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ホロコースト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:03 UTC 版)
「ルーマニアのユダヤ人の歴史」の記事における「ホロコースト」の解説
鉄衛団と民族主義者の連立政権が1942年に樹立していた間、80もの反ユダヤ規定が議会を通過した。1940年10月終わりに始まった鉄衛団の強固な反セム民族運動では、ユダヤ人を拷問にかけ、彼らの商店を略奪し(北部の都市ドロホイで起きたポグロム)、ブカレストで起きた民族蜂起とポグロム(en)で頂点に達し、120人のユダヤ人が殺害された。イオン・アントネスクはただちに暴力をやめさせ、鉄衛団によって創り出された混沌が残虐に暴動を制圧した。この時からルーマニアは戦争に突入したが、ユダヤ人に対する凶行は一般的なものとなっていった。1941年7月に10,000人以上のユダヤ人が犠牲となったヤシ・ポグロム(en)が最も有名である。 鉄衛団が粛清されると、ナチス・ドイツと同盟したアントネスク政権が圧政とユダヤ人虐殺、そしてより少数のロマ人の虐殺を続けたのだった。 1941年7月から8月には、ヤシ、バカウ、チェルナウツィといった都市で地元民が率先して黄色のバッジ(ユダヤ人であることを示すダヴィデの星の形をしていた)をユダヤ人に強制した。同じような条例が政権によってわずか5日間(1941年9月3日から8日まで)課されたが、アントネスクの命令で無効となった。しかし、地元の発案において、バッジは特にモルダヴィアとベッサラビア、ブコヴィナの諸都市(バカウ、ヤシ、クンプルング、ボトシャニ、チェルナウツィなど)で特に以後も付けられていた。 2004年にルーマニア政府によって発行された国際委員会報告によると、ルーマニア国内、戦地となったベッサラビア、ブコヴィナ、トランスニストリア(Transnistria、第二次世界大戦中、西進してきたソビエト連邦軍が占領したルーマニアの一部を指す名称。現在の沿ドニエストル共和国とほぼ同じ場所)で、280,000人から380,000人にのぼるユダヤ人が殺された。 1941年、バルバロッサ作戦以後進軍するルーマニア軍は、ユダヤ人のパルチザンにより攻撃を受けたと主張した。アントネスク将軍はトランスニストリアへのユダヤ人の追放を命じた。よってベッサラビアとブコヴィナにいた80,000人から150,000人の間の人数であったというユダヤ人が、国策プロパガンダによって共産主義者の手先とみなされた。しかし"追放"は遠回しな言い方であった。東へ向かう"死の列車"に乗ってユダヤ人が追放される以前に、この追放過程の一部が多くのユダヤ人が無慈悲に殺害されるのを可能にしたも同然であったのである。ブコヴィナとベッサラビアで最初の『民族浄化』から逃れた人々のごく一部だけが、生き残って列車に乗せられ、トランスニストリアで強制収容所へ入れられた。さらにアントネスクの殺害担当班によるユダヤ人を標的とした殺害が行われた(公文書が、彼の直接の命令と関与を証明していた)。ルーマニア軍は、トランスニストリアを占領した時、ユダヤ人を検挙することを命じられていた。無数のユダヤ人たちがオデッサ、ボグダノヴカ、アクメツェトカ強制収容所といった地で1941年と1942年に虐殺された。オデッサで1941年秋から1942年にかけ起きたオデッサの虐殺 (Odessa Massacre) では、ルーマニア軍によって100,000人以上のユダヤ人が銃殺された。 アントネスクは1943年にナチス・ドイツから圧力を受けたにもかかわらず、ユダヤ人追放を停止した。彼は連合国側との和平を模索し始めたのである。一方で、同時期彼は残っていたユダヤ人共同体に重税を課し、強制労働を強要していた。アントネスク政権の奨励をもって戦時中、13隻のボートがルーマニアを発ってイギリス保護領パレスチナへと向かった。このボートには13,000人のユダヤ人が乗っていた(13隻のうち2隻が沈んだ。ドイツの圧力が加わってから国外脱出の努力は続けられなくなった)。 ベッサラビア、ブコヴィナ、かつてのルーマニア、ドロホイ県で暮らしていた320,000人のユダヤ人の半数が、ルーマニアが第二次世界大戦に参戦した1941年の数ヶ月で殺害された。最初の殺害後でさえ、モルダヴィア、ブコヴィナ、ベッサラビアのユダヤ人はさらなるポグロムにあい、ゲットーに集められていた彼らは強制収容所へ送り込まれた。これらの強制収容所を建設・運営していたのはルーマニア人であった。この地域での死者数は定かでない。しかし、少なく見積もった概算でおよそ250,000人のユダヤ人(そして25,000人のロマ人)が東部地域で殺された。一方、トランシルヴァニアにいた150,000人のユダヤ人のうち120,000人が戦時中ハンガリー人の手で殺されたのである。ルーマニア兵は、占領した地域でユダヤ人を虐殺するドイツのアインザッツコマント(親衛隊が運営した準軍事組織、アインザッツグルッペンの一局)と行動を共にしていた。アントネスクの政府は、ルーマニア旧王国(19世紀半ばに2公国が合同してルーマニア公国となった当時の領土)からベウジェツ強制収容所へと多くのユダヤ人を追放する計画を練ったが、実現することはなかった。 東欧・中欧の多くの国々でくっきりと対照をなしたが、在ルーマニアのユダヤ人の多数が戦争に生き残った。彼らは広い年齢層で、強制労働、財政的刑罰、差別的な法律といった過酷な状況から生還したのである。しかし、犠牲者の人数は、エリ・ヴィーゼル委員会によるとルーマニアは、"枢軸国全ての中で、ドイツ本国の他のどの国々よりも、多くのユダヤ人を死に至らしめた責任を負う"とみなされている。
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