読み方:あんしゅるすオーストリア併合 のこと。Weblio国語辞典では「アンシュルス」の意味や使い方、用例、類似表現などを解説しています。">

「アンシュルス」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

アンシュルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 14:23 UTC 版)

マクシミリアン・デ・アンゲリス」の記事における「アンシュルス」の解説

戦後オーストリア連邦軍大尉として復帰1921年7月少佐に昇進した。1926年1月第3旅団参謀転じ1927年11月からエンス陸軍学校戦術教官になった1929年1月中佐昇進1933年6月大佐昇進し9月士官大学副校長任命された。デ・アンゲリスは軍部内における熱心な国家社会主義信奉者であった1934年オーストリア・ナチ党クーデター起こした際は、ウィーン地区司令官務めるつもりでいた。1937年には非合法軍部ナチ組織指導的立場にあった1938年3月アルトゥル・ザイス=インクヴァルト短命内閣組織した際、ヴィルヘルム・ツェーナー(de:Wilhelm Zehner)大将1ヶ月後におそらくゲシュタポにより暗殺された)に代わる国防次官として入閣した国防次官としてアンシュルスに際するオーストリア軍ドイツ国防軍への編入影響力及ぼし反ナチス的な将校(前参謀総長アルフレート・ヤンザ de:Alfred Jansaなど)を退役更迭させた。1938年3月少将昇進同年7月歩兵第30連隊参謀、ついで8月にユーターボグ地区司令官転じる11月に第XV軍区砲兵司令官翌年6月第3軍集団司令部参謀転じた

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アンシュルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 23:37 UTC 版)

オットー・エンダー」の記事における「アンシュルス」の解説

エンダー1934年から監査院長を務めたが、1938年ナチス・ドイツによるアンシュルスがおこり、エンダーはその地位失ったゲシュタポ投獄された後、ダッハウ強制収容所収容された。1945年連合国により解放された。

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アンシュルス(オーストリア併合)

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アルトゥル・ザイス=インクヴァルト」の記事における「アンシュルス(オーストリア併合)」の解説

詳細は「アンシュルス」を参照 1938年2月26日シュシュニックは「オーストリア独立放棄せず」と宣言した。これに反発したオーストリア・ナチ党ドイツとの併合求めてテロ含めたデモ起こしたが、内相ザイス=インクヴァルト取り締まらないようにとオーストリア警察命令したこの後シュシュニック24歳上の国民によるドイツとの併合賛否を問う国民投票企図した(オーストリアナチ支持者はほとんど10代20代前半若者だったので、その層を投票から排除すれば、併合案は否決されるシュシュニック踏んでいた)。シュシュニックイタリアベニート・ムッソリーニにこの案の支持求めたが、ドイツとの関係悪化恐れムッソリーニからは賛同得られなかった。ヒトラーシュシュニック国民投票案に激怒し国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル大将オーストリア侵攻計画オットー計画」の実行準備開始させた。 3月11日午前2時頃にドイツ軍部隊国境出動オーストリア政府ヒトラーヘルマン・ゲーリングから国民投票延期シュシュニック首相辞任ザイス=インクヴァルト首相就任ドイツ秩序維持援助求めることを要求された。ドイツ政府要求を呑まざるを得ず同日午後7時シュシュニック首相辞任しヴィルヘルム・ミクラス大統領後任としてザイス=インクヴァルト首相に任命した首相となったザイス=インクヴァルトはただちにゲーリングからの指示ドイツ軍オーストリア進駐要請した。これに応じて3月12日午前8時からフェードア・フォン・ボック大将指揮下でドイツ軍オーストリア無血進駐開始した夜に首都ウィーンドイツ軍入った市民ドイツ軍熱狂的に歓迎した3月13日ザイス=インクヴァルト合併法(第1条で「オーストリアドイツ国一州である」と定める)を発布しようとしたが、大統領ミクラス署名拒否したため、ザイス=インクヴァルト署名だけで合併法が発布された。 3月14日ヒトラーウィーン入り、「ドイツ・オーストリア合併正式に宣言する総統布告」を発令したこれをもってオーストリアドイツの邦(州)の一つとなり、4月23日には「オストマルク州」と名付けられた。 なお1938年4月10日にはドイツオーストリア併合について賛否を問う国民投票選挙権20歳以上)が実施されドイツ9908%、オーストリアで99.75%の支持票があった。

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アンシュルス

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クルト・シュシュニック」の記事における「アンシュルス」の解説

1938年2月12日ベルヒテスガーデンシュシュニック会談したヒトラーは、オーストリア・ナチス指導者アルトゥル・ザイス=インクヴァルト入閣させるよう強制してシュシュニックも一旦はこれを受け入れた一方で2月24日シュシュニックオーストリア独立維持呼びかける演説行い24歳上の国民によるドイツとの併合賛否を問う国民投票企図した。オーストリアナチ支持者はほとんど10代20代前半若者だったので、その層を投票から排除すれば、併合案は否決されるシュシュニック踏んでいた。さらに、ドルフースが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘交渉して国民投票への協力引き換え非合法化取消約束したまた、ムッソリーニにこの案の支持求めたが、ドイツとの関係悪化恐れムッソリーニからは賛同得られなかった。 3月9日シュシュニック13日に「ドイツとの合併」か「自主独立」かを選択させる国民投票実施することを表明し開票作業には祖国戦線動員したヒトラーシュシュニック国民投票案に激怒し3月10日国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテルオーストリア侵攻計画オットー計画」の発動命令した同日ドイツ侵攻作戦情報が伝わると、シュシュニック国民投票中止余儀なくされた。 3月11日午前2時頃にドイツ国防軍国境出動オーストリア政府ヒトラーヘルマン・ゲーリングから国民投票延期シュシュニック首相辞任ザイス=インクヴァルト首相就任ドイツ秩序維持援助求めることを要求された。大統領ヴィルヘルム・ミクラス拒絶するように命じたが、シュシュニックドイツとオーストリアに住むドイツ人同士が戦うことは道義的に実際的軍事力の差)にも無理があると考えてドイツ政府要求呑むことを決めた同日午後7時シュシュニック首相辞任しミクラス後任としてザイス=インクヴァルト首相に任命したシュシュニック辞任前の最後演説次の通りであったドイツ政府今日1938年3月11日)、ミクラス大統領最後通牒手渡し時間制限付けてドイツ政府によって指定され人物ザイス=インクヴァルト)を首相に任命するように命じましたそうしないと、ドイツ軍オーストリア侵入するというのであります労働者による暴動起こり、血の河が流れオーストリア政府の手では制御出来ない事態生じたという、ドイツ伝播され報道一から十まで虚偽である事を、私は世界向かって言明します。ミクラス大統領は、我々は力に屈服した、我々はこの恐ろしい時期に際してすら血を流す用意がなかったからだ、ということオーストリア国民告げるように私に求めました。我々は軍隊に対して抵抗しないように命じることを決定しましたそういうわけで、私は心の心底から出るドイツ語告別言葉をもってオーストリア国民お別れ告げます神よオーストリア守り給え首相となったザイス=インクヴァルトはただちに、ゲーリングからの指示ドイツ軍オーストリア進駐要請した3月12日午前8時からフェードア・フォン・ボック指揮下のドイツ軍オーストリア無血進駐開始した夜に首都ウィーンドイツ軍入った市民ドイツ軍熱狂的に歓迎した3月13日ザイス=インクヴァルト合併法(第1条で「オーストリアドイツ国一州である」と定める)を発布しようとしたが、大統領ミクラス署名拒否したため、ザイス=インクヴァルト署名だけで合併法が発布された。4月10日にはドイツオーストリア併合について賛否を問う国民投票選挙権20歳以上)が実施されドイツで99.08%、オーストリアで99.75%の支持票があった。 シュシュニックハプスブルク家復活による独墺合邦(アンシュルス)を望んでいたとも言われており、ナチスそのものに対して嫌悪感抱いていたが、ドイツとオーストリア将来的には統一されるべきだという信念抱いていた(これは当時オーストリア左右両派に見られ発想であり、決して彼特有のものではない)。このためナチス・ドイツ対す強硬策を打ち出すことには躊躇する傾向があったとも言われている。また、オーストリア自国衛星国見ていたムッソリーニが、一転してドイツとの連携強化のためにドイツオーストリア併合容認する姿勢方向転換したことも誤算であった

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アンシュルス

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世紀末ウィーン」の記事における「アンシュルス」の解説

「アンシュルス」も参照 二重帝国ブラウナウ生まれたアドルフ・ヒトラー1889年 - 1945年)は父の死んだ1903年以後学問をうち捨てて画業専念し1905年にはリンツ高等実科学校退学して画家志してウィーン美術学校1907年1908年2度受験したいずれも失敗した当時ヒトラーは、貧民街どん底の生活を送っていた。彼はウィーンでの生活を振り返り、「息の根を止められそうなまむしの羽交いじめを、みずから体験したことのないものは、その毒牙決し通暁することはできない」と述べている。そして、彼自身ウィーンはわたしにとって最も根本的であったが、最も苦し人生学校であったし、今もそうである」と語り自分つくったのは20世紀初頭のウィーンだったとしている。ヒトラーは『我が闘争』(1924年)のなかでこう書いた。 「この国家内部空虚であり、それを救うことが不可能だ認めると私は気のめいる不満に襲われた。しかし同時に、この国家がなそうとしていることはドイツ民衆の不幸となることを確信をもって予感した。 この君主国の首都示している民族国家、つまりチェコポーランドハンガリールテニアセルビア民族混交は私には不快なものに思われたし、人類風紀を乱す忘れてならない、それはユダヤ人、さらにまたユダヤ人だ…この町で暮らせば暮らすほど、ドイツ文化古くからの中心地そこないはじめた外国民の混交対する私の憎しみ激しくなっていった。 この時期オーストリア部品合わせて結びつける接着剤古くもろくなってしまったモザイクのようなのだった。この傑作触れないでいるかぎり、それはうわべの生存あなた方をごまかすことができる。しかし、一撃加えられると、無数の塊に壊されるし、その一撃がいつもたらされるかだけが問題なのだ。この国が崩壊する時、ドイツ国民の解放がはじまるようにいつも思われるのだ」 第一次世界大戦後サン・ジェルマン条約ドイツとオーストリア合邦禁止していたが、オーストリア人ドイツへ帰属意識世界恐慌後の国内経済的苦境周辺国家の共産化社会民主党キリスト教社会党の間で繰り広げられ果てしない政権闘争などとともに強まっていった。1934年オーストリア共和国第一共和国)の首相エンゲルベルト・ドルフースオーストリア独自の独裁体制確立しウィーン市はその自治権奪われた。しかし同年、アンシュルスには断固反対立場貫いていたドルフースがナチスによって暗殺された。 1938年3月13日ウィーン入城したアドルフ・ヒトラーは、2日後3月15日王宮前の英雄広場で「オーストリア合邦宣言」を行い、「ひとつの民族、ひとつの国家、ひとりの総統」を謳い上げた。アンシュルスの成立には、上記のような国内外状況ならんでウィーンの人々共和国現状ひたすら憎んで大帝国復活」を夢見たことも、その要因だったといわれている。無血ウィーン入りしたヒトラーは「市民時代」の痕跡さえも根こそぎ奪った。アンシュルスはウィーン世紀末文化抹殺始まりでもあった。多様な民族文化が交わるコスモポリタン都市としてウィーンのあゆみは、こうして「国内から来た侵略者」によって中断余儀なくされた。ウィーンのユダヤ人たちは突如バケツブラシ持って集められ道路磨き強制させられ、その財産貯蓄不動産のみならず絵画コレクションも「アーリア化」のもとに没収された。ナチス親衛隊ウィーンでもユダヤ人虐殺の手決し緩めことはなく、少なくとも6万人にのぼるウィーン人がホロコースト殺害された。

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