トリアノン条約とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

大正九年六月󠄁四日佛蘭󠄁西國トリアノンニ於テ帝󠄁國全󠄁權委員ノ同盟及󠄁聯合國全󠄁權委員竝洪牙利國全󠄁權委員ト共ニ署󠄀名調󠄁印シタル平󠄁和條約󠄁及󠄁附屬議定書
署名時の様子。中央はアルベルト・アポニー(英語版)。
署名 1920年6月4日
署名場所 大トリアノン宮殿
発効 1921年7月31日
寄託者 フランス共和国政府
文献情報 大正10年7月26日官報第2696号条約第3号
言語 フランス語、英語、イタリア語
条文リンク 条約本文 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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大トリアノン宮殿(2004年撮影)

トリアノン条約(トリアノンじょうやく、ハンガリー語: Trianoni békeszerződés、英語: Treaty of Trianon、フランス語: Traité de Trianon、ドイツ語: Vertrag von Trianon)は、第一次世界大戦の敗戦国となったハンガリー王国連合国が結んだ講和条約。

1920年6月4日ヴェルサイユトリアノン離宮で調印された(トリアノン宮殿大トリアノン小トリアノンがあるが、この条約は前者で調印された)。

背景

第一次世界大戦までのハンガリー王国オーストリア=ハンガリー二重帝国の一部であったが、帝国はヴィラ・ジュスティ休戦協定により第一次世界大戦に敗北し、同時に国内の内乱と皇帝カール1世の退位の結果解体された。ハンガリーは分離独立したため、オーストリア(第一共和国)とは別に講和する必要が生じた。さらにルーマニア王国トランシルヴァニア全土に進駐して併合を宣言しており、チェコスロバキアスロバキアに進駐して領有権を主張していた。また、前年の1919年にはルーマニアがハンガリー革命後の混乱に乗じて首都を占領し、ハンガリー・ルーマニア戦争が勃発していた。こうした状況から、ハンガリーは国境を確定する必要に迫られ、条約締結に至った。

内容

トリアノン条約による割譲地域(二重帝国時代にハンガリー王国の領域になかった地域を含む)
紺色:チェコスロバキア共和国領
茶色:ルーマニア王国領
赤色:オーストリア共和国領
灰色:セルブ・クロアート・スロヴェーン王国領
ピンク色:ポーランド共和国領
緑色:イタリア王国領

この条約により、ハンガリーはオーストリアとの合邦以前から領有していた歴史的領土の大半にあたるスロバキアクロアチアトランシルヴァニアを、それぞれ連合国側に就いた周辺の戦勝国であるチェコスロバキア共和国セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア王国)、ルーマニア王国に割譲した。

また、直前まで同じ帝国であった片割れの敗戦国であるオーストリア共和国に対しても、ドイツ系植民が多数派を占めていた西部国境地域を割譲し(→ブルゲンラント州)、現在のハンガリー領に相当する領域へと大幅に縮小された。

加えて、石炭や家畜などの連合国側への無償提供、さらには賠償金の支払いの要求など、一方的で過酷な条件を連合国側から押し付けられた。

割譲した地域

併合を承認した地域(旧ハンガリー王国領外)

その後

ベーケーシュチャバに置かれたトリアノン条約の記念碑。ギロチンで分断されるハンガリーを現している。

当時のハンガリーは相次ぐ政権交代や戦乱で混乱状態にあったため、この過酷な要求を飲まざるを得なくなり、講和条約に調印した。この条約の厳しい内容により、その後のハンガリー王国は右傾化し、第二次世界大戦枢軸国側に立って参戦する遠因となった。また、ハンガリーの報復を恐れたチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアはフランスと小協商を結成し、ハンガリーに対抗しようとした。しかしこれはドイツという大国の前には無力であった。

ハンガリーは1939年以降にミュンヘン協定やドイツの後押しを受けたウィーン裁定により喪失した領土の大半を回復するが、敗戦後にはウィーン裁定による領土回復は無効とされた。

2010年、ハンガリーは6月4日を「国民連帯の日(Nemzeti Összetartozás napja)」と定めた。

関連項目

英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

注釈

  1. ^ 当時の国名は、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ・クロアート・スローヴェン王国)」

外部リンク

中国大陸の歴代政権が締結した主な国際条約・協定・合意
以前(-1644年) 唐・新羅の同盟 (660年) 長慶会盟 (821年) 澶淵の盟 (1004年) 慶暦の和約 (1044年) 海上の盟 (1140年) 紹興の和議 (1142年)
(1636年-1912年) 三田渡の盟約 (1637年) ネルチンスク条約 (1689年) キャフタ条約 (1727年) 穿鼻草約 (1841年) 南京条約 (1842年) 虎門寨追加条約 (1843年) 望厦条約 (1844年) 黄埔条約 (1844年) アイグン条約 (1858年) 天津条約 (1858年) 北京条約 (1860年) 日清修好条規 (1871年) 芝罘条約 (1876年) イリ条約 (1881年) 中朝商民水陸貿易章程 (1882年) カシュガル条約 (1882年・1884年) 天津条約 (1885年4月) 天津条約 (1885年6月) 中葡和好通商条約 (1887年) 下関条約 (1895年) 遼東還付条約 (1895年) 露清密約 (1896年) 日清通商航海条約 (1896年) 旅順・大連租借に関する露清条約 (1898年) 展拓香港界址専条 (1898年) 満洲に関する露清協定 (1900年) 北京議定書 (1901年) 満洲還付条約 (1902年) 満洲善後条約 (1905年) 日清協約 (1909年)
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