三山時代とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
三山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:31 UTC 版)
14世紀に入ると、琉球本島(現在の沖縄島)には北山・中山・南山と呼ばれる政治勢力が成立するが、その形成を促したのも日本や中国などとの対外貿易の展開に伴う在地首長層の成長があったと考えられている。北山は運天、中山は那覇、南山は馬天という有力な貿易港を有していた。 1372年、建国間もない明の洪武帝の招きに応じて、琉球の三国が相次いで朝貢を行い、冊封を受けた。明は朝貢と冊封、海禁政策により東アジアの国際秩序を形成した。このため、琉球だけでなく朝鮮や日本も冊封を受ける形で中国と交易する必要があった。 この朝貢貿易は当初は中華帝国の威信を示すものとして採算(貿易収支)を度外視して文物を冊封国に齎したので、黎明期に有った三山や琉球王国は特に多大な恩恵を受けた。さらに、洪武帝から閩人を下賜の形で職能・政治・文化集団を取り入れたり、初期の摂政には中国人が当たるなど、国家の形成に大きな影響があった。 『明実録』によると三山時代の期間に、北山は17回、中山は52回、南山は26回の朝貢貿易を行ったと言う。 1414年には中山の尚巴志が日本の室町幕府に遣使を行った。この間に尚巴志が残り2国を滅ぼして琉球王国が成立した。
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三山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:32 UTC 版)
「三山時代」も参照 14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。英祖王統5代西威王を滅ぼした察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山(山南)、怕尼芝が治める北部の北山(山北)である。なお、怕尼芝は英祖の次男の湧川王子の曾孫、承察度は英祖の五男の大里按司の孫であると言われる。察度は英祖王統3代英慈王の次女真銭金を母に持つと伝わる(『中山世譜』・『中山世鑑』)。 この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。いずれも中国の明朝に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、中山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、1406年に察度の子である武寧を滅ぼして統一への動きを見せた。 また1388年に宮古の豪族の与那覇勢頭豊見親真佐久が中山に上り、1390年に中山王察度に八重山の使者と共に朝貢を行い臣下の礼をとる。
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三山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:53 UTC 版)
中山勢力圏の北端に位置しており北山勢力圏との境界にあった城で、護佐丸の最初の居城であったと言われている。護佐丸は1416年尚巴志の北山討伐に参戦し北山を滅ぼした後に読谷の座喜味城を築城し拠点を移す。伝承では、その際山田城の石垣を取り壊して人夫の手渡しで石を運んだ。
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