諸牌 - 浅草寺 (original) (raw)

1:二尊仏

写真:二尊仏

この観音(右)・勢至(左)二菩薩の青銅製の坐像は「二尊仏」、堂守のない露座であることから一般には「濡れ仏」の名で知られ、信仰されている。蓮台も含めて4.5メートルの像高を誇り、江戸時代前期を代表する優れた仏像である。
江戸時代前期の貞享4年(1687)、現在の群馬県館林の高瀬善兵衛が願主となって建立した。善兵衛は江戸日本橋の米問屋に奉公し、のちにその主家への報恩と菩提を弔う為に造立した。


2:久米平内堂

写真:久米平内堂

久米平内は江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没したといわれる。彼の生涯については諸説あるが、剣の道にすぐれ、多くの人を殺めたので、その罪を償うために日ごろ修めていた「仁王座禅」の自分の姿を石に刻ませ、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝された。現在でも願いをこめる人の姿を見かける。


3:旧五重塔跡

写真:旧五重塔跡

現在、五重塔は境内の西側に建立されているが、かつてはその反対側に位置していた。現在は、「旧五重塔跡」と記された石碑が跡地に建っている。
浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33メートル)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604~51)により建立され、かつては歌川広重・歌川国芳などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られていた。


4:戦災公孫樹

写真:戦災公孫樹

浅草寺本堂南東に位置する公孫樹は、樹齢八百余年ともいわれ、源頼朝公(1147~99)が浅草寺参拝の折、挿した箸から発芽したと伝えられる。
昭和5年(1930)に「史蹟名勝天然記念物保存法」により天然自然記念物に指定されたが、同20年(1945)3月10日の戦災で被災し、同25年(1950)に指定は取り消されたが、あの東京大空襲をくぐり抜けた神木として、今も多くの人々に慕われている。


5:鳩ポッポの歌碑

写真:鳩ポッポの歌碑

明治33年(1900)、東くめ(1877~1969)作詞、滝廉太郎(1879~1903)作曲の童謡「鳩ポッポ」の歌碑である。昭和37年(1962)に建立された。彫刻家の朝倉文夫の作。


6:新奥山

写真:新奥山

江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸随一の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう著名な場所であった。奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと考えられる。
明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。現在は「新奥山」として整備され、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。


7:力石

写真:力石

「ちからいし」と読み、「さし石」とも呼ばれる。江戸時代後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。ここにある力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、熊治郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てた。


8:瓜生岩子像

写真:瓜生岩子像

瓜生岩子(1829~97)は福島県会津に生まれ、その半生を社会福祉事業にささげた。児童教育や女性・貧民救済などの社会福祉事業の推進に努め、晩年の明治29年(1896)には、藍綬褒章を女性としては初めて受賞している。
この像は、岩子の善行をたたえ、実業家の渋沢栄一(1840~1931)らの助力のもと、明治34年(1901)に完成した。作者はラグーザらに彫刻を学んだ大熊氏広。教育家として女性の地位向上に尽力した下田歌子(1854~1936)の撰文が台座に刻まれている。


9:「暫」像

写真:「暫」像

この像は、「劇聖」と賞賛された明治時代の歌舞伎役者、九代目市川団十郎(1838~1903)の十八番「暫(しばらく)」の銅像である。
主人公である鎌倉権五郎の力強さにあやかり、毎年4月、この像の前で威勢良く赤ちゃんの泣き声を競う「泣き相撲」が奉納される。
現在の像は、十二代目市川団十郎(1946~2013)襲名を機に復元されたものである。歌舞伎愛好者のみならず、多くのご信徒に親しまれている。


10:戸田茂睡逆修塔

写真:戸田茂睡逆修塔

江戸時代前期の歌人である戸田茂睡(1629~1706)の逆修塔(生前供養墓)で、五輪塔の形式を採る。もともとこの塔は、茂睡の母の眠る牛込萬昌院に建立されていた。やがて土中に埋まってしまったが、明治44年(1911)に発見され、茂睡が浅草と縁の深かったことから、浅草寺境内(当時は浅草公園)に再建されることとなった。