155 大山祇神社と三嶋大社 (original) (raw)


<大山祇神社拝殿>

今回は、『古事記』神話で有名な大山津見神(おおやまつみ)と事代主神(ことしろぬし)に関係する有力二社、伊予国一宮の「大山祇神社」と伊豆国一宮の「三嶋大社」を取り上げてみます。なぜ東西に遠く離れた2社を取り上げたのか、実は「みしま」という言葉で繋がっているかに見える両社の関係が実際はどんなものなのか確認することがその動機です。

大山祇神社(伊予国一宮) 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は芸予海峡の大三島に鎮座し、主祭神は大山積神ですが、三島大明神とも称されています。当社から勧請したとする三島系神社や大山祇系神社は、四国を中心に東日本まで広く存在しているためか、日本総鎮守とも呼ばれます。
大山祇神社の名は古文献にもありますが、一般には三島あるいは御島から、大三島大明神や島社、あるいは単に大三島と呼ばれてもいました。
明治時代に入ってから社名を大山祇神社と定めています。ただし、祭神の表記は大山積神で、鳥居に掛かっている扁額も大山積神社となっています。

「記・紀」神話では大山積神は、「山の神」とされ、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめ)の父神なので、天孫系の外戚第一位ということになります。

『伊予国風土記』逸文によれば、この神は百済から渡来して摂津国の三島(御島)に鎮座し、和多志大神と呼ばれたという伝えもあります。和多志は「渡し」につながるので、山の神であると同時に「海の神」でもあるとされます。一方、和多は綿津見(海神)の「わた」であるともされるので、いずれにしても海の神の要素も持ち合わせているようです。

鎮座地の大三島は芸予海峡にあり、山陽・南海・西海の三道、航路の要衝であるため、ここを押さえることは瀬戸内全体の制海権を得ることになります。

「記・紀」の国生み神話では四国全体を「伊豫の二名島」で表しています。当地は古代から四国の代名詞になるほどの要衝地として認識されていたわけですね。

その芸予諸島で最大の島が大三島で、この神を大三島の南東部に祀ったのは伊予国造の乎知命です。
さらに越智氏の子孫が、現在地(大三島西岸で標高436.5メートルの神体山、鷲ヶ頭山の西麓)に遷座し、越智氏とその派生の河野氏が氏神として代々、祀ってきました。

和多志大神でもあるため、特に水軍の崇敬が篤く、河野氏の率いる三島水軍は大山積神を守護神として崇め、一時期、瀬戸内最大の水軍でした。村上水軍とも近かったらしい……。

実際、三島水軍は瀬戸内の大半を支配下においていました。源平合戦以降、武家は瀬戸内の制海権を得るために、越智氏や河野氏を籠絡し、武器武具などを寄進し武運長久を祈願したとされます。つまり当社は、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から崇敬を集めてきた歴史があります。

源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・国の重要文化財の指定をうけた日本の武具類の約4割が当社に集まっており、甲冑の保有は全国一です。
こうして集積された武具は神社に隣接した紫陽殿と国宝館に集結保存されています。 源義経と頼朝が奉納した「赤絲威鎧大袖付」や「紫綾威鎧大袖付」は確かにすばらしい代物です。

くるまによるアクセスは尾道から「しまなみ海道」を進むのがベスト。向島、因島、生口島を経て大三島でインターチェンジを降り、大三島の中央部まで進めば「大山祇神社」に至ります。


<多々羅大橋を通過すれば大三島>

当社の西側1キロ弱の宮浦港に一ノ鳥居があります。境内入口に立つニノ鳥居には「日本総鎮守 大山積大明神」の扁額がかかっています。すぐ後ろに見えるのは、ほぼ700年ぶりの再建が成った真新しい素木の総門。古図を参考に建築様式が決められたらしい……。


<正面鳥居>


<再建なった総門>

総門の奥、66万平方メートルもある広い境内は左右から鬱蒼とした樹叢に覆われやや暗く、国の天然記念物38本を含む大楠の群生が歴史の重みを感じさせます。
境内左には天然記念物の「能因法師の雨乞いのクスノキ」が飾られていますが、これは樹齢3000年といわれる巨木の残欠だそう。その左には、21体の木造神像を祀る十七社が鎮座しています。
正面には乎知命お手植えの大楠がどっしりと構える。樹齢は2600年とのこと。当社のシンボルで、やはり天然記念物です。

<樹齢2600年の大楠、大楠の先に神門>

大楠の後ろの一段高い神門をくぐると正面は拝殿です。
拝殿と神門は廻廊で結ばれていますが、左側が北廻廊、右側が南回廊なので、神社は西向きであることがわかります。
拝殿に連接して奥に流造本殿が建ち、左右に上津社、下津社が鎮座します。上津社には大雷神、下津社には高靇神が祀られ、由緒書には「三社あわせて大山祇神社という」とあります。
この三社は、当社後方にある鷲ケ頭山など三山を神体山として対応させたという説もあり、元々は自然神を祀っていたのかもしれません。


<拝殿と北廻廊>

今でこそ、瀬戸内の交通は尾道から今治まで「しまなみ海道」で直接結ばれ、大三島の重要性は低下してしまいました。それでも観光客を中心に「大山祇神社」は四国の外からも大挙押し寄せています。筆者が参拝した時も、多くの観光客が押しかけていました。外国人もちらほら。

神社で頂いた由緒書はなんと和英併記でした。英語の由緒書は初めて……。外国人参拝者が多いことの現われと思うが進取の姿勢には驚いた。せっかくなので目を通したら、「神社」をShinto shrine、「神」を God と訳していた。これで日本の八百万の神の概念が伝わるのだろうか、いささか心配ではあります。

三嶋大社(伊豆国一宮) 三嶋大社の鎮座する三島市は、伊豆半島の付け根部分にあって古くから交通の要衝地でした。境内も旧東海道に面しています。
御影石の大鳥居をくぐり奥へと続く参道は、神池の中央を通り抜け豪壮な総門に到り、次いで桜並木の間を抜けて神門に達します。神門をくぐると正面に舞殿があり、その先が本殿となります。拝殿は入母屋造平入で千鳥破風と唐破風向拝がつき、本殿は流造平入という立派な社殿です。


<三嶋大社拝殿、その奥に本殿>

社殿の材料は通常の桧ではなく堅い欅が使われており、装飾用の精緻華麗な木彫が見事。特に向拝の蟇股や、舞殿上部4面に施された「二十四孝」の木彫は見応えがあります。境内の金木犀は樹齢1200年とされる日本一の大木で、国の天然記念物に指定されています。

源頼朝が、平氏打倒のため挙兵した日に「三嶋大社」に立ち寄り、源氏の再興を祈願したのは余りに有名な話です。そして初戦に勝利した頼朝は、三嶋大明神の加護によるものと感謝し、即座に当社に土地を寄進したと伝わります。その後、平氏を打倒し鎌倉幕府を開き大願成就したことから、当社は関東武士から篤い崇敬を受けるようになります。以後、当社は幕府の守護神とされています。当社が武家社会の発端を開いたとも言えそうです。
頼朝以降の輝かしい歴史があるものの、当社の創始の状況は余り明確ではありません。
神社由緒によると、祭神は大山祇命(おおやまつみ)と事代主神(ことしろぬし)の二柱で、併せて三嶋大明神としています。

事代主は歴史的に三嶋大社との繋がりはなく、後世の付会と考えられますが、大山祇の方は、伊予国一宮の「大山祇神社」から当社に勧請されたと言います。
しかし真実はどうやらそう単純ではないようです。

まず事代主についてですが、この神は島根半島の東端にある美保神社の事代主神は「えびす」としても有名で、宮中では御巫八神の一柱になっています。この事代主は葛城地方の鴨都波神社の神でもありますが、両社とも三嶋大社とは無関係です。ところが事代主は大山祇神社や三嶋大社など三島系神社でも祀られています。なぜでしょうか。

三島系神社の祭神については、古くは大山祇神社由来の大山祇命でしたが、19世紀初頭の頃の平田篤胤の提唱により事代主神説が流布し、三嶋大社においても、明治6年(1873年)、主祭神を大山祇命から事代主神に変更しました。

しかし大正時代の頃から大山祇命説が再浮上したため、昭和に改めて大山祇命説が浮上すると、大山祇命・事代主神二神同座に改めるなどの変遷があったようです。
つまり、現在の祭神二柱は明治以降に定められた新しいものです。

次に大山祇命ですが、大山積を祀る大山祇神社の鎮座地は瀬戸内海の「大三島」なので、「みしま」つながりで、三島の地にある三嶋大社の祭神が大山祇と事代主の二神同座となってしまった可能性もありますが、はたして真実はどうなのでしょうか。

伊豆国の三嶋大社の「みしま」には、元々どのような由来があるのか、確認してみます。
有力なのは、「三嶋」は伊豆諸島を示す「御島」であり、三嶋大社の本来の鎮座地は伊豆半島先端の白浜だったという説です。
多くの三島系神社の名とは異なる三嶋大社独自の由来です。

『延喜式神名帳』にこの傍証があります。今の下田市には御島神を祀る「伊豆三島神社」と、妃神を祀る「伊古奈比咩命神社(いこなひめのみこと)の記載がある一方、今の三嶋大社鎮座地には「みしま」という名の神社の記載がありません。つまり、御島神と妃神は元々伊豆諸島にあって、伊豆諸島の噴火・造島を司る神でしたが、のちに下田市白浜に遷座し、さらに10世紀中頃から12世紀までの間に御島神だけを三嶋大社の現在地に遷座したと考えられるのです。

伊古奈比咩命神社は伊豆半島先端部、白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま、ひたつやま)」に鎮座し通称では白濱神社 (白浜神社)(しらはまじんじゃ)と呼ばれています。この火達山は伊豆諸島を祀る古代遺跡ですが、その祭祀は現在まで伊古奈比咩命神社の祭祀として続いています。


古代祭祀遺跡・・・海の縄文・弥生遺跡

境内の火達山は、祭祀遺跡として下田市指定史跡に指定されています。また、火達山に自生するアオギリ樹林は国の天然記念物に、柏槙(ビャクシン)樹林は静岡県指定天然記念物に指定されています。


<境内に残る柏槙の大木>

ついでに、歴史的な変遷を確認してみます。
前述したように、平田篤胤の提唱によって、現在まで三嶋大社や他の三島系神社を含めて伊豆半島各地の神社では、祭神事代主神説が定着しています。これらに対して、伊古奈比咩命神社社誌では、「記・紀」神話との比較はせず、「伊古奈比咩命」という独立の神格が大切にされているわけです。

<伊古奈比咩命神社正面入口、「伊古奈比咩命神社」の碑>

三嶋大社の祭神、事代主神・大山祇命のいずれも、大山祇神社の鎮座地「大三島=みしま」の連想から、つまり「みしま」の音から来た後世の付会とする説が有力です。真実は、「みしま=御島」すなわち伊豆諸島の神格化が御島神の発祥と理解すべきでしょう。

そして国府が置かれ交通の要衝地にあった三嶋大社が大いに隆盛したのに対し、妃神の社は今もひっそりと伊豆半島先端の下田市に佇んでいるのです。ただ、長い歴史を物語るように、社頭には「伊豆最古の宮」の碑が誇らしく建っています。

<「伊豆最古の宮」の碑、伊古奈比咩命神社拝殿>

三嶋大社に戻します。要するに「三嶋大社」は伊豆諸島の火山を司る神を祀っていたということになります。
当社の社殿は、記録の残る平安時代末期以来800年間に26回も造営されたと伝わっており、それだけ地震と噴火に悩まされ続けた神社と言えましょう。
最近では1854年の安政東海地震で倒壊し、安政から慶応年間にかけて復興しました。現在の欅材の豪壮な社殿はこの時のものです。

繰り返しになりますが、三嶋大社の三島大明神の「三島」は白浜海岸の正面に浮かぶ大島、利島、新島のこと。西暦700年の大宝律令で、国司が現在の三島市に設置されたが、12世紀までの間に白濱神社の祭神であった御島神(三島大明神)だけが移され、現在の三嶋大社が創建された……。

そして、残った伊古奈比咩命が白濱神社の祭神として残った。つまり、現在の三嶋大社の祭神は、もともと白濱神社の祭神だった三島大明神を引っこ抜いて祀っているという訳で、3万年以上の歴史を持つ伊豆半島・伊豆諸島の古代海人たちの祈り神を、時の政権が勝手にひょいと移してしまった……ということになるのでしょうか。

ところで、「三嶋大社」の神池には、神の使いの鰻が棲んでおり、氏子には「神のお使いだから食べない」という伝承があるようです。しかし不思議なことに三島市はその鰻が名物になっています。当然ながら水が良いことによるのですね。三島市は、富士山の雨水や雪解け水が各所で湧き出る「湧水の町」です。近くの柿田川湧水群や源兵衛川でも有名です。
広小路界隈には遠方から大勢の人が足を運ぶ鰻の名店があります。筆者も何度か通い舌鼓を打った楽しい思い出が蘇ります。