ルイ・シロンとは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
ルイ・シロンLouis Chiron | |
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基本情報 | |
国籍 | ![]() |
生年月日 | (1899-08-03) 1899年8月3日ルイ・アレクサンドル・シロンLouis Alexandre Chiron |
出身地 | ![]() |
死没日 | (1979-06-22) 1979年6月22日(79歳没) |
死没地 | ![]() |
基本情報 | |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1950-1951,1953,1955,1956,1958 |
所属チーム | '50-'51,'56,'58 マセラティ'51 タルボ'53 オスカ'55 ランチア |
出走回数 | 19 (15スタート) |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 4 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1950年イギリスGP |
最終戦 | 1958年モナコGP |
チャンプカーでの経歴 | |
1年の間1レース出場 | |
初戦 | 1929年インディ500(英語版)(インディアナポリス) |
優勝数 表彰台 PP 0 0 0 | |
ル・マン24時間での経歴 | |
年 | 1928-1929,1931-1933,1937-1938,1951,1953 |
チーム | クライスラーウェイマン(英語版)ブガッティブーリヤプライベーターキネッティ(英語版)エキュリー・ブルーランチア |
最高位 | DNF (1929,1931,1932,1933,1937,1938,1953) |
クラス優勝 | 0 |
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ルイ・アレクサンドル・シロン(Louis Alexandre Chiron, 1899年8月3日 - 1979年6月22日)は、モナコのレーシングドライバー、ラリースト。19世紀の生まれであり、フィリップ・エタンセラン、ルイジ・ファジオーリと並び自動車の誕生や成長とそっくりそのまま年齢が重なる、モータースポーツの歴史の証人とも言える人物である。
経歴
シロンが駆るブガッティ・タイプ51(1932年フランスグランプリ)
シロンは1899年、モナコのホテル経営者の子として生まれ、第一次世界大戦で兵役に就いた際、フォッシュ元帥の運転手として自動車の運転を学んだのをきっかけに興味を持つようになり、1923年、ニース近郊のヒルクライムで活躍し始めるとスイス人実業家であるアルフレッド・ホフマンの支援を得、1926年には最初の地元のレースで優勝する。
ブガッティ入りから第二次大戦
その後ブガッティワークス入りを果たすとめきめきと頭角を現し5年間で10勝を挙げ、ブガッティタイプ35B (Bugatti Type 35) でエースドライバーへと成長した。1929年にはインディ500にドラージュを駆り出場7位へと食い込むと、1931年の第3回モナコグランプリではブガッティ・タイプ51 (Bugatti Type 51) で強豪[2]を下し念願の地元優勝を遂げる。
1933年にはルイジ・キネッティと共にスパ・フランコルシャン24時間レースに出場し、アルファロメオ・8C-2300 (Alfa Romeo 8C 2300) を駆り優勝。その後エンツォ・フェラーリ率いるアルファロメオで活躍。期待に応えるも1934年フランスグランプリをP3で勝利する。しかし、メルセデス・ベンツとアウトウニオン(現アウディ)率いるドイツ勢が優勢となると1936年メルセデス・ベンツ陣営に加わる。この年のW25Kの不調によりドイツグランプリで事故により重傷を負うまでの3年間で5勝を挙げる。1937年、1938年スポーツカーレースによるタルボで1勝し、その後に引退。そして世界は第二次世界大戦へ突入し、グランプリは中止される。
第二次大戦からモンテカルロ2冠と晩年
復帰した第二次大戦後、タルボ・ラーゴ(Talbot-Lago)での1947年フランスグランプリ、1949年GP・ド・フランス優勝など往年の勢いを感じさせる活躍を見せたものの、「ゲシュタポ[3]」発言[4]などで晩年を汚した感も否めなくない。
その後のF1・ワールドチャンピオンシップにもマセラティから参戦し、1950年モナコグランプリで3位となり最後の表彰台で飾った。1951年はスイスグランプリのみマセラティでそれ以降はタルボから参戦したがノーポイントに終わる。
それから1年置いた1953年自らオスカでフランスとイタリアにスポット参戦するも低迷な成績に終わった。この頃からの体力の衰えからかスポット参戦のみなり、そしてチェッカーフラッグを振るなどの仕事が多くなると、1954年はF1には参戦せず、ランチア・アウレリアGTでラリー・モンテカルロ総合優勝を飾った[5]。
このモンテカルロで行われているラリーとグランプリ共の異種カテゴリにおける2冠という功績[6]とレーニエ大公からの希望もあって1955年はランチアからD50を駆ってのモナコだけのスポット参戦となった。だが10歳年下とはいえピークを過ぎた45歳のルイジ・ヴィッロレージに遅れを取る結果となり、6位でフィニッシュとなった。しかしシロンはこのレースで55歳9ヶ月という最高齢完走記録を達成した。1956年には後の名プライベーターであるスクーデリア・チェントロから参戦。そして1958年はついに予選落ちとなってしまった。
F1最高齢の58歳で引退。そして前述の功績によりレーニエ大公からモナコグランプリ及びラリー・モンテカルロ競技長「クラーク・オブ・ザ・コース」のポストを仰せつかった。1979年6月22日没(79歳)。
これだけの偉業を成し遂げたモナコ人のF1ドライバーはおらず(というよりモナコ人のF1ドライバーが片手で数えられるくらいしかいない)、また地元のグランプリを得意とし、フランスとモナコでは通算6勝をあげていることも彼の力量の高さがうかがえる。その栄光をたたえてモンテカルロ市街地コースのコーナー(タバココーナーとプールサイドシケインの間)には胸像と共に彼の名前が付けられた。21世紀に入り、再興ブガッティによるスペシャリティコンセプトカーに「18/3シロン」(en:Bugatti 18/3 Chiron)の名が冠されたほか、2016年から生産しているハイパーカーに「シロン」と彼の名が付けられた。
関連
ルドルフ・カラツィオラ -1933年に「スクーデリアCC」を結成し共にGP参戦をする親友であるが、この年のモナコGPでカラツィオラによる予選中の事故による負傷からの復帰を公私ともに支え合った仲でもある。
レース戦績
主なキャリアにおける勝利
- ベルギーグランプリ : 1回 (1930)
- チェコスロバキア・グランプリ : 3回 (1931,1932,1933)
- フランスグランプリ : 5回 (1931,1934,1937,1947,1949)
- ドイツグランプリ : 1回 (1929)
- イタリアグランプリ : 1回 (1928)
- スペイングランプリ : 3回 (1928,1929,1933)
- モナコグランプリ : 1回 (1931)
- モロッコグランプリ : 1回 (1934)
- グランプリ・デュ・コマンジュ(英語版) : 1回 (1947)
- グランプリ・デュ・マルセイユ : 1回 (1933)
- グランプリ・デュ・ニース : 1回 (1932)
- スパ24時間レース : 1回 (1933)
- ローマグランプリ(英語版) : 1回 (1928)
- グランプリ・デュ・ラ・マルヌ(英語版) : 1回 (1928)
- モンテカルロ・ラリー : 1回 (1954)
ヨーロピアン選手権
グランド・ゼプルーヴ(第二次世界大戦後)
フォーミュラ1
インディアナポリス500
年 車番 スタート 予選速度 ランク フィニッシュ 周回数 ラップリード リタイア 1929年(英語版) 6 14 107.351 26 7 200 0 完走 トータル 200 0 | スタート 0 ポール 0 フロントロー 0 優勝 0 トップ5 0 トップ10 1 リタイア 0 |
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ル・マン24時間レース
脚注
- ^ 三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100年の記憶」内、「ルイ・シモンは二度勝つ」より一部抜粋、参考、加筆。
- ^ ルイジ・ファジオリ(マセラティ)、ルドルフ・カラツィオラ(メルセデス・ベンツSSKL)、チームメイトであるアッキレ・バルツィら。
- ^ 30年代、ダンサーからの転身でブガッティを駆りグランプリにも参戦した女性ドライバーであるエレ・ニース。1949年のラリー・モンテカルロ出場の際、その前夜祭パーティの席上で近づいてきた紳士よりいきなり大声で「このゲシュタポの手先め」と罵られた。その声の主がシロンだったという。シロンとはかつてブガッティ時代の僚友だったこともあり、戦時中ニースがユダヤ系ドイツ人レーサー(René Dreyfus)と親密だったことを受けて戦時スパイ(第二次大戦前のドイツ系チームの優位性に反した1936年のドイツグランプリでの事故の事もあり、プロパガンダとしてシロンの腕を利用されたと言う感情解釈が含まれる)と食って掛かった罵倒劇であるが、シロンが君臨するモナコと言う大勢のセレブリティが参集する席上でのその仕打ちこそ、呆然とするニースからこの先のモータースポーツ活動を一瞬にして奪ったとされる。
- ^ この発言に対するエレ・ニースを無実とした上での発言非難は「ブガッティクイーン」 -ミランダ・シーモア著 二玄社刊 内でも触れられている。
- ^ この1954年大会のラリー・モンテカルロは減点ゼロ頻発を防ぐ名目でスピード重視の規則改定がなされた初年度と言う事もあり、GPコースのスピードテストが加えられたことでシロンにとって優位となったラリーでもあった。
- ^ 最も近かった例ではスターリング・モスが挙げられるが、1952年ラリー・モンテカルロでの2位が最高位。