理系脳で紐解く日本の古代史 (original) (raw)
<エメラルドグリーンが鮮やかな熊野川>
筆者は以前から紀伊熊野には大きな関心を持っていました。
「一宮」でもなく、「二十二社」に列することもないが、古来の有力古社で現在でも隆盛している神社は、宗像大社の他では熊野三社が筆頭でしょう。
そして以前、島根県松江市八雲町に鎮座する出雲国の一宮「熊野大社」に言及した際、知名度から熊野大社を紀伊国の「熊野三社」と間違える人が多いとも述べました。同じ「熊野」の名を冠することから、熊野大社と紀伊国の「熊野三社」との繋がりを説く専門家の論文も確かに存在しますが、創始の経緯からみてそれはあり得ないと断じました。
今回は、その熊野三社の創始の経緯などを紐解いてみます。
熊野の名とそのイメージ
紀伊熊野の地名の由来は、
〇 王都からみて隅っこにあるから「隅野」と言われたという説
〇 山陰の熊野から紀伊に進出した出雲族の繋がりで「熊野」が定着したという説
など様々です。
本来、熊野の名がつく場所は、天つ神か国つ神かと言われれば「国つ神」、陽か陰かと言われれば「陰」、生か死かと言われれば「死」などのイメージが強い土地だったようです。
しかし、現実に足を踏み入れた紀伊半島南端部の熊野は、竜宮城のような新宮駅、那智の滝に向かう観光客の賑わい、強い日射しや青い海など、からっとした明るい南国のイメージがなんと強いことか。
でも、樹木が生い茂る奥まったところに一歩でも入ると、さすが「熊野」と呼ばれた雰囲気を感じるものがありました。
熊野三社めぐり
筆者は、2013年8月に熊野三社に参拝し、他にも幾つかの旧跡を観光しました。
先ず「花の窟」に参拝しました。花の窟はイザナミが祀られたとの伝説地で、曇りで薄暗い夕暮れだったせいもあって、異様な霊気を感じました。
<左は渚百選の七里御浜、右は花の窟神社>
七里御浜の海辺に神秘の造形を持つ巨大な岩塊がそびえていて、その下にはイザナミの拝所があり、まさに熊野の「死」のイメージを象徴する場所でした。
<花の窟神社の御神体>
次いで、熊野三社を参拝しました。
熊野古道のひとつと言われる大門坂経由で「熊野那智大社」に参拝しました。
苔むした石敷き道とその両側に杉木立が続く熊野古道の雰囲気を味わえたものの、この日は風が通らず猛烈に蒸し暑く、辛さにひたすら堪える行程でした。そして青岸渡寺に参拝し、那智大滝を拝みました。あたり一面に広がる那智原始林は「神々しく畏し」という表現がピッタリです。
<左は大門坂、右は青岸渡寺と那智の滝>
<那智大社>
続いて熊野川河口近くに移動して「熊野速玉大社」(新宮)に参拝し、ゴトビキ岩で有名な「神倉神社」に参拝しました。
<熊野速玉大社>
<左は神倉神社への石段、右はゴトビキ岩>
最後に熊野川を遡り、「熊野本宮大社」(本宮)と、濁流に飲まれる前の鎮座地だった「大斎原」に参拝しました。本宮大社は40年ぶりの屋根の葺き替え工事中で本殿の全景を見ることは叶わなかった。まことに残念。
<左は大斎原、右は熊野本宮大社の参道>
この熊野本宮大社(本宮)、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社の3つをあわせて、一般には熊野三山というのですが、神仏習合時代の名残が強すぎるので、筆者は熊野三社と呼ぶことにしています。
ところで、本宮、新宮という名称ですが、その由来には次の二説があるようです。
〇 本宮大社は熊野の昔からの生え抜きの神を祀り、速玉大社は途中から鎮座したから新宮という説、
〇 もう一つは、速玉大社の元宮が神倉山にあったことに対して、現在地に社殿を作って遷座したので、元宮に対して新宮という説。
筆者は後者の方が尤もらしく思います。
ゴトビキ岩を御神体とする「神倉神社」の御朱印(神倉には神職不在のため、速玉大社でいただいた)は、「天磐盾」の朱印とともに「熊野三神元宮」の墨書が鮮やかです。この書はゴトビキ岩が熊野信仰全体の原点であることを伝えているのではないでしょうか。
9世紀から10世紀にかけては、本宮より新宮の社格が高く、熊野第一の地位にあったようです。昔はゴトビキ岩を御神体とする神倉神社の神威が非常に高く、元宮(神倉)に比例するように、速玉大社(新宮)の社格が高くなっていった経緯があったと思います。
しかし現在は、本宮大社が熊野三社の第一と位置づけられています。
熊野三社の祭神
熊野三社の主祭神は、「本宮大社」は家津美御子大神、「速玉大社」は速玉大神(イザナキ)、「那智大社」は熊野夫須美大神(イザナミ)です。
しかし奇妙なのは、日本中の多くの熊野神社が事解男、速玉男、伊邪奈美命を3セットで祀っていて、総本宮である熊野三社の祭神だけが異なっていることです。この事実は小椋一葉氏の『消された覇王』で知りました。ちなみに、筆者は、神社伝承学の第一人者である小椋一葉氏の論考には疑問を持っていますけど……。
小椋氏は、崇神が創建した当時の熊野三社の祭神は、順に事解男命(スサノオ)、速玉男命(ニギハヤヒ)、イザナミであったが、藤原不比等の時代に『記・紀』に登場せず素性のよく分からない祭神に書き換えが行われ、スサノオ、ニギハヤヒの名前が消されてしまったのだ、と説いています。
神武以前にスサノオとニギハヤヒが支配する世界があったという神話とも付合し、興味をそそられる言説であるが、真偽のほどは何とも……。
天皇の行幸と庶民の熊野詣
熊野は遠い。陸の孤島とも言われますが、実際に周遊してみて納得です。レンタカーで回るのでさえ一苦労ですが、まして鉄道も無く陸路も不便だった時代は大変な難行苦行だったに違いありません。不思議なことにそんな熊野に歴代天皇は数多く行幸しているのです。
歴代天皇は王城鎮護の神を祀る「大神神社」、「大和神社」、「石上神宮」、「賀茂神社」、「日吉大社」などによく行幸していますが、不思議と「伊勢神宮」への行幸は一度もありません。
しかし、驚くべきことに熊野三社こそは、天皇家が最も足繁く行幸した神社でした。歴代の天皇や院の行幸は百数十回に及びます。京都からは一か月もかかる交通不便な熊野です。一体何故熊野だったのか?冥界とされた熊野に詣でて擬死体験をし、再生・復活を図るという解釈もあるようですが、それだけでは釈然としません。
とにかく熊野は素性のよく分からない祭神名を含めて謎の多い不思議な土地です。
その後15世紀後半になると、庶民のレベルまで参詣者が広がり「蟻の熊野詣で」と謳われるようになります。これは神仏習合が進み熊野権現と化した三山の広告宣伝力が大いにものを言ったということでしょう。神仏習合の名残は那智大社に最も強く残っており、青岸渡寺と並置する姿が象徴的。
熊野神の文献上の初見
繰り返しになりますが、熊野の地名の由来についてもう少し掘り下げてみます。
『記・紀』が編纂された奈良時代初期には、紀伊半島南端部に「熊野」の名は存在しません。そもそも熊野は「隈(クマ)」に通じ、丹後・近江・伊予・出雲などに広く存在し、紀伊地方特有の地名ではありません。一般名詞に近いのです。
熊野は海または河川の近くにあり、背後には山地が控える奥まった幽暗な場所で、常世国に続くという伝承が残っていることが多いようです。
紀伊西部の御坊、田辺あたりには「いや」「ゆや」と読む「熊野の地」があり、和歌山市の日前神宮(ひのくまじんぐう)も「日の隅」に通じるので、「熊野」は紀伊半島西部の広域を指していたともいえそうです。
こうした事実から、飛鳥・奈良時代の中央に知られていた紀伊半島南岸部の地域は、西からは有田・御坊・田辺・白浜のあたりまで、東からは伊勢までであったと考えられます。紀伊南端部の熊野は人の存在もわずかで、政権中央からみれば人馬不通の異界の地でした。
とは言っても、那智勝浦に4世紀後半の下里古墳が存在するように、熊野には小舟の避難・補給に好都合な潟湖やリアス式海岸は存在するので、黒潮本流を直接的に受けない沿岸航行を主体とした海の民による生業・交易は可能で、真の意味で異界の地ではなかったとは思います。
7、8世紀に単に熊野といえば出雲地方の熊野を意味していて、紀伊南端部の熊野が中央の人びとに有名になるのは神仏習合後の平安時代になってからです。
この頃の天皇の行幸先を『日本書紀』『続日本紀』から読み取ると、658年に斉明天皇の牟婁の湯(むろ、白浜)行幸、692年に持統天皇の伊勢行幸、701年に文武天皇の牟婁の湯(白浜)と続き、紀伊南端部の熊野に行幸した事実はありません。
熊野の神々の初見(806年の文書)は、熊野牟須美神、速玉神が俸禄を与えられた766年ですが、二神とも、もとは熊野地方の自然神で中央には無名の神々でした。
平安末期以降、浄土信仰の広がりとともに、神仏習合の熊野信仰が盛んになり、10~12世紀になって熊野の神々の格付けが高まります。
907年に宇多天皇により初めての熊野詣が行われ、以後大和朝廷の熊野詣が盛んになりますが、そのルートは、京都から紀州街道で和歌山に入り、田辺から熊野に至る中辺路でした。
このような経緯(当初の祭神や中央における認知の程度)からみても、熊野三社の創始は、出雲国の熊野大社とは何の繋がりもないことが明らかではないでしょうか。
<宗像大社本殿>
今回は、祭神が宗像三女神に関係する宗像大社と厳島神社について確認してみます。
神話にみる宗像三女神と宗像氏が祀った三女神
宗像三女伸は、アマテラスがスサノヲの持っている十拳劔(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から生まれたとされています。
この三女神は、日本から大陸及び朝鮮半島への海上交通の平安を守護する神として、海北道中の島々(沖ノ島・筑前大島・宗像田島)に祀られ、ヤマト王権によって古くから重視されてきた歴史があります。
ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表しているが、元々は水潟(みなかた)に由来するとされるようです。
〇多紀理毘売命(タキリビメ)・・・宗像大社の沖津宮に祀られる。
〇 市寸島比売命(イチキシマヒメ)・・・中津宮に祀られる。
〇 田寸津比売命(タキツヒメ)・・・辺津宮に祀られる。
宗像三女神は、宗像大社を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称で、宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全をつかさどる神として崇敬を集めてきました。 「道主貴」の「ムチ」は「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は道主貴のほかには大日孁貴(オホヒルメノムチ、天照大神)、大己貴(オホナムチ、大国主)など、わずかにしか見られません。
アマテラスが国つくりの前(天孫降臨より以前)、この三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇を助けると共に歴代の天皇から篤い祭りを受けよ」という神勅を示したと伝わります。
<宗像大社拝殿にかかる扁額>
『古事記』では「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら九州北部の海人族が古代より集団で祀る地方神でした。
<宗像大社のかつての祭場だった高宮>
海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化したため、対馬海峡の重要性が認識され、土着神であった宗像三神が国家神としての性格を強めていった模様。
もっとも神聖視される沖ノ島では、巨岩を依り代とする自然信仰がありました。
筆者は、宗像三女神の原型は沖ノ島の自然信仰(単一の神)であって、後にこれが分化して三女神になったと考えています。
沖ノ島では3世紀の祭祀跡が確認されていて、8万点にものぼる出土品は国宝に指定されています(海の正倉院)。盛期は4世紀後半以降7世紀頃まで。
『日本書紀』第3の「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の御許山に降臨し宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐神宮では本殿二之御殿(比売大神)に祀られ、この『日本書紀』の記述を宇佐神社の創始としている。この真偽のほどは何とも……。
4世紀以降の筑紫地域と史実に見る宗像大社の発展
日本神話における景行の九州征討やヤマトタケルの熊襲征伐は虚構です。4世紀の交通事情を無視したうえで、5~7世紀におけるヤマト王権の勢力拡大や軍事進攻の歴史を遡らせ、天皇家の権威を高める意図で7~8世紀頃に創作されたものです。
では、4世紀頃の九州北部は実際にどんな状況だったのでしょうか。
4世紀になると、九州北部の伊都国や邪馬台国の勢力が後退して、玄界灘地域には後に宗像氏を名乗る集団が、また博多湾から有明海に至る筑後平野一帯には後に筑紫氏となる集団が、さらに九州中部では後の火君(ひのきみ)が、それぞれ勢力を拡大したと想定されます。
このうち宗像氏については、海の民から成長した豪族で、現在の宗像市・福津市を中心とする地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配しました。九州北部の海人族は、沖の島を航路とした宗像一族の他にも、志賀島を拠点として壱岐・対馬を航路とし対馬海峡を支配した安曇一族がありました。
4世紀前半までの大和の勢力は、博多湾沿岸勢力や出雲勢力の顔色を窺いながら「博多湾交易」のおこぼれを得ています。
4世紀半ばになると、ヤマト王権は宗像の勢力範囲であった玄界灘地域に着目して、沖ノ島を経由する新たな「海北道中ルート」を確保し、朝鮮半島交易において優位に立ったと想定できます。
「海北道中ルート」の中継点にあたる沖ノ島の祭祀が盛んになるのも、4世紀半ばから5世紀以降のことで、その後のヤマト王権は宗像一族へ相当な肩入れをしていきます。
沖ノ島祭祀は7世紀以降まで続き、宗像大神は海北道中という航路の国家レベルの守り神として尊崇されるのです。
4世紀後半以後に地域国家の首長となる火君一族は、熊本平野の白川より南の宇土半島から八代平野あたりを根拠地とし、玄界灘沿岸とは異なる独自の文化圏を形成していました。
火君の文化は、筑紫氏が基盤とした筑後の古墳文化と近似するので、合わせて有明文化圏とも呼ばれています。狗奴国と関連があるのかどうかはまったく分かりません。
6世紀半ば、ヤマト王権と筑紫氏の間で争われた磐井戦争の後、ヤマト王権のバックアップを受けた宗像の勢力は、筑後地域まで影響を及ぼすようになります。
宗像氏は、中世に向けて大宮司家が次第に武士化し、戦国時代には九州北部の戦国大名としても活躍し、16世紀後半まで勢力を維持します。
筑紫氏について少々補足します。
『日本書紀』が筑紫国造だったと記す筑紫磐井について、『古事記』は竺紫氏(姓は君)だったと記します。古代の筑紫氏はよく分からないことが多く、火君と同族と見る説もあります(有明豪族連合)。
古代の筑紫氏と同名の氏族には、中世以降の武家で筑前・筑後・肥前の広域に勢力を張り、筑紫神社を氏神とする筑紫氏がいますが、古代の竺紫氏との関連はよく分かっていません。
八女丘陵に展開する八女古墳群は、前方後円墳12基・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなっています。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及び、筑紫氏一族の墓と推定されています。
このうち5世紀以降の筑紫君関連の墓としては石人山古墳(せきじんさんこふん、磐井の祖父の墓か)、岩戸山古墳(筑紫磐井の墓か)、鶴見山古墳(磐井の息子・葛子の墓か)が有名ですが、磐井戦争を論じるときに再度詳述したいと思います。
ついでに、筑前国の一宮2社について言及しておきます。
筥崎宮(はこざきぐう) 筑前国一宮は、意外にも「宗像大社」ではなく、「筥崎宮」と「住吉神社」です。
「筥崎宮」は「宇佐神宮」、「石清水八幡宮」とともに「日本三大八幡宮」の一つとされる有力社で、古くから「神宮号」を有する五社(伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、宇佐神宮、筥崎宮)のうちの一つでもあります。
博多湾に面した「お潮井浜」から700メートルほど真っ直ぐに参道が延び、鹿児島本線の箱崎駅の近くに筥崎宮の本殿が鎮座しています。浜の近くには大鳥居があり、ニノ鳥居が続く。その後ろは三ノ鳥居と思いきや、一ノ鳥居である。当社では本殿に近い方から一、二と呼ぶらしい。
一ノ鳥居は三段に切れ、笠木島木は一つの石材で造られ先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じという異色の鳥居で、「筥崎鳥居」と呼ばれています。柱は下太りで重量感があります。その左に立つ社号標の「大社筥崎宮」は東郷平八郎が揮毫したものです。
<筥崎鳥居>
参道正面には、「鹿島神宮」、「阿蘇神社」とともに、「日本三大楼門」の一つといわれる楼門が構える。83坪余りの雄大な屋根を持つ豪壮な建物である。「敵国降伏」の扁額を掲げているので伏敵門ともいわれるらしい。
<筥崎宮の境内で存在感を示す楼門>
楼門の右手前には御神木の「筥松」があいます。近くの「宇美八幡宮」で神功皇后が応神天皇を生んだ時、胎盤と臍の緒を筥(箱)に納め、清浄な当社の境内に埋めたとの伝承があり、それが「筥松」の場所といわれていて、このことが筥崎の名の由来です。
楼門をくぐれば切妻妻入拝殿、その奥に九間社流造という大掛かりな本殿が建ちます。
その他、境内には「お潮井砂」「湧出石」、元寇の時に蒙古軍が使用した「碇石」、「大楠」「千利休奉納の石灯籠」等もあり、観光スポットには事欠かないようです。
筥崎宮の創建時期は920年代前半で比較的新しい。当時は、唐が滅び、朝鮮半島でも新羅が弱体化し、戦火が日本にも及ぼうかという時代でした。
この事態を重く見た醍醐天皇は、「宇佐神宮」からの勧請ではなく、八幡神から直に神勅を受け「敵国降伏」の宸筆を下賜し、壮麗な社殿を建立した。この時の宸筆を謹写拡大した文字が、楼門に高く掲げられた扁額の文字とされています。
祭神は「宇佐神宮」と少しばかり異なります。
応神天皇、神功皇后、玉依姫命で、主祭神を応神天皇としています。宇佐の地に天降った比女大神が地主神的な要素があるため、入れ替えたともいわれています。
鎌倉開府とともに、源氏の氏神となった八幡神は武家の守護神として崇敬されるようになっていきました。九州各地でも、「宇佐神宮」のある豊前を筆頭に八幡社の勢力が増大しました。ここ筑前の地でも「筥崎宮」は「戦いの神様」として崇敬を集めていきます。
鎌倉時代中期の元寇で、当社は戦火にさらされながらも、俗にいう神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、勝運の神として名を馳せ、その後も名だたる武将が崇敬したため隆盛を辿りました。
本来の由緒正しい「一宮」としては、次節の「住吉神社」に軍配を上げざるを得ないが、当社の賑わいは「住吉神社」をはるかに上回ります。
住吉神社(筑前国) 今の社地はビルが立ち並ぶ福岡市街地の中にあって、すっかり町中の神社の趣ですが、しかし古代の博多は海が深く湾入し、その入江に突き出た岬の上に当社の前身がありました。この辺りを「儺ノ津」といい、朝鮮半島や大陸への海の表玄関でした。したがって当社が海の守護神であり航海の神であったことは間違いないでしょう。
<住吉神社境内>
瑞垣の外には、摂津一宮の住吉大社には無かった玉垣がしっかりと囲んでいて、参拝者は近づけず、本殿は視認できません。解放感に欠けるのがまことに残念。
祭神は底筒男、中筒男、表筒男から成る住吉三神で、相殿にアマテラスと神功皇后が祀られ、あわせて住吉五所大神と呼ぶようです。
<住吉神社本殿>
伝承では、当社は住吉系神社の源流とされる。住吉系神社の総本宮とされる摂津一宮よりも創建時期は古いというのですが……。
主要な住吉神社を神話から推定して創建順に並べれば、筑前、長門、摂津の順になります。神社由緒書にも誇らしげに「住吉本社」や「日本第一住吉宮」と表記してあります。
当然、筑前国一宮として朝野の篤い崇敬を受けてきました。鎌倉時代以降、権力が貴族から武士に移ったことで、神社の格も変化した。天皇や貴族が崇敬した「住吉神社」から、武神「筥崎宮」へと重心は移行した。そして「一宮」にも、「筥崎宮」と「住吉神社」が並立するようになってしまったのです。
九州最大の激戦地を制した住吉神社 筑前国には歴史ある有名神社が揃っています。「一宮」としては「住吉神社」と「筥崎宮」があり、他にも「太宰府天満宮」、「宗像大社」、「香椎宮」、「志賀海神社」、「筑紫神社」、「宮地嶽神社」と粒ぞろいです。
<香椎宮(日本唯一の香椎造の社殿)>
前述したように、「宗像大社」は南方系の海人族である宗像氏が宗像三女神を祀った社です。
また、北方系の海人族である安曇族の奉ずる「志賀海神社」は、綿津見三神を祀った社であり、住吉神社の祭神(住吉三神)とも関係が深いとされます。宗像氏も安曇氏も海洋展開能力を生かし全国に雄飛した古代の有力氏族でした。
「宇美八幡宮」は神功皇后が応神天皇を生んだ地とされ、「香椎宮」も神功皇后の神託があり、仲哀天皇が死去した地とされ、いずれも仲哀・応神・神功皇后の影が色濃く残る有力社です。
<宇美八幡宮の拝殿・本殿・湯蓋の森>
「太宰府天満宮」は歴史こそ新しいが終始朝野の崇敬を集め、今日の参拝客の人気でみても「宗像大社」とならび九州きっての有力社といえます。
この他にも、『延喜式』の名神大社で筑紫国の名の由来となった「筑紫神社」や大注連縄で有名な「宮地嶽神社」もあります。
こうしてみると、筑前国は他のどこが「一宮」であってもおかしくない激戦地です。 何故、住吉神社が他社に先んじて「筑前国一宮」の地位を確保できたのか。恐らく、「志賀海神社」や「筑紫神社」は平安時代には没落し、「宗像大社」や「香椎宮」、「宇美八幡宮」は、国家的崇敬の対象として「一宮」を超越していたのでしょう。ともかくも「住吉神社」は全国最大の激戦地を勝ち抜いた「一宮」といえそうです。
美しすぎる世界遺産の厳島神社 「厳島神社」を一言で表せば「美しすぎる神社」と言えそうです。
本社は、山側の最奥の位置に本殿、手前に向けて幣殿、拝殿と続き、参拝用廻廊を挟んで海側には祓殿、高舞台、平舞台と続き、最先端の火焼前が海に突き出し、火焼前の左右には門客神社が鎮座しています。
その先、海中には重文の大鳥居が聳え建ちます。現在の鳥居は8代目だそうで、海中に松丸太を千本打ち込んだ上に置かれているだけだと言います。この大鳥居は「日本三大鳥居」の一つとされます。他の二つは「気比神宮」と「春日大社」で、他にも巨大鳥居はありますが、木造でなければ三大にはカウントされないようです。
当社では、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、東西回廊、高舞台、客神社の計7つもの建造物が国宝指定を受けています。国宝の本殿を有する「一宮」は全国でも僅か8社に過ぎませんが、一社で異例ともいえる国宝の多さです。当社は加えて重文の建造物も数多く有しています。
廻廊は東回廊と西廻廊から成り、総延長は275メートル、東回廊は入り口から直進、右折、右折で本社に至り、西廻廊は出口から直進、左折、左折で本社に至ります。その東西回廊が連結する位置に本社が鎮座しているわけです。
<東廻廊から厳島神社本殿>
拝殿は、三棟造で、拝殿内を見上げると、化粧屋根裏が二つ見えますが、二つの屋根裏の間に真の棟があり、両脇の屋根裏の棟と共に棟が三つあるように見えます。
本殿は柱間が八つある八間社(元々は九間社)で壮観です。
「厳島神社」本社の祭神は、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命で宗像三女神と呼ばれています。アマテラスとスサノオの誓約の時に、スサノオの物実から化生した三神ですね。
西廻廊には大国社、天神社などの摂社、能舞台などが隣接していて、それぞれが調和し美しい全体を構成しています。海上に浮かぶ能舞台は日本で唯一のもので、毎年四月に「桃花祭神能」が開催されます。
拝殿前の高舞台は「日本三舞台」の一つと言われ、舞楽が演奏されます。他の二つは「住吉大社の石舞台」と「四天王寺の石舞台」。
厳島本社も客神社も祭神には謎が一杯! 厳島神社参拝の際は、まず東回廊の入口にある「客神社」に参拝するのがマナーらしい。「客神社」は東回廊の右側に祓殿があり、左側に拝殿、幣殿、その奥に本殿というレイアウトになっていて、実に壮麗です。由緒書によれば、「厳島神社」の主な祭典は先ず「客神社」で始まりその後、本社で行われるようです。
<左、客神社拝殿内部、右、本殿(後方から)>
「客神社」の祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命など五柱です。
この五柱の神は意味深で、この五柱は、誓約の時にアマテラスの物実から化生したアマテラス系の神だからです。
本社の三神と客神社の五神が誓約繋がりで鎮座していることになります。
語呂の良さから「三女神・五男神」として称える向きもあるようですが、余りに出来過ぎではないでしょうか。
当社は、平安時代、平清盛によって造営されたと伝わりますが、創始は地元の豪族である佐伯氏が海の女神を筑前から勧請したのが始まりのようです。
しかし厳島は、古くは「斎き島」で、やがて「伊都岐島」となり「厳島」に転じたとされます。
当初、祭神は伊都岐島大明神とされていました。宮島の島全体が瀬戸内の中で一段高く、海の民から信仰の対象として崇められていたということでしょう。そして実は、この「客神社」こそが、祭神の謎を解く鍵を握っていると言えます。
「客神社」と同じ意味の神社は全国に沢山あります。
東北ではアラハバキ神社として荒波々幾神を祀る神社があるし、それ以外の地域では、客神社や門客神社と言われています。
いずれの場合も、地主神がその土地を奪われて、後からやってきた神にとって代わられ客神となった神を祀る神社を、「客神社」として祀っています。
したがって、本殿よりも先に参拝すべしという慣習が出来たのではないでしょうか。
しかし、そのような「客神社」の性格から考えると、今の社殿は豪華過ぎます。それに客神としてアマテラス系の神を祀るというのは如何にも不自然と言わざるを得ません。恐らく「客神社」の五柱の祭神は後付けなのでは。
「客神社」の元々の祭神こそが「厳島神社」の元々の祭神であったと言えそうです。
全国の一宮神社を眺めてみると、原初の自然信仰から、それとは異質の人間が作り出した神(人格神)を信仰の対象にするようになった例が沢山あります。
中央政府と関係の深い大社は、アマテラスを頂点とする神々が、「記・紀」に登場する神々と関連付けられていったのです。当社の祭神の変遷もこの流れに沿ったものでしょう。弥山を崇める原初の自然信仰の上に宗像三女神が重なっていったと考えられます。宮島で最も高い弥山の頂には獅子岩を初め、大そうな磐座がゴロゴロしているようです。
文献上、祭神がイチキシマヒメと認められるようになったのは14世紀以降のことで、比較的新しいことです。「伊都岐島」が音韻類似から、同じく海に関係する筑前宗像の「市杵島姫」と同一視されたようです。その後、自然の流れとして宗像三女神を祀るようになったということでしょう。
したがって、筆者は宗像神社の祭神と厳島神社の祭神には、もともと何の繋がりもなかったと考えます。
清盛が出てくるまでは、安芸国の一宮は廿日市の「速谷神社」だった。清盛が「厳島神社」を崇敬して以降、「速谷神社」は二宮に移行したという記録が残っています。清盛の思い入れは強く、平安時代末期、清盛の要請により「厳島神社」を二十二社に加列する動きがあり、1180年前後に三度ほどその動きがありましたが、結局、清盛をもってしても果たせなかった……。
神仏習合、分離の荒波をくぐり抜けた厳島神社の国宝社殿
「厳島神社」の社殿は、危うく焼き払われる危機をくぐり抜けて現在に至っています。
江戸末期から古代への復古思想が強くなり、仏教的な要素のある神社は批判を受けるようになりました。当社は、寝殿造をベースに華麗な装飾が多用されていたため、特に仏教色が強いとされました。
明治政府による神仏分離では、当社は「一宮」という高い社格であるだけに、神仏分離の見本となるべく重点対象とされてしまいます。仏教的なものはすべて撤去され、社殿に塗られていた朱の彩色は落とされて素木造とされたのです。何と本殿の屋根には千木・鰹木が新設され、徹底的な改装がなされたのです。
その後、明治末の修理時に彩色が復旧され千木・鰹木は撤去されて、現在の姿に回復したという史実が辿れます。
<対馬に向かうANAの畿内から>
今回は、日本のシンボルとして古代から崇められてきたであろう富士山と浅間信仰に関係する神社について掘り下げてみます。
しかし、7世紀以前、富士山や浅間信仰に関する記述はほとんどなく、中央における関心が著しく低かったのは驚きです。縄文の時代から東国では畏敬の念をもって接していたでしょうに……。
前回、大山祇信仰と三嶋大社に言及したので、その延長線で浅間信仰についても触れたくなってしまったというのが筆者の心の内にありました。当ブログの古代史の範疇からは大きく外れますが、強いて言えば祭神の木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)が記紀神話に登場しています。このところずっと神社シリーズを載せているので、その一環としても許容できるのでは。
アイキャッチ画像には残雪が残る5月の富士山の雄姿を載せました(神社社殿の写真を紛失したため)。
富士山本宮浅間大社(駿河国一宮)
富士山は2013年6月、世界遺産に登録されました。
筆者は、今から半世紀以上も前の社会人1年目の夏、職場の仲間と一緒に富士山に登りました。当時も、五合目から頂上まで数珠つなぎの賑わいでした。今はインバウンドの登山者に大人気だそうな。
頂上に立った感激と素晴らしい景色は忘れられませんが、意外にも富士登山そのものは好きになれませんでした。
高山植物が少なく黒い溶岩や砂ばかり。残雪が無く岩場も少ない。池塘や湖沼もない。登り下りが単調で変化がない。
私は二度と登らないと決めて現在に至っています。
でも下界からの眺めは秀逸です。眺める富士は昔も今も大好きです。
旅に出ても、富士山がどの方向なのか、探し続け、そして見ることにこだわっています。列車や飛行機に乗れば必ず富士の雄姿を確認します。たとえ頂上しか見えなくても、遠く小さい姿でも、なぜか確認出来たことで安心し満足するのです。
東海道を移動する時は、裾野をのびやかに広げた全景が見えるので満足感で一杯になります。富士は本当に美しい……。
しかし富士山は古代人にとってただ美しいだけの山ではありませんでした。火を吹き鳴動する恐ろしい山でした。
現在の富士山は約1万年前から噴火活動を始めた新富士火山であり、奈良時代以降16回の噴火の記録があります。その多くが平安時代の噴火で、864年の貞観噴火は特に大きかったといいます。また江戸時代の1707年にも宝永大噴火が起きています。有史以来、富士山まわりの広い範囲が噴火と地震に見舞われ、大きな被害を受けてきた記録が残っています。
噴火、地震を鎮めるために、富士山の周囲には多くの神社が創建されました。
主要な神社としては、「富士山本宮浅間大社」のほか、「山宮浅間神社」「村山浅間神社」「須山浅間神社」「富士浅間神社」「河口浅間神社」「富士御室浅間神社」「北口本宮富士浅間神社」などが、富士山を囲むように鎮座しています。いずれも社名の「浅間」は「せんげん」と発音します。
このような噴火の歴史を振り返ってみると、現在私たちが富士山を単に美しい山と思っているのは、まさに平時の平和ボケと同じかもしれません。美しい富士だけを見て社会や経済を組み立てていると、いつの日かしっぺ返しを食らうのではないでしょうか。
それはともかく、前記の神社すべてが富士山本体とともに世界遺産に登録されています。登録名は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」となっており、自然価値よりも文化価値に焦点が当たっていることに注目すべきです。
信仰の拠点である神社の中で、総本宮の役割を持つのが駿河国一宮の「富士山本宮浅間大社」です。
「富士山本宮浅間大社」(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は全国1300余社の浅間神社の総本宮で、富士山の南西山麓にある富士宮市宮町に鎮座しています。その他の主要な神社はすべて、前述のように富士山まわりに鎮座しています。
宮町の大社通りに面して朱色の大きな正面鳥居が聳え、参道を進むと石鳥居、桜の馬場、楼門と続き、楼門をくぐると鮮やかな朱色に塗りなおされた社殿が現れます。
入母屋拝殿と本殿が幣殿で連結された権現造の社殿です。瑞垣内の本殿は、寄棟造の下階に流造の上階をのせた二階建で、独特の「浅間造」(せんげんづくり)と呼ぶ建築様式。
目を凝らしてよく見ると本殿の蟇股や組物などの細工も素晴らしい。
社殿の右奥には、富士山の雪解け水が湧出する湧玉池があり、昔はここで禊をしてから登拝したそうだ。
富士山の頂上には奥宮があります。標高3776メートルの剣が峰の手前で3700メートル地点です。富士山の八合目から上の全域が当社の境内地になっているようです。
当社の創始は、山宮(現在の山宮浅間神社)の地に磐境をもうけ、富士の山霊である浅間大神を祀ったことによります。
その後、坂上田村麻呂が勅命を奉じて、山宮から現在地へ遷座させ社殿を造営したという伝承があります。これはあくまで伝承……。
中世は、富士山の霊力にあやかろうとする多くの武家の崇敬を集め、源頼朝、北条氏、足利氏、武田信玄、豊臣秀吉らが社殿の修造や神領、宝物の寄進を続けたため、大いに隆盛したようです。
以前の社殿は大変壮麗な姿であったらしい。
文献には「社殿巍々として繞らすに百八十間の長廊を以てし頗る荘厳を極めしも、宝永年間の山焼、安政年間の地震等の為めに漸次毀損して」とあり、1707年の富士宝永山噴出や1854年安政東海地震などの災害により、かろうじて本殿、幣殿、拝殿、楼門等だけが残って今に至っているわけです。
当社の社名に「本宮」が使われるのは、静岡市にある浅間神社が「新宮」と呼ばれるのに対するものです。
当社は国府のあった静岡から50キロも離れていたので、10世紀に分祀して新宮の「静岡浅間神社」を造営したようです。筆者は未だ参拝していませんが、「静岡浅間神社」は、家康が駿府に落ち着いた後に財を惜しまず投入したので、絢爛豪華の社殿群に仕上がったようです。特に二階建拝殿は最高傑作とされるらしい。「本宮」も引いてしまうほどの名建築だという。
富士山を祭神として崇めてきた歴史は古く、一般には「浅間信仰」と呼ばれています。
元々は火山の神、火の神であったが、神話に登場する木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめ)が祀られるようになったのは意外にも最近のことで、江戸時代後半からです。主導したのは吉田神道らしいが、所詮無理筋です。
コノハナノサクヤヒメが火の中で出産したことから火の神と考えられるようになり、火山である富士山と結びついたということらしい。
富士山は琵琶湖の沈没で出来たという楽しい伝承があります。
江戸時代に広まったようですが、大昔に琵琶湖が陥没した反動で富士山が一夜にして隆起したというのです。
それに因み江戸時代末期にはコノハナノサクヤヒメ祭神説が次のように発展したという。
「上古に、一夜にして陥没して出来た琵琶湖と諏訪湖が基で、浅間山と富士山を湧出した。国土が非常に荒れてしまったので、時の天皇が驚き八百万神を集めて経緯を聞くと、大山祇神が、自分の娘のイワナガヒメを信濃に、コノハナノサクヤヒメを駿河に住まわせるために二山を作ったと告げた」。
本州中部の代表的な山として浅間大神の富士山と浅間山が火山繋がりで挙げられているのは、特筆すべきと思います。
昔は、火山は噴火すればするほど神威が高まったということでしょう。
しかし噴火では九州の阿蘇山の方が大先輩!
阿蘇山は世界最大級のカルデラ火山で、「火の国(肥の国)」のシンボルです。
過去に何度も大噴火を繰り返し、阿蘇神社の社殿もそのたびに焼失した。
11世紀以降、阿蘇大神は託宣神として朝廷から一目おかれるようになります。阿蘇山の噴火が神意を表しているとされ、噴火情報や旱魃疫病の兆候があればその都度、阿蘇神社の祭神は神階を累進した……。
阿蘇の語源についてはさまざまな説がある。その中でも、「アソ」や「アサ」のASが世界の多くの言語で、噴火・煙・湯気・火山灰・焼く等を意味する共通の語幹となっているのは、興味深い事実。
語源的には噴火を意味するという「アソ」があって、噴火する山で「アソヤマ」となり、さらに変化して「アサマ」になったのではないでしょうか。
謡曲の一つに『富士太鼓』がありますが、その中では、噴煙を出している浅間山に対して富士山は噴煙がないので、浅間山の方が格上であるとする場面が出てきます。
花園天皇が譲位した後の14世紀の初め頃、宮中で管弦の催しが行われることになり、四天王寺の楽人の「浅間」が太鼓の名手ということで召された。これを聞いた「住吉大社」の楽人の「富士」がお召もないのに太鼓の役を望んで推参した。
天皇はこれを聞き「古歌に『信濃なる浅間の岳も燃ゆるといへば、富士の煙のかひやなからん』とあるからには、名前こそこの上ない富士という名であっても、浅間は実力では富士よりまさっているのだろう」と言ったので富士を推すものはいなかった。
この顛末を聞いた浅間は富士の行動を憎々しく思い、富士を殺してしまう。そのあとのストーリーは富士の妻と娘が夫の形見を身につけ、太鼓こそ夫の敵とばかり太鼓を打つ場面へと続いていく。
この古歌は10世紀中頃の後撰和歌集に載っていて、元々は「贈り物の薫香が名前ほどすぐれたものではない」という意味で使われたものです。14世紀初めの頃は、現に噴煙を出している火山の方が格別に畏敬され神威が高かったという事実を、『富士太鼓』は明確に物語っているようです。
以上、駿河の浅間大社に触れたので、同じように木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)を祭神とする甲斐国の浅間神社にも言及したいと思います。
浅間神社(甲斐の国一宮)
浅間神社(あさまじんじゃ)の鎮座地は、甲府市の東にあたる笛吹市一宮町で、富士山のほぼ真北に位置します。
今でこそ山梨県の中心は甲府ということになりますが、甲府盆地の東端にあたる笛吹市は、古代の政治文化の中心地で、当社以外にも国分寺や総社も置かれていました。しかしここまで来ると前衛の山々が邪魔をして、ちょっとやそっとでは富士山は見えません。
国道20号線に面して大鳥居が立っていますが、まわりに高いものが何もないのでその偉容さは格別です。
北に向けて参道を進むと間もなく境内の入口に達し、そこには石鳥居と隋神門が建っています。
隋神門をくぐり境内を見やれば不思議にも社殿は横を向いています。富士山ではなく西側の南アルプスを背負っているのです。それどころか境内のどこからも富士山は望めない……。
境内は広くないが、『延喜式神名帳』では名神大社であり、中世には武田信玄による崇敬がことのほか篤かったという。富士山は見えなくとも、祭神は富士を意味するコノハナノサクヤヒメです。
当社は社名の「浅間」を「せんげん」ではなく「あさま」と発音します。実は、「せんげん」よりも「あさま」という読みの方が古式であるらしいことは、富士山本宮浅間大社の項でも述べた通りです。
富士山が世界遺産に登録された際、当社はその登録から外れてしまいました。
社名が浅間神社で、祭神が富士山と結びついたコノハナノサクヤヒメであるにもかかわらず、なぜ外れたのでしょうか。
実は、登録された8つの浅間神社には共通項があります。
当社を除いて各社は「浅間」を「せんげん」と発音します。
社殿は富士山の方角を向いているか鎮座地から富士の姿がよく見えます。
一方当社は「あさま」と発音するし、ご神体であるはずの肝心の富士山が見えません。当然と思えた富士山とのつながりに疑念が生じてしまうのですね。
由緒を調べていくと、当社は元々は富士山を祀る神社ではなかったように思われます。
当社の東南2キロ余の所に摂社の「山宮神社」がありますが、こここそ元々の当社本殿が鎮座した場所だといいます。
864年に富士山の大噴火があり、その翌年現在地へ遷座したようです。この時、祭神三柱のうち、コノハナサクヤヒメだけを当社に遷したものらしい。その経緯から「山宮神社」は元宮と呼ばれています。
付近には縄文時代前期まで遡る巨大な釈迦堂遺跡群があります。
恐らく、当地は原始的な自然信仰を起源とし南アルプスの山々を御神体として仰いできたが、平安期になって浅間大神と習合したのではないでしょうか。
「かいでみるよりするがいい」という品のない都々逸がありますが、これは「甲斐で見るより駿河が良い」を引っかけたものです。甲府盆地からは富士山の頭しか見えないので、元々富士山をご神体とするには無理があったといわざるを得ませんね。
かつては甲斐国一宮の地位をめぐっての争いもありました。甲斐国には浅間神社が3つあります。浅間神社の他は市川大門の「一宮浅間神社」と河口湖の近くに鎮座する「北口本宮富士浅間神社」です。
特に「北口本宮富士浅間神社」は大きな社殿や老杉に囲まれた広大な境内を有し、どう割り引いてみても「一宮」に相応しく思えます。
ただ、交通の要衝地、政治文化の中心地、武田信玄の崇敬などの要素が作用して「浅間神社」が「一宮」の地位を守り抜いたということなのでしょう。
<大山祇神社拝殿>
今回は、『古事記』神話で有名な大山津見神(おおやまつみ)と事代主神(ことしろぬし)に関係する有力二社、伊予国一宮の「大山祇神社」と伊豆国一宮の「三嶋大社」を取り上げてみます。なぜ東西に遠く離れた2社を取り上げたのか、実は「みしま」という言葉で繋がっているかに見える両社の関係が実際はどんなものなのか確認することがその動機です。
大山祇神社(伊予国一宮)
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は芸予海峡の大三島に鎮座し、主祭神は大山積神ですが、三島大明神とも称されています。当社から勧請したとする三島系神社や大山祇系神社は、四国を中心に東日本まで広く存在しているためか、日本総鎮守とも呼ばれます。
大山祇神社の名は古文献にもありますが、一般には三島あるいは御島から、大三島大明神や三島社、あるいは単に大三島と呼ばれてもいました。
明治時代に入ってから社名を大山祇神社と定めています。ただし、祭神の表記は大山積神で、鳥居に掛かっている扁額も大山積神社となっています。
「記・紀」神話では大山積神は、「山の神」とされ、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめ)の父神なので、天孫系の外戚第一位ということになります。
『伊予国風土記』逸文によれば、この神は百済から渡来して摂津国の三島(御島)に鎮座し、和多志大神と呼ばれたという伝えもあります。和多志は「渡し」につながるので、山の神であると同時に「海の神」でもあるとされます。一方、和多は綿津見(海神)の「わた」であるともされるので、いずれにしても海の神の要素も持ち合わせているようです。
鎮座地の大三島は芸予海峡にあり、山陽・南海・西海の三道、航路の要衝であるため、ここを押さえることは瀬戸内全体の制海権を得ることになります。
「記・紀」の国生み神話では四国全体を「伊豫の二名島」で表しています。当地は古代から四国の代名詞になるほどの要衝地として認識されていたわけですね。
その芸予諸島で最大の島が大三島で、この神を大三島の南東部に祀ったのは伊予国造の乎知命です。
さらに越智氏の子孫が、現在地(大三島西岸で標高436.5メートルの神体山、鷲ヶ頭山の西麓)に遷座し、越智氏とその派生の河野氏が氏神として代々、祀ってきました。
和多志大神でもあるため、特に水軍の崇敬が篤く、河野氏の率いる三島水軍は大山積神を守護神として崇め、一時期、瀬戸内最大の水軍でした。村上水軍とも近かったらしい……。
実際、三島水軍は瀬戸内の大半を支配下においていました。源平合戦以降、武家は瀬戸内の制海権を得るために、越智氏や河野氏を籠絡し、武器武具などを寄進し武運長久を祈願したとされます。つまり当社は、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から崇敬を集めてきた歴史があります。
源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・国の重要文化財の指定をうけた日本の武具類の約4割が当社に集まっており、甲冑の保有は全国一です。
こうして集積された武具は神社に隣接した紫陽殿と国宝館に集結保存されています。 源義経と頼朝が奉納した「赤絲威鎧大袖付」や「紫綾威鎧大袖付」は確かにすばらしい代物です。
くるまによるアクセスは尾道から「しまなみ海道」を進むのがベスト。向島、因島、生口島を経て大三島でインターチェンジを降り、大三島の中央部まで進めば「大山祇神社」に至ります。
<多々羅大橋を通過すれば大三島>
当社の西側1キロ弱の宮浦港に一ノ鳥居があります。境内入口に立つニノ鳥居には「日本総鎮守 大山積大明神」の扁額がかかっています。すぐ後ろに見えるのは、ほぼ700年ぶりの再建が成った真新しい素木の総門。古図を参考に建築様式が決められたらしい……。
<正面鳥居>
<再建なった総門>
総門の奥、66万平方メートルもある広い境内は左右から鬱蒼とした樹叢に覆われやや暗く、国の天然記念物38本を含む大楠の群生が歴史の重みを感じさせます。
境内左には天然記念物の「能因法師の雨乞いのクスノキ」が飾られていますが、これは樹齢3000年といわれる巨木の残欠だそう。その左には、21体の木造神像を祀る十七社が鎮座しています。
正面には乎知命お手植えの大楠がどっしりと構える。樹齢は2600年とのこと。当社のシンボルで、やはり天然記念物です。
<樹齢2600年の大楠、大楠の先に神門>
大楠の後ろの一段高い神門をくぐると正面は拝殿です。
拝殿と神門は廻廊で結ばれていますが、左側が北廻廊、右側が南回廊なので、神社は西向きであることがわかります。
拝殿に連接して奥に流造本殿が建ち、左右に上津社、下津社が鎮座します。上津社には大雷神、下津社には高靇神が祀られ、由緒書には「三社あわせて大山祇神社という」とあります。
この三社は、当社後方にある鷲ケ頭山など三山を神体山として対応させたという説もあり、元々は自然神を祀っていたのかもしれません。
<拝殿と北廻廊>
今でこそ、瀬戸内の交通は尾道から今治まで「しまなみ海道」で直接結ばれ、大三島の重要性は低下してしまいました。それでも観光客を中心に「大山祇神社」は四国の外からも大挙押し寄せています。筆者が参拝した時も、多くの観光客が押しかけていました。外国人もちらほら。
神社で頂いた由緒書はなんと和英併記でした。英語の由緒書は初めて……。外国人参拝者が多いことの現われと思うが進取の姿勢には驚いた。せっかくなので目を通したら、「神社」をShinto shrine、「神」を God と訳していた。これで日本の八百万の神の概念が伝わるのだろうか、いささか心配ではあります。
三嶋大社(伊豆国一宮)
三嶋大社の鎮座する三島市は、伊豆半島の付け根部分にあって古くから交通の要衝地でした。境内も旧東海道に面しています。
御影石の大鳥居をくぐり奥へと続く参道は、神池の中央を通り抜け豪壮な総門に到り、次いで桜並木の間を抜けて神門に達します。神門をくぐると正面に舞殿があり、その先が本殿となります。拝殿は入母屋造平入で千鳥破風と唐破風向拝がつき、本殿は流造平入という立派な社殿です。
<三嶋大社拝殿、その奥に本殿>
社殿の材料は通常の桧ではなく堅い欅が使われており、装飾用の精緻華麗な木彫が見事。特に向拝の蟇股や、舞殿上部4面に施された「二十四孝」の木彫は見応えがあります。境内の金木犀は樹齢1200年とされる日本一の大木で、国の天然記念物に指定されています。
源頼朝が、平氏打倒のため挙兵した日に「三嶋大社」に立ち寄り、源氏の再興を祈願したのは余りに有名な話です。そして初戦に勝利した頼朝は、三嶋大明神の加護によるものと感謝し、即座に当社に土地を寄進したと伝わります。その後、平氏を打倒し鎌倉幕府を開き大願成就したことから、当社は関東武士から篤い崇敬を受けるようになります。以後、当社は幕府の守護神とされています。当社が武家社会の発端を開いたとも言えそうです。
頼朝以降の輝かしい歴史があるものの、当社の創始の状況は余り明確ではありません。
神社由緒によると、祭神は大山祇命(おおやまつみ)と事代主神(ことしろぬし)の二柱で、併せて三嶋大明神としています。
事代主は歴史的に三嶋大社との繋がりはなく、後世の付会と考えられますが、大山祇の方は、伊予国一宮の「大山祇神社」から当社に勧請されたと言います。
しかし真実はどうやらそう単純ではないようです。
まず事代主についてですが、この神は島根半島の東端にある美保神社の事代主神は「えびす」としても有名で、宮中では御巫八神の一柱になっています。この事代主は葛城地方の鴨都波神社の神でもありますが、両社とも三嶋大社とは無関係です。ところが事代主は大山祇神社や三嶋大社など三島系神社でも祀られています。なぜでしょうか。
三島系神社の祭神については、古くは大山祇神社由来の大山祇命でしたが、19世紀初頭の頃の平田篤胤の提唱により事代主神説が流布し、三嶋大社においても、明治6年(1873年)、主祭神を大山祇命から事代主神に変更しました。
しかし大正時代の頃から大山祇命説が再浮上したため、昭和に改めて大山祇命説が浮上すると、大山祇命・事代主神二神同座に改めるなどの変遷があったようです。
つまり、現在の祭神二柱は明治以降に定められた新しいものです。
次に大山祇命ですが、大山積を祀る大山祇神社の鎮座地は瀬戸内海の「大三島」なので、「みしま」つながりで、三島の地にある三嶋大社の祭神が大山祇と事代主の二神同座となってしまった可能性もありますが、はたして真実はどうなのでしょうか。
伊豆国の三嶋大社の「みしま」には、元々どのような由来があるのか、確認してみます。
有力なのは、「三嶋」は伊豆諸島を示す「御島」であり、三嶋大社の本来の鎮座地は伊豆半島先端の白浜だったという説です。
多くの三島系神社の名とは異なる三嶋大社独自の由来です。
『延喜式神名帳』にこの傍証があります。今の下田市には御島神を祀る「伊豆三島神社」と、妃神を祀る「伊古奈比咩命神社」(いこなひめのみこと)の記載がある一方、今の三嶋大社鎮座地には「みしま」という名の神社の記載がありません。つまり、御島神と妃神は元々伊豆諸島にあって、伊豆諸島の噴火・造島を司る神でしたが、のちに下田市白浜に遷座し、さらに10世紀中頃から12世紀までの間に御島神だけを三嶋大社の現在地に遷座したと考えられるのです。
伊古奈比咩命神社は、伊豆半島先端部、白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま、ひたつやま)」に鎮座し通称では白濱神社 (白浜神社)(しらはまじんじゃ)と呼ばれています。この火達山は伊豆諸島を祀る古代遺跡ですが、その祭祀は現在まで伊古奈比咩命神社の祭祀として続いています。
<古代祭祀遺跡・・・海の縄文・弥生遺跡>
境内の火達山は、祭祀遺跡として下田市指定史跡に指定されています。また、火達山に自生するアオギリ樹林は国の天然記念物に、柏槙(ビャクシン)樹林は静岡県指定天然記念物に指定されています。
<境内に残る柏槙の大木>
ついでに、歴史的な変遷を確認してみます。
前述したように、平田篤胤の提唱によって、現在まで三嶋大社や他の三島系神社を含めて伊豆半島各地の神社では、祭神事代主神説が定着しています。これらに対して、伊古奈比咩命神社社誌では、「記・紀」神話との比較はせず、「伊古奈比咩命」という独立の神格が大切にされているわけです。
<伊古奈比咩命神社正面入口、「伊古奈比咩命神社」の碑>
三嶋大社の祭神、事代主神・大山祇命のいずれも、大山祇神社の鎮座地「大三島=みしま」の連想から、つまり「みしま」の音から来た後世の付会とする説が有力です。真実は、「みしま=御島」すなわち伊豆諸島の神格化が御島神の発祥と理解すべきでしょう。
そして国府が置かれ交通の要衝地にあった三嶋大社が大いに隆盛したのに対し、妃神の社は今もひっそりと伊豆半島先端の下田市に佇んでいるのです。ただ、長い歴史を物語るように、社頭には「伊豆最古の宮」の碑が誇らしく建っています。
<「伊豆最古の宮」の碑、伊古奈比咩命神社拝殿>
三嶋大社に戻します。要するに「三嶋大社」は伊豆諸島の火山を司る神を祀っていたということになります。
当社の社殿は、記録の残る平安時代末期以来800年間に26回も造営されたと伝わっており、それだけ地震と噴火に悩まされ続けた神社と言えましょう。
最近では1854年の安政東海地震で倒壊し、安政から慶応年間にかけて復興しました。現在の欅材の豪壮な社殿はこの時のものです。
繰り返しになりますが、三嶋大社の三島大明神の「三島」は白浜海岸の正面に浮かぶ大島、利島、新島のこと。西暦700年の大宝律令で、国司が現在の三島市に設置されたが、12世紀までの間に白濱神社の祭神であった御島神(三島大明神)だけが移され、現在の三嶋大社が創建された……。
そして、残った伊古奈比咩命が白濱神社の祭神として残った。つまり、現在の三嶋大社の祭神は、もともと白濱神社の祭神だった三島大明神を引っこ抜いて祀っているという訳で、3万年以上の歴史を持つ伊豆半島・伊豆諸島の古代海人たちの祈り神を、時の政権が勝手にひょいと移してしまった……ということになるのでしょうか。
ところで、「三嶋大社」の神池には、神の使いの鰻が棲んでおり、氏子には「神のお使いだから食べない」という伝承があるようです。しかし不思議なことに三島市はその鰻が名物になっています。当然ながら水が良いことによるのですね。三島市は、富士山の雨水や雪解け水が各所で湧き出る「湧水の町」です。近くの柿田川湧水群や源兵衛川でも有名です。
広小路界隈には遠方から大勢の人が足を運ぶ鰻の名店があります。筆者も何度か通い舌鼓を打った楽しい思い出が蘇ります。
<氷川神社楼門>
今回は、関東地方の在住者には馴染み深い武蔵国一宮の氷川神社について言及します。しかし関西などではほぼ無名に近いというから驚きです。
その謎解きも含め確認してみたいと思います。
十八丁もの長い参道は旧中山道だった!
「氷川神社」は武蔵国を主体に280数社社におよぶ氷川社の総本宮です。
先に述べたように氷川大神はほぼ関東地方に特化した神です。恐らく関西や西日本の人々にはピンとこない神社でしょう。
大宮駅の東、徒歩で15分ほどの大宮公園の一角に鎮座しています。大宮は昔から「氷川神社」に因み、「大いなる宮居」と称されてきました。今やその大宮は県庁所在地の浦和を大きく上回る都市となりました。
これだけ発展した大市街地のすぐ脇に、緑濃い大宮公園と広大な神域を誇る「氷川神社」が残っているのは奇跡かも知れません。一ノ鳥居は、旧中山道の「さいたま新都心駅」付近にあります。そこから北へ向かう参道は、十八丁(約2キロ)に及ぶ。「一宮」としては日本一長い参道です。新都心合同庁舎のビルに登れば、その全長を眺めることが出来ます。
<新都心のビルから望む氷川参道(ネットの画像を転載)>
昔この参道は中山道そのものでした。しかし地元では参道を日常の交通路にしては畏れ多いとして、江戸時代初めに、並び立つ宿や家とともに西側に移転した。それが現在の中山道(国道17号線)で、今の大宮市街の始まりとなったらしい。神と地元の濃密な相互依存の歴史があったということになりますね。
ふつう参拝者は大宮駅からニノ鳥居に至り、そこから表参道を進みます。三ノ鳥居をくぐると、神橋の先に朱も鮮やかな楼門と廻廊が見えてきます。その豪壮華麗な姿は、京都の「上賀茂・下鴨神社」を思わせます。
楼門をくぐると姿の美しい舞殿があり、その背後に社殿が建っています。拝殿は入母屋造、本殿は銅板葺の流造です。拝殿前から振り返れば、抑制した色調の舞殿と派手な朱色の楼門・廻廊がつくる構図が実に美しい……。
<舞殿、後方に楼門>
東国の地に出雲の神の不思議
氷川神社の神社略記によれば、祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱となっていますが、主祭神はスサノヲでしょう。いずれも出雲系の神です。
出雲から遠い東国の地に、何故出雲の神々なのでしょうか。
実は出雲国と武蔵国は古くから強い繋がりがあったようです。
『日本書紀』の成務天皇紀に「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置つ」とあり、この時に出雲族の兄多毛比命(千家家の祖である天穂日命から十数代の子孫)が武蔵国造となり当社を奉崇したという伝承があります。これは、諏訪を通り東山道から入った出雲族が当地を平定した史実であるとする説もありますが、真偽のほどは何とも……。
おそらく真実は、奈良時代の後半に出雲出身の人物が国司として赴任したということでは。古代より武蔵国造は、出雲国造家の同族との伝承があり、当地の開拓に関わり当社を奉崇したとも伝わっています。
そこで、出雲の斐伊川(肥河)と氷川の類似からスサノオが祭神として祀られたということでしょうかね(次節で言及)。
出雲大社の第80代の宮司は千家尊福(たかとみ、1845年~1918年)で、貴族院議員になった後、埼玉県知事、東京府知事を経て最後は司法大臣にまで上り詰めています。彼は埼玉県知事時代に、氷川神社の地位向上に努力しました。出雲・武蔵両国の深いつながりが現代に投影しているかのようです。明治初めに、一旦は廃祀されたイナダヒメとオオナムチを、のちに合祀できたのは、彼の奔走によります。
氷川神社の社名の由来と「みぬま」について
社名の「氷川」は出雲の斐伊川(肥河)に由来するという説がよく語られますが、筆者が首肯するのは、「ヒ」は「氷」、「カハ」は「泉または池」をあらわす古語で、「ヒカハ」は霊験あらたかな泉を意味することから、見沼の水神ともされる自然神がベースにあったとする説です。
鎮座地の高鼻は古代からの湧水地で原始の氷川信仰の対象でした。
見沼は古くは「神沼」「御沼」とも呼ばれていました。縄文時代、大宮東部から浦和東部を通り東浦和の南部に至る大宮台地には、古代の川に沿って古東京湾が湾入していました。
やがて海が後退し広大な沼沢池「見沼」が生まれます。
そして江戸時代に入る頃から関東平野の湿地を乾燥地に変える一大事業が本格化します。当地も灌漑用水池に改造されました。さらに享保の改革で新田開発が奨励され、灌漑用水池は田んぼへと変化していきます。このような経緯を経て、現在の見沼田んぼは存在しています。
見沼があったとされる一帯には、氷川神社のほかに、イナダヒメを祀る氷川女體神社、オオナムチを祀る中山神社(簸王子社)が鎮座しています。
つまり昔の広大な見沼まわりに鎮座する男體社・女體社・王子社は夫婦・親子という家族関係になるので、この3社の総称が昔の「氷川神社」であったという説もあるのです(後述)。
出雲族の影響を受ける以前には、見沼を御神体とする素朴な原始信仰があったと考えられます。
「氷川神社」の境内に密かに鎮座する摂社「門客人神社」は、江戸時代までは「荒脛巾神社」と呼ばれていた。アラハバキは縄文の神を意味することから、出雲系の神々が当地に進出する前の先住の神を祀ったものと考えられます。
原初の地主神が地位を奪われ、本殿内から門前へと移される場合に、門客神という表現をとることが多い(大林太良氏)ようです。
見沼に面していた当地(ヒカハ)が太古の信仰の場であったことは間違いなく、そこに出雲系の武蔵国造が、出雲で崇敬されているスサノヲを重ねていったのではないでしょうか。
紀元後まで残った縄文海進の影響
縄文海進は約1万年~5500年前にあった海進です。
最終氷期(7万年~1万年前)終了後の世界的に温暖化が進んだ時期(完新世の気候最温暖期)に相当します。
日本ではちょうど縄文時代前期にあたり、具体的には、約6000年前(紀元前4000年)頃に海面がもっとも上昇し、現在に比べて3ないし5メートルほど高く、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入しました。
沖積層の堆積よりも海面上昇の方が速かったので、最終氷期に侵食された河谷の奥深くまで海が湾入し、日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られたようです。
当時の海岸線にあたる場所に多くの貝塚が存在することが知られています。地形と標高を見ながら貝塚遺跡のある地点を結んでみれば、縄文時代の海岸線を見事なくらいに復元できます。下図(ネットから転載)の小さな「•」は貝塚の分布を示しています。
<関東平野の縄文海進領域>
縄文海進は、もともと貝塚の存在から仮説の提唱が始まったようです。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部奥深くに分布することから、関東大震災後に海進説が唱えられたのです。
関東平野は、紀元後しばらくの間は、縄文海進の名残でその広域が水没するか、沼地または湿地となっていたとされます。
縄文海進がよくわかる関東平野
最終氷期の後、関東平野では古鬼怒川や、荒川や江戸川の谷に沿って内陸部まで海が浸入し、南北に細長い古東京湾が形成されていました。
荒川沿いでは今の埼玉県川越付近、江戸川沿いでは同じく栗橋付近まで海が浸入していた。大宮台地などは半島状となっていました。
縄文時代の海は武蔵野台地・下総台地・多摩丘陵などの洪積台地や山地を残して低地を浸したため、今は海のない県である埼玉・栃木・群馬も、縄文人が住みついた頃は海に面していたわけです。その後は沖積層の堆積が追いつき、縄文時代の湾は現在の低地平野となりました。
他にもいくつか象徴的な事例をあげると、
市原市にある上総の国府・国分寺・国分尼寺跡は東京湾に面した高台にある。
石岡市にある常陸の国府・国分寺・国分尼寺跡も霞ヶ浦に面した高台にある。
行田市のさきたま古墳群の将軍塚古墳の石室には房洲石が使われているが、その石は(すでに古墳時代には後退していた古東京湾を経由し)河川を遡って行田市まで運ばれたと推測されている。
近世までの関東平野は、複雑に絡み合う原始河川と、点在する沼沢を抱えた巨大な三角州でした。海岸線はすでに後退していましたが、海だった跡地には土砂が堆積し広大な葦原を形成していたと思われます。しかし平野のほぼ全体が低湿地であるため、ひとたび大雨が降れば増水し、洪水が発生し、何か月間も浸水状態が継続したのです。
氷川神社の立地から見えてくること
スサノヲを祀る氷川神社は、今でこそ内陸の大市街地の一角にありますが、そこは昔、古東京湾が大きく湾入した水際の地でした。
そこから産業道路を南に走ると、「見沼田んぼ」に突き出した舌状台地の先端部分にイナダヒメを祀る氷川女體神社が鎮座しています。
そして、2社のほぼ中間にあって、見沼の対岸に鎮座する「 中山神社」は 、スサノヲとイナダヒメの子とされるオオナムチを祀っています。つまり昔の広大な見沼のまわりに鎮座する男體社・女體社・子社は、夫婦・親子という家族関係だという面白い説(前述した)があり、思わず納得してしまいます。
しかしはるか昔に思いをはせれば、氷川大神は「ヒカハ」にちなむ極めてローカルな神であって、全国区の神ではなかったということですね。
このようにセットと考えられる神社は他にもたくさん見られますが、関東地方では、鹿島神宮・香取神宮は古香取海を挟んで相対するように鎮座しており、一対の神社とされます。
古代の水際に立地していた神社としては、大阪の枚岡神社や住吉大社、岡山平野の吉備津神社などがあり、福津平野の宗像大社、福岡平野の住吉神社も海に面していました。これら有名古社は、交易に都合のよい海辺や水辺に面した集落の紐帯として創始されたといえるでしょう。
例えば、古代の岡山平野は、今よりもはるか内陸まで海が入り込んでいました。岡山市の市街地にある児島湖は海につながる内海ですが、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、今よりも海が内陸まで入り込んでいた名残です。吉備津神社は瀬戸内海の海岸から遠く離れたところに鎮座していますが、かつては境内の際まで海が入り込んでいました。
また、河内平野の大部分は、かつて河内湖と呼ばれる広い内海となっていて、その奥まった水際に枚岡神社は鎮座していました。そこは『古事記』の神武東征物語に登場する白肩津で、今は現在の海岸線から十数キロも離れた東大阪市の日下にあたります。
スサノヲを祀る有名古社の来歴
一般的にスサノヲは暴れ神のイメージが強く、どちらかと言えば人気がないように思えます。したがってスサノヲを祀る神社の数は、出雲地域はともかく、全国レベルで見ると非常に少ないのが現実です。
氷川神社の他にも牛頭信仰系の神社がスサノヲを祀っており、代表的な神社として、八坂神社と津島神社があります。この数少ないスサノヲを祀る神社は、古くから一貫してスサノヲを祀っていたのでしょうか。
〇 八坂神社
現在の祭神はスサノヲ、イナダヒメ、八柱御子(やはしらのみこ)ですが、6世紀半ば頃には地域の農耕の神が祀られていました。その後、牛頭天王が合体し、さらにその後、スサノヲが重なったようです。
牛頭天王もスサノヲも疫神ですが、丁寧に祀れば病から守ってくれる神になるという共通点があります。869年には疫病の蔓延を鎮めるために祇園祭が始まっています。
明治までは「祇園社」「祇園感神院」を名乗っていた。つまりスサノヲ信仰は牛頭天王信仰に乗っかる形で浸透していったということになります。
〇 津島神社
社伝によれば、韓国から戻ってきたスサノヲが対馬に留まり、6世紀頃に当地に移ってきたので、これを祀ったことが創始とされています。
しかし、平安時代中期の『延喜式』にその名はなく、大きな勢力となったのは牛頭天王信仰が高まった12世紀以降で、当時は「津島牛頭天王社」と称されていました。八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社とされ、一時期は「全国天王総本社」と称されたが、明治の神仏分離で祭神がスサノヲと定められました。
武蔵国一宮は氷川神社のほかに氷川女體神社と小野神社がありますが、長い間にわたり、氷川神社と小野神社は熾烈な勢力争いを繰り広げたのは有名で、武蔵国一宮を「小野神社」とする説もあるので、これにも若干触れてみます。
小野神社との一宮争い
氷川神社が現在に至る一宮として確定したのは江戸時代後期からであって、それまでは、小野神社との一宮の地位をめぐる攻防がありました。
小野神社は東京都の聖蹟桜ヶ丘駅近くにひっそり佇んでいます。余程詳しい地図でないと見つかりません。
現在「氷川神社」は文句なしの武蔵国一宮ですが、756年の太政官符には「小野神社」の名はあるものの「氷川神社」はなく、「氷川神社」の社名が古文献で確認できるのは8世紀後半になってからと言います。
その後、927年の『延喜式』では「氷川神社」は最高位の「名神大社」に位置づけられましたが、逆に「小野神社」は「小社」にとどまり、この時点では「氷川神社」に分があったようです。
「氷川神社」の国家的地位は極めて短期間に上昇しました。この背景については、宮瀧交二氏の説に納得性があります。「武蔵国で生まれた丈部直不破麻呂が、氷川神社の祭祀権を獲得すると同時に中央でも活躍し、朝廷に対する働きかけが功を奏した」と言います。事実、『続日本紀』には同時期、不破麻呂が活躍した記事が載せられています。
しかし地元では、中世の長い間にわたって、「小野神社」を「一宮」とする空気が強く、「小野神社」が一宮、「小河神社」が二宮、「氷川神社」は三宮とされてきました。つまり中央と地元で認識のずれが生じていたわけですね。
実際、「小野神社」に軍配を挙げたくなる客観的な条件は揃っています。
「小野神社」の近く、多摩川を挟んだ反対側には、国府が置かれ、国分寺や総社もありました。総社であった「大国魂神社」は今でも崇敬を集めています。
この一帯は立川段丘上で、都から東海道を下ってくると、東京湾から多摩川を遡り直接アクセス出来ます。また東山道との連絡も容易でした。当地は交通の要衝地として大いに繁栄したわけですね。こうしてみると、中世においてはどうみても「小野神社」の方が「一宮」に相応しかったようです。
時が経過し江戸時代後期以降は、「氷川神社」が徳川政権から篤い崇敬を受け、「一宮」という社格を与えられ現在に至っています。一方の「小野神社」は度重なる戦乱や多摩川の氾濫で衰微し、宮司も常駐しない小さな神社となってしまいましたが、今でも武蔵国一宮を名乗り続けています。