ウィリアム・ヘンリー (化学者)とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

ウィリアム・ヘンリー
生誕 1775年12月12日マンチェスター
死没 (1836-09-02) 1836年9月2日(60歳没)ペンドルベリー(英語版
国籍 イングランド
研究分野 化学者 内科医
主な業績 ヘンリーの法則
主な受賞歴 コプリ・メダル (1808)
プロジェクト:人物伝

ウィリアム・ヘンリーWilliam Henry1775年12月12日 - 1836年9月2日)はイングランド化学者

マンチェスターにトーマス・ヘンリー(英語版)の息子として生まれた。ヘンリーの法則の業績で有名[1][2][3][4]

目次

生涯

ヘンリーはトーマス・パーシバル(英語版)のもとで見習いをし、後にマンチェスター病院にてジョン・フェリア(: John Ferriar)やジョン・ユイット(: John Huit)と働いた。 1795年からはエディンバラで医学を学び、1807年に学位を取得した。 しかし病気がち[注 1]のため内科医としての経験を積むことが出来ず、その間の時間を主に化学の研究、特に気体関係の研究に充てた。 ヘンリーの最も知られている論文(フィロソフィカル・トランザクションズ、1803年出版)では、異なる温度や気圧下において水に吸収される気体の量についての実験が記述されていた[5]。 この結果は今日ではヘンリーの法則として知られている。 ヘンリーのその他の論文では気体分析、 坑内爆発性ガス(英語版)、灯用ガス塩酸アンモニアの組成、尿路結石やその他病的な結石、熱による殺菌能力といった話題について扱っていた。 ヘンリーの著した『Elements of Experimental Chemistry』(1799年)[注 2]は当時相当な人気を博し、30年のうちに30刷に達した。 本書は、ドイツ語訳、オランダ語訳を通して日本にも伝わり、1837年から1847年にかけて宇田川榕菴によって『舎密開宗』として出版された[3]。 ヘンリーは後のマンチェスター工科大学(英語版)である機械工協会(英語版)の創設者の一人であった。

1808年には栄誉あるコプリ・メダルを受賞し、1809年2月に王立協会フェローに選出された[3][6]

1836年にヘンリーはマンチェスター近郊のペンドルベリー(英語版)という町に所有していた私的礼拝堂で銃により自殺した[1][3]

脚注

注釈

  1. ^ ヘンリーは子供時代の怪我がもとで生涯を通じて断続的な痛みに苦しめられた。
  2. ^ 『An Epitome of Chemistry』とも。

出典

  1. ^ a b Greenaway, Frank (2004年). “Henry, William (1774–1836)”. Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/12981. 2011年7月18日閲覧。 (subscription or UK public library membership required)
  2. ^ The Book of Manchester and Salford; for the British Medical Association. Manchester: George Falkner & Sons, 1929; pp. 34-35
  3. ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版 (2010) 『ヘンリー(Henry, William)』
  4. ^ 367日誕生日大事典『ウィリアム ヘンリー』 - コトバンク、2017年7月18日閲覧。
  5. ^ Henry, William (1803年1月1日). “Experiments on the Quantity of Gases Absorbed by Water, at Different Temperatures, and under Different Pressures”. Philosophical Transactions of the Royal Society (London) 93: 29–274. doi:10.1098/rstl.1803.0004.
  6. ^Library and Archive Catalogue”. Royal Society. 2010年11月18日閲覧。

発展資料

外部リンク