのだ。
◯『安房口神社』(神奈川県横須賀市吉井)
〜御祭神〜
- 天太玉命(安房忌部祖神)
※1179年(治承3年)創建。御神体は吉井明神山の霊石。
※※境内由緒書によると三浦半島最古の神社。
神奈川県横須賀市吉井『安房口神社』、真上の御神木にリスがいる。
東京湾を遠望できる小山の上にあり。お社はなく、御霊石に祠のような窪みがあり。石自体が鉄柵で覆われており、鎌倉周辺ではお馴染みのタイワンリスがピョンピョン跳ね回っていた。
境内由緒書によると、ヤマトタケル東征にて霊石を拝し、東夷征討成就を祈願したという。もとは 安房国洲崎明神に竜宮から献上された2つの御霊石があり、そのうちの一つが当地に飛んできた???という。 それを安房大神フトダマの霊代として、東国鎮護の意味合いで祀った。霊石が安房国の方角を向いていた事から『安房口明神』と称された。だとすれば…単純に考えても、ヤマトタケル東征以前には存在していたことになる。後述するが、奇しくもレイライン上の安房忌部上陸地、『布良崎』の男神山と女神山に由来しているようにも見えるのだ。
ただ、記紀版ヤマトタケルらがどういうルートで房総半島入りしたかは明かされておらず、文献により差異も多い。宮下文書三輪本現代訳p155では、佐賀見の出先(出崎?)から阿津佐(房総半島の古名)へ渡るときに暴風に遭い、三浦ケ崎に吹きつけられた記載。その出航点が三浦半島浦賀?を指すのかは不明。
後世に源頼朝、北条義時が武運長久を祈り、三浦半島で水軍を擁した三浦氏族により、航海の神として祀られていた。鎌倉幕府の大事には、三浦義澄らに奉幣祈願をさせていた。つまり、安房忌部の奉祀していた安房神に『海神』要素がある証しとみていい。
海南神社はやはり海神信仰だった
前記事でも海南神社の名前は触れており、土地勘のない熊オッサンも存在は知っていた。ただ駅から三崎港は結構離れており行くつもりはなかった。ま…いつか参拝できればいいなぁ~とは思っていた。これが京急三崎口駅構内の名所案内をみて変わることとなる...。
。。。(´(ェ)`)
名所案内『海南神社…、相州三浦総鎮守海南神社…』
ほほう(´(ェ)`)
気になったので、その場でスマホでググってみた。
なるほど…御祭神に地主大神という謎の神を祀っているのか。お恥ずかしながらこのとき初めて知った(苦笑)。
さらに御祭神として安房忌部祖神・天日鷲命が含まれており、安房忌部との関わりを示唆している。なんか…無性に行きたい、ヒントがありそうだなと。その後、金田走湯神社へ行く道中ずっと迷っていたのだが、走湯権現 アメノオシホミミさまに行けと言われた気がした...。結局、金田を経由して三崎港へ向かうことにした。バス乗車途中『剱崎』付近にて奇妙な天気雨に見舞われたが…、神社へ着くとすっかり晴れ渡っていた。東京湾の天候は荒れやすいのかもしれない。
◯『海南神社』(神奈川県三浦市三崎)
〜御祭神〜
- 藤原資盈
- 藤原盈渡姫
- 地主大神
- 素戔嗚尊
- 天日鷲神(安房忌部祖神)
- 菅原道真
- 筌龍弁財天
〜境内社〜
- 相州海南高家神社(安房の長?・磐鹿六雁命)
- 御霊神社(鎌倉権五郎景政)
- 龍神社
- 水神社
ほか
※城ヶ島に同名社あり。もともとは当社から勧請したものだが、加えて源頼朝が祀られている。
※※創建は982年(天元5年)社殿を造営、中世三浦一族の祈願所で、後世に三浦郡の総社になった。安房忌部祖『天日鷲命』が祀られている点にも注目。
〜海南神社レイライン〜
- 今市総鎮守瀧尾神社
- 利根川渡良川分岐点付近
- 鷲宮神社
- 師岡熊野神社(300mズレ)
- 洲崎大神(安房一宮勧請?頼朝創建)
- 伊勢山皇大神宮
- 相州三浦総鎮守海南神社
- 三浦城ヶ島海南神社
※三浦半島から利根川や渡良瀬川や思川をクロスして、日光へのレイライン。関東の水の大動脈もあり、水戸神カモサワヒメの信仰圏が目立つ。
~平安時代~
864年(貞観6年)藤原広嗣の曾孫?・藤原資盈は九州で政務を司っていた。この人物は世間的に殆ど知られていないので注意、特に吉田神道下の『藤原』は、仮冒の可能性が最も高い氏名だ。
藤原資盈は、惟喬親王と惟仁親王(56代清和天皇)の皇位継承争いに巻き込まれていたようで、どちらかについていたのかは不明。讒訴を被って左遷された。ただ伴大納言善男の謀挙に荷担しなかったことを考慮され、筑紫国に流されることになったという。
父子3人主従54人舟七艘の船団で筑紫国へ赴く途上、暴風に遭い、全く逆方向の三浦半島に漂着した。その後この地に住い、長(おさ)に推戴され、房総の海賊を平定、地元民の教育福祉に尽力したことから大きな支持を得た。
赴任からたった2年、貞観8年(866年)に資盈が死去。惜しまれつつ花暮海岸(花暮竜宮様付近?)に沈められ、祠を建てて祀られた。これが当社の起源とされる。
~鎌倉時代以前~
1180年(治承4年)、三浦氏・和田氏連合が頼朝伊豆国挙兵に呼応した折、本拠地衣笠城は落城し三浦軍は安房国へ逃れ再起を図ることになる。しかし海で暴風に見舞われ、兵糧が流されてしまっていた。龍神様に御加護を祈ったところ、筌(うけ)という古来からの漁具が海から流されてきた。それで魚を捕まえて兵糧を駕いだという。後日『筌』を祀り堂を建立した。これが当社の筌龍弁財天の由来と思われる。
1185年(文治元年)源頼朝の当社への崇敬厚く、源氏再興の祈願成就として大銀杏が寄進された。
~江戸時代~
1653年(承応2年)吉田神道により正一位を賜る。
直後の万治年間 (1658年~1661 年)江戸幕府への木材船が暴風のため沈没した。海南神社神主はこれを龍神の祟りと考え、その鎮魂のために岬から剣を投じた。すると暴風が収まったので剱崎と呼ぶようになった。現在は竜宮祠があり海神信仰の一種と考えて良いだろう。
地図上の剱崎は、前記事で述べた安房神社〜吾妻嬬恋レイラインに600mの場所となる。
1719年(享保4年)三浦半島の総鎮守となる。
海南神社境内『福徳稲荷神社』
<背景①>清和天皇、清和源氏が何故特別なのか?
海南神社創建は、864年貞観大噴火に起因しているとみられる。なのでここでは貞観大噴火の時代背景を補足する。
~清和天皇、清和源氏が何故特別なのか?~
864年貞観噴火の折に56代清和天皇は、迅速な太神宮復旧を確約し、東国氏族の絶大な信頼を得たようだ。これが後世東国の清和源氏支持基盤となり、朝義による1144年『大庭御厨事件』を経て、頼朝による1185年『鎌倉幕府成立』と、1188年?富士朝太神宮『二所明神再興』に寄与することになる。
つまり富士朝再興の確約を、八幡太郎義家子孫頼朝と加茂次郎義綱男系婿入り宮下家のコンビネーションが達成した感がある。朝廷もその行為に対して抗えなかった。むしろこの既成事実に対して、源氏将軍職の地位を認めざる得なかったのだ。後世に清和源氏を称した東国関連武将たち、足利尊氏・太田道灌・徳川家康・武田信玄にとってもそれは特別な存在に見えただろう。
~伴善男は富士朝氏族?~
清和天皇の信頼を得ていた大納言・伴善男は、富士朝関連氏族だった可能性がある。
宮下文書版『伴氏』。wikipediaによると、大伴氏は785年(延暦4年)藤原種継暗殺事件にて失脚している。823年(弘仁14年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い避諱、大伴氏政治的失脚も重なり伴氏と改姓されたとされる。
しかし宮下文書によると、800年延暦噴火にて阿祖山太神宮の御神霊・神宝などの避難活動をした功績により、富士朝にて代々宮守であった富士朝根鳥皇子25代孫・太田真長と、武内宿禰御子羽田宿禰29代孫・羽田宗治が、806年『伴』姓を賜ったと明記されている(宮下文書三輪本現代訳神皇紀p206)。二人の子孫代々伴氏と称した(同p226)
つまり失脚した祖家大伴氏と、富士朝伴氏はスリ替わっている可能性大なのだ。ここまでフツーするか?と驚かれるかもしれないが、藤原氏の他氏排斥の思惑もあるのだろう。
これらの状況から察するに、若き56代清和天皇は迷いながらも864年貞観噴火を畏れて、富士朝寄りの政策をとらざる得なかったと思われる。その背後では富士朝擁護派?の紀氏・伴氏がバックアップしていた。応天門放火事件は単なる藤原氏の他氏排斥ではなく、富士朝派粛清に利用されていたのだ。宮下文書版紀貫之の子・武貫は山城国加茂明神の宮司に婿入りしており、その子・長貫は清和源氏・加茂次郎義綱(宮下家の男系遺伝子となる)の家将となっている点にも注目。
いずれにせよ富士朝派伴善男は応天門放火事件の容疑をかけられ、翌々年に配所の伊豆で死去。清和天皇は29歳にして出家、翌年に謎の早世を迎える。
単に時系列だけをみると、藤原資盈は伴善男や応天門放火事件に関与する時間はなかっただろう。もし彼が皇位継承争いに巻き込まれていたのであれば…山の民である木地師が支持していた、さらに小野小町の恋人と囁かれる惟喬親王と深縁だった可能性もありそうだ。
<背景②>平安時代の祭祀に隠される、富士山鎮火祭の影
その伴善男と関係があったとされうる藤原資盈が、どうして後世の将軍頼朝に崇敬の念を持たれるに至ったのか?。その信仰が吉田神道正一位に上り詰めた理由も不明。配流後たった2年で大活躍したうえ、地元民に愛されて、三浦総鎮守に上り詰めるにはちょっと無理がありすぎだと思わないかと…。いずれにせよ影が多い人物と言わざるを得ない。
決して三浦のご鎮守さまにケチをつけるわけではございませんm(_ _)m。
ただ忘れてはならないのが、事実として864〜866年は『貞観大噴火』の真っ最中なのだ。そもそも三浦半島の人々が、藤原資盈の大活躍にウットリする時間などなかったハズだろう…。権威ある史学者たちはこんな初歩的なトリックも見抜けないのか???。
(´(ェ)`)
▲貞観大噴火…………...貞観6年(864年)
△藤原資盈三浦漂着…貞観6年(864年)
▲応天門の変…………...貞観8年(866年)
△藤原資盈死去.........…貞観8年(866年)
これまで様々な社伝を読んできたが…。
不思議なことに全国神社社伝は、平安期250年以上続いた富士山噴火について何ら伝えないのだ。関東圏では目の前で、赤黒い噴煙を狂ったように吐き出している高貴なる山が見えないハズがないのに…。
朝廷は古来から、自らのルーツである富士山を恐れていた。そして平安時代250年あまり続いた富士山噴火の数々を、天の怒りと考えていた。これを受けて朝廷は全国の主要神社を根本的に見直して、鎮魂祭祀にシフトチェンジする必要があった。864年(貞観6年)藤原資盈の貞観噴火に乗じた漂着は、その全国規模の鎮火祭のために『派遣』された可能性もあるだろう。
それを明かせない事情があるからこそ、藤原資盈を名代として祀っているのではないだろうか?。
となると…もっと大きな見えない神の存在を感じざる得ない。この祭祀のメインは古代から淡水門を守護する海神信仰と考えるのが自然ではないだろうか?。その共通項は、淡水門上での暴風であり、太古からの岬の蛇・龍信仰として残っているのではないかと。
清々しい農園のような参道で料理神『磐鹿六鴈命』を祀る。
千葉県南房総市千倉町『高家神社』
海南神社に安房神が祀られている件
前述のように、熊オッサンが海南神社を参拝した理由の一つが、御祭神に天日鷲命が祀られている点だ。天日鷲命は安房忌部の祖神。しかしもっと驚いたことは、海南神社境内に安房国朝夷郡の式内社由来の『高家神社』があることだった。熊オッサンは二カ月前に参拝したばかりなのでかなり驚いた。
こんなところでお会いするなんて奇遇ですね~(´(ェ)`)
◯海南神社境内『相州海南高家神社』
〜御祭神〜
- 磐鹿六鴈命
◯式内社『高家神社』(千葉県南房総市千倉町南朝夷)
〜御祭神〜
- 磐鹿六鴈命
- 天照皇大神
- 稲荷大神
※料理神として有名。
磐鹿六鴈とは。四道将軍の大彦命の御孫で、膳氏や高橋氏の祖先とされる。ホツマツタヱ40文におけるムツカリ、宮下文書には記載がない。
式内社『高橋神社』wikipediaによれば、奈良市八条にかつて高橋邑があったという。崇神時代に疫病が流行し、霊夢によりオオタタネコという人物を探し出し大物主を祀れとの霊夢を見た。この祀りの時、大和国添上郡にあった高橋邑の活人という者を酒人にしつらえ、お神酒を捧げさせたという記述がある。因みにオオタタネコはホツマツタヱの後期編集者となる。
日本書紀景行天皇53年の条によると。
磐鹿六鴈は12代景行天皇の東国巡狩に随伴していたようだ。淡水門を渡った折に白蛤を得て、蛤を膾(なます)にして天皇に献上した。天皇は大喜びして膳臣を賜り、子孫は代々内膳司を務めたという。40代天武天皇時代その子孫が高橋臣を賜った。ただ彼は老齢だった故に、安房国へ残りそのまま住み着いたようだ(諸説あり)。
宮下文書によると。ヤマトタケル死去のあと、12代景行天皇が富士朝へやってきたのは事実のようだ。オトタチバナヒメが殉死した淡水門へもやってきた可能性も高いだろうが、残念ながらこの巡幸の詳細ルートは記載がない。
もともと高家神社は安房国朝夷郡式内社、しかし伝承が途絶えたようで平安以降に衰退したと思われる。江戸初頭に御食津神磐鹿六雁命と記された神鏡が発見され、行方不明とされるこの式内社ではないか?と考えた。当時の神道権威である吉田神道の認可を得て再興に至っている。
残念ながら、海南神社境内に高家神社がある理由はよくわからなかった。ただ日本書紀に淡水門の件があり、それが決定打となり、由縁地三浦鎮守社に勧請されたと思われる。時期としては…、海南神社と高家神社の接点として、江戸期の吉田神道が絡んでおり、安房国から勧請されたのは江戸時代以降かな?と推測。
海神神社境内では例年、包丁供養感謝祭・奉納料理奉告祭・古式による包丁式が行われる。
千葉県館山市見物『海南刀切神社』、三浦総鎮守海南神社の御子神説あり。
海南神に御子がいた?房総半島『海南刀切神社』
いよいよ…海南神社の謎の一柱『地主大神』とは誰なのか?。ちょっと思い当たる海神がいる。ここからは安房国妄想考察になりますのでご了承下さい。
m(_ _)m
房総フラワーライン(県道257号)沿いにある。熊オッサンが2023年12月館山駅から安房一宮への途上で偶然立ち寄った神社でもある。貧乏神に取り憑かれた熊みたいなオッサンが、一人シャカシャカとレンタサイクルを漕いでいた。ふと美しい鳥居が目について立ち止まった。かっこいい鳥居だなあ~、これも御縁かな〜、と参拝させていただいた。
西隣には富士山が拝める見物海岸『関東大震災隆起地層』があり、これが三浦半島森戸神社〜安房神社へのライン付近にあったとは思わなかった。さらには安房口神社〜布良崎レイライン上にドンピシャである。
◯『海南刀切神社』(千葉県館山市見物)
〜上の宮〜
- 刀切大神(藤原資盈の御子説あり)
◯『船越鉈切神社』(千葉県館山市浜田)
〜下の宮〜
- 豊玉姫命(ワダツミ系統)
※二社合わせて一社。上の宮本殿裏には斧で真っ二つに切り開いたような巨石群が残っている。
〜安房口・布良崎レイライン〜
- 深大寺(600mズレ)
- 洲崎大神(頼朝による安房一宮勧請、1kmズレ)
- 安房口神社
- 海南刀切神社
- 船越鉈切神社
- 鉈切洞穴
- 布良崎神社(神武時代、安房忌部上陸地)
- 駒ヶ崎神社(男神山・女神山)
- 御染弁財天
※安房忌部の上陸地、安房国布良崎にある『御染弁財天』。
創建は不詳、1956年(昭和31年)拝殿改築時に発掘調査が行われ、巨石群洞穴内から縄文時代後期(約4000年前)の土器、釣針などが多数発見された。
千葉県安房郡誌などによると、古昔に神が丸木舟でやってきて、鉈(なた)で海濱の巨巖を切り開いて上陸した。故に一神にして船越・鉈切の二名ありという。
安房郡誌の違う伝承では、相模から丸木舟でやってきた神が、当地の古紫池に住み着いていた巨蛇を鉈で成敗したとの伝承もある。故に刀切神と称された。神名である船越大明神は、年々竜宮からここに船が来るからという。
これら伝承にはキーワードはいくつか出てくるが、その類似点も見えてくる。
糀(こうじ)→楫(かじ)→舵(かじ)→鉈(なた)→蛇(ヘビ)?
そしてココが重要と思われる。
安房郡誌によると…**『相州三浦郡楫谷山(糀谷山?)神社記に、安房刀切神社は當神の御子を勸請せりと見ゆ。』**とされる。つまり三浦半島『海南神社』と房総半島『海南刀切神社』は親子関係にある。
三崎郷土史考によると、楫谷山というのは海南神社の古名。『海南神社は天元五年(982年)に、補陀山海潮寺のあった楫谷山に建てられたと縁起書にあり、これが従来の定説で、資盈死後百十六年後のことである。』とある。
タウンニュース三浦版を要約すると、貞観六年(864年)霜月朔日、資盈公主従54人舟七艘で此所に着船、御嫡(左兵衛丞)の御舟は房陽(現千葉県館山市)へ着いた。その地で鉈切大明神と崇むとされる。父・資盈公は三浦の海南神社の御祭神、嫡男の左兵衛丞は館山の鉈切大明神の御祭神として祀られたことになる。
しかし前述のように、九州筑紫を目指して三浦半島に漂着した可能性は極稀。むしろ奇跡。さらにそこで現地任官される理由が不自然。これが貞観噴火スタートの数カ月後であり、そのドサクサに資盈公が祀られた可能性は薄いと仮定…。そもそも彼らがやってきたホントの理由は、貞観噴火鎮魂祭祀だった可能性が高いと思うのだ。だとすると...この朝廷が畏れた安房皇祖神こそが、安房忌部に古来から奉祀された淡津佐地主神マゴコロ夫妻に他ならないのだ。
こうしてみると同レイライン上にある金田走湯神社に、御子神 アメノオシホミミが祀られている理由も見えてきそうな気がする…(妄想)。
城ヶ島土地開発で潰された『楫の三郎山神社』
2024年7月、地元神奈川の開発業者に山ごと潰され更地と化した、話題の『楫(かじ)の三郎山神社』。なんとこれ、以前ご紹介した能登房総半島レイライン(須須奥宮〜戸隠山〜寒川神社〜安房洲崎神社)に約500メートル近接していたのだ。さらに楫の三郎山神社から三浦総鎮守『海南神社』の延長線上には、ヤマトタケル創建伝承の『姉ヶ崎神社』がある。目先の利益のために地主神祭祀が消えた...、小さな祠でも意味があるというのに...。
祀られていた三郎が海南神社御祭神の一柱藤原資盈の家臣。三浦半島まで資盈を船頭として運んできた人物だという。周辺には大蛇の祟り伝承があり、地元民は近寄らなかったという。ここにも大蛇の伝承があることも加えておく…。
来年は巳年ですね(´(ェ)`)。
※上地図の赤線の三浦半島南端に接する部分に『楫(かじ)の三郎山神社』があった。
2024年7月のこのニュースは興味深いものであった。はじめは中国人が山ごとを買収してリゾート開発のために山ごと更地にしたなんて話題で、反中勢力が飛びつきそうなニュースだった。蓋を開けてみたら地元神奈川県内の業者であったという。神社は民間の土地にあったようで、法律的には何ら問題ないという。
今となっては、誰もこのニュースを語らなくなった…(´(ェ)`)
最近では積極的にテレビや新聞や陰謀論を見なくなったわけだが…。2021年伊豆山崩落事件のときを思い出す。都合が悪くなると誰も話題にもしない。宮下文書研究もある意味似ていて、その遣る瀬無さを募らせるのが私の日常であった。
ただなんで、熊オッサンが三浦半島の神社を調べているこのタイミングで、このニュースが持ち上がったのだろう?。オッサンの耳に入ったのだろうか?。これはなにか意味があるのだろうか?。最近このような衝動の裏にある可能性を考えるようになった。ま特に意味はないんだろうけど、与えらた偶然のチャンスをどう活かすかは自分次第でもあるのだろう。
いずれにせよこのニュースがなければ神社は人知れず消えていた。二ュースは一瞬で偶然でも、私を含めて多く人々のココロに響いた。なにか失われゆくものからの悲痛な叫びというか、来たるべき時に準備されていた歴史探求者へのメッセージのようにも思えてならないのである。これが失われゆくもの手向けとなるならば、せめてポジティブをネガティブに変換して、学ぶ姿勢で応えようではないかと。そんな気持ちで今回は三浦半島を勉強させていただいた。
これもなにかの御縁かなと…、レイラインにはそういう偶然が繋がってゆく必然性があるようだ。
(´(ェ)`)
もう一つ、偶然面白いニュースを知った。
今年はなんと和歌浦の玉津嶋1300周年なんだそうな。
熊オッサンにとっては今年5月の玉津嶋参拝が、ホツマツタヱ版『妹背の道』を根本的に調べ直すきっかけになった…。もし仮にマゴコロアイヒメに海神要素があるならば、海と妹背の景勝地、玉津嶋の御祭神ワカヒルメに比定されてもおかしくはないのではないかと?。
今年はとくに感慨深いものがある。
今月10月は和歌浦でイベントがあるようなので、興味がある方はご自身で調べてみてはどうでしょうか?。熊オッサン的には、かつて日本にはマゴコロタケルとマゴコロアイヒメという神がいたこと…。そして今もワクムスビとワカヒルメという神が、日本人の遺伝子を支えているかもしれないことを、知るきっかけとなっていただければ幸いである。
(´(ェ)`)
住宅街にポツンと残る吉井明神山、山頂に『安房口神社』がある。
※地図はクラフトマップ使用。