読み方:ばいろん[1788〜1824]英国の詩人のこと。Weblio国語辞典では「ジョージ・ゴードン・バイロン」の意味や使い方、用例、類似表現などを解説しています。">

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ジョージ・ゴードン・バイロン
アルバニア風衣装のバイロン
誕生 1788年1月22日 グレートブリテン王国 ロンドン ホレス・ストリート(英語版
死没 1824年4月19日(36歳没) ギリシャ 第一共和国 オスマン帝国 ジェザイル州)メソロンギ
職業 詩人政治家
国籍 イギリス
文学活動 ロマン主義
代表作 『ドン・ジュアン(英語版)』『チャイルド・ハロルドの巡礼』
ウィキポータル 文学
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第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788年1月22日 - 1824年4月19日[1])は、イングランド詩人貴族。バイロン卿として知られ、単に「バイロン卿」(_Lord Byron_)というとこの第6代男爵を指すことがほとんどである。

ゲーテが「今世紀最大の天才」と賞賛した19世紀ロマン派の詩人。ケンブリッジ大では悪友と交わって遊び暮らしたが、外遊後、長編物語詩『チャイルド・ハロルドの遍歴』を発表して有名になった。

情熱家で、ギリシア独立戦争ではギリシア独立軍側で参加したが、熱病にかかり死亡した[2]

生涯と作風

ジョン・バイロン大尉(第5代バイロン男爵ウィリアム・バイロンの甥)と2番目の妻キャサリン・ゴードンの間にロンドンに生まれ[3]、2歳の時にスコットランドアバディーンに移った。1798年に従祖父の第5代バイロン男爵が亡くなり、他に相続人がいなかったため、10歳にして第6代バイロン男爵となり、従祖父が遺した土地と館ニューステッド・アビーを相続するため、ノッティンガムへ移った。翌年ロンドンに出て1801年から1805年をハーロー校で過ごし、1805年ケンブリッジ大学に入学したが、学業を顧みず放埒な日々を過ごした。

詩集『懶惰の日々(英語版)』(1807年)を出版したが、翌年エディンバラ・レビュー(英語版)に非難され、諷刺詩『イギリス詩人とスコットランド批評家(英語版)』(1809年)を出版して鬱憤を晴らした。1808年にケンブリッジを去り、1809年から1811年までポルトガルスペインギリシャなどを旅し(ナポレオン戦争の影響でこのグランドツアーの際には地中海地方を旅した。)、帰国後ロンドンに住み、1812年上院で紡績工のラッダイト運動を弾圧することに抗議する演説をおこなって名を挙げた。この年旅行の成果である『チャイルド・ハロルドの巡礼(英語版)』1・2巻(1812年)を出版、生の倦怠と憧憬を盛った詩風と異国情緒が時代の好尚に投じ、大評判になった。

その間社交界の寵児として恋に憂き身をやつしたが、1815年にアナベラ・ミルバンク(英語版)と結婚した。このときにもうけた子が世界最初のプログラマーとされているエイダ・ラブレスである。だが翌年に別居し、その乱れた生活が指弾を受けたため、イギリスを去りスイスのジュネーヴシェリーに会い、ともにスイス各地を巡遊し、ヴェネツィアラヴェンナピサジェノヴァで退廃した生活を続ける。特にグィッチョーリ伯爵夫人(英語版)との関係が有名である。多くの作品の中で、冷笑と機知に満ちた『ドン・ジュアン(英語版)』(1819年 - 1824年)がこの期の代表作である。この作品の「事実は小説よりも奇なり」(_Truth/Fact is stranger than fiction._)は現代でも使われるほど有名である[4][5]

1823年ギリシャ暫定政府代表の訪問を受けた彼は2年前から始まったギリシャ独立戦争へ身を投じることを決意、1824年1月にメソロンギに上陸し[6]コリンティアコス湾の要衝、レパントの要塞を攻撃する計画を立てたが、熱病により同地で死亡した。

彼の死後145年が経過した1969年5月8日、詩協会(The Poetry Society)からウェストミンスター寺院に彼を記念した石碑が贈呈された[7]

いわゆるバイロニズムは、当時の偽善と偏見を嘲罵し、イギリス・ロマン主義を代表する作風であり、ロシアをふくむヨーロッパ諸国の文学に影響を与えた。日本でも明治以来もっともよく知られたイギリス詩人の一人である。

人物

バイロンの死

1810年5月3日にダーダネルス海峡をヨーロッパからアジアへ泳いで渡った[8][9]

政治的にはホイッグ党支持者でありトーリー党の外交政策を批判した[10]

数多くの女性との恋愛を重ねた。ジェーン・エリザベス・スコット(英語版)と1812年まで関係を続け、同年キャロライン・ラム(のちのイギリス宰相メルバーン子爵ウィリアム・ラムの妻)とつきあったがすぐに2人は破局した。その後もキャロラインは彼につきまとい続け、彼への思いから身をやつしやせ細った。これに対してバイロンは骸骨のようだと述べている[11]。また異母姉のオーガスタ・リーと関係を結び、彼女はエリザベス・メドラ・リーを産んだ。その後1815年1月2日、レディ・キャロラインの従姉妹のアナベラ・ミルバンクとダラムで結婚した。同年12月10日、2人の間にはエイダ・ラブレスが産まれたが[12]、翌1816年1月16日、アナベラは娘を連れて彼の元を去り、4月21日バイロンは離婚証書にサインをしている。その後ヴェネツィアに滞在した際には既婚のマリアンナ・セガティ、22歳のマルガリータ・コーニと関係を持った。コーニは読み書きが出来なかったが夫の家を離れ、バイロンと同居した。2人はしばしば争いバイロンは自身のゴンドラで夜を過ごすことが多かった。その後彼がコーニに家を出て行くよう言い放ち、彼女は運河に身を投げた。1818年から1820年にラヴェンナに滞在した際にはグィッチョーリ伯爵夫人テレサと関係を持った。

そんなバイロンが僅か36年の生涯に、詩人として数多くの詩集や詩劇をものすることができたのは人並み外れた速筆の故である。彼が詩集『ララ』を書いたのは、舞踏会から帰宅して衣服を脱ぎ換える間のことであり、詩劇『海賊』は4日間で、『アバドスの花嫁』は10日間で書いている。

また動物好きであり特に愛猫家であったため、愛猫5匹に加えて、馬や犬、猿、鳥を飼っていたという[13]

主著

肖像画(1824年)

訳書一覧

Byron, 1830

伝記・研究書

脚注

  1. ^Lord Byron | Biography, Poems, Don Juan, Daughter, & Facts | Britannica”. Britannica. 2025年1月22日閲覧。
  2. ^ 「19世紀の欧米文化(1)」『世界史詳覧』浜島書店、2022年2月5日(原著1997年)、222頁。 [_要文献特定詳細情報_]
  3. ^詩人バイロンについて”. 日本バイロン協会. 2020年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月22日閲覧。
  4. ^ デジタル大辞泉、ことわざを知る辞典『事実は小説よりも奇なり』 - コトバンク
  5. ^事実は小説よりも奇なり - 会話で使えることわざ辞典”. imidas. イミダス集英社. 2023年10月1日閲覧。
  6. ^ 藤田幸広「ギリシア独立戦争に対するByronとShelleyの反応とHellasに見られる読者獲得の戦略(藤田昌久教授退任記念特集号)」『国際経営論集』第29巻、神奈川大学、2005年3月24日、181-194頁、hdl:10487/4157NAID 110004625174
  7. ^Lord Byron”. Westminster Abbey. 2025年1月22日閲覧。
  8. ^ 酒井義夫(いずみ書房社長) (2010年1月22日). “青春の革命詩人・バイロン”. 2010年11月15日閲覧。
  9. ^Swim Hellespont”. swimhellespont.com. 2010年11月15日閲覧。
  10. ^ 鈴木美津子「バイロンに見るオリエント像」(PDF)『東北大学大学院国際文化研究科 同窓会会報』第6号、東北大学大学院国際文化研究科 同窓会事務局、2008年3月1日、4頁、2024年4月15日閲覧。
  11. ^Lady Caroline Lamb Facts & Information – Lord Byron’s Lovers”. English History. Marilee Hanson. 2025年1月22日閲覧。
  12. ^ イアン・スチュアート『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』水谷淳 訳、ダイヤモンド社、2019年1月16日、184-185頁。ISBN 978-4-4781-0407-1
  13. ^ タムシン・ピッケラル・五十嵐友子 訳『世界で一番美しい猫の図鑑』2014年 p. 85

関連項目

外部リンク

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イングランドの爵位
先代ウィリアム・バイロン **第6代バイロン男爵**1798年–1824年 次代ジョージ・バイロン(英語版