156 富士山本宮浅間大社と浅間信仰 (original) (raw)


<対馬に向かうANAの畿内から>

今回は、日本のシンボルとして古代から崇められてきたであろう富士山と浅間信仰に関係する神社について掘り下げてみます。
しかし、7世紀以前、富士山や浅間信仰に関する記述はほとんどなく、中央における関心が著しく低かったのは驚きです。縄文の時代から東国では畏敬の念をもって接していたでしょうに……。

前回、大山祇信仰と三嶋大社に言及したので、その延長線で浅間信仰についても触れたくなってしまったというのが筆者の心の内にありました。当ブログの古代史の範疇からは大きく外れますが、強いて言えば祭神の木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)が記紀神話に登場しています。このところずっと神社シリーズを載せているので、その一環としても許容できるのでは。
アイキャッチ画像には残雪が残る5月の富士山の雄姿を載せました(神社社殿の写真を紛失したため)。

富士山本宮浅間大社(駿河国一宮) 富士山は2013年6月、世界遺産に登録されました。
筆者は、今から半世紀以上も前の社会人1年目の夏、職場の仲間と一緒に富士山に登りました。当時も、五合目から頂上まで数珠つなぎの賑わいでした。今はインバウンドの登山者に大人気だそうな。
頂上に立った感激と素晴らしい景色は忘れられませんが、意外にも富士登山そのものは好きになれませんでした。
高山植物が少なく黒い溶岩や砂ばかり。残雪が無く岩場も少ない。池塘や湖沼もない。登り下りが単調で変化がない。
私は二度と登らないと決めて現在に至っています。

でも下界からの眺めは秀逸です。眺める富士は昔も今も大好きです。
旅に出ても、富士山がどの方向なのか、探し続け、そして見ることにこだわっています。列車や飛行機に乗れば必ず富士の雄姿を確認します。たとえ頂上しか見えなくても、遠く小さい姿でも、なぜか確認出来たことで安心し満足するのです。
東海道を移動する時は、裾野をのびやかに広げた全景が見えるので満足感で一杯になります。富士は本当に美しい……。

しかし富士山は古代人にとってただ美しいだけの山ではありませんでした。火を吹き鳴動する恐ろしい山でした。
現在の富士山は約1万年前から噴火活動を始めた新富士火山であり、奈良時代以降16回の噴火の記録があります。その多くが平安時代の噴火で、864年の貞観噴火は特に大きかったといいます。また江戸時代の1707年にも宝永大噴火が起きています。有史以来、富士山まわりの広い範囲が噴火と地震に見舞われ、大きな被害を受けてきた記録が残っています。

噴火、地震を鎮めるために、富士山の周囲には多くの神社が創建されました。
主要な神社としては、「富士山本宮浅間大社」のほか、「山宮浅間神社」「村山浅間神社」「須山浅間神社」「富士浅間神社」「河口浅間神社」「富士御室浅間神社」「北口本宮富士浅間神社」などが、富士山を囲むように鎮座しています。いずれも社名の「浅間」は「せんげん」と発音します。

このような噴火の歴史を振り返ってみると、現在私たちが富士山を単に美しい山と思っているのは、まさに平時の平和ボケと同じかもしれません。美しい富士だけを見て社会や経済を組み立てていると、いつの日かしっぺ返しを食らうのではないでしょうか。

それはともかく、前記の神社すべてが富士山本体とともに世界遺産に登録されています。登録名は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」となっており、自然価値よりも文化価値に焦点が当たっていることに注目すべきです。
信仰の拠点である神社の中で、総本宮の役割を持つのが駿河国一宮の「富士山本宮浅間大社」です。

「富士山本宮浅間大社」(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は全国1300余社の浅間神社の総本宮で、富士山の南西山麓にある富士宮市宮町に鎮座しています。その他の主要な神社はすべて、前述のように富士山まわりに鎮座しています。

宮町の大社通りに面して朱色の大きな正面鳥居が聳え、参道を進むと石鳥居、桜の馬場、楼門と続き、楼門をくぐると鮮やかな朱色に塗りなおされた社殿が現れます。

入母屋拝殿と本殿が幣殿で連結された権現造の社殿です。瑞垣内の本殿は、寄棟造の下階に流造の上階をのせた二階建で、独特の「浅間造」(せんげんづくり)と呼ぶ建築様式。
目を凝らしてよく見ると本殿の蟇股や組物などの細工も素晴らしい。
社殿の右奥には、富士山の雪解け水が湧出する湧玉池があり、昔はここで禊をしてから登拝したそうだ。
富士山の頂上には奥宮があります。標高3776メートルの剣が峰の手前で3700メートル地点です。富士山の八合目から上の全域が当社の境内地になっているようです。

当社の創始は、山宮(現在の山宮浅間神社)の地に磐境をもうけ、富士の山霊である浅間大神を祀ったことによります。
その後、坂上田村麻呂が勅命を奉じて、山宮から現在地へ遷座させ社殿を造営したという伝承があります。これはあくまで伝承……。

中世は、富士山の霊力にあやかろうとする多くの武家の崇敬を集め、源頼朝、北条氏、足利氏、武田信玄、豊臣秀吉らが社殿の修造や神領、宝物の寄進を続けたため、大いに隆盛したようです。

以前の社殿は大変壮麗な姿であったらしい。
文献には「社殿巍々として繞らすに百八十間の長廊を以てし頗る荘厳を極めしも、宝永年間の山焼、安政年間の地震等の為めに漸次毀損して」とあり、1707年の富士宝永山噴出や1854年安政東海地震などの災害により、かろうじて本殿、幣殿、拝殿、楼門等だけが残って今に至っているわけです。

当社の社名に「本宮」が使われるのは、静岡市にある浅間神社が「新宮」と呼ばれるのに対するものです。
当社は国府のあった静岡から50キロも離れていたので、10世紀に分祀して新宮の「静岡浅間神社」を造営したようです。筆者は未だ参拝していませんが、「静岡浅間神社」は、家康が駿府に落ち着いた後に財を惜しまず投入したので、絢爛豪華の社殿群に仕上がったようです。特に二階建拝殿は最高傑作とされるらしい。「本宮」も引いてしまうほどの名建築だという。

富士山を祭神として崇めてきた歴史は古く、一般には「浅間信仰」と呼ばれています。
元々は火山の神、火の神であったが、神話に登場する木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめ)が祀られるようになったのは意外にも最近のことで、江戸時代後半からです。主導したのは吉田神道らしいが、所詮無理筋です。
コノハナノサクヤヒメが火の中で出産したことから火の神と考えられるようになり、火山である富士山と結びついたということらしい。

富士山は琵琶湖の沈没で出来たという楽しい伝承があります。
江戸時代に広まったようですが、大昔に琵琶湖が陥没した反動で富士山が一夜にして隆起したというのです。
それに因み江戸時代末期にはコノハナノサクヤヒメ祭神説が次のように発展したという。
「上古に、一夜にして陥没して出来た琵琶湖と諏訪湖が基で、浅間山と富士山を湧出した。国土が非常に荒れてしまったので、時の天皇が驚き八百万神を集めて経緯を聞くと、大山祇神が、自分の娘のイワナガヒメを信濃に、コノハナノサクヤヒメを駿河に住まわせるために二山を作ったと告げた」。
本州中部の代表的な山として浅間大神の富士山と浅間山が火山繋がりで挙げられているのは、特筆すべきと思います。
昔は、火山は噴火すればするほど神威が高まったということでしょう。

しかし噴火では九州の阿蘇山の方が大先輩!
阿蘇山は世界最大級のカルデラ火山で、「火の国(肥の国)」のシンボルです。
過去に何度も大噴火を繰り返し、阿蘇神社の社殿もそのたびに焼失した。

11世紀以降、阿蘇大神は託宣神として朝廷から一目おかれるようになります。阿蘇山の噴火が神意を表しているとされ、噴火情報や旱魃疫病の兆候があればその都度、阿蘇神社の祭神は神階を累進した……。

阿蘇の語源についてはさまざまな説がある。その中でも、「アソ」や「アサ」のASが世界の多くの言語で、噴火・煙・湯気・火山灰・焼く等を意味する共通の語幹となっているのは、興味深い事実。
語源的には噴火を意味するという「アソ」があって、噴火する山で「アソヤマ」となり、さらに変化して「アサマ」になったのではないでしょうか。

謡曲の一つに『富士太鼓』がありますが、その中では、噴煙を出している浅間山に対して富士山は噴煙がないので、浅間山の方が格上であるとする場面が出てきます。

花園天皇が譲位した後の14世紀の初め頃、宮中で管弦の催しが行われることになり、四天王寺の楽人の「浅間」が太鼓の名手ということで召された。これを聞いた「住吉大社」の楽人の「富士」がお召もないのに太鼓の役を望んで推参した。

天皇はこれを聞き「古歌に『信濃なる浅間の岳も燃ゆるといへば、富士の煙のかひやなからん』とあるからには、名前こそこの上ない富士という名であっても、浅間は実力では富士よりまさっているのだろう」と言ったので富士を推すものはいなかった。

この顛末を聞いた浅間は富士の行動を憎々しく思い、富士を殺してしまう。そのあとのストーリーは富士の妻と娘が夫の形見を身につけ、太鼓こそ夫の敵とばかり太鼓を打つ場面へと続いていく。

この古歌は10世紀中頃の後撰和歌集に載っていて、元々は「贈り物の薫香が名前ほどすぐれたものではない」という意味で使われたものです。14世紀初めの頃は、現に噴煙を出している火山の方が格別に畏敬され神威が高かったという事実を、『富士太鼓』は明確に物語っているようです。

以上、駿河の浅間大社に触れたので、同じように木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)を祭神とする甲斐国の浅間神社にも言及したいと思います。

浅間神社(甲斐の国一宮) 浅間神社(あさまじんじゃ)の鎮座地は、甲府市の東にあたる笛吹市一宮町で、富士山のほぼ真北に位置します。
今でこそ山梨県の中心は甲府ということになりますが、甲府盆地の東端にあたる笛吹市は、古代の政治文化の中心地で、当社以外にも国分寺や総社も置かれていました。しかしここまで来ると前衛の山々が邪魔をして、ちょっとやそっとでは富士山は見えません。

国道20号線に面して大鳥居が立っていますが、まわりに高いものが何もないのでその偉容さは格別です。
北に向けて参道を進むと間もなく境内の入口に達し、そこには石鳥居と隋神門が建っています。
隋神門をくぐり境内を見やれば不思議にも社殿は横を向いています。富士山ではなく西側の南アルプスを背負っているのです。それどころか境内のどこからも富士山は望めない……。

境内は広くないが、『延喜式神名帳』では名神大社であり、中世には武田信玄による崇敬がことのほか篤かったという。富士山は見えなくとも、祭神は富士を意味するコノハナノサクヤヒメです。

当社は社名の「浅間」を「せんげん」ではなく「あさま」と発音します。実は、「せんげん」よりも「あさま」という読みの方が古式であるらしいことは、富士山本宮浅間大社の項でも述べた通りです。

富士山が世界遺産に登録された際、当社はその登録から外れてしまいました。
社名が浅間神社で、祭神が富士山と結びついたコノハナノサクヤヒメであるにもかかわらず、なぜ外れたのでしょうか。
実は、登録された8つの浅間神社には共通項があります。
当社を除いて各社は「浅間」を「せんげん」と発音します。
社殿は富士山の方角を向いているか鎮座地から富士の姿がよく見えます。

一方当社は「あさま」と発音するし、ご神体であるはずの肝心の富士山が見えません。当然と思えた富士山とのつながりに疑念が生じてしまうのですね。

由緒を調べていくと、当社は元々は富士山を祀る神社ではなかったように思われます。
当社の東南2キロ余の所に摂社の「山宮神社」がありますが、こここそ元々の当社本殿が鎮座した場所だといいます。
864年に富士山の大噴火があり、その翌年現在地へ遷座したようです。この時、祭神三柱のうち、コノハナサクヤヒメだけを当社に遷したものらしい。その経緯から「山宮神社」は元宮と呼ばれています。

付近には縄文時代前期まで遡る巨大な釈迦堂遺跡群があります。
恐らく、当地は原始的な自然信仰を起源とし南アルプスの山々を御神体として仰いできたが、平安期になって浅間大神と習合したのではないでしょうか。

「かいでみるよりするがいい」という品のない都々逸がありますが、これは「甲斐で見るより駿河が良い」を引っかけたものです。甲府盆地からは富士山の頭しか見えないので、元々富士山をご神体とするには無理があったといわざるを得ませんね。

かつては甲斐国一宮の地位をめぐっての争いもありました。甲斐国には浅間神社が3つあります。浅間神社の他は市川大門の「一宮浅間神社」と河口湖の近くに鎮座する「北口本宮富士浅間神社」です。
特に「北口本宮富士浅間神社」は大きな社殿や老杉に囲まれた広大な境内を有し、どう割り引いてみても「一宮」に相応しく思えます。
ただ、交通の要衝地、政治文化の中心地、武田信玄の崇敬などの要素が作用して「浅間神社」が「一宮」の地位を守り抜いたということなのでしょう。