ヒルデガルト・クネフとは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

ヒルデガルト・クネーフHildegard Knef
1969年撮影
本名 Hildegard Frieda Albertine Knef
生年月日 (1925-12-28) 1925年12月28日
没年月日 (2002-02-01) 2002年2月1日(76歳没)
出生地 ウルム
国籍 ドイツ
配偶者 Kurt Hirsch (1947-52)David Cameron (1962-76)Paul von Schell (1977-2002)
主な作品
ビリー・ワイルダー悲愁
受賞 ロカルノ国際映画祭最優秀女優賞1948年『題名のない映画』
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1946年ベルリンでシェークスピア演劇に出演したヒルデガルト(左)。

ヒルデガルト・クネーフHildegard Knef, 1925年12月28日 - 2002年2月1日)は、ドイツ出身の女優、シャンソン歌手、作家ヒルデガード・ネーフ(Hildegard Neff)とクレジットされていることもある。1948年から1968年までドイツ語圏外でそう名乗っていた。本名はヒルデガルト・フリーダ・アルベルティーネ・クネーフ(Hildegard Frieda Albertine Knef)。

1951年の『罪ある女』でドイツ映画で初めてヌードになった女優。

略歴

1925年12月28日ウルムで生まれる。第一次世界大戦退役軍人である彼女の父親は、クネフ誕生の6か月後に梅毒で亡くなり、母親はベルリンの工場で働いた[1]

1940年に14歳で演技の勉強を始めた彼女は、15歳からUniversum Film AGの見習いアニメーターになった。 彼女はスクリーン・テストに合格した後、ベルリンのバベルスベルクにある州立映画学校に通い始める。そこで演技、バレエ、発声法を学んだ。ナチス・ドイツの崩壊前にいくつかの映画に出演したが、ほとんどは崩壊後に公開された。

1946年東ドイツの国営映画会社によって製作されたヴォルフガング・シュタウテの映画 「殺人者は我々の中にいる (原題: Die Mörder sind unter uns)」に「スザンヌ・ウォールナー」役で出演。本作は、東ドイツで第二次世界大戦後に公開された最初の映画となった。

1947年アメリカ人のカート・ハーシュ(Kurt Hirsch)と結婚(1953年に離婚)。

1948年、夫からアメリカ進出を勧められ、渡米。ハリウッド映画プロデューサーであるデヴィッド・O・セルズニックは、彼女に芸名を「ギルダ・クリスチャン(Gilda Christian)」に変更するよう提案したが、彼女は強く拒否[2]。代わりに、英語圏での発音のしやすさを考慮した「ヒルデガード・ネーフ(Hildegard Neff)」の芸名で活動を開始する[3][2]

1948年、映画「Film ohne Titel」での彼女の役割が評価され、ロカルノ映画祭で最優秀女優賞を受賞(後年、クネフはこの映画を「史上最高の作品」と評した)。

1950年4月14日、アメリカ合衆国市民になる。

1951年西ドイツ制作の映画「Die Sünderin」でマリーナ役を演じる。 この作品は、売春安楽死自殺といったカトリック的道徳心に背く行為を描写したうえ、クネフがドイツ映画史上初のヌードシーンを演じたことでスキャンダルを引き起こした[4]。カトリック色が強い映画批評誌Filmdienstは、すべてのカトリック教徒に対し上映をボイコットするよう呼びかけ、カール・クリンクハンマー牧師は、映画に対する抗議の一環として、悪臭を放つ爆弾を映画館に投げ込み、裁判にかけられた[5]。 ただし、抗議が向けられたのはクネフの裸のシーンよりも、売春安楽死自殺を美化するような描き方に対してであった[6]。このようなスキャンダルにもかかわらず、最終的に約700万人が映画を見たとされる[3]

1952年、映画「キリマンジャロの雪」に出演。コール・ポーターの勧めにより、映画内でポーターの曲を2曲(「Just One Of These Things」と「Alles war so leer / You Do Something To Me」)を歌うも、最終的に削除された[3][7](後年、クネフはこの映画を「陰惨」で「表面的」だと表現した[7])。

1955年コール・ポーターによるミュージカルシルク・ストッキングス」のニノチカ役でブロードウェイデビュー。ドイツ人として初めてブロードウェイで主役を務めた[8]。以後、1957年に活動の拠点を再びドイツへ戻すまでの2年間に675公演を行った[3]

1959年イギリスでの撮影中に、彼女は2番目の夫であるデイヴィッド・キャメロンに出会う。同年8月23日BBCはクネフがホストを務める「Hildegarde Neff Show」を放映する。

1960年代に入ると、演技から離れて歌の詞を書き始めた[1]。亡くなるまでの間に彼女は23枚のアルバム(4つのライブアルバムを含む)を発表し、130曲の歌詞を自作した。[8]

1962年、デイヴィッド・キャメロンと結婚。1968年5月16日、娘のクリスティーナ・アントニアを出産。

1970年自伝的作品「Der geschenkte Gaul」を出版[9]。17の言語に翻訳された。

1973年、出血に苦しんでいたクネフは子宮の摘出手術を受ける。同年5月3日になると腹腔の炎症が腸閉塞を引き起こしたため、腸の一部も除去された。同年8月6日には、乳がんと診断され、左乳房を摘出した[10]

1975年、がんの闘病記を含む自伝「Das Urteil oder Der Gegenmensch」を出版。

1976年6月4日夫のデイヴィッド・キャメロンと離婚。翌年にポール・フォン・シェル(Paul von Schell)と結婚。

2001年6月27日にドイツの市民権を取り戻した。

2002年2月1日、急性肺炎で死去。享年76。クネフは人生の大部分で喫煙をしており、肺気腫に苦しんでいた[1]

ドイツ連邦共和国首相アンゲラ・メルケル2021年12月2日の退任式における国防軍軍楽隊による演奏の曲3曲中の2曲目にクネフの「わたしに赤いバラの雨を降らせて」を選んだ[11]

主な出演作品

ディスコグラフィー

シングル及びEP

LPアルバム

CDアルバム

死後発表されたCDアルバム

脚注

  1. ^ a b c Binder, David. “Hildergard Knef, 76, Actress Who Escaped P.O.W. Camp”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2002/02/02/arts/hildegard-knef-76-actress-who-escaped-pow-camp.html 2019年12月22日閲覧。
  2. ^ a b Gurke, Thomas M. “Hildergard Knef”. Impressum. 22 Decmber 2019閲覧。
  3. ^ a b c d Hildegard Knef - "Die größte Sängerin ohne Stimme" - SWR4
  4. ^ Ralf Schmitt, "Hildegard Knef ist tot" Spielfilm (February 1, 2002). Retrieved March 5, 2012 (ドイツ語)
  5. ^ Sybille Steinbacher, S. 110 ff.
  6. ^ Sybille Steinbacher, S. 106.
  7. ^ a b Gurke, Thomas M. “Hildergard Knef”. Impressum. 22 Decmber 2019閲覧。
  8. ^ a b Gurke, Thomas M. “Hildegard Knef – 10 Facts At a Glance”. Impressum. 2014年4月19日閲覧。
  9. ^ Raimund Meisenberger. "Hildegard Knef liest Hildegard Knef: "Geschenkter Gaul" und "Urteil"" (ドイツ語). 2019年8月6日閲覧。
  10. ^ Gurke, Thomas M. “Hildergard Knef”. Impressum. 22 Decmber 2019閲覧。
  11. ^ 最上敏樹<未来の余白から>84「肉体に1本のトゲが」『婦人之友』2022年2月号134-136頁

外部リンク