高尾山が昭和初期に賑わっていたのはなぜ?多摩陵との関係や歴史とは? (original) (raw)

高尾山が昭和初期に賑わっていたのはなぜ?多摩陵との関係や歴史を知りたい!しんたろす(@mono_shimtaros)です('ω')

今回は昭和初期の高尾山が賑わっていた理由についてピックアップしてご紹介!

高尾山が昭和初期に賑わっていたのはなぜ?多摩陵との関係や歴史についても解説していきます。

本記事の狙い

✔高尾山が昭和初期に賑わっていたのはなぜ?

✔高尾山と多摩陵の関係は?

✔高尾山の歴史を知りたい

と気になっている方は、ぜひ本記事を参考にしてみて下さい。

高尾山の歴史とおおまかな流れ

高尾山は東京都八王子市に位置する標高599メートルの山で、古くから修験道の霊山とされてきました。

高尾山「浄心門」

修験道とは、山岳信仰と仏教、道教などが融合した日本独自の宗教で、自然を尊び、山岳修行によって悟りを開くことを目指したものです。

高尾山の歴史は奈良時代にさかのぼります。

行基という僧侶が、聖武天皇の勅命を受けて、西暦744年に高尾山薬王院を開山しました。

その後、南北朝時代の1375年には、京都醍醐寺の高僧である俊源大徳が高尾山に入山。荒廃していた薬王院を復興し、中興の祖となりました。

戦国時代には、北条氏が高尾山を保護。北条氏の定めた竹林伐採禁止の法により、高尾山の自然は守られました。

江戸時代には、幕府による保護が続き、高尾山は隆盛の時代を迎えました。この時代には、高尾山の森林の保護や植林も積極的に行われました。

第二次世界大戦後、高尾山の自然は再び保護され、現在に至っています。

自然豊かなコースが複数ある

昭和初期には、近くに造営された多摩陵に全国から人々が訪れ、あわせて高尾山へ訪れる観光客も増加したようです。

高尾山と昭和初期の観光開発

昭和初期(昭和2年)には高尾山ケーブルカーが営業を開始。

筆者も実際に乗車したことがありますが、日本一の急勾配と言われるだけあり、乗車箇所によっては力んでしまうことも。

日本一の急勾配と言われる高尾山ケーブルカー

1967年(昭和42年)には京王高尾線が開通し、都心からのアクセスが大幅に向上したことで多くの観光客が高尾山を訪れるようになりました。

また、高尾山の周辺には観光施設が集積し、観光客の利便性が向上しました。

山頂から眺める富士山は絶景

高尾山の山頂には展望台があり、晴れた日には富士山を眺めることができます。

多摩陵の影響

昭和初期には、高尾山の近隣に「多摩陵」が造営されました。

「多摩陵」は、東京都八王子市に位置する皇室墓地で、大正天皇陵、貞明皇后陵、昭和天皇陵、香淳皇后陵の4陵が造営されています。

大正天皇陵「多摩陵」は、1926年に崩御した大正天皇が、翌1927年に新宿御苑で斂葬の儀が行われ、翌日に陵所に埋葬されました。

陵墓は、前年に公布された皇室陵墓令に基づいて造営され、地名の由来は万葉集に出てくる「多麻の横山」などに見られる武蔵国の中心の「多摩郡」にちなみ、「多摩陵」と命名されました。

その東隣に位置する「多摩東陵」は、貞明皇后の陵で、1951年に崩御した貞明皇后が、同年に斂葬の儀が行われ、陵所に埋葬されました。陵名の由来は、大正天皇陵のほぼ東に位置するため「多摩東陵」と命名されました。

昭和天皇陵「武蔵野陵」は、昭和天皇が1989年に崩御した後、同年に斂葬の儀が行われ、造営中の陵所に埋葬されました。陵名の由来は、昭和天皇が自然を愛し、御製で「武蔵野」を詠んだことから、「武蔵野陵」と命名されました。

以上のように、「多摩陵」は、皇室の歴史とともに形成され、その名前や位置にはそれぞれの皇族の特徴や思いが反映されています。これらの陵は、我々が皇室の歴史を振り返り、敬意を表す場所となっています。

多摩陵が造営されたことで、多摩陵を訪れる人々が近隣の高尾山にも訪れるようになり、高尾山の賑わいに大きく寄与したと言われています。

高尾山の自然と文化

高尾山は自然豊かな場所であり、都市部に近いにも関わらず、良好な自然環境が保たれています。

豊かな自然と景色が楽しめる

また、高尾山薬王院などの文化財もあり、観光客にとって魅力的なスポットとなっています。

高尾山「浄心門」の先に薬王院がある

高尾山薬王院は、東京都八王子市の高尾山に位置する寺院で、真言宗智山派の関東三大本山の一つです。

正式な寺名は「高尾山薬王院有喜寺」ですが、一般には「高尾山」または「高尾山薬王院」と呼ばれています。

この寺院の歴史は古く、天平16年(744年)に聖武天皇の勅命により、行基菩薩によって開山されました。その際、本尊として薬師如来が安置されたことから薬王院と称するようになりました。

永和年間(1375年 - 1379年)には、京都の醍醐寺から俊源大徳が入山し、山岳信仰を基とする飯縄大権現(いづなだいごんげん)を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場として繁栄することとなりました。
江戸時代には、後北条氏の氏政の弟氏照が高尾山一帯に広がる椚田郷を寄進したという記録が残っています。

また、この時代には氏照文書を根拠に、境内である高尾山を朱印地とする運動が起こりました。
現在の高尾山薬王院は、自然豊かな高尾山の中に位置し、多くの観光客や参拝者に訪れられています。

その歴史と文化的価値は非常に高く、今後もその魅力は続いていくことでしょう。

高尾山が昭和初期に賑わっていたのはなぜ?まとめ

POINT

・ケーブルカーが昭和初期に誕生

・多摩陵が近隣に造営され訪問客が向上

・都市部に近いにも関わらず良好な自然環境を維持

今回は高尾山の昭和初期についてピックアップ、高尾山が昭和初期に賑わっていたのはなぜ?ということについて歴史を交えつつ解説しました。

高尾山が昭和初期に賑わっていたのは、交通の便の向上、観光施設の整備、多摩陵の影響、そして高尾山自体の自然と文化の魅力が大きな要因となってることが分かりました。

これらの要素が組み合わさり、高尾山は昭和初期に多くの人々に親しまれる観光地となったのです。

現在では、初心者にも上りやすくアクセスもしやすい山として多くの方に認知されている高尾山ですが、歴史という側面から見てみると違った一面が見えてくるかもしれません。

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