椎名林檎『放生会』のレコーディング&ミックスはどのように行われたのか〜エンジニア井上雨迩インタビュー (original) (raw)

井上雨迩

1176LNをHA的に使うことで、良い雑味が音に加わります

5月27日に突如として情報が解禁され、同月29日にリリースされた椎名林檎の新アルバム『放生会』。ここでは本作のレコーディングとミックスについて、エンジニア井上雨迩に尋ねた。

高域の雑味が良さを生む

——前作『三毒史』では、マスタリングせずに1曲1曲のミックスへ立ち返ってサウンドを突き詰めるという方法を採っていましたね。『放生会』の制作はどのように?

井上 当時のインタビューであんなことを言ったので、マスタリング・エンジニアの方に顔向けできなくなりましたよ(笑)。とは言え、今作でも同じようなことはやっているんです。CDとしてパッケージされる際はもちろん、サブスクでもApple MusicやSpotifyなどで最終的な調整はされてしまいますよね。そのギリギリまでは僕が責任を持つ、という感覚でやっています。

prime sound studio form

レコーディングやミックスで使用したprime sound studio form。写真は主にミックスで使ったroom 2だ。多数のアウトボードが置かれているが、井上はイン・ザ・ボックスでミックスを行っているため、使用していない。レコーディングではroom 1が使われた

——これまでプロジェクトのサンプリング・レートは32ビット・フロート/96kHzで作業されていましたが、今回も?

井上 そうです。サンプリング・レートが48kHzだと、周波数帯域としては24kHzくらいまでですが、96kHzでは倍の48kHzまで記録できますよね? 人間の可聴域は超えていますが、その周波数を人は皮膚で感じ取ることができているという話もあって。超高域も超低域も、雑味として存在することで良く感じられることがあるわけです。また、真空管アンプ・シミュレーターなどのプラグインを使って偶数次倍音を付加することがありますよね。例えば18kHzの音の二次倍音は36kHzになりますが、サンプリング・レートが48kHzだと当然そこまで表現できないし、折り返しノイズの問題も出てきます。だからオーバーサンプリングという方法があるわけですが、だったら最初から96kHzで録ればいいだろう、ということなんです。

——身体で感じる部分にアプローチできるわけですね。

井上 こういう話をすると怪しまれてしまいますけど、雑味のある高周波は人の心を豊かにしてくれるんです。森林浴が良いというのはよく言われることですが、自然の音……例えば鳥の鳴き声や踏みしめた落ち葉の音などは意外と超高域まで含んでおり、それらを体で感じられるから、自然に身を置くのが良いとされているんじゃないですかね。

——最近はイヤホンやヘッドホンで聴く人も多いですが、音楽体験としては全く別物になりそうです。

井上 そう思います。イヤホンやヘッドホンは耳周りにしか音が届かないですから。やっぱりスピーカーで聴いて音楽に浸ってもらうというのが、エンジニアにとってうれしいことです。

——椎名さんの歌録りでは、TELEFUNKEN Ela M 251やAMEK System 9098 EQ、UNIV ERSAL AUDIO 1176LNを使っていたと思いますが、こちらも変わらず?

井上 そうですね。機材は変わっていませんが、スタジオによってリファレンス・レベルが-16dBFSだったり-18dBFSだったりと、今は基準レベル設定の過渡期なので、それに合わせて手元でのボリューム操作は少し変わったと思います。

——基本的なパラメーター設定は今までと同じですか?

井上 いつもSystem 9098 EQはほぼいじらず通すだけで、1176LNをHAのように使ってレベルを上げています。そうすると、さっき話したような良い雑味が加わってくれるんです。椎名さんもEla M 251の癖をよく分かっていらっしゃるので、こちらでEQ補正などしなくとも、歌い方で調整してくれるんですよ。椎名さんの中にあるEQやコンプ、ひずみを使って歌ってくれるわけです。今回参加された女性ボーカリストの方々も、同じEla M 251で録っています。

——Ela M 251を使い続けているのは、やはり椎名さんの声に合っているからですか?

井上 僕が好きだという理由が大きいです。35年くらい前、キャピトル・スタジオに行ったときにエンジニアから“この型番の、この時期のEla M 251が良い”ということを教えてもらいました。それからその型番のモデルを探し、5年くらいたってから2本を見つけ、比較して手に入れたのがこのマイクです。当時のキャピトル・スタジオではEla M 251がドラムとかに立てられていたんですよ。“なんてことするんだ!”って感じですけど、当時スタジオは30本近くを持っていましたからね。

——カスタマイズされていたりしますか?

井上 やはり経年劣化があるので部品交換が必要になるんですが、現在は規制されている物質がオリジナル・パーツに使われていたりして、全く同じものにするのは難しいんです。でも、できるだけ当時の設計通りの音が出るようにいじっています。1年に1回くらいメインテナンスに出していて、そうするとすごく良くなって戻ってくるんですが、良すぎて高域がキツく感じることもあるんです。メインテナンス後に3カ月くらい待ってから椎名さんの録りに持ち出す、というスケジュールで使っていますね。

——System 9098 EQは通すだけとのことでしたが、EQ部分のパラメーターは全く触らないということでしょうか?

井上 EQ回路はスルーするように改造しているんです。アウトはEQ OUTとMIC AMP OUTがあるんですが、EQ OUTのほうを使っています。僕の個体の特性かもしれませんが、不思議なことにEQ OUTのほうがひずみ率が低いんです。

TELEFUNKEN Ela M 251 & AMEK System 9098 EQ

椎名や参加したボーカリストたちの歌録りに使用したマイクのTELEFUNKEN Ela M 251と、マイク・プリアンプのAMEK System 9098 EQ。Ela M 251は井上が30年ほど愛用しているマイクだ。System 9098 EQはEQ回路をスルーするように改造されており、信号は背面のEQ OUTより出力される

——それから1176LNでゲインを上げるわけですね。

井上 よく使われているのはINPUTを10時、OUTPUTを2時くらいにした設定ですが、僕はそれよりもさらにINPUTを上げていて、大体20dBくらい稼いでいます。その分OUTPUTを下げるわけですが、コンプがかかるので大幅に下げる必要はありません。このセッティングに驚く方もいますが、僕としては普通の設定なんです。

——参加された女性ボーカリストの方々のときも、同じような設定で録ったのでしょうか?

井上 いえ、もっと普通のセッティングにして、奇麗に録る方向で調整しました。例外として、新しい学校のリーダーズのSUZUKAさんは、椎名さんと同じセッティングでめちゃくちゃ良いテイクが録れましたね。

——1176LNは、曲ごとにパラメーターを調整したりするのでしょうか?

井上 いえ、アタック・タイムもリリース・タイムもほとんど変わりません。バラード系だったらアタック・タイムを緩めたりしますけどね。カ行が多い歌詞とかであればアタックを残し気味にしたり、英語の場合は語尾に子音が来るのでリリース・タイムを速めにしたり……こんな話、面白いですか?(笑)

——1176系コンプはプロアマ問わず使われていますし、参考になるお話だと思いますよ。

井上 リビジョンによって違いもあるし、癖も強いからなかなか難しいコンプだと思うんですよ。でも、歌でもベースでも、1176をかけるだけで前に出て存在感が増すという良さがありますね。

UNIVERSAL AUDIO 1176LN & EMPIRICAL LABS EL8 Distoressor

レコーディングで使用されたコンプレッサー。UNIVERSAL AUDIO 1176LNは歌録りなどで使用しており、System 9098 EQではなく、1176LNでレベルを稼いでいるという。写真のパラメーター・セッティングは、椎名の歌録りでも使った設定だ。EMPIRICAL LABS EL8 Distressorはキックとスネアの録りで使用している

——では鳥越さんのベースにも1176LNを?

井上 それがかけていないんです。昔はずっと使っていたんですが、今作では全くコンプをかけていないか、SSL SL4000Gのコンプを少し使ったくらいですね。なぜかと言うと、鳥越さんの演奏がすごいから自然と耳がいくし、その上で1176LNを通すと出すぎてしまうから。あと、石若さんがダイナミクスをしっかりと出すので、一緒に聴いた際に“エンジニアのほうでベースの強弱をコントロールしているな”という感じが出てしまうのが嫌だったんです。それで、鳥越さんにも自然なダイナミクスで演奏してもらおうと、あまりコンプレッションしないことにしました。

——石若さんのドラムも、そのダイナミクスを生かすような処理をしたのでしょうか?

井上 鳥越さんと比べるとコンプをかけているほうですが、各トラックにコンプは入れていないです。ドラム・ミックスを2つ用意して、そのうち1つはコンプレッションし、それぞれのフェーダーでバランスを取ります。ほとんどの場合はコンプしていないチャンネルのフェーダーが上がっていますが、例えばライド・シンバルでリズムを刻むときなどは、コンプしたほうのフェーダーを上げますね。ライド・シンバルのフェーダーだけを上げてしまうとうるさく聴こえてしまいますし、その代わりにパラレル・コンプで調整することで、粒立ち良く聴こえてドラマーも演奏しやすくなるんです。

——手元で操作して、すぐに演奏しやすい状況を作れるようにしているんですね。

井上 単純に自分が聴いていて気持ち良いかどうかを考えていますけどね。やっぱり録りって楽しいですから。一番最初に演奏を聴けるエンジニアという立場は最高じゃないですか。

——録りでのバランス感はミックス時にも反映されているものですか?

井上 より強弱をつけることはありますね。どうしても配信先などで最終的にダイナミクスがつぶれてしまうので、それを見越して調整します。例えば、オートメーションを書いてAメロはしっかりコンプし、サビではあまりコンプしないとか。そうすることで、サビでパワーが全開になったように感じられるんです。もちろん演奏でそういう表現がされていますが、オートメーションでコンプ感を調整してあげることで、聴こえにくくなっていたスネアのゴースト・ノートなども出てきてくれます。

——鳥越さんが、“自身の足元のエフェクターだけでなく、井上さんのほうでもひずませていたはず”と話していましたが、何かを足していたのでしょうか?

井上 ミックスの段階ではひずみを足している場合もあったと思いますが、録りではやっていませんね。でも、やっぱり最後の最後でひずむものなんですよ。CDレベルまで上げるときに、低域が多いとそこでひずみが生まれるんです。僕はその“低域が大きく出ることで生まれるひずみ”が好きなんですね。基本的に、レベルがでかいと人の耳で聴こえる音はひずむものです。すぐ近くで爆弾が爆発したら、当然ひずんで聴こえますよ。それが自然なことですが、良い音=ひずまないと認識されている方もいて、それは少し違うなと思いますね。

——井上さんのミックスはひずみ感が特徴的だと思っていたのですが、それは狙って演出したものではないのですね。

井上 そういうことは特にしていないです。サビ頭とかは当然音がでかいですから、ひずみやすいですが、自然なことだからそのままで良いだろうと。

——鳥越さんのウッド・ベースにはどんなマイクを立てましたか?

井上 NEUMANN U 67かU 47だったと思います。鳥越さんと出会ったころは低めにマイクを立てていたんですが、今回は少し上から狙うようにして、バチバチとした音を録りました。鳥越さんのバチバチした演奏がカッコいいんですよ。リズムとピッチが良いので、バチバチしていても嫌な感じにならない。ウッド・ベースをあんなに良いピッチで演奏できる人はそうそういないと思いますよ。エレキベースにはELECTRO-VOICE RE20とかを使ったと思いますね。

——ミックス時のマイクとラインのバランスはどのようにしましたか?

井上 ウッド・ベースは録りのときのバランスを崩さないようにしました。バチバチしすぎるのも良くないので、マイクのほうにディエッサーを使ったりしています。マイクとラインでは音域によってレベルの振れ方も違ったりするので、コンプをするときはそれぞれのトラックを混ぜてからトータルでコンプレッションしましたね。

——「公然の秘密 album ver.」では石若さんがドラムを新録しています。そのほかのトラックはシングル・バージョンと同様とのことですが、石若さんは“録った時期も場所も違うのに、井上さんはどうやって調整したんだろう”と不思議がっていました。

井上 ほかの奏者が石若さんのドラムに合わせて演奏しているかのように、タイミングやバランスを含めて全体をトリートメントしたんです。せっかくドラムが新しくなったので、シングル・バージョンと比べるとドラムのレベルは少しだけ大きくなっています。

——全トラックを調整するわけですから、かなり時間を要したのでは?

井上 時間はとてもかかりましたね。でも、“せーの”で一緒に演奏した雰囲気を作り出すためには、その方法しかなかったんです。

——「ちりぬるを」のキックなど、低域感が印象的なシーンもありました。サンプルを重ねるなどの処理をしているのでしょうか?

井上 「ちりぬるを」は椎名さんが打ち込んだ音源のキックですね。キックを重ねるのはあまり好きでないため、そのほかの曲でもやっていません。キックに取り付けてサブローを鳴らす機材もあったりしますけど、それだったらプラグインで超低域を加えたらいいだろうと思っていて。

——今作ではプラグインでの低域付加をしていますか?

井上 ええ、WAVES Infected Mushroom Pusherをマスターで使っていますね。

——ドラムではなく、曲全体に対してですか?

井上 もうマスター・チャンネルの一番最後の位置ですね。すみません、乱暴で……。もちろん少しだけかける程度ですよ。Infected Mushroom Pusherは、加える低域のピッチ名が表示されるので、とても分かりやすいですね。あえて曲のキーと合っていないピッチを選ぶと、少しかけただけでもしっかりと低域が感じられるようになります。それで今っぽさを出す……という言い方をするとちょっと恥ずかしいですけど(笑)。

——Infected Mushroom Pusherは曲によって使っている?

井上 全曲に使っています。すべてで低域を加える処理をしているかどうかは分かりませんが、Infected Mushroom Pusherはステレオ幅などもコントロールできるので、トータルに使うプラグインとして重宝しました。ステレオ幅の調整は、以前はIK MULTIMEDIA T-Racks Oneで行っていましたが、Infected Mushroom Pusherのほうが透き通るような倍音が得られて良い感じです。

WAVES Infected Mushroom Pusher

全曲のマスターに挿したというWAVES Infected Mushroom Pusher。エレクトロニック・ミュージック・デュオのInfected M ushroomとWAVESが共同開発したプラグインで、ミックスで重宝する機能が1画面にまとめられている。井上は主に低域成分を付加するLOWと、ステレオ・イメージをコントロールできるSTEREO IMAGEを使っているとのことだ。画面は「初KO勝ち」で使用した設定になっている。Infected Mushroomの後段にはIK MULTIMEDIA T-Racks Oneがあり、最終的なレベル感はそちらで調整しているそうだ

——やはり本作も、マスタリング的な観点からのアプローチが曲ごとにされていて、新録に合わせた全体のトリートメントなど、井上さんならではのミックスが1つのアルバムとしてのまとまりを生んでいる気がしました。

井上 時間はかかりましたが、手をかけて良くなるのにやらないのは罪ですからね。どんなことをやっているのかは聴いてもらうと早いんですが……サンレコにスピーカーを内蔵して音が出るようにするのはどうです?(笑)。

「初KO勝ち」プロジェクト画面

「初KO勝ち」プロジェクト画面

Perfumeののっちが参加した「初KO勝ち」のプロジェクト画面。表示されているFABFILTER Pro-Q 2、WAVES C1 Compressor、METRIC HALO Precision DeEsserは、椎名のボーカルに使用したプラグインだ。Pro-Q2で設定されている2ポイントはオートメーションでゲインをコントロールしており、“s”が含まれる歌詞やブレス位置で持ち上げることで、椎名の息遣いなどを演出しているそうだ。耳につく帯域は後段のPrecision DeEsserで抑えている

Release

『放生会』 椎名林檎
ユニバーサル・ミュージック:UPCH-29472(初回限定盤)、UPCH-20671(通常盤)

Musician:椎名林檎(vo)、名越由貴夫(g)、鳥越啓介(b)、石若駿(ds, perc)、中嶋イッキュウ(vo)、AI(vo)、のっち(vo)、宇多田ヒカル(vo)、新しい学校のリーダーズ(vo)、Daoko(vo)、もも(vo)、他
Producer:椎名林檎
Engineer:井上雨迩、小森雅仁、サイモン・ローズ、マット・ジョーン
Studio:prime sound studio form、SoundCity 世田谷STU
DIO、Victor Studio、LAB Recorders、音響ハウス、Abbey Road Studio、Bunkamura Studio

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