心を落ち着かせるお茶で自分を味わう (original) (raw)

反応しすぎる心を静かな場所へ

私はカフェインに弱い。パニック障害になったときから、極端にカフェインに弱くなったようだ。少ない許容量をオーバーすると発作の兆候があるので困ってしまうのだが、子供のころから弱かったわけではなく、抹茶も煎茶もやる家だったので、一般的な家庭よりもカフェインの摂取量の多い子供だったと思う。

抹茶はやはり苦くて、作法もやかましく、侘びと寂びなんてものが子供に分かるわけもなく少し苦手な行事という感覚でしかなかったが、玉露は好きであった。茶の湯と同じように煎茶道も流派がありるが、流派の数は煎茶道の方が多い。もちろんお点前もあるわけだがこちらは自由な雰囲気で味わえた。

とはいえ、短気な人がイライラするには十分なレベルの時間がかかるのだが、祖父が、同年代の知人を家に招いてお茶をふるまったときその知人から

「いや~、お茶一杯飲むまでに死んじゃうんじゃないかと思った」

というご意見をいただいて以後は、煎茶道に関しては色々と省略されたので(笑)子供の私でも堅苦しく感じなかったのかもしれない。

その成り立ちは違うけれど、茶禅一味な考え方はもちろんある。 とはいえ、私が教えられたのは「味わえ」ということのみである。心のありようで、味が違うというのは科学的ではないが、人間的である。

家出をした少年が「心配かけやがって!!」と涙ながらに叱る親から平手打ちをうけて口の中が切れたときの血の味と、暴力的な体育教師から理不尽に受けた鉄拳制裁で味わう血の味は違うものだし、デートに行く前の腹ごしらえの吉牛と、振られた後に食べる吉牛では同じ味なはずなのに後者は味さえしないことすらある。

そのように考えると「味わう」ということの中には必ず「自分」が入っているのだ。自分を味わっている。

心を静かにして「今」「この時」のお茶を味わうことは、いまこの時の自分を味わうということに通じているということだろう。

裏切りと謀略が当たり前、明日の命も領土も保障がない戦国時代の武人が味わうお茶というものはどうような味わいだったのか想像も出来ないが、居酒屋で上司の愚痴を言いながら飲むお酒のようなものではないことは確かではないかと。

陣点というものがあるが、それは迷いや死の恐怖を振り切るお茶であったろうと思う。そして、戦場から無事に戻って飲むお茶は、 生きているという実感のこもった味わいだったのではないだろうか。

現代は情報過多で「今、この時」に心をとどめておくことが難しいといわれている。考え事はマルチタスクであれこれ「保留中」であり、自分の理想と他人の評価とに振り回されて常に心は過去と未来を行き来して大人も子供も虚栄心ばかりが膨らんで、大して体を動かさぬのになぜか疲れている。

一杯のお茶をじっくり味わうということには、期待と不安、虚栄と理想、このような刺激への反応が止まらぬ心を、知に偏った心を、完璧主義な心を一旦落ち着ける効果があると私は思っている。 いま、この時に自分を呼び戻すというような効果が。

お茶の効力を得て心を静かな場所へ置き、お茶を通して自分の味わいを五感で確かめることは、自分のケアにもなるのではなかろうか。時には気づかなかった自分の味わいに気づくこともある。

自分に優しく一服さしあげるのも、いいものです。

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

茶の湯-わび茶の心とかたち (中公文庫 く 18-3)

茶の湯ブンガク講座 近松・芭蕉から漱石・谷崎まで (淡交新書)

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