パウロ・カーカッシとは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

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パウロ・カーカッシ(Paulo Carcasci、1964年1月7日[1] - )は、ブラジル出身の元レーシングドライバー1991年の全日本F3選手権チャンピオン。

略歴

初期の経歴

ブラジルの裕福な家庭で生まれ、13歳の時、1977年からレーシングカートを始める。その後ヨーロッパに渡り、1985年から欧州フォーミュラ・フォード1600に参戦し頭角を現す。

イギリス

1988年イギリスフォーミュラ・フォード2000でチャンピオンとなる。イギリスフォーミュラ・オペルやフォーミュラ・ルノーに参戦後、イギリス・フォーミュラ3選手権にステップアップ。1990年はイギリスF3000選手権にも参戦し、イギリスF3000とフォーミュラ・オペルで1勝ずつを挙げた。

日本

全日本F3

1990年に来日し、1991年からトムスが新たに独自シャシー031Fを開発した全日本F3選手権と、ナビ・コネクションから全日本F3000選手権にダブルエントリーした。この頃の両選手権は、バブル景気により多種多様な企業がスポンサーとして名乗りを上げたことで、国内外の若手ドライバーのみならず、外国人の経験豊富なドライバーの参戦も相次ぎ、参加台数は40-50台という盛況であった。

1991年には競合を勝ち抜き全日本F3選手権チャンピオンとなる。

全日本F3000

1992年から、ナビ・コネクションから全日本F3000選手権に専念し、第1戦ではリタイアに終わったものの、デビュー2戦目で早くも富士スピードウェイで1勝をあげる。この年はタイトル争いにもかかわった。翌1993年も全日本F3000に参戦したが、表彰台こそ獲得したもののリタイアも多く、このシーズンを最後に日本を離れる。

その後

日本を離れてからは国際F3000選手権や、インディ・ライツなどにスポット参戦。1996年に引退した。引退後はブラジルの若手ドライバーのマネジャーとして活動。

主なレース戦績

イギリス・フォーミュラ3000選手権

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1989年 マンセル・マジウィック レイナード 88D コスワース DFV BRH THR OUL DON4 BRH SNE SIL 5位 13
CoBRaモータースポーツ レイナード 88D コスワース DFV OUL1 BRH6

全日本F3選手権

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1991年 ITOHAM RACING with TOM'S トムス・031F トヨタ・3S-G _SUZ_1 FSW FSW1 _SUZ_1 TSURet SENRet MIN2 **TSU**Ret SUG1 SUZRet SUZ21 1位 42

全日本F3000選手権

所属チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1992年 NAVI CONNECTION RACING SUZDNS FSW1 MINRet SUZ9 AUT5 SUG9 FSWRet FSWRet SUZ8 FSW9 FSWRet 11位 11
1993年 SUZ11 FSWRet MIN3 SUZ7 AUTC SUG13 FSWC FSW7 SUZ7 FSW10 SUZ13 14位 4

国際F3000選手権

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1994年 ノルディック・レーシング SIL PAU CAT PER HOC SPA ESTRet MAG NC 0

脚注

  1. ^ F3 SUPER CUP パオロ・カルカッシ(トムス) 1991日本グランプリ公式プログラム 116頁 鈴鹿サーキットランド 1991年10月発行

外部リンク

タイトル
先代服部尚貴 **全日本F3選手権**1991年 次代アンソニー・レイド